2015・12・5
母の米寿文集 反省会
天気予報では北海道は大荒れといっていた12月4日。でも新千歳空港は穏やか。あの報道はなんだったのか。
夕方になって雪がチラついた程度。
話に夢中になっているうちに、いつしか時間は過ぎて…
夕飯は、夏に完成した母の米寿文集の反省会ということで…。
老母とは10月に会ったが、姉妹とは米寿の祝い以来、3カ月半ぶりの再会。老母と姉、妹と4人で、ワイワイとお喋り。
気がつけば、なんの反省もしないまま、反省会は終わったのであった。
2015・12・1 日露戦争と曽祖父
ウエンデイ広島12月号「明治の広島36」に「日露戦争と曽祖父」を書いた。会員様限定で送信致します。
2015・10・30
旧北海道庁 樺太関係資料館
母の米寿文集をつくる過程で、母の祖父母、つまり私の曾祖父母一家が樺太(カラフト)に移住し、敗戦とともに引き揚げてきたことを知った。
観光客に人気の旧北海道庁内には樺太関係資料館がある。
南樺太は、日露戦争勝利から40年間日本の領土であった。
恵須取(エストル)町は、曾祖父母一家が住んでいたところ。
樺太では8月15日以降も、ロシア軍によって、民間人は殺され続けたという。特に女性や子どもにまつわる悲惨な話が多い。
8月15日を「終戦記念日」と呼んでいいのかと疑問に思う。
戦前、戦後の樺太についてのビデオも流されている。なかなか見応えのある内容だ。(入館料無料)
先祖ゆかりの地と思うと、つい見入ってしまう。
老母と2か月半ぶりの再会。老母はカルチャーセンターの帰り。
2015・10・10 鬼怒川決壊から1カ月
鬼怒川決壊から1カ月。
話は少しややこしいが、私の甥のお嫁さんの実家は常総市にある。
先月の水害で被害にあった。一階が浸水し、電化製品はすべて使えなくなった。現在も二階で生活して、風呂も使用できない状態という。
甥のお嫁さんは、今月、出産を控え、出産後は実家で過ごす予定だったが、風呂も使えないのでは無理だ。
老母の米寿の祝いにも、身重でありながら駆けつけてくれた。何の力になれないが、せめてもということで、母の名前をつけた会で、身内のみんなから募金を募り、ささやかながらお見舞いとして送った。
今し方、そのお嫁さんからお礼の電話をもらった。産院も変えねばならず、忙しい1カ月だったようだ。いつか、生まれてくる子に話してやる日がくるだろう。
老母にとっては5人目のひ孫になる。被災された皆様のご苦労を思いつつ、無事に生まれることを祈っている。
2015・9・10
老母の遺影
米寿の祝いのとき、写場に集まり、みんなで記念写真をとった。
参加者の集合写真、家族写真、夫婦の写真……。
老母は一人で写真におさまった。将来の遺影のために。
家族思いで、多くの写真を残してくれた亡父。しかし亡くなった直後、遺影にすべき写真がなかなか決まらなかった。
そこで皆を煩わせてはいけない、という老母なりの判断で遺影を写すことに。祖母の形見の着物に、新しい帯を締めて…。
その写真が完成し、私のもとにも届いた。うーん、いい写真(笑)。老母も自分で気に入っているようだ。それが何より!
