※「古文書研究会」が総力をあげて取り組む人気連載!
真実の頼山陽の姿がここにある。
※古文書研究会は月2回、広島市中区にある頼山陽史跡資料館で開講中
2016・3・9
書簡集を編む理由
後藤松陰(1797~1864)68歳没
美濃うまれ儒者 山陽(1781年~1832年)の門人で妻は篠崎小竹の娘町 名は機 字は世張大阪で塾を開く 山陽の西遊にも同行
第1集の末文
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大意
亡き師の頼翁は性質は静かで無口にして争わないふうであったが 筆を握らせれば正の中に面白さがあり 滑稽みのなかに正義があり 読む者は みな襟をただしあるいは頤がはずれるほど笑うというふうであった その手紙にいたっては 最も人が大切にし喜ぶものであった
京都の書店積書館の吉治氏は どこかに頼翁の手紙を持つ人があれば そのたびに借り取りそっくり写し出版し 其の第一部はすでに出来上がった これは其の第二部である
張芝の故事にあるように 一片帋ももらさず珍重するということであろうか
嘉永巳酉嘉平月 (一八四九年十二月)
門人後藤機薫手書
機 張
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原文は以下の通り
松陰
先師賴翁性沈静寘口頗似
敗生興而使其握筆即正中
有諧〃中有正莫不使讀者皆
起坐歛襟或絶倒解頥者焉
若其国牘尤使人〃厭心而破
顔焉京師書舗積書館吉
治氏毎見人藏其手柬者輒
借取鉤摹上木其第一帖已成
矣此其第二帖也昔人所云匆〃
不暇草書片帋不見遣其此之謂歟
嘉永己酉嘉平月
門人後藤機薫手書
機 張
読み下し
先師頼翁 性沈静 寘口頗敗けて興を生ずるに似たり
而して其れをして 筆を握らしむれば 即ち正中に諧有り
諧の中に正有り 読む者皆起坐歛襟或いは絶倒解頥せざるはなし
其国牘のごときは尤も人々をして厭心破顔せしめり
京師書舗積書館吉治氏人の其の手柬を蔵する者を見るごとに
輒ち 借り取り鉤摹上木其第一帖已に成れり
此其第二帖也 昔人云ふ所の匆〃として
暇あらざるの草書片帋も遣されず其れ此の謂か
嘉永己酉嘉平月
門人後藤機薫手書
機 張
語釈
寘口 無口
諧 滑稽なこと
歛襟 斂の誤用 襟をひきしめる
絶倒解頥 あごがはずれるほど大笑い
国牘 手簡 手紙
鉤摹 なぞって写すこと
上木 板木にして出版する
匆〃として暇あらざるの草書片帋も遣されず
張芝の故事
後漢時代の書家。字は伯英。敦煌酒泉(甘粛省)の人。父は太常になった名臣である。幼少の頃より学問にはげみ、
張芝は平生から書を好み、家にある白絹はすべて文字を書いたのちに練って漂白した。また池に臨んで字を書き、池の水が真っ黒になったという逸話も有名である。
書は崔瑗、杜度を師として学び、とりわけ草書にすぐれた。世間は張芝の書を珍重し、わずかな切れ端でも棄てることなく保存したという。張芝の草書は骨力を具え、表現が豊かであると評され、草聖と称された。
嘉永己酉 1849年12月
注:読み下しと書き下し
第一巻末にあたり 全文書き下し文は「読み下し」としています
山陽の名調子を読んでみていただきたく思います
2016・2・28
江戸行の弟子に贈る詩
岩崎鴎雨 東遊へ送る詩 文政10年4月
山陽48歳 鴎雨23歳
第1集10通目の手紙
鴎雨は頼山陽の弟子。頼山陽書簡集にも多くの手紙が残っている。
この東遊の際には、市川米庵へ世に出る前の「日本外史」を渡してくれるよう頼んでいる。米庵より学会の総本山である林家へ紹介斡旋をと考えたらしい。それもこちらから差し出すのはダメ。向こうからの話になるようにと米庵へも手紙。
別の1通に山陽が50歳の時、母を鴎雨の琵琶湖畔「臨湖楼」に呼んでくれるよう手紙を出しているのがあり、母梅颸のことを「一向気ノツマラヌ老人(きずまりでない)で、少年の楽しみも理解し歌舞などは好きな方で歌よみ」としている。
