第3巻
ひきつづき石村良子代表による解説でお届けします。
2016・8・17
家永稲庵の跋
家永稲庵(1809~1866)儒者 頼山陽に学ぶ
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大意
黄山谷は謂う 坡老の嬉笑怒罵は全部文章になると
普通の人の言葉でも急にとりつくろうとするのは
嬉、笑、怒、罵という場面である
すれば一嬉笑、一怒罵のすべて文章になるはずではある
坡老の文においては言うまでもない事で有ろう
わが頼翁の文章の 泉のごとく湧き返るようなところは坡老に類しているが 手紙のやり取りは正に嬉笑怒罵 坡老なみである
頼翁の手紙は洒落や冗談が筆の走るまま 面白い事がつぎつぎ出てくる 読み始めは筋道がないように見えるが
腹は膨れおしまいには合点がいく 翁の手紙を見る物は そこらのありきたりの手紙を見るような気分でいては もってのほかであろう
稲庵家長淳謹書
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本文
黄山谷謂 坡老嬉笑怒罵皆
成文章 凡人之言語卒然不暇
修飾者 莫過嬉笑怒罵之際
而一嬉笑一怒罵皆足以成文
章 即坡老之神於文 固不待
言也 吾頼翁之於文章泉湧
深翻頗者類坡老 而如其応酬
手簡亦猶嬉笑怒罵乎 翁作
簡牘諧謔荘語並出縦意
信筆 未始須修飾故遽然読
之 似無條緒 然腹富萬篇溢
為楮墨諦視之 則 有開蓋有
抑揚 又有照応徼結自成一種
文字 覧者其莫為尋常
俗牘之看 可矣
稲庵家長淳謹書
語釈
黄山谷コウサンコク 黄庭堅、北宋の詩人書家
坡老ハロウ 蘇東坡
卒然ソツゼン だしぬけ 急に
莫過バッカ 過ぎる物はない
神シン 心 とびぬけた能力
深翻シンパン 掘り返す
応酬オウシュウ 互いにやり取りする
荘語ソウゴ 意気の盛んなことを言う
縦意イヲホシイママニス 意をほしいままにする
信筆フデニマカス 筆にまかす
遽然キョゼン にわかに 突然
條緒ジョウチョ すじみち
諦視テイシ 見きわめること
徼キョウ 求める
可矣カナリ よきかな
2016・8・11
岡田半江への手紙
文政5年9月の手紙
山陽43歳 半江40歳
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大意
心易いのをいいことに 手馴れたもの(詩)を差し上げましたら 御謝辞いたがき 痛み入ります
官を辞され鳥かごから出られたとか 早く決められ良かったです 張良の例もありますように 籠の中の計は考え物です 退官は御尤千萬と御勧めいたします ここは退路を断つ場面でございます 呵々(おおわらい) 十二 十六の内 赤松子の様に仙遊を致しましょう 念入りな実情お知らせくださり感謝いたします 御帰京後にお会い致したく思います
九月吉
追伸 畳韻対々飛 と云方の詩は 貴方の代わりに 亡くなった奥様を憶うの意でございます 僕と高飛は 前詩既言 後の方の詩は ましに出来たと自負しております
半江老兄
「一片氷心錫壺に在り」は かの大切の夜に使った器なのでこのように致しました 一笑一笑
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本文
任御心易 手馴候もの奉呈候處 御謝辞ニ痛却仕候 出樊解官之計 急ニ相成候よし 兵貴神速 張良も幄籌候處 御尤千萬と御勧申候 同行侍側ㇵ不必候 送入漢中 焼断桟道之場ニ御座候 呵々 十二十六之内 必々再奉従軍為赤松之遊可申候 御念被為入御志ら世
御実情奉謝候 御帰京後面尽と申留候以上
九月吉
尚々畳韻対々飛と云方ㇵ 代君憶亡令閨之意ニ候 與僕高飛ㇵ 前詩
既言 後の詩ハ ましニ出来候積也
半江老兄
一片氷心在錫壺 カノ大切の夜ニ相用候器故ニ候 一咲々々
読み下し
御心易さに任せ 手馴候もの呈じ奉り候處 御謝辞に痛却仕り候
出樊解官の計 急に相成候よし 兵は神速が貴し 張良も幄籌そうろう處 御尤千萬と御勧め申し候 同行侍側は不必に候 送漢中に入り 断桟道を焼くの場に御座候 呵々 十二十六之内 必々再従軍奉り赤松之遊を為し申すべく候 御念入りなされ御しらせ
御実情謝奉じ候 御帰京後面尽と申し留め候以上
九月吉
