頼山陽は「佐賀~長崎」を歩いています。
交代で執筆(記載がない場合は見延典子が執筆)しています。
竺庵が宇治萬福寺13代に招かれたとき一緒に上洛する
当時萬福寺にて 竺庵が 大潮、無染らに誣告されたのを陶斎が申し開いたという(黄檗山の金帛も動かざりしなり,大潮らはその罪にて本国に帰り生涯他に出る事さしとめられたり)が 喧嘩両成敗 陶斎も軽い罪を得 これが陶斎が還俗した理由である。また同時に大潮が九州に居た理由である。
平賀中南に「道工氏墓銘」あり 歌人道工彦文(亨翁も和歌を習う妻仲子の同族)の墓が熊本水股(水俣)にあるという
賣茶翁年譜 福山朝丸編
2018・6・11
石村良子代表
佐賀旅猿④
超陶齊と賣茶翁
趙陶斎は唐人と遊女の間の子で、混血児はジャガタラに追放の令が出た時 人哀れんで長崎興福寺竺庵のもとに引き取られたという
頼春水少年時代の師 平賀中南は88才過ぎの大潮(最後の徂徠派蘐園学)に教えを乞いに佐賀まで出向いたという。
参考;「趙陶斎の逸事」「趙陶斎と平賀中南」春水遺響の考察文頼惟勤、日本漢学論集より
賣茶翁も大潮が龍津寺に帰ることで 京都に安居出来たと思う。
龍津寺をめぐる人間関係もなんだかんだ頼家までつながっているようだ。
鍋島段通 江戸時代初期、佐賀郡扇町の農家に生まれた古賀清右衛門が長崎で中国人から緞通の技術を教わり、「扇町毛もうせん氈」として織ったのが、日本最古の綿緞通と言われる鍋島緞通の発祥です。房がない方が上座。
2018・6・4
石村良子代表
佐賀旅猿③
旅の記念に鍋島段通購入
佐賀ツアー 中鍋島段通ミュージアムに一人走ったTさん。まさかの購入❔
佐賀城鯱の門は、天保9年(1838)に再建されたものです。佐賀の乱(江藤新平らをリーダーとして1874年(明治7年)に起こった不平士族による明治政府に対する反乱)のときの鉄砲跡が残る門。
多久4代領主多久茂文は、多久を治めるためには教育が必要だと考え、1699年に学問所(のちの東原庠舎)を建てるとともに、「敬」の心を育むために多久聖廟を建てた。現存する孔子廟としては、栃木県の足利学校、岡山県の閑谷学校の孔子廟とともに日本で最も古いもののひとつ。
多久聖廟でおみくじを買う旅猿お局様 もちろん大吉を引き当てる
2018・6・3
石村良子代表
「長崎便2通目」
頼山陽書翰集上巻梅颸聿庵への手紙、頼山陽全書、坂本箕山の頼山陽を参考に書いております
5月某日
松蔭故郷の母病気の報に辞去
5月某日
下関にて筆を着けし山水画を完成して,花遁に送る①
6月5日 築地、長登屋信蔵宅の寓居 富観楼に移る
偶然にも武元登々庵が留寓したところで 額字は
遺筆であった
6月7日 梅颸に手紙(広島6月28日津島屋より)
国元よりの消息が絶えていること
寓居にては 手鍋 自炊で食べ、小言を申すこともなく、めしなども案外よく出来ているなど
広島の小野桐陰長崎着 訪問受ける
6月10日 細香の詩稿添削
6月某日 大通詞「潁川四郎太」の別荘に招かれる(花月上辺)
下関にて以下の旅行費用は蓄えたという(頼先生談)
松窓記(山陽遺稿巻五)には長崎にて「葉子韶」「子咸親子」に世話になったと記す
桐陰茶寮記 頼山陽遺稿 宮崎木鶏弟 薬問屋 津島屋庄兵衛
樓窓、朝涼披閲了る、恍として面を観るがごとし
2018・5・31
石村良子代表
「春水の墓碣銘を古賀精里に」
5月25日の手紙 特筆として春水の墓碣銘は1817年3月21日古賀精里(古賀穀堂父同年5月3日死去)によりなるを早く掘りかかるよう依頼している。また 師友志、在津紀事の上木の浄書を済ませる事両件依頼している
佐賀で会えなかった穀堂ともこの後8月長崎で会っている
1819年11月8日建碑墓石には「文化十四年丁丑春二月征夷府博士肥前古賀樸(精里)撰備後菅晋師(茶山)題額、弟惟柔書」と刻