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大意
隅田川に桜のはなびらが飛び ホトトギスが啼く
包の下に梅の緑はも低く影を作る(木母寺の)お墓は緑に覆われ
あなたがきしむ駕籠で行く日本堤に
こんな春があるのを想います。
筆を走らせ岩崎雅契の東遊に送る
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山陽らしいからかいが感じられる。
弟子に「誘惑に負けないで」という思いをこめたのだろう。
原文と読み下し
山紫水明(印)
墨水花飛蜀魄啼
墨水に花飛びホトトギス啼く
梅児墳外緑陰低
梅児は墳外にして緑陰低し
想汝尋春路還在
想う汝が路に春を尋ね還る在るを
咿軋籃輿日本堤 籃輿は咿軋す日本堤
走筆為二十八字送 筆を走らせ二十八字をつくりて
岩崎雅契東遊 岩崎雅契の東遊に送る
酔襄 酔襄
頼襄之印 山陽外史(印)
墨水 隅田川の異称
蜀魄 ホトトギス
墳 盛り上がった堤や丘
咿軋 車のきしる音
籃輿 簡単な竹作りの駕籠
日本堤 現在の隅田川から三ノ輪までの隅田川出水による被害
を防ぐために幕府が築いた山谷から聖天町にかけて別の
堤があり合わせて二本堤といい、そこから日本堤と呼ば
れるようになった。江戸浅草聖天町から三輪(みのわ)
に至る山谷堀の土手。新吉原へ通う道でもあった。
雅契 志を同じくする友
岩崎雅契 岩崎鴎雨 1804-1865
生家は近江の豪米商 詩人「鴎雨詩文稿」など著す
15歳で頼山陽に師事する 妻は有栖川宮の侍医秋吉雲
桂の娘 雲桂も山陽の弟子
2016・2・23
知恩院の御忌(ぎょき)
中川漁村宛て 正月念ニ 第1集9通目の手紙
知恩院御忌への誘い。息子を連れていくとは、山陽もなかなかの子煩悩。
また儒教家庭で育った山陽が法然上人の法要に行くという事実も見逃せない。『頼山陽先生行状』で書かれている「僧侶は嫌い」という記述とは明らかに矛盾する。
漁村が井伊家に仕え、幕末、開港を説いたというのも、それはそれで面白い。山陽も生きていれば開港を支持し、攘夷に反対の立場とったのではないか。
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大意
此間は 色々懐かしく名残つきませんでした。明日 知恩院御忌の日で 年の初め春の遊びにと、京都中の男女も飾り立て、のんびり穏やかな気候のなかに、私も毎年ふらりと出かけております。 ちょうど明日は支峰も休みなのでつれて参ります。あなたもお出かけになり、知恩院の桜門前の茶店にて御待ちください。こちらが早ければこちらがお待ちします
1月22日
祿郎(漁村)様 襄
なお、3時から4時前のお約束とします。子供と一瓢酒と参ります 茶店の閑かなところで田楽でも食べ少し酔い、お別れしましょう。
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原文は以下の通り
此間者 草々不盡所懐候而遺憾ニ存候 然ハ明日知恩院
御忌と申もの開春劈 初頭の游嬉 都人士女袨服靚粧も
太平気象之故 毎年ふらりと出懸候 幸明日豚児放學在家
是緒掣候而 一游と存候 公も御出可け 彼院の桜門前之
茶店ニて御待合可披下候 拙方早ケれハ拙待居申候也
正月念ニ
祿郎様 襄
尚々 八半.七前緒為期 小子掣児与一瓢酒参候 茶店
小閑處ニて 田楽ニても下酒 同一酔 且叙別可披下候
知恩院の御忌 法然上人の亡くなられた日の法要
御忌大会 明治10年より4月に行われる
開春劈 春をひらく
劈(ヘキあるいはヒ)はきりひらく
中川漁村 1796-1855彦根藩儒者
井伊直亮につかえる
井伊直弼にペリー来航の時 開港を説いた