尚々畳韻対々飛と云方は 君に代わり亡令閨憶うの意に候 僕と高飛は 前詩既言 後の詩は ましに出来候積り也
半江老兄
一片氷心錫壺に在り かの大切の夜に相用ひ候器故に候 一咲々々
語釈
岡田半江 1782年~1846年大阪を代表する文人画家 父岡田米山人は画家1809年父の跡を継いで伊勢藤堂藩に絵師として出仕 天保4年隠居 親友大塩平八郎の乱の連累を避け住吉浜に移住その地で没す
張良の幄籌 (「漢書」高帝紀、「史記」高祖紀)による
「籌を帷幄の中に運らす」とばりの中ではかりごとをするという言葉は張良の故事による
謀議する意として広く使われるようになった
侍側 側に侍る 官人として仕える
赤松 長生きだった中国の伝説上の仙人、赤松子(せきしょうし)隠者(いんじゃ[=俗世間との関わりを避け、静かに生活している人]
長寿を保つことのたとえ
一片氷心 ひとかけらの氷のように、曇りのない澄みきった心
名声や利益を求めることなく、品行、方(まさ)に正しく生きているの意味王昌齡の七言絶句「芙蓉楼(フヨウロウ)にて辛漸(シンゼン)を送る」の結句にある言葉
一片の
氷心 玉壺にあり
2016・8・1
文人の交情は詩画で
文政6年雲華上人への手紙 宛名はないが 竹田の画賛による蘭竹図が残っている 画賛に以下の次第が載る 頼山陽44歳 竹田47歳 雲華上人50歳
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大意
いつも竹田とあれこれお噂いたしております
硯の近くに私と竹田の詩がありましたので送りします
わたしが書斎の中の蘭二本きり送りましたところ 君彜(くんい)兄(田能村竹田の字)が喜んで詩と画にして送ってきました
詩によれば涸れたようですので 又1本切って送りました
題
詠蘭詩画奪蘭芬(えいずらんしがらんふんをうばう)
真個催人筆研焚(まさにこれひとをしてひつけんふんをもよおしむ)
醒眼看花応(せいがんかんかしさいおうず)仔細(しさい)
東山獨不酔紅裙(ひがしやまひとりこうくんによわず)
割愛色分香祖葩(かつあいのいろそはかおりをわかつ)
伝来(でんらい)妙(みょう)墨(ぼく)或(あるいは)行(ななめに)斜(いき)
痴情却被(ちじょうかえって)君(きみの)詩画(しがにせらる)
更(さらに)向(ぼんちゅう)盆中剪(いっかをきりに)一花(むかう) 襄
君彜(くんい)詩(し)
暁露濃(ぎょうろのうのう)ゝ作緑葩(りょくはをなし)
香風度處影漸(こうふうわたるところかげようよう)斜(ななめたり)
喜君割愛手分送(よろこぶきみがかつあいわけおくる)
證出交情似此花(しょうしつこうじょうこのはなににる)
素質瓶頭吐蘭芬(そしつへいとうらんぷんをはく)
従今沈(いまよりじん)□不須焚(すべからくたかず)
為憐(あわれむとなす)香(こう)祖(そ)有(せんこつ)仙骨(あるを)
金剪(きんせん)裁来翠鳳裙(さいらいすいおうくん)
戯れに竹の枝をさしました
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本文
竹田と毎々周施御噂とも申出候 此反古硯辺ニ有之状カサニ致候て汚覧候 状アマリ薄ケレハ飛脚馬鹿ニ致可申カ存候故
余剪送斎中盆蘭二茎於君彜兄ニ
兄謝以詩画依韻 却寄聞其己凋謝又贈一茎
題 詠蘭詩画奪蘭芬 真個催人筆研焚
醒眼看花応仔細 東山獨不酔紅裙
割愛分香祖葩 伝来妙墨或行斜
痴情却被君詩画 更向盆中剪一花 襄
君彜詩
暁露濃ゝ作緑葩 香風度處影漸斜
喜君割愛手分送 證出交情似此花
素質瓶頭吐蘭芬 従今沈□不須焚
為憐香祖有仙骨 金剪裁来翠鳳裙
戯折竹枝配挿故云
訂正 色→曾 却→知 画→賺(なだめすかすのすかすの意 ケン
読み下し
竹田と毎々周施御噂ども申し出(いだ)し候 この反古(ほご)硯辺ニこれ有り状カサニ致し候て覧を汚(けが)し候 状あまり薄ければ飛脚馬鹿に致し申すべくかと存じ候ゆえ
余剪(き)り(書)斎中の盆蘭二茎君彜(くんい)兄に送る
兄 謝するに詩画韻に依り以てす よってそれ己(すでに)に凋(か)るるを寄聞す 謝し又一茎を贈る
題
詠蘭詩画奪蘭芬(えいずらんしがらんふんをうばう)
真個催人筆研焚(まさにこれひとをしてひつけんふんをもよおしむ)