1820年3月13日春水碑文の謝礼として広島より古賀へ金二百疋(約20万円)送る
七つの自警
1、嫌いな人物には、、、むきになって言い争ったり、侮ったり、罵ったりせず、不平の気持ちを持ってはいけない。笑って受け流すことである
2、人生を難しく考えるな、、難しく考えないで、楽しく朗らかに、“人に辱めらるるも、志を得ずして職を失うも、薄命なるも、運悪しく不遇なるも是天命である。よろしく恬熙(安らかで楽しいこと)平易なれ。
3、他人をうらやまず、嫌わず 他人の生活と比較して、うらやんだり、軽蔑したりするが、そんな心をもつことにこそ恥じ入るべきである
4、読書の心得 濫読するな、おざなりに読むな、速読するな、うんざりしながら読むな、漠然と読むな
5、生活のリズムを維持する 夜が明けたら起き、夜は11時ころには寝るという生活をリズムを崩すことなくくり返し、精力と強い精神を養い、病気にかからず、体を大切にすることであるということです。
6、言葉には注意する人の短所をあげつらったり、古人であっても謗ったり、侮ったり、嘲笑したりはいけないということです。
7、我、一人開闢以来の第一人のみ、自分がこの世にあることを誇りに思うことに尽きるということ
講師に頼祺一先生をお迎えして出発
コースは旧古賀銀行、佐賀城本丸、蓮の池龍津寺,多久聖廟、伊万里陶磁器会館 というガイドも驚くてんこ盛りツアー(全部無料)
14000歩歩きました
「がばいばーちゃん」のイメージしかなかった佐賀
先進の気にとみ、かつ葉隠れの気風が 自由人でストイック賣茶翁を生んだと実感できました。
2018・5・29
石村良子代表
「佐賀旅猿①雲が雲だった」
5月22日 雪輪会(頼山陽ネットワーク煎茶同好会)は賣茶翁の故郷佐賀へ
2018・5・26 石村良子代表「母梅颸への手紙」
頼山陽書翰集上巻梅颸聿庵への手紙、頼山陽全書、坂本箕山の頼山陽を参考に書いております
5月25日 長崎一覧すまし帰るべきところ大暑になり 暑中すごして
薩摩、肥後にまわりかえりたいいずれ 冬になるであろう
「未だ,肉は食い申さず候。山川風物見るごと、父上様長崎行 の宿願存じ出し、悽愴(いたみ、なげく)仕り候。處かわりそうらえども、いつも毎朝遥拝仕り候.方角定まらず、往々取り違い申し候」
200年前、頼山陽が詩に詠んだ鯨の文化が今も長崎に生きているとは…(5月20日ご参照)
これはもう食べないわけにはいかないでしょう、と居酒屋へ。
「何ぞはからん 鮮肉 歯牙に到らんとは 片片たる肪玉 芳脆を截る
金虀玉膾 曷ぞ能く加へん」(まさか鯨を食べられるとは。鯨の脂肪は柔らかで、どんなものより美味である。頼山陽の詩より)
長崎の皆さんに、頼山陽の「鯨の詩」を知らせたい気分である。
2018・5・23
長崎は鯨の町
長崎に着いて、まずスーパーをのぞく(笑) 魚売り場の一画には「くじらコーナー」
かつてクジラは五島列島、壱岐、対馬周辺を回遊して、長崎では捕鯨が盛んに行われていたという。その伝統を引き継ぎ、今も長崎県民は日本一鯨を食べる県民だったのである。
長崎に来た目的の一つは唐人との筆談で
とりわけ江雲閣に会う事は西遊全体の目的でもあった
5月23日 長崎着 材木町(現在の賑町)中尾長三郎宅に入る
春風がわざわざ世話を頼んでくれていた
母への手紙「山川景物見るごとに父上様長崎行き の宿願存じ出し悽愴仕り候」
広島藩,長崎商人中尾長三郎は貿易品関係の御用聞町人
杏坪も長崎にて寄寓
②江雲閣 浙江省臨安生 当時文名が高かった。江芸閣と丸山芸子袖扇(袖咲妹)の子・八太郎の墓碑は聖福寺境内にある。兄は著名画家江稼圃 長崎に南画文人画法を伝える。
2018・5・21
22日、大村湾を舟で渡る
佐賀を出立した頼山陽は、長崎の大村に着(右の①)22日に舟で大村湾を渡り、長与に着(➁)
長崎(③)を目前にして山陽は次の詩を詠んでいる。