袨服靚粧 黒い服礼服僧侶武士 化粧し、よそおい飾ること
八半.七前 午後3時から4時前
豚児 頼支峰
正月念ニ 1月22日
読み下し
此間は 草々所懐尽きず候て 遺憾に存じ候 然ば明日知恩院御忌と申もの開春劈 初頭の游嬉 都人士女袨服靚粧も太平気象之故 毎年ふらりと出かけ候 幸明日豚児放學在家是を掣候て 一游と存候 公も御出かけ かの院の桜門前之茶店にて御待合下さるべく候 拙方早ければ拙待居申候なり
正月念ニ
祿郎様 襄
尚々 八半.七前を期となし 小子掣児と一瓢酒参り候 茶店小閑處にて 田楽にても下酒 同一酔 且叙に別下さるべく候
2016・2・15
「研(すずり)のつくろい」
小嶋彤山宛て 年代不詳。 十月四日。第1集8通目の手紙。
二日前の十月二日、同じく小嶋彤山宛てに催促の手紙を出している。そこでは自分がせがむのではない。屏風を書くのにかか(梨影)に墨を磨らせるが、時間とともに墨が乾いてしまうので、研の蓋がないと不自由する、と妻をダシにしている。
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大意
すずりの蓋と裏のほりの字、腹のところの疵の補填まで出来上がり、そのうえ持ってき来てくださり、今日こちらから取りに行かせようと思っておりましたのに、恐れ入ります。それにしても鐫の立派なこと、蓋も注文通りで、硯の値打ちも十段あがったようです。故人からの贈り物ですので、大切に納め置きます。今日も御用がおありのようですが、差し上げたいものがありますので、山紫水明ごろふらりお出かけください。ちょっと一酔いたしましょう。
十月四日 襄
彤山雅契
なお家内もこれなら遅くなるはずと試しずりし、感心しております。ともども今夕お待ちしております。
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原文は以下の通り
研蓋並裏之鐫字 腹間之疵補填迄落成候ニ付 為御持まて被下 今日自此方 取ニ可差出 と存居候處ニて別て悚息仕候 扨も御手際之鐫 蓋も被仰付様 御周到と相見 誠ニ研の直打十段も上り候様ニ相見 別而故人之贈 終身珍蔵相用可申候 今日も御用有之由なれとも 頗可供ものも有之 即山紫水明の比 飄然來臨ならば 可同一酔 草々頓首
十月四日 襄
彤山雅契
尚々家内世可み手も是なれは 御延引之筈にて感心 早々相試磨里いよいよよろしく申上くれとの事 是も今夕お待申居候
小嶋彤山(こじまとうざん) 篆刻家(てんこくか)
研 硯 すずり
鐫(せん) ほる
山紫水明 山紫に染まり水すんで見えるころ
午後四時半から五時ごろ
雅契 友人 志を同じくするもの
読み下し
研(けん)蓋(がい)並に裏(うら)之鐫(ほり)字 腹間之(はらまの)疵(きず)の補填(ほてん)まで 落成候に付 御持たせまで下され 今日此方より 取に差出すべくと存居候處にて 別(べつし)て悚(しゅう)息(そく)つかまつり候 扨(さて)も御手際之(おてぎわの)鐫(ほり) 蓋も仰付られ様 御周到と相見 誠に研の値打ち十段も上り候様に相見 別て故人之贈 終身珍蔵相用申すべく候 今日も御用これ有るよしなれども 頗(すこぶる)供べきものもこれ有 すなわち山紫水明(さんしすいめい)のころ 飄然(ひょうぜん)來臨ならば 一酔を同(おな)じゅうすべし
草々頓首
十月四日 襄
彤山(とうざん)雅(が)契(けい)
尚々家内せがみても是なれば 御延引の筈にて感心
早々相試磨(す)り いよいよよろしく申上くれとの事
是も今夕お待申居候
2016・2・8
「甘酒進上」
馴染みの商人 鳩居堂宛ての手紙。年代不明。
第1集7通目の手紙。
鳩居堂との最初の出会いがどのようなものであったのかは不明であるが、山陽の妻の梨影がつくった甘酒を鳩居堂の母親にあげるなど、家族ぐるみの交流の様子が伝わる。