醒眼看花応(せいがんかんかしさいおうず)仔細(しさい)
東山獨不酔紅裙(ひがしやまひとりこうくんによわず)
割愛色分香祖葩(かつあいのいろそはかおりをわかつ)
伝来(でんらい)妙(みょう)墨(ぼく)或(あるいは)行(ななめに)斜(いき)
痴情却被(ちじょうかえって)君(きみの)詩画(しがにせらる)
更(さらに)向(ぼんちゅう)盆中剪(いっかをきりに)一花(むかう) 襄
君彜(くんい)詩(し)
暁露濃(ぎょうろのうのう)ゝ作緑葩(りょくはをなし)
香風度處影漸(こうふうわたるところかげようよう)斜(ななめたり)
喜君割愛手分送(よろこぶきみがかつあいわけおくる)
證出交情似此花(しょうしつこうじょうこのはなににる)
素質瓶頭吐蘭芬(そしつへいとうらんぷんをはく)
従今沈(いまよりじん)□不須焚(すべからくたかず)
為憐(あわれむとなす)香(こう)祖(そ)有(せんこつ)仙骨(あるを)
金剪(きんせん)裁来翠鳳裙(さいらいすいおうくん)
戯折竹枝配挿故云(たわむれにいにしえにゆうちくしをはいそうす)
語釈
蘭芬 蘭のかおり
紅裙 着物の紅色のすそ 美人 蘭の花を例える
葩 はなびら
沈 沈香
仙骨 非凡な風貌 非俗な風采
2016・7・26
道頓は人の名
安井九兵衛(やすいくへえ)あての手紙 九兵衛は道頓堀を開削した道頓の末裔 山陽は芝居見物などの際便宜を図ってもらったようだ
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大意
其の後 御無沙汰しております せんだっては楽しゅうございました この前芝居行の時 金谷遷斎から芝居茶屋の名を知らせてくれるよう言ってきて居りましたが 遅くなり今日当日になりました 太左衛門ばし南門詰浜側 西北角「尼清」右の方におります 頼まれていたので金谷(遷斎)まで 御しらせください 後から恨まれてもいけませんので宜しくお願いします 只今 急ゝ書きましたので 大乱筆になり申し訳ありません 暮れごろまでは 芝居見物しておりますが ひょっと 幕の間に出るかもわかりません 穴賢
四月廿日 尼清にて
安井九兵衛様 頼久太郎
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本文
其後盤 御疎濶打過申候 いつ楚やハ雅興難忘候 此間芝居行之時 金谷与り 茶屋の名越志らせ候様 被申越候處延引仕 今日ニ奈利申候 今日太左衛門者し南門詰濱が王西北角尼清右之方ニ居申候
金谷噂御座候事ゆへあなた迄 御志らせ申上候
い可奈る御催ある可も存不申候へとも 折角左様ニ被仰居
候事故 跡尓て恨られ候て盤と御志らせ候 金谷ニ御逢被
成候事も 御座候ハバ 右之段被仰傳可被下候
只今右之茶屋ニ而草々志多ゝ免 大乱筆御可申候 どふで暮頃迄ハ芝居ニ居申候 マクノ間ニ出る事もアルベク候
穴賢
四月廿日 尼清ニ而
安井九兵衛様 頼久太郎
読み下し
其後は 御疎濶(ごそかつ)に打過ぎ申し候 いつぞやは雅(が)興(きょう)忘れ難く候 此間芝居(しばい)行(いき)の時 金谷より 茶屋の名を しらせ候様 申し越され候ところ 延引仕(えんいんつか)まつり 今日になり申し候 今日 太左衛門ばし南門(みなみもん)詰(づめ)濱がわ 西北角の尼(あま)清(せい)
右の方に居り申し候 金谷(遷斎)噂 御座候事ゆへ あなた迄 御しらせ申しあげ候
いかなる御催しあるかも 存じ申さず候へども 折角(せっかく)左様(さよう)に仰せ居られ候事ゆえ 跡(あと)にて恨られ候てはと御しらせ候 金谷に御逢い成され候事も 御座候はば 右の段仰せ伝えられ下さるべく候
只今右の茶屋にて草々したゝめ 大乱筆御申すべく候 どふで暮頃迄は芝居に居り申し候 マクノ間に出る事もアルベク候
穴(あな)賢(かしこ)
四月廿日 尼清にて
安井九兵衛様 頼久太郎
語釈
金谷遷斎 金谷興詩 かなや-おきうた1774-1835 歌人。
安永3年生まれ 父金谷三石の跡をつぎ,天満組(てんまぐみ)惣
年寄。漢学を中村韋庵に,国学を伴蒿蹊(こうけい),加藤景範(か
げのり)にまなぶ。号は遷斎,夢野舎。
安井九兵衛 安井道頓の一族 道頓堀は1612年に安井道頓(やすい・どう
とん)が私財をなげうち、南堀河の開削に着手し1619年、初代
