見延典子が書いています。
その桜井駅址で、1931年(昭和6)5月17日、頼山陽没後100年祭が行われた。楠木父子の永訣は5月16日だから翌日に行われたことになる。もちろん偶然ではない。
2019・2・16
桜井駅址(大阪府)③
桜井駅址は『太平記』で描かれるように、延元元年(1336)足利軍との湊川の戦いを前に、楠木正成が子の正行に遺訓を残して河内へと引き返らせ、父子の別れが行われたとされる場所である。
山陽詩碑(表は明治天皇御製碑)は同じ年の11月に建てられている。だがガイドさんは「頼山陽没後百年祭の話は初めて聞きました」という。(詩の読み下し、訳は進藤多万さんから伺った。別の機会に紹介したい)
説明板(下の写真)には、この地に桜井駅があったか今もわからないとある。作家の海音寺潮五郎のように、そもそも楠木正成 正行父子の別れがあったか疑問という指摘もある。にもかかわらず「忠臣」楠木正成は戦時中大いに持てはやされ、天皇のために命を落とすことが美談化された。「桜井駅址は戦争史蹟なのです」というガイドさんの言葉が耳に残る。
2019・2・14
桜井駅址(大阪府)➁
ガイドさんに「頼山陽を調べています」というと、「わかりました」といって、敷地内にある最も大きい、5、6メートルもあろうかと思われる石碑の前に連れていってくれた。
文政8年(1825)8月23日、頼山陽46歳のとき、姫路の仁壽山学問所に向かう道中で詠んだ詩。詩集の「遊播詩稿」に収録されている。「感而作歌」とあり、菅茶山に斧正を求めている。冒頭の「山碕西去」は当初「古驛蕭條」であった。
明治天皇の御製碑で「子わかれの 松のしつくに袖ぬれて昔をしのふ さくらゐのさと」とある。揮毫は海軍大将東郷平八郎。
裏に回ると、頼山陽の漢詩「過桜井駅址」の漢詩が刻まれている。
「七生報国」(左の写真)は、本来「七生滅賊」で、山陽もそう書いているが、軍国化の流れで変えられたという。山陽の詩についての説明板はなく「明治天皇」「七生報国」とのセットでは頼山陽の誤解は解けないだろうと思った。
続きます。
桜井駅址は大阪と京都のあいだ、山陽道(西国街道)沿いにある。阪急水無瀬駅から歩いて5分。JR島本駅前である。公園入口には「史蹟櫻井驛阯(楠正成傳記地)」の石碑。「史蹟名勝天然紀念物法」により指定されたのは大正13年、石碑は昭和16年建立とある。日本の軍国化がまさにピ一クを迎えようとしたころだ。(訪問した2月10日は雪がチラチラ舞う日、写真の写りがよくないのが残念。ご容赦下さい。)
2019・2・12
桜井駅址(大阪府)①
頼山陽の没後の軌跡を一冊にまとめている。今更ながらではあるが、昭和6年(1931)、山陽没後100年祭が行われた桜井駅址へ出かけた。
まずは英公使パークスが明治9年に建てた「楠公訣児之處」碑(写真右)から。裏面(写真下)
寒風の中、敷地内に3、4人の姿が見える。「ふるさと島本案内ボランテアの会」の皆さんで、土日を中心に活動しているらしい。もちろん偶然、お会いしたのだが、これ幸いと案内していただくことに。
パークスには何らかの政治的意図があったのだろうが、その後楠木父子が戦争に利用されることまでは、予見していなかったであろう。
案内してくださったボランティアガイドさんと。パークスの碑の前で。
左の写真は桜井駅址の脇に伸びる西国街道。京都方面。頼山陽も歩いた。