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大意
先刻は長居いたしました。かの件は何分よろしく頼みます。お世話をかけたあげく戻して、恐れ入ります。これ以後は気をつけますので、何でも仰ってください。
○伊丹のお酒を一陶、この節、口を開けましたので、少し送りました。いつかのようにしてお呑みください。このごろの雨湿の払いにはこれ以上の薬はありません。
○家内から。御母上へ差し上げた甘酒は、お宅の家法通り作ったようで、これもお笑ぐさに置いてください。では又お会いしたときに。
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原文は以下の通り。
先刻ハ長座御邪魔仕候 彼方之儀何分よろしく奉頼候 莵角長袖何事も 御世話の跡戻候様の事とも 仕出候て恐入候 此以後ハ 屹度 相たしなみ御差図ニま可勢申候故 無御心置 被迎下度候
○伊丹酒一陶 此節口明申候故 少々上申候 い津そやの例ニて御上 可被下候 此節雨湿之拂ニハ 此ニ越薬ハ無之候也
○家内より御母公様へ上候よし甘酒 御家法の通ニ致候由 是又 御咲留可被下候 萬期面盡
十六日
鳩居様 襄
読み下し
先刻ハ長座御邪魔仕り候 彼方之儀 何分よろしく頼奉り候 莵角長袖 何事も御世話の跡戻候様の事とも 出仕り候て恐入候 此以後ハ 屹度 相たしなみ御差図ニ まかせ申候故 御心置無く 迎下され度候
○伊丹酒一陶 此節口明申候故 少々上申候 いつぞやの例にて御上り 下さるべく候 此節雨湿之拂ニハ 此に越薬は これ無く候也
○家内より御母公様へ上候よし甘酒 御家法の通に致し候由 是又 御咲留下さるべく候 萬 面尽を期す
十六日
鳩居様 襄
長袖 長袖の衣服を着ているところから僧、公卿、神官、学者などをい
う。ここでは山陽本人。
鳩居 薬種業四代目熊谷直恭(くまがいなおやす、通称久右衛門。頼山
陽「鳩居堂記」あり。頼山陽ら文人の指導により筆墨の製造はじ
める。
2016・2・4
「山谷刀筆とその抄録」
弟子の牧善助(百峰)宛ての手紙。年代は不明。
第1集5通目の手紙。
特にあらたまった内容ではない。吉冶を待たせて、おそらく1、2分でさらさらと書いた手紙だろう。体裁が整っているのは、師としていい加減には書けないという思いからだろう。
12月9日、同じく牧善助に宛てた手紙がもう一通ある。そちらには年内には福井近江之介に山谷刀筆返本したい、山陽が付箋をつけたところ、残り半分の写し、筆耕料は出すから、だれかに写させ、送り返してくれとある。
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大意
昨日福井近江之介(棣園)が山谷刀筆を自分(山陽)のために取り寄せ、持たせてきました。幸い吉冶が来たので渡しましたので御覧ください。
自分もこの鈔録は一閲もしてませんが、本書山谷刀筆も明快的本抄録も見てみたいと思います 。
急ぎませんので、よろしく御取り計らいください。草々頓首
中秋後三日
(牧)善助様 襄 吉冶どのにも御覧
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原文は以下の通り
昨日福井近江之介参山谷刀筆 此方へ可用立ために 取寄 為持可越と存候内 幸 吉冶参候故 相渡し候 取寄御覧可被成と申事二候 此方も 右鈔録候所之体面も未一閲 本書も明快的本 一覧見合度候
急く事にもあら須 よろしく御取計可被成候 草々頓首
中秋後三日
善助様 襄 吉冶どのにも御覧
読み下し
昨日福井近江之介(棣園)参り山谷刀筆 この方へ用立べくために
取り寄せ持たせ越すべくと存じ候内 幸い 吉冶参り候故 相渡し候
取り寄せ御覧なさるべくと申す事に候
この方も 右鈔録候所の体面も未一閲 本書も明快的本 一覧見合たく候