安井九兵衛が「大坂三郷南組総年寄」となり、1626年頃、芝居
小屋を道頓堀に移転させたことにより歌舞伎、義太夫、見世物
などの小屋が並んで栄えた(道頓堀の歴史より)「金谷家は北
組総年寄」
芝居茶屋 一種の観劇機関。江戸時代から明治末期まで歌舞伎で、上等
の観客の食事、幕間の休息、用便等のために設けられた茶屋
である。費用がかさむので一般大衆は、なかなか利用できる
ものではなかった 芝居茶屋は、座席の選定、食事の世話等
をする外、幕間の休憩所となり、便所を提供し、武士が帯刀
の預け場所となり、観劇後の宴席ともなった。そのため、相
当の祝儀を散じて茶屋を通過する必要があった。
7・18 母梅颸との旅を綴る
文政十二年三月七日より山陽の母梅颸第四回京遊をなす
山陽五十歳梅颸七十歳。
三月十八日淀より上がり嵐山の雪の宿にとまる 以後伊勢、笠置山、岸和田、宇治、大津、琵琶湖,箕面など遊覧 八月湖上観月の遊
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大意
八月なかばの頃 襄が企て中秋の月見にと
大津の岩崎氏を訪ねる あるじはよろこんで なにくれと
なく歓待してくれる あるじの臨湖楼にのぼり 月を
見ながら 若い人々は韻をわかち 唐歌をつくりかわして
いる 私も月といふ字に寄せて
梅颸
さざなみも よるとは見へず 浦風の
しずかにさめる あきの月かな
襄
としごとの秋はあれども いつにかわ
にほの海べの 中ぞらの月
都門に母を迎へて半年留める 月白く風清き中秋
母の板輿に御伴すること三十里 岩崎氏の臨湖楼を借り
中秋の宴を楽しんでいる
ふる雨にぬれつ折し萩のはな いろよりふかき
心とをしる 襄
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本文
八月な可ハの頃襄可くして
大津奈る岩崎氏を訪らひける あるしよろこ本ひて あ可ぬことなく あるしまうけし多り楼尓 乃本利月を見つ丶若支人々韻わ可ちから歌つくり可ハ須 おのれも月といふ
字乎 えさ勢个禮者
梅颸
佐々なみも よ累とハ見へ須 浦風乃
志津可耳さめる あ支能月可南
襄
登しことの秋はあれとも い津尓可盤
丹保能海辺乃 中楚らの月
都門迎母半年留月白風清何處遊待簡板輿三十里借君湖閣
作中秋
布る雨尓ぬれ津折し萩乃者那 い路よ利ふ可き
心と越し類 襄
読み下し
八月なかばの頃 襄かくして
大津なる岩崎氏を訪らひける あるじよろこぼひて あかぬことなく あるしまうけしたり楼に のぼり月を見つ丶若き人々韻わかちから 歌つくりかわす おのれも月といふ字に えさせけるに
梅颸
さざなみも よるとは見へず 浦風の
しずかにさめる あきの月かな
襄
としごとの秋はあれども いつにかわ
にほの海べの 中ぞらの月
都門に母を迎へ半年留む 月白く風清し 何處に遊ばん箇板輿に侍し三十里 君が湖閣を借り中秋をなす
ふる雨にぬれつ折し萩のはな いろよりふかき
心とをしる 襄
語釈
板輿いたごし 屋根と左右両側を白木板で張り、前または 前後に簾 (すだれ) を掛けた輿
にほの海 鳰の海。琵琶湖の古称
2016・7・12
形見の高机
小石元瑞49歳への手紙
山陽53歳
亡くなる寸前の手紙
日本政記完成し、関藤藤陰清書中
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大意
机 貴方に差し上げたく思います よく見れば やはり粗末ですが 高い机がないよりはましだとおもいます この机に研匣 巻帋 小蝋燭立の類使うたびにださないで 置きっぱなしにされ また此の机に さらさ大風呂敷などをかけて その下に脚爐とか 何なりと自由にできます 安神降氣以遇門弟子(精神を安定させ気が下りるのを待ち 弟子の教育にあたれば) これは亦自愛計壽になります
古い友人の意 おくみください
九月既
関が原の戦い 井伊退き 福嶋進むの刻(正午ごろ)
小石様 頼
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本文
机 附貴价候 よく見れ盤 やハり粗末ニ候へとも 高き
