3月16日頼山陽居室とは何かシンポジウムの様子をお伝えします。
写真はすべてひろしまフォト歩き(佐藤貢)さん 、見延が書いています。
2024・3・22
「頼山陽居室とは何か」
シンポジウム⑤
シンポジウムでは各方面でご活躍の皆さまからもご意見を伺った。
尾崎和則さんは脱藩や罪人を収容する牢屋に関するお話。
手島秀昭は戦前に発行された『藝備之友』など270点を広島市立中央図書館に寄贈されたお話。
畔柳僚太さんは、頼山陽煎餅に関するお話。ご参加の皆さまの中から佐々木さんが挙手され、シンポジウム全般に関する感想を述べられた。最後まで活発な意見が交された。
藝陽堂の畔柳僚太さんから「頼山陽煎餅には頼山陽居室の焼き印がない」ということを確認できたのも、大きな収穫であった。
シンポジウムの最後は頼山陽ネットワーク漢詩漢文担当の進藤多万さんの閉会の辞。行き届かない面が多々ありましたが、とりあえず無事に終わりました。ご参加の皆さま、パネリストの皆さま、お手伝いの皆さま、ありがとうございました。
2024・3・20
「頼山陽居室とは何か」
シンポジウム④
3番目のパネリストは石村良子頼山陽ネットワーク代表。
見延典子と同じく「頼山陽は5年間、屋敷内で幽閉された説」を主張されたが、屋敷内の幽閉場所として、見延が考えてもいない場所を指摘された。石村代表とのつきあいは長いが、そんな話は初めて聞き、またも見延を驚かせる。やっぱり石村代表はおもしろい。
頼俊直さんは困窮する頼宗家から土地を買い、頼宗家の隣に家を建てて住まれた。頼山陽史跡資料館から旧日本銀行のあるあたりで「頼山陽居室」の並びである。桃三郎先生は国の史跡になる以前の「頼山陽居室」について書き残されている。
最後のパネリストは頼山陽ネットワーク漢詩漢文担当進藤多万さん。 旧姓は頼さん。祖父は竹原出身で、実業家、衆議院議員だった頼俊直さん、ご尊父は広島大学名誉教授だった頼桃三郎先生。
進藤さんも「頼山陽は5年間、屋敷内で幽閉された説」ながら、これも幽閉された場所として、石村代表とは別の場所を指摘された。さらに「頼家のタブー」について淡々とお話くださり、見延を感動させた。石村さん、進藤さんとも愛すべきキャラクター。嘘のつけないお二人だ。
特に頼家関係者としての進藤多万さんの発言は貴重であり、「頼山陽居室」の真実を後世に伝える歴史的な証言となった。
進藤さんの勇気に感服しました。ありがとうございます。
見延典子は「頼山陽は5年間、屋敷内で幽閉された説」を主張。
それに対して、堀尾さんは「頼山陽は屋敷から頼山陽居室へ幽閉場所が移った」という説。
映像の前にたち、参加者への説明にも熱がこもる。
冒頭から意見が分かれた。
2024・3・19
「頼山陽居室とは何か」
シンポジウム③
シンポジウムが始まりました。パネリストのトップは「日本外史を読む会」会員の堀尾哲朗さん。
発言の最後、頼山陽居室が国指定文化財になったと同時期に建てられた山陽文徳殿に関して、初めて公にする話が飛び出し、見延を驚かす。
次なるパネリストはHiroshima's Historiographers事務局長の上口雅彦さん。見延と同じ「頼山陽は5年間、屋敷内で幽閉された説」
2時間にわたる長丁場であったが、最後まで居眠される参加者はおらず、熱心に耳を傾けてくださった。これはすごいことである。感謝!
2024・3・18
「頼山陽居室とは何か」
シンポジウム②
開演は14時30分。
まず頼山陽ネットワーク代表による開会の挨拶がありました。
頼山陽記念文化賞の正賞の楯も飾られました(下の写真の左手前)
続いて、見延典子による基調講演が行なわれました。スクリーンに映像をうつしながら、「頼山陽はどこに幽閉されたか」「頼山陽居室とは何か」について語りました。(『頼山陽居室虚々実々』に書かれている内容を要約したものです)
基調講演は30分の予定でしたが、少々オーバーしました。
それでも見延自身はまだ語り足りないところがあり(笑)次のシンポジウムに臨むことになります。
もう少し映像の説明が必要だったこと、会場を暗くして映像を見やすくすることなどが、反省点です。
2024・3・17
「頼山陽居室とは何か」
シンポジウム①
会場の広島市袋町市民交流プラザマルチメデイアスタジオ前では、藝陽堂の畔柳さんが、参加者の皆さまに自ら焼いた渾身の「頼山陽煎餅」を無料で進呈してくださいました。皆さん、大喜びです。ありがたいお申し出に感謝申しあげます。
2024・3・16 「頼山陽居室とは何か」シンポジウム終了
「頼山陽居室とは何か」シンポジウムが無事終了いたしました。ご参加くださった約60名の皆さま、誠にありがとうございました。