特別な記載がない場合は見延典子が書いています。
2020・7・18
石村良子代表
「徳富蘇峰の頼山陽観➁」
「人間山陽と史家山陽」の巻初の写真は浦上春琴あて山陽35歳の手紙、肥後の端渓研、一笑会の開催などについてのべ、年末の払い物など歯に合うようなものなどあればお越しくださいと、書いている。
この本は全体,講演、談話、随筆集なので、ざっくばらんで蘇峰の本音が感じられる。
○本文初めは頼山陽先生100年祭列席について、続いて歴史家としての山陽について、日本外史が世間に珍重されたのは、先生が史家の三長を備えておられるかれで それは第一に才、第二に学、第三に識であるが、同時に先生の最も少ないのは学である等述べている。
○中年以降の山陽先生の所では、山陽先生の人間としての温かみが日本外史の初めから終わりまであり、山陽先生の熱血があの中にことごとく含まれ籠っている。これが人間山陽と史家山陽が一致する所であると結んでいる。
○豊僥なる人間味の所では、山陽先生に敬服するのは、其の著述も結構であるが、それよりもなお結構なことがある、先生がいわゆる人間味のあったところであると述べる。
○山陽先生書後並びに題跋について、立派なる書籍、もしくは美術の論評であった、もし彼が今日あれば好個の新聞記者のひとりであり、向かう所可ならざるなき大記者の一人であった、と自分の方に引き込んでいる。
よきにつけ悪しきにつけ誰でもない自分の人生を生きた山陽先生、ここは私も蘇峰に共感するところです。
蘇峰が95年間の生涯で築いた幅広い人脈により勝海舟から中曽根康弘まで12000人、46000通の手紙を閲覧することができます。
当然、私は頼山陽の書翰が目的でしたが、写真や写しは多くあるものの直筆の書簡は、菅茶山に宛てた文政10年5月25日付の書簡1通の巻物だけでした。
それでも山陽の直筆書翰を間近で見られて満足でした。
2020・7・9
久保寺さん(千葉県在住)
「徳富蘇峰記念館へ」
神奈川県二宮町にある徳富蘇峰記念館へ行ってきました。
ここは、蘇峰の秘書を務めた塩崎彦市が、蘇峰から託された膨大な史料、書簡等を展示しています。
現在は、塩崎彦市の子孫の方が社団法人を設立して博物館として開館しています。
木崎愛吉は新聞記者,歴史家。明治26年大阪朝日新聞社に入社
徳富蘇峰は日本のジャーナリスト、思想家、歴史家、 評論家。『國民新聞』を主宰とある。
2020・7・5
石村良子代表
「徳富蘇峰の頼山陽観①」
徳富蘇峰監修、木崎愛吉、頼成一共編の「頼山陽全書」「頼山陽全伝」など なにかと参考にしている
A級戦犯より釈放され見舞いにもらった蘇峰の金子への礼状。昭和22年9月 書家でもある蘇峰、瓦当箋を使っている
二人とも新聞畑で生粋の学者ではないが 頼山陽の何かにひかれ、大書を残している。何かとは何か、偶然蘇峰84歳A級戦犯から釈放された時の手紙を手に入れたので、徳富蘇峰の講演、随筆、談話集「人間山陽と史家山陽」を読んでみる。
2019・12・26
石村良子代表
「菅公の子孫 徳富蘇峰」
大宰府に徳富蘇峰92歳時の詩碑がある 蘇峰は菅公の子孫とかで
蘇峰菅原正敬とある
2018・10・19
田中彰著「吉田松陰」
私見ではあるが、吉田松陰ほどつくられた偉人はいない。松陰は老中間部詮勝暗殺を計画し、松下村塾の塾生を巻きこもうとした。どこの世界に自分の教え子を殺人に誘う教師がいるだろう。これだけ見ても、松陰を祀りあげる正当性は見いだせない。松陰に歴史的な価値があるとすれば「幕府大老の井伊直弼によって殺された」というあたりだろう。
吉田松陰の評伝はあまた刊行され、その評価は「革命家」「憂国忠君の士」「理想の教育者」などと変遷を遂げる。