急ぐ事にもあらず よろしく御取り計らいなされ候 草々頓首
中秋後三日
〔牧〕善助様 襄 吉冶どのにも御覧
福井近江之介 福井晋 医家 篤学にして詩文を善くする
〔~嘉永二年没六十七〕
山谷刀筆 山谷老人刀筆20巻 編著者 宋の黄庭堅 黄山谷
刀筆 古代中国で竹簡に字を書くために用いた筆と誤記を
削るために用いた小刀 転じて筆 記録
鈔録 抜書き
吉冶 山陽先生手簡巻一の尾文中 京都の書舗積書館吉冶氏
とある。この人か。
2016・1・26
「潤筆 残りの酒一挺」
第1集の4通目の手紙
知人の原老柳を介して伊丹の酒造家から揮毫をもとめられた。その際、潤筆料の二樽のうち一樽を酒造家のところに留め置いておいた。それを送ってほしいと原老柳に依頼するの手紙。文政8年11月5日、山陽46歳。
妻子をダシに京の酒のまずさを訴える、なるほど、人にものを頼むときはこんなふうに書くのか。「ピンとしたる酒」という表現もさすがにうまい。
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大意
西帰の時、西宮から手紙をだし、篠崎(小竹)にことづけを頼みましたが、届きましたでしょうか。その後、ご清安にお過ごしでしょうか。お伺いいたします。
潤筆料としていただいた二樽のうちの残しておいた一樽を急ぎお送りください。家には酒、もろみ一滴もなく、一日一日と 切望いたしております。
氷梅でもなんでも、ぴんとした酒ならよろしくお願いいたします
尼崎より舟を買い 大坂に到る
風顫蘆花乱櫓声 風は蘆花を顫(ふる)わせ 櫓声乱る
一支寒水半時程 一支の寒水 半時の程
忽然転柁大江口 忽然 柁を転ず 大江の口
舟傍萬檣林下行 舟は萬檣林下に傍いて行く
京に入り竹田街道にて
初陽満店煮茶馨 初陽 店に満ち 茶を煮るの馨
魚擔牛車相雑行 魚擔 牛車 相雑(まじ)りて行く
明識長安居不易 明らかに識る 長安 居易からじと
白楽天故事
念家亦有喜帰情 家を念(おも)い 亦た帰るを喜ぶの情有り
家字指妻子
妻子あればこそ、帰る心になるというもの。京は酒は悪いし、肴は高い。酒はあなたの伊丹がある。
とにかく酒をお待ちいたしております。
十一月五日 襄頓首
佐一郎様 桐下
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原文は以下の通り。
西帰の時 西宮ゟ一書差出候 大坂に帰り候て 篠崎に事伝て頼み申し候 相達し候や その後御佳安御座候や 承りたく存じ奉り候 潤筆の残尊一丁 何卒 急々御越下れたく 家に帰り軟脚醅一滴これ無く 渇遅の至りに御座候
一日一日と相待ち居り候 氷梅にても何にてもよろしく ピントシタル酒なればよろしく急々希い奉り候
妻子あればこそ さもなければ 酒は悪し肴は高し帰る心はこれなく候
酒は貴兄ゆへ伊丹あり 頼(さいわいに)これ有るのみ 兎角 酒をまち奉り候
妻子あれハこ楚 さもなければ 酒ハ悪し肴ハ高し帰る心ハ無之候 酒は貴兄ゆへ伊丹あ里 頼有此耳
十一月五日 襄頓首
兎角 酒緒奉竢候
佐一郎様
原 老柳 原佐一郎 蘭方医 1783~1854学の洪庵か、術の
老柳といわれた
軟脚醅 軟脚 酒の異名 醅 もろみざけ
大江口 淀川入り口
檣林 マストの林立する様
白楽天故事 号 白居易
桐下 机下
2016・1・21
「暴風雨に庭無事」
第1集の3通目の手紙
弟子の後藤松陰(字は世張
大坂在住)宛て。文政4年8月9日、山陽42歳
贋作の多い手紙。
暴風雨を光武昆陽の戦いよりひどいと例えた。朝顔のまがきは倒れたが、樹竹は無事といい、園芸好きがうかがわれる。韻府相場など気にしているのも山陽らしい。追伸に師としての助言が綴られる。
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大意