願わくば、何年か後にもう一度、写し直すことを。
2015・8・17
母の米寿文集20
お盆は老母の米寿祝いのため、札幌に帰省した。
会場はビアガーデンでにぎわう大通り公園に近い某ホテル。
忙しい時期にもかかわらず、叔母(老母の妹)、姉一家、妹一家、私の家族の全員が参集してくれた。
娘の私が書くのもなんだが、これも老母が積みあげてきた「人生の成果」であろう。
花束贈呈、全員での写真撮影、祝いの言葉、老母からのお礼の言葉、プレゼント交換大会、祝いの歌など多くのプログラム。
私の担当は米寿文集作成秘話とべストエッセイ賞の発表だ。
文集には出席者全員のエッセイが載っているので、事前に投票してもらい、ベストエッセイ賞を選出するというもの。
苦心してつくった文集なので、ぜひ目を通してほしいというのが本来の目的。
ベストエッセイ賞に輝いたのは、残念ながら私ではなかったが(汗)
最後に参加者全員で、文集の見返しに寄せ書きをして、老母に謹呈。これぞまさしく世界で一冊の「母の米寿文集」になった。
2015・8・8
母の米寿文集19
母の米寿文集が完成して、このホームページを見てくださっている方から「おめでとう」の言葉をいただいく。
また「私も同じようなことをやっています」のコメントを寄せてくれた小林智之さんは、早大の1、2年の時の同級生で、このホームページを見て、メールをくれた。ありがとう。
小林さんも、私も、そろそろ来し方を振り返る世代。
作成には時間も手間もかかったが、一族にとってはかけがえのない文集ができたと思っている。
パソコンや印刷機の発達、家庭への普及があるからこそ可能になったわけで、文明とは何かということも、考えるようになった。
まあ、むずかしいこと抜きに老母が喜んでくれたことが一番うれしいけれど。
左の写真は文集にも収めた、母の父母 長濱久蔵とカツヱの結婚写真。
カツヱの先祖は四国徳島藩の郷士で、屯田兵に応募して北海道に渡った。
カツヱという名は、カツヱの父が日露戦争に従軍し、勝利したことにちなんでつけられたことを、文集をつくる過程で知った。
もちろん、私の曾祖父が日露戦争で戦ったということも初耳だった。
これらの話をいずれ小説に書きたい。新たな目標が生まれた。
2015・8・4
母の米寿文集18
母の米寿文集がついに完成した。感無量である。
2015年、最大の「仕事」かもしれない(汗)
限定30部の非売品。
これを読めば私の一族に関するほどんどがわかるという極めてプライベートな内容。
そういうわけで、内容の紹介はご勘弁願うとして、どのような文集ができたか、簡単にご紹介しよう。
まず表紙の色は、亡父が残した3冊の著書とほぼ同色。
見返しは理由あって黄色。
さらに内扉に母の直筆の文字も入れた(右の写真)
これも同じく母への敬意。
「編集後記」の文字の下「104」は全体のページ数。
1ページだけ紹介すると、母の伯父にあたる長濱萬蔵についても触れている。
右の写真、後列左から2番目が長濱萬蔵。その右が弟で、母の父(私の祖父)の久蔵。あとは姉妹。(昭和4年の撮影)
自慢みたいになっていたら、ごめんなさい…。
冒頭の母の写真の前には一枚和紙を入れた(左の写真)
別に入れなくてもいいけど、母の人生への敬意を表して。
章ごとに桜色の紙も入れた。
全体に母が日々、精魂込めてつくっている花畑のイメージでもある。
上から見ると、こんな感じ(左の写真)
収録写真400枚。厚さは1センチ1ミリ。重さは500グラム。
やっと終わった…
2015・7・17
母の米寿文集17
日本各地に被害をもたらしている台風11号。
広島市では午前7時前にすべての警報が解除された。市内の小中学校は休校にならなかった。
被害にあわれた皆様には心よりお見舞い申し上げます。また台風の進路にあたる地域にお住いの皆様はじゅうぶんにお気をつけください。
母の米寿文集は再校のゲラが出た。
この段階でもミスが見つかる。われながらイヤになる。
でもこれが最後の確認作業。頑張ろう。
背文字も入れてもらった(右の写真)
最初に見積もりしてもらった業者では、背文字は手間がかかるから入れられないといわれた。
文華堂さんはさすがである。
2015・7・12
母の米寿文集16
気力をふりしぼって、初校の直しをすませた。
そこへ老母から自家製の「梅漬け」が届いた。
「梅干し」ではなく「梅漬け」だ。
「梅干し」は天日で干すが、「梅漬け」は干さないで漬けるという。老母曰く「北海道流」
材料はすべて自宅の庭で収穫した梅の実と赤紫蘇。もちろん添加物はいっさいナシ。
特別なものを想像するかもしれないが、味は「梅干し」そのもの。
梅の実は直径4、5センチもあろうか。干していないからシワもなく、果肉がたっぷり。
もちろんしょっぱーい!
