2019・7・29
石村代表 頼梅颸の游洛記
「聖護院の森より
北野天満宮参詣」
安永6年5月 静21歳 春水34歳 亨翁74歳の京游記
この年12月27日久太郎出生
かくして 黒谷を過ぎ 聖護院のもりにいたる、木かげの茶亭にやすらふ。此あたりに、としごろ、あるじのまなびの友と、し給ふ人の、旅のやどりにおはしますを、とむらひ給う、頓て過ぎつつ行てなる小川をわたり、にしきおる家居に立ちよりてみれば、こまにもおとらじ
とおもほゆ。八瀬より、はるより出る女の馬おひて、さがなく物いひわたり行かふもあり。みどり木の間、竹のはやしを過ぎ行けば、北野の宮しろにもうず あけの玉垣、みがきなして、いとたふとし、神のおめぐみ とりどりなれど、わきて、ひじりの道をふかくまもり給うとかや、わらわ父も 夫も ひたすらに其道をあふぎ奉れば、いといとかしこみ、おがみ奉る。紅梅どの老樹といへるも,物ふりて見ゆる。
けふも つとめて 出なむと 更に井川氏 桑田氏を伴ひ行くほどに 南禅寺の松林にいずる。此寺をよそに見なし 永観堂にいたれば 心をすますかねの音ばかりして
2019・7・13
石村良子代表
頼梅颸の游洛記
「永観堂参拝 山崎闇斎の墓参り」
いと物しずかなるに 折から うぐいすのなくも、あやにくなりし。かなたに 藤の咲かかりてやうやう過ぎぬる。花いとながく うしの杖もて、そへ給うにもまされり。岡にのぼりて見わたせば、遠近の野山、目のおよばぬまで見うけたり、世の外のおもむき ふかし、かかる所にては、心のほども、のべがたしなど、たわむれもて、行くかたの木の間、日をささふるばかりにしげり、折から道芝の露も、日かげにのこりて、いと物哀れなり。此のあたりには 山崎先生の御墓あなるよし、あるじは詣でたまふ。
2019・7・5
石村良子代表
頼梅颸の游洛記「小澤邸にて亨翁、蘆庵、静、和歌を詠む」
庭もせの草木も、わざとならず、しげりあひて、今ふりし村雨に、露置あまりたるけしき、住人がら、いと心ありげなり。
居たまへるかたわらには、琴ふたつ
あり、みねの松風、かきならし給ふ、しらべゆかしくおもほゆ。
もたらせし さらへやうの物、とり出て、しばしくみかわし、うし、頓て言葉の花の、色にいでて、
いや高く しげれるかげや ことの葉の さかへをみする 宿の松が枝
わすれめや 心をのぶる 言の葉の 道しるべせし 人のめぐみを
あるじ とりあえず 子のこの千代は いふべくも侍らずとなん
いらへたまひて
ながらえて 行末ひさに 我が門の まつの言葉に さかへをもとへ
わらわも 歌こひまいらせしが いもとせの祝い心をとて
咲かかる 契りとならば 藤の花 松のみさをに ならへとぞおもふ
小沢蘆庵(1723~1801)は,大坂生まれ。上洛して鷹司家に出仕した。香川景樹(1768~1843)らを指導し,澄月(1714~98),伴蒿蹊(1733~1806),慈延(1748~1805)とともに京都歌壇の四天王と称された
2019・6・28
石村良子代表
頼梅颸の游洛記「小沢盧庵を訪問」
安永6年5月 静21歳 春水34歳 亨翁74歳の京游記。
けふは九日、うしのしきしまの道しるべせし、小澤といへるはかせのがり行なんと、出行きたまふにしたがふ。きのうには引かへ、空はれ、いとのどかなるに、行かふ人もにぎはし。あるじは、しれるかた ,とひつゝも、行々て小澤のたちへ、まふであなひせさせぬれば、やがて出むかひ、わくら葉に、たいめしたてまつるに、よろこびを、かたみにのべたまふ。女のあるじもいでゝ、なにくれと、いとまめやかに、ひるかれいなど、ものして、もてなしたまひぬ。折から、雨いたく降出ければ、けふはいずかたへも行たまふまじ.緩々かたりたまへなど、いとねむごろに聞へて、歌物がたりのとりどりを、いひきこへたまふも、やんごとなくうれし。
2019・6・21
石村良子代表
頼梅颸の游洛記「三条あたり」
安永6年5月 静21歳 春水34歳 亨翁74歳の京游記
この年12月26日久太郎出生
きゝなれし,名だゝたる、てらてらも、いそぐまに立もよらず過行に、三条あたり大はしにて、夕日もにしにしずみて、くれじかくなるに、山水の音、しずかに聞こえ、なにしおふ山々も、春のなごりに、うらかすみて、おかしげなるはみななにおう所なり。川のながれ 音しずかに聞こゆるも いとめずらかなり。