大村より舟にて長与にいたる。長碕にへだつること十里。
(山陽は「長崎」に「長碕」を当てている)
海水は盆の如く瑠璃碧なり 海はお盆、水面は碧のガラスのようだ
邑屋参差たり 岸樹の隙 村の家々が木々の隙間から見える
説かんと欲す 琵湖と膳城と この景色を琵琶を周辺と比較したいが
舟中 人の上国を知るもの少なり舟の中で上方を知っている者は少ない
吾が行已に歴たり 万重の山 私の旅は幾重もの山々を越えてきた
瓊蒲に税賀するは今夕に在り 今夕にはいよいよ長崎に着く
担頭猶ほ貯ふ 摂州の酒 荷物の中には摂州産の酒が残っている
樽を倒にして此際復た惜しまず ここまで来たのだ 酒を飲み干そう
纜を沙尾に繋いで漁舟を喚び そこで舟を砂浜に繋ぎ、漁師を呼び
買ひ得たり 棘鬣の長さ両尺なるを 二尺もある鯛を買ったのである。
2018・5・20
ザ・頼山陽
19日付、石村代表の解説文を読み、笑ってしまった。佐賀藩士から武術の心得を問われて「こころえなし」と平然と答え、即興で鯨の生肉を食べる詩を詠んだ山陽。これぞまさに「ザ・頼山陽」である。
かような人物が、大義名分論に基づいたとされる『日本外史』を著したこともまた愉快でならない。
当時、肥前の海では捕鯨が行われていた。山陽が生の鯨肉を食べたのはこのときが初めてのようだ。山陽の詩については辛口な菅茶山がこの詩を「起手、つねにたくみなり」と評している。余談ながら、この頃、長崎警備を行っていたのは佐賀藩である。
佐賀に至り諸儒に求められ、会飲す。鯨肉の供するあり。席上、得るところの韻を用い、戯れに長句をつくる 頼山陽
巨鬣 潮をあげて雪花を噴き 大鯨が雪のような潮を噴く
万夫 矛をあつめて海門かまびすし 鯨漁では海峡は大騒ぎになる
肥海 鯨を捕ること 耳曾つて熟す 肥前の捕鯨の話は知っていた
何ぞはからん 鮮肉 歯牙に到らんとは だがまさか食べられるとは
片片たる肪玉 芳脆を截る 鯨の脂肪は柔らかで
金虀玉膾 曷ぞ能く加へん どんなものより美味である。
他日食らふ所は真味に非ず これまでの鯨肉は偽りだった
塩蔵 況や運路の遐き経るをや 塩漬けだったからだ。
君見ずや 先候の戈せん 豕蛇を殪せしは 佐賀藩主は残虐貪欲な者を
此者 せびれをおさめて鉄叉に上がりしがごときを 鉄のモリで仕留めた
多士方に遭ふ 偃武の日 天下泰平の世に皆さんに会い
取りて文酒をすすめて柔嘉を愛す 酒を飲み詩文を綴っている
羨む 君が筆力能くかれを碧海の果てに掣するを 皆さんの筆力は強い
恨むらくは わが酒量 かれが百川の波を吸ふに如かざるを 残念なのは
私の酒量が鯨に及ばないことだ
(訳は概要とお考え下さい)
5月20日
佐賀着 藩医 古賀朝陽に迎えられ 賜金堂にて藩儒と会飲 鯨肉歌を作る
21日
武尾に泊まる 嬉野 彼杵
22日
大村泊 鯛を買い酒で風光を
楽しむ大村より舟で長興に着
国重要文化財「武雄温泉楼門」は明治・大正時代を代表する建築家佐賀出身 辰野金吾作。ここに東西南北の干支レリーフ東京駅に残りの8の干支レリーフを残す。
2018・5・19
石村良子代表
「葉隠れのお国柄『佐賀』」
『頼山陽書翰集』(上巻)梅颸聿庵庵への手紙、『頼山陽全書』、坂本箕山著『頼山陽』を参考に書いております。
「武士道とは死ぬこととみつけたり」。これは佐賀藩士、山本常朝が武士としての心得を口述し、同藩士田代陣基が筆録書した葉隠の一節です。どうも死を覚悟して生きるということのようです。
このようなお国柄の色濃く残る佐賀に入った山陽 親友古賀穀堂は旅に出ておらず 知友草葉佩川が城中の儒者をあつめ宴席を設けてくれるも、中には弓馬剣槍の心得など聞くものがあるのに「こころえなし」と答え どうも一部不興を買ったようで、それかどうか 膳の鯨をたたえる長句を残し 居る事一両日 佐賀を去ります。
途中武雄に一泊、嬉野、大村で一泊いよいよ長崎長與に舟で渡ります。