1年前につけたもの、2年前につけたもの、3年前につけたものあり、微妙に色が異なる。
老母は毎年こうして自分でつけた「梅漬け」を送ってくれる。
長生きするには長生きするだけの理由があるのだ、と思う。
2015・7・8
母の米寿文集15
母の米寿文集の初校のゲラが出てきた。
表紙だけを見ると、これまでのものと変わらないように見える。
だが収められた写真はすべてカラーになっている。
いよいよ完成に近づいたと思ったものの…
なんど見直してもミスが見つかるのだ。
あーあ。
初校の次は再校が待っている。
あーあ。
こんなこと、二度とやらないし、人様にも勧めない。
小説を書くよりずっと重労働(涙)
2015・6・27
母の米寿文集14
印刷をお願いしている業者を訪ね、データを手渡した。
直前になってもミスに気づいて、バタバタしたけれども、やっと私の手から離れた。
と思いきや、ここからさらに3回くらい確認作業があるという。まだ一カ月ほど作業は続くのだ。
でも大きな山は越えた。とりあえず「ほっ」ということで…
母からの差し入れの夕張メロンをいただく。
ご馳走さまでした。
2015・6・24
母の米寿文集13
編集作業が終了。
データを業者に渡し、仮の印刷をしてもらう段階に。
火事場の馬鹿力よろしく、イラストまで描いてしまった。
今の状態を言い表すとすれば「精も根も尽き果てた……」
見かねたのか、老母が夕張メロンを送ってくれた。
でもまだ青い。
食べ頃はもう少し先。
2015・6・11 母の米寿文集12
業者のところへ打ち合わせに行った。
あと少しで編集作業が終了するので、その後の流れを確認した。データを渡した後、仮の印刷をしてくれるという。
7月中の完成を目指して、あとひと踏ん張りだ。
この写真は昭和34年に新築した私の実家(北側)。現在の札幌市白石区で、手前に見える道路は白石中学校通り。
母の実家の牧草地に建っており、牛たちが日がな一日草を食んでいた。右手奥に藻岩山が見える。
よく見ると、左側のとうきび畑の向こうに母が写っている。母の横にあるのは石炭小屋と鶏小屋。智狼(ちろう)というアイヌ犬も飼っていた。
この家に一家5人で昭和46年春まで暮らしていた。現在は住宅街になり、ここに牧場があったことを知る人は少ない。
2015・6・5 母の米寿文集11
もし同じようなものを作ろうと考えている方のために、ご参考までにおよその内容を書いておこう。
表紙
巻頭写真
目次
口絵写真①
母の手書きの文
母の生家の歴史
母の88年の人生
口絵写真②
親族からのお祝いエッセイ集
鼎談
年表
家系図
手紙
編集後記
裏表紙(家紋)
苦心した写真について…
フイルム時代の古い写真は接写するのが一番かんたんだ。一眼レフでなくても、大半のデジカメには接写機能がついている。
接写した写真をサイズ変更して、切り取り、張りつける。初めは下手だったけれど、だんだん上達していくのが自分でもわかった(笑)
さらに私のパソコンには背景を消すなどの機能や、写真を丸くしたり、枠を入れたり、ぼかしたりする機能もついていることがわかった。
この加工を施すと、途端に写真がプロっぽくなる。地道な作業の最後に味わうささやかな自己満足…
2015・6・4
母の米寿文集⑩
8、9割できたところで、ゲラを出し、母、姉、妹に確認、訂正してもらうことにした。
自分用も含め、4部を印刷する。
印刷してみてわかったが、全体で140ページにもなっている。
140ページ×4部
=560枚
途中、作業を中断して、紙とインクを買いに走る。
さしあてってモノクロでの印刷。カートリッジのブラックは瞬く間に3個が空に。
なぜこんなに消費量が多いのかと考え、はたと気づいた。
写真が多いのだ。
数えたら、なんと400枚!!