頓てやどりにつき、ゆひき、ゆふげ、いとなみ などして 古郷への文したゝめぬ。うしも、ひねもすのながめに、ねぶりを
もよふしたまふ。庭もせは、ゆうずく夜の影、しめやかに、木間をもりくるも、あわれに おかし、ほどなく、夢をむすぶ。
渉成園は、真宗本廟(東本願寺)の飛地境内地〔とびちけいだいち〕です。1827(文政10)年作の頼山陽の『渉成園記』に紹介され高い評価がなされています。また、この地は、平安時代初期(9世紀末)嵯峨天皇の第八皇子である左大臣源融〔みなもとのとおる〕が、奥州塩釜の景を映して難波から海水を運ばせた六条河原院苑池の遺蹟と伝えられていました、
2019・6・12
石村良子代表
頼梅颸の游洛記
「六条から本願寺にいたる」
安永6年5月 静21歳 春水34歳 亨翁74歳の京游記
この年12月26日久太郎出生
写真=2016年4月嵯峨本願寺で戦後初展示された頼山陽渉成園十三景の巻物
ほどなく,京地にも入りしが、くるまの、ここら行かふに、折しも雨ふりしきるるなれば、いたく道あしくて、はかばかしく、あゆみもやられず、六条わたりには、先よりしれる人の、やどりせるよし聞ゆれば、其かたをなんおしてゆく、ほどなく、本願寺のかどにもなりぬ、人して、とわせ侍れば、三日ばかりまへに、かへりにしよしをこたふ、いと本意なし。わらはゝ,此わたりめずらしく、御堂にも、
もふでんとゆく。御堂の有りさま、荘厳いはんかたなし、ここは其かみ、とほるのおとど、みちのくの ちかの塩がまをうつしたまいし所のよし 君まさで けぶりたたにし しおがまのと よみしもむかしにて今は此寺の庭なん そのあとなるよし。 日もいたくかたぶきぬれば、三条わたりに,さだめしやどりのあるるをちからにゆく。
註① 君まさで 煙絶えにし 塩竃の うらさびしくも 見えわたるかな 紀貫之 意味・・ご主人が亡くなられてから塩を焼く煙も消えてしまった塩釜の浦ではあるが、まさに文字どおり、あたり一面がうら寂しく見渡されることである。源融左大臣が亡くなってから詠んだ歌です。
漸く高瀨川のほとりをゆく 卯の花くだす折なればや 水
2019・6・3
石村良子代表
頼梅颸の游洛記「高瀬川のほとり」
の音もすさまじ あなたは もも山となん やよいのころは 大空も花にえふばかりなるよし 今はしも 名残もなくちりはてて ひとつわか葉に青みわたりて こと木にまがふ とあるいほにしばしがほどやすらふ 見えわたる山のたゝずまひ 本の木だち かすめるがごとく くもりたるけしきは いとおかし。頓て 立ち出で過ぎ行ば 木の間くらく しげりたるに かたへは水のながれ いときよし ひさごもて くみなどし
夏あさき 岩間の清水 たちよりて むすぶ手すゞし こけの下道
ゆきゆきて ささやかなる流あり わたらんとするに はぎのぬれたらんは あゆみがたし あるじなるひと きこへたまひ ぐせし人のいたわりて 渡しぬ のりものは とくわたりぬれば ようようとして たどりつき打むれていく 此わたりには うしぐるまの ものおうせて 所せくまで たてならへたるあり
2019・5・25
石村良子代表
頼梅颸の游洛記
「船より眺め伏見に上陸」
「游洛記」は安永10年(1780)5月、新婚の梅颸(21歳)が舅の亨翁と夫の春水と京都に旅した日記。
こゝにて、よあけ、とまをしあげ見れば、岸のあなたの、野山の、わか葉のけしき いわんかたなく いとゝめずらかなり それより、八幡、山ざき、行かたの山ゝのながめ、又なくぞ覚へ侍る。よどの城はしのけしきもめずらし
此ごろは 初音やなかむほととぎす よどのわたりの
雨のなごりに
ほどなく、ふしみにいたり 竹田とかやいふ道をゆく うしは 輿こしもたらしければめして わらわら したがいて ゆく
雨そぼふりて 道いたくあしければ とかくあゆみかたく 人におくれぬるを 心うく おぼしてや わらずてふもの はかせぬるに あゆみやすくなりて とこしへにかわらじ すがたのおかし
註: 上り船 大阪には4つの船着き場(八軒家・淀屋橋・東横堀・道頓堀)があり上り船は棹をさして上る所もありましたが、十一里余(約45㌔)を殆ど綱を引いて上ったことと思われます