ものなきよりましなる遍し 此机二付候研匣 巻帋 小蝋燭立の類 御定置 度々取寄ぬ様二被成 或ハ此机ニさらさ大風呂しきなと越可けて 其下ニ脚爐なりと何なりと自由出来可申候 安神降氣以遇門弟子 是亦自愛計壽之一端也 故人嘱意 御深領可被下候
九月既
關原 井伊退き 福嶋進むの刻
小石様 頼
読み下し
机 貴价に附候 よく見れば やはり粗末に候へども 高きものなきよりましなるべし この机に付候研匣 巻帋 小蝋燭立の類 御定置 度々取寄ぬ様に成され候 或は此机に さらさ大風呂しきなどをかけて 其下に脚爐なりと何なりと自由出来申すべく候 安神降氣以遇門弟子 是亦自愛計壽の一端也 故人嘱意 御深領下さるべく候
九月既
關原 井伊退き 福嶋進むの刻
小石様 頼
2016・7・4
平塚瓢斎への手紙
平塚瓢斎は山陽と12歳違い。与力。字士梁、隠居後飄斎、勤王の志深く、山陵の取調にも力をつくす。安政大獄に関連して、謹慎を命ぜられ、次で永蟄居となるが3年後に赦
される。贈正五位。『陵地私考』『陵基一隅』等著書がある。明治8年(1875)歿、84才。
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大意
其後は ご無沙汰しておりました いつも平塚の二字は 胸にありましたが 何かと取り紛れておりました そのわけを御聞きください 又々国元へ老母を迎へに参り 桜花にエイヤット着船 淀から直に嵐山へ参り 妻子の顔も見ない内に花のかほを見 それから御室の桜 平野 知恩院と見物 直に伊勢へ連れて参りました
把酒旗亭別送人 禽聲草色太平春
携妻携子同従母 非是流民是逸民
などという具合で この節 帰京致しましたが まだ雲霧中にいる心地で どこへもご無沙汰です 今日は手紙と伏水御到来の鹽鴨いただき 老母に出すものがなく困っておりましたので 有り難いことです 留守の間に丹酒仰せつけくださいましたようで 此節も沢山にあります 御使に事づてと思いましたが 御淋疾には忌物かと控えましたが 何時でも取に お遣わし下さい その時は いれるものをお持たせ下さいますように わたくし方の器なら御返しの御心配がありますので 何分御保養 早々 後はお目にかかりまして 今日も御影賀茂祭へ 母の供をいたしますので取り紛れております 草々不尽
四月十九日 頼
平塚様
詠史楽府の注を御願とおもいましたが 善助にさせる事が当然と言う人があり それにいたしました 大概出来ました清書して批正をお願いするつもりです
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本文
其後ㇵ打絶御尋も不申平生平塚二字横胸間居候へとも扨過申候其由ㇵ御聞も可被下又々国元へ老母迎ニ参花ニエイヤット馳着淀より直ニ嵐山へ参未見妻子面内ニ花のか保越見候
それより御室平野 知恩院越 見了候と直ニ勢州へ連参候
把酒旗亭別送人 禽聲草色太平春
携妻携子同従母 非是流民是逸民
などと申為体ニ而是節 帰京また雲霧中ニ居申候心地ニて
何方へも御無音仕候 今日ハ得来翰併伏水御到来之鹽鴨
供老母候ものニ事欠居候て大ニ忝存候 留守ニ丹酒よくぞや被仰候ハバ 此節も沢山に御座候 御使ニ事津て可申候
存候へとも御淋疾ニハ忌物可と存候て差扣何時ニても
取ニ被遣候ハバ御器為持可被下此方器なれハ御返しの御心配あ利 何分御保養 早々拝面と申留候 今日も御影へ
供仕候ニて取紛草々不尽
四月十九日 頼
平塚様
詠史楽府注越御託可申存候所 善助にさせる事当然と申人
有之候 それニいたし候 大概出来清書候て可乞正
読み下し
其後は 打絶へ御尋も申さず 平生平塚二字 胸間に横たわりおり候へとも さて過ぎ申し候 其由は御聞も下さるべく 又々国元へ老母迎へに参り 花にエイヤット馳せ着き淀より直に嵐山へ参り いまだ妻子面をみざる内に花のかほを見候 それより御室 平野 知恩院を 見おへ候と直に勢州へ連れ参り候
把酒旗亭別送人 禽聲草色太平春
携妻携子同従母 非是流民是逸民
などと申す体を為し この節 帰京また雲霧中に居り申し候心地にて 何方へも御無音仕まつり候 今日は来翰を得あわせ伏水御到来の鹽鴨 老母にそなえ候ものに事欠きおり候て 大に忝く存じ候 留守に丹酒よくぞや仰せられ候はば 此節も沢山に御座候 御使に事づて申すべく存じ候へども 御淋疾には忌物かと存候て差扣 何時にても