これは文集というより、もはや写真集の世界である。
2015・6・2
母の文集⑨
母の米寿文集は8合目を通り過ぎて、9合辺りか。
誰にたのまれているわけではないのだけれど、正直「く、く、くるしい~」
一番こたえるのが目の疲労。丸一日パソコンの画面を見つめている状態が目にいいはずもない。
そこで購入したパソコン用メガネ。
詳しくは知らないが、光の半分くらいを遮断してくれるらしい。
2000円台。半信半疑で使ったら、目の負担が全然違う。もっと早くから使っていればよかった。
そういうわけで、あと一頑張り。
当初は白黒で、と思っていたが、ここまで精力を傾注しているのだから、フルカラーでつくってやろう、と思いはじめた。
枚数もどんどん増えていく。いったいどんな文集になるのか。
2015・5・21
母の米寿文集⑧
母の米寿文集は表紙の色も決まり、写真の取り込み作業に移った。
写真については、父は生前、カメラに懲り、多くの写真を残してくれた。大いに助かっている。
父は新しいものが好きであった。
ワープロにあきたらなくなると、興味はパソコンに移った。昭和2年生まれだから、時代についていったほうだろう。
そんな父も、カメラは最後までフイルムにこだわった。デジカメに挑戦したあとで「やっぱりフイルムにしか出せないニュアンスがある」といいようなことをいっていた記憶がある。
父は三人の娘に、いずれ嫁ぐのだからと、それぞれに2冊ずつアルバムを作り、贈ってくれた。
今になって父の愛情を思う。
2015・5・12
母の米寿文集⑦
母の米寿文集は、文章の入力、編集作業が8割方終わり、写真を収集、入力の段階に入った。
写真は自分が持っているものや、姉や妹から送ってもらう。
パソコンで簡単に送れ、編集作業も家庭でできるのはありがたい。
ところで書き忘れていたが、亡父は手作りの本を3冊残している。
1冊目は、今からおよそ20年ほど前に作った自分史だ。データはすべて自分でワープロで打ち、フロッピーを今でいうシルバーセンターのようなところに持ち込み、製本してもらったもの。
お断りしておくが、父は製本とか、文学とか、そういうものとはまったく無縁の世界に生きた人で、文章を書くところなど見たこともなかった。
父は身内、友人に配るため数十部印刷。
記憶に間違いがなければ20万円ほどかかったと聞いた覚えがある。
家庭用プリンターも感熱紙が主流で、印刷用のリボンは高かった。印刷業者が健在だった頃の話だ。
あらためて見れば、ド素人にしてはよくできている思う。父が生きているうちに褒めておけばよかったな。
2015・5・8
母の米寿文集⑥
業者に頼むといっても、データはすべて自分たち、というか私が入力する。
口絵写真、本文、寄稿文、その他もろもろ、今のところ全100ページの予定なのだけれど、おさまるかどうか。
ものすごい労力を、目下、米寿文集に注いでいるわけだ。
親戚縁者は文章、写真をすべてパソコンに送ってくれるが、それでも煩雑な作業に変わりはない。
おかげさまで「頼山陽ネットワーク通信」作成で培ったノウハウが活かされています…って、うーん、なんか素直に喜べないなー
昨日は一部を試し刷りして、姉と妹に送った。しかしプリントアウトしていく端からミスに気づいて、なんどもやり直し…
あ、でも、小説はちゃんと書いていますよ。タイトルは『贋金市長』っていうんですが。
なんでこんなところで、宣伝しているのか。さっぱりわからない。たぶん脳がそうとう疲労しているんだわ。
2015・5・7
母の米寿文集⑤
母の米寿文集は考えた末、広島市内にある業者に頼むことに決めた。
値段だけなら、インターネットで問い合わせた業者のほうが安いが、プライバシーの塊のような内容なので、信頼性を第一に考えようと思っただ。
もっともインターネット上でここまで書いて、写真まで公表して、プラーバシーも何もないんだけれど(笑)
そこで、先日、初めて業者と打ち合わせ。