2019・5・17
石村良子代表
「頼杏坪の後藤松陰宛書状」原文
巻物に収録されている頼杏坪の後藤松陰宛書状です。原文から。
別帋蚊之拙詩ハ只
状かさミ為ニ差入申候御覆
醤可被下候
又致拝啓候愚老詩
集本集之第一巻
附箋ニ而評語有之候
誰ニ而御座候ヤ棕隠共ニ 中島棕隠 1779-1855江戸時代後期の儒者,漢詩人
御座候ヤ手跡見覚へ不申
即別帋数行扁支
取候而此度懸御目申候
定而老兄ニハ御存之人ニ而
可有御座候折角少々ニ而も
評語被成下候ものを御棄置候
而者先方へ對し無礼と
存候是又甚御煩労
申上か年候得共詩抄
御點検それ〱御題
被下候為本懐奉存候
本書者昨日出し申候此書ハ
右一件可得貴意及
追啓候もしそれニ及
不申ものニも御座候ヤ御無用ニ
可被成下.候草々不備
卯月十日 杏坪
柔
世張詞契
2019・5・4
石村良子代表
游洛記「淀川を上る」
八日の夕つかた、船をいだし、江にさかのぼりゆく、岸の木だちのながめも、めずらかなり。夜に入りて月いとしろく、すみわたれるけしき、えならず。
夜半ばかり 雨しきりにふり 風すさびければ ふねかゝる。風爈やうのもの よういしたれば さけなどあたため参らせつ。
所は 平かたにてぞ有ける、いひ さけなとうるふねとも、たがひに
そうがはしく のゝしりたるも,所からおかし。あるじかくなむ
半夜江行興可嘉 携妻扶老向京華
蓬窓雨滴不蕭寂 百里離家如在家
わらわも其のこころを
かぢまくら とまもる雨の わびしさも まぎるるばかり
むつがたりして
2019・4・27
游洛記「亨翁と杏坪の上坂」
去年の冬,をもののおしへをうけて、頼氏の家にかへる良人の父君は千里の青海をへだてゝあきの國にいましける。かゝるはるけき さかひなれば おがみ奉ることのかたく まゐてつかえたてまつるは、いふもさらなり。
明け暮れに、是のみ わび思いしに、はからずもことし卯月はじめの三日 良人の弟君をぐしてのぼ
らせたまひ はじめて御おもて拝みまいらせ、有りがたくうれしさたぐふべきかたなし いつしか なれむつびまいらせ ひねもす御かたわらに侍るに、道すがらの御うた あるは人よりこせし、おもしろきふみども、くりひろげ、みせしめたまふもうれし。
ほどなく京へも のぼりたまわんとて、わらは二人したがひ奉りて、みちみちのみやづかへにはべりぬ。
2019・4・26
石村良子代表
「游洛記」梅颸 春風館の謎
頼春水34歳は安永8年11月8日己亥(1779年)中井竹山の媒酌で大阪の儒医の娘静20歳と結婚する。結納は帯代金500疋(10万ぐらい)鰹節、絹地1反、支度は挟箱1荷,箪笥、長持ち各1
明くる4月23日春水の父亨翁は杏坪を随伴し上京4月23日着坂する。杏坪は混沌社 片山北海に学ぶ
特に記載がない場合は見延典子が書いています。
わかりやすい贋作。
この程度なら、「頼山陽ネットワーク」にアクセスしてくださっている方なら、見破れるでしょう。
2019・3・15
なんでも鑑定団 頼山陽の書状
少し前、再放送されたなんでも鑑定団。頼山陽の書状というもの。
常太25歳の時には、文政10年の杏坪「十旬花月」の旅に梅颸と共に同行している。
以前紹介した「頼山陽先生手簡四集」に山陽の子常あての手紙がある
2019・2・24
石村良子代表「頼家の縁談」
現在 北海道のSさんよりお借りしている「頼家聚」の山陽の常太の父(千蔵、春水のいとこ)あての手紙を読んでいる。内容は頼立斎(子常、常太)への縁談話。
頼立斎=名は綱、字は子常、通称は常太。山陽の門に学び、詩文・書・篆刻(師、細川林谷)も能くした。文久3年61歳歿
子常様
尚々 何分飛出す事は遅いほどよろしく 御辛抱なされねば此度の一帰もむだになります 三次杏坪叔父の事くわしくお書きくだされて まるで見るがごとくです。
遅々首を屈し書を読み 腹にためることを儲けとお考え下さるよう これは何程儲けても よろしいです。 京坂ではそりゃ誰が誘ふ そりゃ花 そりゃ楓にて 腹の儲けだめ出来ず それどころか腹外の儲けもの迄なくするようになりそうです。(家に居る事) ひとつ孝ということばかりでもありません 。