取に遣わされ候はば 御器持たせ下さるべく 此方器なれば御返しの御心配あり 何分御保養 早々拝面と申留め候 今日も御影へ供仕り候にて取り紛れ 草々不尽
四月十九日 頼
平塚様
詠史楽府の注を御託し申すべく存じ候所 善助にさせる事当然と申す人これ有り候 それにいたし候 大概出来清書候て正を乞うべし
語釈
下鴨神社 御蔭祭(みかげまつり)
15日の葵祭を前に行われる、比叡山ろくの御蔭山(京都市左京
区上高野東山・御蔭神社)に鎮まる御祭神の荒魂(あらみた
ま)を下鴨神社に迎える神事。
古墳時代後期の欽明天皇(540 ~571年)のとき、 凶作に見舞
われ飢餓疫病が流行したため、天皇が勅使をつかわし「鴨の
神」の祭礼を行ったのが起源とされている。
逸民 俗世間をのがれて、隠れ住んでいる人 官に仕えず、気楽な生活
を楽しむ人。
2016・6・26
福井棣園への手紙
福井棣園(ていえん)天明3年(1783)10月23日-1849 江戸時代後期の医師。京都の人。父の跡をつぎ侍医となる。従四位上、近江守。この時56歳。山陽53歳。
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大意
長い間ご無沙汰にしておりましたところに お手紙をいただき お会いしているように嬉しく喜んでおります 御申し出 喜んで承りますが 楽府の件は請け合いながらまだ見ておりません 何卒と思っているところでございます 思いもよらぬ御懇情は詞をもってお答えするほかありません 今年の春は何も詩というものはつくらず 嵐山へはやっとの思いで参りました 古賀穀堂が 江戸より参りましたので 一緒に花を肴に酒を楽しみました その詩を赤水老人へ見せておきました 此一首 残りの話はまたお会いした時にいたします 御厚意感謝までに 頓首
四月二日
尚 両三日中 いつでも取に来てくだされば直に御返しするよう言っておきます
江州使君坐下 襄 拝復
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本文
御疎濶之處,忽得華翰、如面披誦欣然 御佳令奉慶候
尤展成楽府盤乍承久未一見 何卒と存居候處ニて
如獲拱璧 御懇情無詞可謝候 今春盤何も
詩と申様のもの盤無之 嵐山へは一奮往候處 古賀穀堂
江戸より上來 來過 遂追遊 同酔花底候 此間 其詩
とも赤水老人へ見世置候 唯此一首 猶拝面可申盡 尤集盛情可奉謝迄
草々如此御座候 頓首
四月二日
尚々 両三日中 いつにても取に被下候ハバ直に返璧候
様ニ可申置候
江州使君坐下 襄 拝復
読み下し
御疎濶の處 たちまち華翰を得 面がごとく披誦欣然
御佳令 よろこびたてまつり候 尤も展成楽府は
承久ながら未だ一見せず 何卒と存じおり候ところにて
拱璧獲るがごとく 御懇情詞に謝すべきはなく候 今春は何も詩と申様のものはこれなく 嵐山へは一奮往き候處 古賀穀堂 江戸より上來 來過 追遊をとげ 花底に同酔候 此間 其詩ども赤水老人へ見せ置き候 唯此一首 猶拝面に申盡べく 尤集の盛情謝たてまつるべく迄
草々かくのごとくに御座候 頓首
四月二日
尚々 両三日中 いつにても取に下され候ハバ直に返璧候
様に申置べく候
江州使君坐下 襄 拝復
語釈
楽府 中国,韻文のジャンルの一つ。もともとは,前漢の 武帝のと
き設けられた,各地の民謡を集めて記録する役所の名であった
が,のちにその記録された楽曲や歌謡を楽府の名で呼ぶように
なったもの
詞 中国の韻文の一。唐末から宋代にかけて流行。もとは楽曲に合
わせて作られた歌詩。1句の長短は不定で俗語を多く使う。填詩
(てんし)・詩余・長短句ともいう
拱璧 キョウヘキ. 一かかえもあるほどの大きな玉
赤水老人 白井惟徳医者。通称元蔵、号は赤水・養素園。京都の人。詩書
を能くした。天保9年(1838)歿、77才 平安人物志5年版
古賀穀堂 1778-1836 江戸時代後期の儒者。古賀精里の長男。江戸で
父にまなび,柴野栗山,尾藤二洲らの影響をうける。郷里の肥前佐
賀藩にもどり,弘道館教授。
集 書物
盛情 厚情,厚意
2016・6・20
藤井雪堂への手紙②
頼山陽書簡集の説明によると 雪堂(質屋の隠居、梅竹の別号あり)漢学を皆川淇園に受け和歌と墨竹に長じ平家琵琶の大家で有り山陽も平曲を習ったとある