八月四日の夜、暴風雨に見舞われ、屋根瓦も皆とび、光武昆陽の戦いでさえこれほどではあるまいと思われます。我が家も上からは漏れ、下からは湿りで、琴書類ことごとくぬれるという有様です。そんななか樹竹は無事で、朝顔のまがきだけが倒れました。
朝顔はまがきにのび 翠葉も巻き付いて打ち重なっている
昨夜の風にあい倒れた花も 地にふしたまま開いている
大坂はいかがですか。ご様子おうかがいいたします
○佩文韻府 京都では悪本でも二両二分(約十五万円)とか。大坂もそのぐらいか、お調べください
○伊丹の菊という印の酒。きき酒の小樽を原氏から送ってもらうよう、またまた小竹兄の手をわずらわせますが お取り計らい宜しくお願いします。なにかと慙愧のいたりです。
八月九日 襄
世張賢契
今日から文会へでられてはどうですか。本を教えたり、酒を飲む
だけで月日がすぎるのもどんなものでしょう。
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原文は以下の通り
四日之夜 大風甚雨 屋瓦皆飛 光武昆陽之戦之時不過之と存候 僕僑居 上漏下湿 琴書皆其失所庇 独新築園中 樹竹皆無恙 但牽牛籬倒耳
牽牛恣意上籬来 狂夢争高乱翠堆
昨夜被風吹倒了 房々向地俯還開
大阪如何御座候や 御見舞旁発此書候
○先便韻府約変(佩文韻府)之事 京二て悪本二て二両二分と申様の事 大阪も左様二候ャ何卒お志らべ可被下候
○紙屋本家 菊と申印之酒キ々酒 子樽 何卒御越被下候様 原氏へ被仰遣下度 是又小竹兄へ煩置申候 宜敷御勾当 萬々奉願候 玉緑 実入多く 段々おもき緒覚申候 是非常飲之酒也 此二件 早々御答待居候 口腹煩人 終二無時已慙愧之至り 草々不具 八月九日 襄 世張賢契
今日より文会江出申し候ては如何 唯々本緒教ると 酒緒飲と二て 月
日緒過も可惜候
光武昆陽の戦い 中国前後漢交代期に劉秀と王莽が河南省で行った戦い
昆陽城に立てこもった劉秀が40万の王莽の軍を8千余りの
兵で破った
僑居 かりずまい
勾当 こまごま用事をする事
原氏 老柳 佐一郎 医学者蘭医 学の緒方洪庵か術の原かと呼ばれる
2015・12・19 石村良子代表「頼山陽の骨董好きは有名」
頼山陽の骨董好きは有名な話で 頼山陽書簡集にも 九州旅行の道中で得た金はすべて 物に変えて帰ると月峰老上人に書き送っている 春琴が座していい物を獲てないか300里のさきから気がせくなどいかにも山陽らしい
当時の物とは今で言う唐物で陶芸家青木木米などは唐物写しの名手とされ もてはやされていた これは贋物作りとはいわないし 写しは中国伝来の文化で 褒められこそすれの伝統(今に続く仿の文化)
春水も大坂時代3年も古書画の鑑賞写しに費やしたようなことが書いてあった 留学費用なども 人から借りた本を写さしてもらう際 2冊写し1冊を売って 稼いだということを頼先生より聞いたことがあり 本物の軸が手に入らない時代 善意の贋作と言うと変だけど 贋作にも内容は色々ある
2015・12・14 石村良子代表「呉市の二人の頼山陽」
戦前、広島県呉市には三城(地名)の頼山陽 阿賀(地名)の頼山陽という有名な贋作師がいたと骨董屋から聞いた 狭い呉市でそれだから 全国ではその数おもいやられると是も骨董屋の話
書道の手本が いつの間にか 蔵で本物に変わったり 事情は色々だが 手紙は 印章が要らないので作りやすかったといえる
贋作は求める人の都合の良いような宛名にしたり 書きにくい尚々がき(追伸にあたり 行と行の間に小さく書く)が 省略してあったりとかの解りやすいのから 頼先生いわく 本物よりうまく見えるのから 色々だ
次回 紹介するのは 戦前の贋作率を誇る? 人気手紙 字が書ける人の多い時代は ちょっと事情が違うのだろうか
2015・12・14
「詩会の誘い」
第1集の2通目の手紙。
