特に記載のない場合は見延典子が書いています。

2019・2・4

広島の屋敷に帰着

 

昨年1月京都、3月6日広島から九州に向けて出立した頼山陽が己斐(西広島)に着いたことを知った母の梅は達堂、下女二人、手島三五、下男をつれて出かける。

 頼山陽史跡資料館のたちばな?の実
 頼山陽史跡資料館のたちばな?の実

あとから映雪、伝九郎が合流し、己斐で安着祝いの酒を少々飲み、再会を喜びあったあと、夜に入り、四つごろ(午後10時)屋敷に帰る。広島発程から322日ぶりである。家族の笑顔に触れ、懐かしい屋敷の土を踏み、山陽の胸にも安堵の思いが広がったのではなかろうか。

 

 


西国街道、上田邸があった辺りの風景   右下の水路の写真も同様
西国街道、上田邸があった辺りの風景   右下の水路の写真も同様

上田家は酒造業で財をなし、大庄屋格を与えられた。上田堂山(通称は少蔵、別号不昧)は和歌を詠み、山陽の父頼春水や浦上玉堂ら多くの文人と交流、援助した。また娘の菊(琴風)、妹の雪(琴糸)、菊の娘の清(琴波)も絵や和歌にすぐれた。山陽は堂山に宛てた手紙で孫娘にあたる琴波について「後来は西道の第一才女と御呼ばれ可被成と、御頼敷奉存候」ともち上げている。

防府天満宮
防府天満宮

2019・1・26

大道の上田堂山邸

 

下関を発った頼山陽は、西国街道沿い大道(現在の山口県防府市)にある上田堂山邸で草鞋を脱ぐ。往路にも立ち寄っているので、九州で見聞した話を聞かせたであろう。

山陽自身も堂山の庭にある薩摩藩主お手植えの松について「不昧居松樹記」の一文をものにした。潤筆料をもらった上での仕事であるが、山陽は金額に不満でもあったのか、その金で長崎の松浦東渓から唐墨を取り寄せてほしいなどと頼んでいる。

 よろしければこちらもご覧ください。

 


南部伯民「技癢録」ネットより
南部伯民「技癢録」ネットより

2019・1・9 南部伯民と会見

 

文政2年(1818)正月某日、下関の広江殿峰の屋敷を辞した頼山陽は船に乗り、上関に上陸。三田尻(現在の山口県防府市)に帰省中の清末藩医南部伯民(龍門)と会見。


伯民(1770-1823)は 京都の小石元俊に学び、蘭学も研究する。郷里の周防にかえり開業。清末藩主毛利匡邦の侍医になる。文政4年、江戸にいき、もと幕府老中で陸奥白河藩主松平定信の侍医となった。文政6年10月22日死去。54歳。名は彜(つね)。号は龍門、積善堂。諡は文匡先生。著作に「技癢録」「倉療須知」など。

 

以上はネットの辞書からの引用だが、ある方のブログには次のようなことが書かれている。

 

南部伯民は三田尻老松小路に住み、住まいをを積善堂と号す。大阪で蘭学を学び、京で儒学を皆川其園に師事する。その医術を請われ、清末毛利家に奉職。1818年に清末藩主と江戸へ赴き、白河楽翁に医術を賞賛され、名声を高めた。帰途京都で頼山陽と交友を深めた。老松小路に南部伯民の大きな石碑があったが、今は不明である。(参考文献『続防府市史』)

 

なんと、南部伯民の石碑も不明になっているとは!

どうした山口県!

 

 

ウエンデイ広島2019年1月号
ウエンデイ広島2019年1月号

2019・1・5 広江殿峰の石碑、遺棄される

 

九州遊歴を終えた頼山陽は、文政2年(1819)の元旦を下関の豪商広江殿峰の屋敷で迎えた。この日、「『歳除紀実』の詩を、新たに携へ還った端研のつかひ始めに揮毫を試み、秋水に与ふ」、また別の日、「殿峰のために『清嘯書楼』の扁字を書す」(『頼山陽全伝』)

秋水は殿峰の息子である。


こうした交流を踏まえ、殿峰が亡くなった際、山陽は殿峰のために墓碣を書き、秋水は石碑として残したのだったが、すでにお伝えしているように(詳細はこちら)、その石碑が遺棄されてしまった。誠に嘆かわしい。どこかで保管されていることを祈るばかりである。

2018・9・30 9月30日の山陽ウオーク中止

 

台風24号の接近に伴い、9月30日に予定していた山陽ウオーク(咸宜園から山国)を中止致します。次回は10月21日、山国から本耶馬渓までです。

            主催 耶馬渓誕生200年記念祭実行委員会

 

2018・9・28

大分合同新聞で「耶馬渓200年記念祭」紹介

 

江戸時代の文人頼山陽が中津市の山国川流域を歩き、耶馬渓と名付けて200年。節目に合わせてフォーラムやツアーなど記念祭が30日から市内一帯で開催される。11月11日まで。関係者は来場を呼び掛けている。