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大意
先ほどは 梅ありがとうございました 御歌を送ってくださり しみじみ吟じ 涙がでます
園の梅 まだきながらに 手折り來し
君が心の 香ぞ匂ひける
として私も 歌になりました 御直し下さい 又あなたの御歌の詞にさそわれ かく
あふぎみし 日は入り果てず 春の夜の
あやなき梅は さく甲斐もなし
是も心中の思いまでは つたえきれません 盲蛇を畏れずと申すとうりです お笑いください かしこ
雪堂老人 襄 人々申し給へ
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本文
先刻ハ梅あり可たく奉存候 御歌御古し被下感吟心ニ古多へ候て 催春涙候事ニ御座候
園の梅 またきな可ら尓 手折り來し
君可心乃 香そ匂ひ化る
として歌尓なり可申哉 御直し可被
下候 又御歌の詞に
津きて感觸候所有之候 かく
あふきみし 日ハ入果津 春乃夜乃 あやなき梅は
さく甲斐もなし
是も心保とハきこへ申ましくと奉存候 盲不畏蛇御憐咲可
被下候 かしく
雪堂老人 襄 人々申給へ
読み下し
先刻は 梅ありがたく存じ奉り候 御歌御こし下され
感吟 心にこたへ候て 春涙催し候事に御座候
園の梅 まだきながらに 手折り來し
君が心の 香ぞ匂ひける
として 歌になり申すべくや 御直し下さるべく候 又御歌の詞につきて 感觸候ところこれ有り候 かく
あふぎみし 日は入り果てず 春の夜の
あやなき梅は さく甲斐もなし
是も心ほどは きこへ申まじくと存じ奉り候 盲蛇を畏れず御憐(ごれん)笑(しょう)下さるべく候 かしく
雪堂老人 襄 人々申し給へ
語釈
かしく かしこ
恐れ多いこと。もったいないこと
畏、恐、賢
人々申し給へ 『日本古文書学上』(中村直勝著 角川書店 1971)
p117書留のことは中国の隋唐朝時代の書札様式を学んだものであろう。ここにも脇付があった。なるべく差出人は卑下し、謙遜の意を示し、受取人の氏名を、上の方に記して、その人に直接宛てて出したのではない、という意を含めて、脇付をしておくことは賢明なことである。(中略)本文の最後に用うる言葉を書留というとの記述あり。
かな書きの文書では、(1)参る人々申給へ (2)たれにても申給へ (3)人々申給へ (4)参る申給へ (5)参る参り申給へ (6)参る参り候 (7)参る (8)参候 と順序附をしている。
2016・6・14
藤井雪堂への手紙
藤井雪堂( ~天保10年) 画家(僧)諱は靖。字は不及。即声庵と号し又雪堂と号した。京都の人、画を皆川淇園に学ぴ墨竹を善くし且つまた波多野流の平曲を巧みに演じ
た。頼山陽の平曲の先生。この時、山陽52歳、雪堂54歳。
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大意
昨日は 梅を分けていただくのに 思いのほかの大枝で 喜んだり驚いたりしております 病牀の大娯にこれ以上のものは有りません 今日は 御夜食なしでお出かけください 彼の餅を又々調理法を変え たくさん召し上っていただこうと思います 四時ごろからお待ちしております 先ずは拙詩を御覧にいれます
依稀淡月在梅花 怕叩柴門疎影斜
先喜幽人猶未睡 風聲定處認琵琶
第二句 一作に野水無声疎影斜
第四句 一作に隔花聞得憂琵琶
この外 色々とすることもありお会いして申し上げる事にいたし 取にたらない詩でも差上げます 詩は作りたいものです
二月十六日
梅竹主人 左右 襄
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本文
昨日は 梅阿漕ニ御所望仕候處 望外之一枝大者被下
喜悚交至候 病牀之大娯 不過之候 今日ハ御来賁被下候事と奉存候 御夜食なしニ御出被下度 彼餅越又々
致方越かへ候てたんと被上候様に可仕候 七比より奉待候 拙詩先入御覧候
依稀淡月在梅花 怕叩柴門疎影斜
先喜幽人猶未睡 風聲定處認琵琶
第二句 一作野水無声疎影斜
第四句 一作隔花聞得憂琵琶
此外 色々と致候處有之 拝面に御談申上 尚々不足取詩