文政11年12月10日、49歳歳の頼山陽が香川春村宅の詩会につき、弟子の牧百峰へ宛てた手紙。
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大意
今日、岡崎の香川春村から詩会に誘いがあり、末広雲華にも伝えてほしいと頼まれたが、雲華を誘いに行くのに適当な人がいません。あなた(百峰)が請合ってくれれば先方も喜ぶはずです。雲華が別の会があって差し支えるようなら、門田朴斎へ詩会に参加するように、(あなたに仕える?)初蔵を遣わしてくれればよい。初蔵が差し支えるようなら、私が百峰のところに遣わした者を遣ってくれればよいが、なるべく初蔵に行かせ、自分が遣わした者は返して欲しい。詩会は午後2時からだそうです。昨日、自分勝手を申し上げたが、何卒よろしくお取り計らいください。
尚 明日夕がた、矢田部があなたを誘って来てくれというので、万障繰り合わせて行く様にしてください。浦上春琴も来るでしょう。
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趣旨…香川春村宅の詩会に、末広雲華を誘い 欠席ならば門田朴斎へ知らせてくれ。午後2時からの詩会に、午前中の誘いの手紙。
原文は以下の通り
今日岡崎春村方詩会を致し 来てくれと申す事 大含へも云てやれと申し
候へ共 人無く 何卒老友跡を挙げ遣わされ候ハバ 先方喜び申すべく候
或る会合にて差し支えなどと云う事なれば堯佐へ 初蔵にても仰せ遣わせ
下さるべく候 初蔵差し支えなれば 直ちに此者遣わされ下さるべく候
願は此人は御返 初蔵足労させ下さるべくや 八(午後二時)過ぎ頃よりと
云う事也 昨日御託の事は 何卒煩い奉り候 尚々 明後日夕 矢田部へ参り候 公へも申し遣りくれと申し居り候 御繰り合わせ御出成さるべくや 春琴参るべく候 十二月十日 襄 頓首 贑斎老友
春村 香川景嗣 歌人 号春村 梅月堂
香川景柄の養子香川景樹が一家をなした後景柄の養子に
大含 末広雲華
堯佐 門田朴斎
初蔵と矢田部は不詳
2015・12・7
1通目「荻生徂徠の書は贋作」
さて第1集の1通目の手紙である。
50歳の頼山陽は伊丹の剣菱醸造元の坂上桐陰から飛脚がきて、荻生徂徠の書の鑑定を頼まれた。
その返事である。以下は訳というより、大意とお考えください。
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飛脚がきて、三幅の荻生徂徠の鑑定を頼まれたので、東山の大文字焼きの燈下、鵲を飲み、すでに酩酊しているところですが、眺めております。
対の二幅は明人の詩二句で、一見、みごとに見えますが、合点いかないところがあります。絹を使って書くというようなことは徂徠の時代はありません。もう一幅の絶句も贋物です。三国山の一斗の価値もありません。買うのは止めになさるように。
というようなことをいい、飛脚に飯を食わせるうち、大雷雨になりました。
なお鵲は無事に着いており、最近、樽の口を開けました。これは七夕仕様で、七星と同じものかと思いますが。
ところで江戸から来た大窪詩仏はどうしていますか? さぞ大酒を飲んだことでしょう。まず私のところに立ち寄りましたが、「仏」が迷い苦しみから救ってくれるだろうと、そちらに差し向けました。
明日、野呂介石の画帳お届けします。さぞよい詩ができることでしょう。
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趣旨…荻生徂徠の時代に絖(絹織物)へ字を揮毫することはなかった。絶句の一幅も「三国山一斗の値打ちも」ないと七月十六夜、大文字の燃え盛るのを眺めつつ「鵲」の酔心地にそれを贋物と鑑定した。
頼山陽はよく鑑定を頼まれたらしい。すでに酒を飲み、燈火のもとで鑑定をしていると念を押しているのは、山陽流の「抜け道」だろう。甘ん坊のようだ。桐陰は酒もあまり飲まず、真面目な人だったのではないか。