明治維新の薩長閥によって日本の歴史が組み替えられる中、吉田松陰という異端が英雄化される過程に示唆を与えてくれるのが本書である。
徳富蘇峰も「吉田松陰」を書いているが、最初に刊行された内容と、改定して刊行された内容とには大きな差異がある。吉田松陰神社を訪ねたとき、蘇峰の碑を見た。蘇峰もまた松陰の評価の屈曲に関わっている。
2018・10・18
山路愛山著「足利尊氏」
山路愛山(1865〜1917)は徳富蘇峰の民友社に入り、「国民新聞」の記者として政治や史論を書いた。処女論文は本ホームページでも紹介したことのある「頼襄を論ず」、晩年に書いたのが「足利尊氏」で、今も名著として愛読され続けている。
文庫解説者の松本新八郎氏によれば「愛山は頼山陽を理想において自らを平民史家と呼んでいた」「自ら頼山陽を継承する在野の文章の英雄を自負し、その立場から英雄論を書き」、結実したのが『足利尊氏』であった。
しかしながら頼山陽は名分にもとるとして、尊氏に筆誅を加えている。
その点に関して「愛山は武士や農民の闘争を心理にまで立ち入り」「鎌倉幕府の滅亡を劇的ななまなましさで描きながらも」「古代王朝の倒壊を見なかった」として、明確にこそ書いていないものの、〃尊氏は天皇制堅持の立場〃だったという視点で描いたらしい。
『足利尊氏』が発表されたのは明治42年。翌43年に大逆事件が起き、これを契機に南北正閏論争が起きる。松本新八郎氏によれば、南北正閏論争は文部省、新聞社、政治家を巻きこむ極めて政治性の高い論戦で、最後は明治天皇も不承不承「南朝が正統」と認めるしかなかった。以降「南北朝」は思想上の踏み絵になっていく。
「いわば、愛山による足利尊氏の賞賛を最後として、尊氏は逆賊の標本とされることになった」「『足利尊氏』は南北朝正閏論争の前年に出されたため、在野の見解を見ることのできる唯一の名著となった」
近年、出版されている近代史の本をみると、南北正閏門論争があったこと自体が省略されているものが少なくない。大逆事件も然りである。現在、このあたりを調べているので、複雑な思いである。
2018・8・18
中津のオッサン
「徳冨蘇峰著『山水随縁記』」
「徳冨蘇峰著『山水随縁記』」(民友社、大正3年発行)は徳富蘇峰が日本画家平福百穂とともに、大正2年6月末から8月にかけて旅した紀行文。平福百穂の装画も多数収録。
初めに「耶馬渓及び瀬戸内海」の章があり、耶馬渓周辺の記述が多くある。頼山陽や田能村竹田についても書いている。
蘇峰によれば、休暇がとれたのでふらりと旅に出たとのことだが、平福百穂を伴っての旅はそれなりに計画があったのではないか。
国会図書館デジタルコレクションでも読める。
2016・2・15 徳冨蘇峰
中野好夫著『蘆花徳冨健次郎』
そろそろこの人と本気で向き合わなければならない。
徳冨蘇峰である。
どこから手をつけていいのかわからず、まず手にとったのが中野好夫著『蘆花徳冨健次郎』(筑摩書房 昭和47年)
作家の蘆花は蘇峰の弟。家族をとりまく風景から入ろうと思ったのだ。
ところがこの本、評判に違わず面白すぎる。徳冨家の家系だからというより、人という生きものが理性だけでは生きていけないという事例がこれでもか、というほど出てくる。
蘆花は蘇峰と違い、江戸時代の戯作や人情本文学に沈溺した。そういうわけで滝沢馬琴は出てきても、頼山陽は出てこない。
たった一カ所、頼山陽の名前が出てきたと思ったら、当然ながらというべきか、蘇峰について書かれたところ。
それについては「『蒙古来』欅一枚板」で紹介しよう。
写真は中野好夫著『蘆花徳冨健次郎』より転載した。