市内の文化や歴史、観光に関わる各種団体による実行委員会(宮瀬正明委員長)が主催。「200周年を機にいま一度、脚光を当てたい」と企画した。主要事業はフォーラム(11月3日、耶馬渓公民館)と、足跡に触れる「耶馬渓バス&徒歩ツアー」(9~11月の全3回。要申し込み)。


フォーラムのテーマは「頼山陽と我が郷」。山陽の子孫で、山陽史跡保存会の頼政忠会長と、九州の儒者との関係を知る吉田洋一久留米大教授が講演する。作家見延典子さんがコーディネートするパネルディスカッションも。山陽の人生や九州遊歴、山陽の偉業継承のあり方などを伝える。


かつての日田往還中津街道を行くツアーは第1回「石坂石畳を歩けば江戸の旅人となる」(30日)を皮切りに、第2回の10月21日(山国―耶馬渓―本耶馬渓)、第3回の11月11日(本耶馬渓―永添・正行寺)がある。参加費は各4千円。


他にも「耶馬渓図巻記」のレプリカ展示や住民が山陽にちなんだ絵や書、短文学の作品展(11月2~6日、耶馬渓公民館)、山国町かかしワールドに合わせた「山陽案山子」がある。28日からは市内本耶馬渓町の耶馬渓風物館で協賛行事「頼山陽、末弘雲華、広瀬淡窓の遺墨展」(12月5日まで)が開かれる。

 

事務局は「耶馬渓を広めた頼山陽。興味深い話ばかりなのでぜひ触れて。地域の誇りと思ってくれたら」と話している。問い合わせは吉森晶子さん(TEL090・7154・8203)。

<メモ> 頼山陽(1780~1832年)は儒学者、漢学者。歴史、文学、美術など各分野で活躍した。没後、出版された「日本外史」はベストセラーとなり、幕末の尊皇攘夷運動に影響を与えたという。「旅を生きた学問」とし、全国各地を遍歴。九州行脚中の1818年、山国谷と呼ばれる山国川流域へ。市内に12日間過ごした。「耶馬渓山天下無」の詩が知られている。                                                                     

    ※この記事は、9月28日大分合同新聞朝刊12ページから転載しました。

頼山陽フォーラム

11月3日(土)

13時〜16時45分

耶馬渓公民館文化ホール

講演 

頼政忠氏(頼家6代当主)

 演題「頼山陽を語る」

吉田洋一(久留米大学教授)

 演題「頼山陽と九州の儒者たち)

2018・9・21

吉森晶子さん

11月3日「耶馬渓」誕生200年祭

 

頼山陽が「耶馬渓」と名づけてから200年の今年。「『耶馬渓』誕生200年祭」として、ウオーキングの他、さまざまな催しを行います。


講演に続き、パネルデスカッション

パネリスト

村崎春樹氏(長崎史談会)

上田誠也氏(頼山陽学処・菊陽ふれあいいきいき漢学サロン)

溝田直己氏(日田氏教育庁咸宜園教育研究センター)

コーディネーター

見延典子氏(作家。頼山陽ネットワーク事務局)

 

頼山陽、末広雲華、広瀬淡窓の遺墨展

9月28日(金)〜12月5日(水)

耶馬渓風物館(本耶馬渓町)

雲華本・竹下本を同時展示(いずれも複製)

 

作品展

11月2日(金)〜11月6日(火)

耶馬渓公民館・文化ホール

短文学・書道・絵画・写真展・耶馬渓図巻

雲華本・竹下本を同時展示(いずれも複製)

表彰式 進藤多万氏

 

山陽案山子(やまくに「かかしワールド)展示

9月30日~11月25日

 

主催 耶馬渓誕生200年記念祭実行委員会(事務局吉森晶子)

後援 中津市・日田市・中津教育委員会・日田教育委員会・中津商工会議

   所、中津市しもげ商工会。(一社)中津耶馬渓観光協会、大分合同

   新聞社、頼山陽燦々プロジェクト

「耶馬渓」(ネットより)
「耶馬渓」(ネットより)

2018・6・14

吉森晶子さん

「耶馬渓 頼山陽ウオーキング」

 

頼山陽が耶馬渓を歩いた道のりを辿るツアー。以下の通り3回に分けて行うことになりました。


第一回 9月30日 咸宜園から山国

第二回 10月21日 山国から本耶馬渓

第三回 11月11日 本耶馬渓から正行寺

                                          ※いずれも日曜日

 

集合時間、場所などについては後日お知らせ致します。ご都合がつく方はご参加くださいますよう、よろしくお願い致します。

 

 

ホームページ編集人  見延典子
ホームページ編集人  見延典子

 

「頼山陽と戦争国家

国家に「生かじり」された 

ベストセラー『日本外史』

『俳句エッセイ 日常』

 

『もう頬づえはつか      ない』ブルーレイ

 監督 東陽一

 原作 見延典子

※当ホームページではお取扱いしておりません。

 

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