原文は以の通り。
御飛脚下され 徂徠先生の書三幅 鑑定仕り候様仰せ下さり 只今大文字燈を観 鵲を数杯傾け 既酔候ところにて 燈下にて一歴仕り候 聯は明人の詩二句にて その下に二字宛てよめぬ事これ有り 見事に見へ候へども 合點参らざるものに候 且つ徂徠の時 ぬめ地などに書を致し候ことなどは これなく候 絶句一首も 一向贋物と相見へ候 御買い上げは 御無用になさるべく候 三国山一斗の値打ちもこれなく候 と申す内に 飛脚に空腹補の蔬飯を食わせ候ところに大雷雨 少々は隙取り候事もこれ有るべく候 草々頓首 大文字の夜
尚々 此の間の鵲 恙無く着 是は七夕お仕立てやと存じ奉り候 至極佳醞 大いに相楽しみ候 一昨夕着 昨今 口開け申し候 (大窪)詩佛如何 さぞ飲まられ候事と存じ候 よろしくお伝え下さるべく候 酒の世界へ影向佛を この方より済度候事と存じ奉り候 明日(野呂)介石画帳下し申すべく候 酒世界の好詩有るべくと存じ候 獨柳園主 襄
坂上桐陰 長古堂主人 伊丹剣菱醸造元
三国山 鵲 共に酒の銘柄。七夕の夜、牽牛織女が天の川にかかる鵲
の橋を渡って会うという故事
蔬飯 粗飯
大文字燈 盆に帰ってきた死者の魂を再びあの世へ送り出す送り火
大窪詩佛 漢詩人 常陸の人
済度 菩薩が苦しみや困難から救うこと
この手紙頼の読み下し文 頼山陽書簡集下巻p122
2015・12・2
頼山陽の手紙を読みます。
手紙の名手といわれた頼山陽。その書簡を集めたのが「頼山陽先生手簡」(左写真)
この中には5集にわたって頼山陽の書簡が収められている。
嘉永2年発行。ペリー来航の4年前。教科書的にいえば、江戸後期に出さされたものが、譲渡され、大正2年、東京、大阪の書店が版元となって出版されたようだ。写真は大正2年発行。
ここからは石村代表の解説です。
第1集の冒頭に書かれた「桂林一枝 贑斎主人題(牧百峰)」とは人品の清貴で凡俗でないたとえ。ここでは山陽のことを指す。牧百峰は美濃の人で、山陽の弟子。
広島市の旧日銀ビルで月2回開かれている古文書教室で「頼山陽手簡一から五」を読むことになりました。
手紙のよみくだし文は「頼山陽書簡集」上下、「頼山陽全書」に載っており、山陽の手紙は上記と続だけでも1300通あまり残っています。
これだけ残っているだけでも 山陽のすごさが推し量られますが、いかにパソコンでも全部はとても載っていません。今や図書館、研究者の書斎にしか山陽の書簡の面白さを味わえるものがないということから「頼山陽ネットワーク」の皆様に頼山陽手簡集の第1集から順に、習ったままにご紹介してまいります。
「頼山陽手簡集」は 嘉永2年、山陽没後18年に発刊された山陽の手紙そのままの木版版で、手紙数は約30通あまりあり、これにより山陽の偽手紙が輩出されたといういわく付の手簡集です。とくに2通目は偽数ナンバー1だそうです。
次回から順次ご紹介します。
2015・11・13 「離毛転生」の境地
11月10日の「旅猿ツアー」は頼山陽ネットワーク顧問の頼祺一先生を筆頭に40名の旅でした。
柳井の室やで頼先生の講演があり、亨翁(山陽のおじいさん)は春水(山陽の父)が広島藩に仕官するのに大反対だったという内容でした。
ここで、亨翁が旅日記に書いていた「毛を離れ 生をてんじて 有りながら これぞおいぬ(犬)の ひょうひょうという」という狂歌の意味がやっとわかりました。
人間に生まれ変わりながら世俗を離れ、飄々と暮らす、仕官などして窮屈に暮らすより自由を愛し、自然に親しむ暮らしに満足した亨翁の姿は、孫の山陽に受け継がれたのかな、と思える今回の旅でした
ミニ知識
頼亨翁が戌年なら面白いと思ったのですが、残念ながら、亨翁の生まれた宝永4年(1707)は亥年。宝永3年なら戌年でした。
春水は寅年、山陽は子年の生まれです。 (見延)