にても差上候 詩ハよくいたし度候
二月十六日
梅竹主人 左右 襄
読み下し
昨日は 梅阿漕に御所望仕り候ところ 望外の一枝 大者を下され 喜悚こもごもの至りに候 病牀の大娯 之に過ぎず候 今日は御来賁下され候事と存じ奉り候 御夜食なしに御出で下されたく 彼の餅を又々致方をかへ候てたんと上られ候様に仕るべく候 七つごろより待ち奉り候 拙詩先に御覧にいれ候
依稀淡月在梅花 怕叩柴門疎影斜
先喜幽人猶未睡 風聲定處認琵琶
第二句 一作に野水無声疎影斜
第四句 一作に隔花聞得憂琵琶
この外 色々と致し候ところ之あり 拝面に御談申し上げ 尚々取にたらざる詩にても差上げ候 詩はよくいたしたく候
二月十六日
梅竹主人 左右 襄
語釈
喜悚 喜んだり怖れたり
来賁 他人が自分の家に訪れてくることをうやまっていうことば
疎影斜 疎影橫斜水淸淺:(梅の)疎らな枝振りは、清らかに澄んで浅
い水面(みなも)に、横たわり斜めになっている
林逋の詩にある:北宋の隠逸詩人。西湖中の孤山に隠棲し、梅
を妻とし鶴を子として過ごした。字は君復。諡は和靖。林和靖
として世に知られる。杭州銭塘(浙江省杭州)の人。967年~
1028年
2016・6・3
平塚飄斎への手紙
「河越後度の戦い」への所見
山陽48歳
飄斎は京都西奉行の与力36歳
文政10年(1827年)
大意
雪で東山のながめは 絶妙ですが 春の雪の事です すぐにきえるでしょ
う 新年早々お出かけくださいましたのに出違いになり 残念でした
扁額の字は おっしゃる寸法では 小さいように思われるので半切と 少
し小さいのと二枚お使いの方に託しました 今年の第一筆です 小さい方
は あまりお勧めできません 書いた内容は 竹林の七賢の一人阮籍は
「胸に磊磈があり酒をこれにそそぐ」と言って飲んだというところから
このように認めました
この男は楚漢戦場を経た男ですが「この時代に英雄がいないために つま
らない敵に手柄を立てさせた」などと言い大げさですが 面白いのでこの
ようにしてみました これは自作語です。
武朝は貴説の通りだと思います。瑣国論のたぐいに墳墓のことは有ります
が教祐の類で順逆が別なだけでしょう
奇妙に感じているところ「河越後度の戦」について私いろいろ考えたあげ
く夜の戦とし 昨日「比暁」暁ごろ 二字を「夜半」に直しました 上杉
方の大将の本間何某は丸提灯の指物をもって最後の軍をし北条家の大道
寺駿河守と槍を合わせ 其ヤミを照らさんがためにこの丸提灯の指物を掲
げたのです 「もはやこれ迄貴殿にお渡し申し候」といって討死した事が
おもしろいのに昼軍にしては これをのけてしまわなければならないと夜
軍に決めましたところへ 貴書がきましたで大喜びしております
あなたとは「英雄」というものの考えが 大体同じようです
これ 文政十年の初物語であります 目出度申し収めいたします 以上
正月七日 頼久太郎
平塚善十郎様
語釈
磊磈 胸中に積み重なった不平
阮籍 三国時代の魏の思想家,文学者
武朝 菊池武朝
瑣国論 早稲田大学蔵書目録 によると享和元年8月識の写本
序:杏花園主人(大田南畝)
中略 瑣国論附尾: 日本之記上,下(1839年刻蘭書 宝函第201葉).
河越後度の戦 上杉方の本間何某はこの戦いに臨んで、九つの提灯を竿
の先に重ねて差物とし、「これを以て闇を照すのだ」などいっ
て本間は北条氏大導寺駿河守と槍で闘い、大導寺にこの差物を
与え、「もはやこれまで自分には不用だ貴公に進上する、これ
を用いてよく北条公にお仕えなされよ」と言って自刃した
*本文 読み下しは 長いため 次回にいたします
※「古文書研究会」が総力をあげて取り組む人気連載!
真実の頼山陽の姿がここにある。
石村良子代表による責任編集です。
※古文書研究会は月2回、広島市中区にある旧日銀ビルで開講中
2016・5・30
手簡 第3集に入りました
咳唾
成珠
節庵主人龍
意味
口から出た言葉がすべて詩文になる
出典
晋書-「夏侯湛伝」「咳唾成珠、揮袂出風雲」
節庵主人龍
宮原節庵1806年~1885年
備後・尾道の人。名は龍、字は士淵・季泉、号を節菴・潜叟・易安・栗村などと称し、初め頼山陽に師事して詩文を修め、師の死後、江戸へ出て昌平黌に遊ぶ。1841年京都に戻って学ぶ