表紙一つとっても色、紙質、いろいろある。値段も上から下までさまざまだ。そもそも見積もり額は最低金額に近い数字であることに改めて気づく。
安く仕上げたいのはやまやまながら、母のための文集をつくるのはおそらく最初で最後だろう。であれば、少しくらい高くなっても気に入ったものを作りたいという思いがムクムクともたげる。
この時点で「自分でプリントアウトして、製本だけで300円」の話から、遠い地点にきてしまっている。
2015・3・28
母の米寿文集④
母の米寿文集は身内だけに配る。
叔父、叔母、子、孫、予備を入れて25部もあれば十分だ。
そこでプリンターを使い、自分で印刷し、製本だけ業者に頼もうと考えたのだが、試し刷りして考えが変わった。
そもそも普段使っている一般のコピー用紙では薄すぎる。厚めの紙を探したが、多くはインクジェットで、これも刷り上がりをみるとなんとなくニュアンスが違う。
紙を求めて店を訪ね、インターネットも覗いてみた。検索してわかったが、いろんな業者が低価格で印刷、製本を謳っている。試しに見積もりを頼んだら、翌日には紙の見本まで送られてきた。
この会社は電話での対応もよかった。実際に訪ねた店は、たまたま対応した若い店員が未熟で、10を問うても、5くらいしか返ってこない。しかも見積もりはインターネットの業者より高い。
この時点で、どこがの業者に頼んでみようという気になった。
2015・3・26
母の米寿文集③
母の米寿文集のメインは、母に88年の人生を語ってもらうというもの。
だが母は札幌に住んでおり、私は広島。電話で話を聞くにも時間がかかる。
そこで母にざっと書いてもらったものを、私がまとめるという前提で、話を進めることにした。
老化していく脳の活性化にも役立つから、一石二鳥だろう、と。
こうして母の記憶を辿る旅がはじまった。
母も書いているうちの、興がのってきたようで、やがてぎっしり鉛筆書きしたノートが送られてきた。
それを見て「これをまとめればなんとかなるだろう」と思ったのが、甘かった。繰り返しあり、逆に省略あり、突然知らない人の名前が出てきたり、何より話があちこち飛ぶのだ(笑)
母の文章を、まとめるのは想像以上の苦行であった。これなら小説を書いているほうがよっぽどいい、とマジメに思った。
2015・3・20
母の米寿文集②
そもそも文集を作ろうと思ったのは、前例があったからだ。
母の母、つまり私の母方の祖母の米寿の際、母の妹弟は文集を作った。それを見て、私も作りたいと思ったのだ。
写真の左(黄土色)がその文集で、身内に配るものとして、今から22年前、平成5年に作られた。
コピーで印刷したA3の紙を二つ折りして、ホチキスで止め、表紙をつけたものだ。実際に編集した叔母さんたちによれば、当時はほとんど一般家庭にはなかったコピー機を家に持ち込み、何度も話し合って内容を詰めていったという。
技術がどうのというより、先祖の歴史を伝える写真あり、子孫を含む50編近いエッセイありで、叔母さんたちの熱意に感動を覚える。
写真右の文集は祖父の50回忌の記念誌。平成9年に作ったもので、こちらはホチキス止めではなくなっている。
表紙の写真はとうきび畑で作業をする私の祖父。私が生まれる前に亡くなったが、写真に残るその姿は意外におしゃれだ。
2015・3・15
母の米寿文集①
札幌で暮らしている母が秋に米寿を迎える。おかげさまで、元気で過ごしている。
そこで姉妹で話し合い、祝いの文集を作ろうという話になった。
本来なら、記念誌といいたいところだが、業者の手を借りず、すべて自力で作る簡素なものなので、文集という表現がふさわしいように思う。
とうぜん編集長は言い出しっぺの私。
幸い今はパソコンもあれば、プリンターもある。自分で編集し、プリントアウトしたものを、これだけ業者の手を借りて製本すれば、製本代そのものは300円くらいで済みそうだと知り、「なんとかなるだろう」と思ったのが、あまかった。
いざ取りかかってみれば、想像もしていない苦難が待ち受けていた。