2022年3月以降に寄せられた頼山陽の史跡、詩碑情報です。それ以前は『頼山陽史跡 詩碑めぐり』に収録されています。

2022・9・19

久保寺辰彦さん⇒肥本栄輔さん

「書かれた内容の素晴らしさ」

 

肥本英輔さんへ

返信が遅れて申し訳ありません。

私は素人で知識や経験もないのでご参考程度に聞き流して下さい。

頼山陽の書は山陽が生きた当時から人気があり、書のお手本として多くの人が書いていました。その結果、


本人以外の書が山陽の書として数多く出回っているのも事実だと思います。私が今までの少ない経験から思うのは、真筆でないと思う書でも書いてある内容は、ほとんど山陽が書いたものであるということです。忠実に真似ようとすれば、するほどそうなるのは考えてみれば当たり前ですね。

ですから、たとえ真筆ではないとしても、その書かれた内容の素晴らしさは変わらないと思います。

参考までに、前回の図録から別の書に押印された「頼氏子成」印を添付します。

 

2022・9・17  肥本英輔さん「違いがよくわかりました」

 

落款の拡大写真、よおくみると違いがよくわかりました。

大変お手数おかけしてしまいました。

今回はいい勉強になりましたので、改めて当時のことを調べてみたいと思います。何か新しいことが発見できましたらご報告いたします。

ありがとうございました。

 

2022・9・16

肥本英輔さん ⇒ 久保寺辰彦さん「もう一度みていただきご教示を」

 

久保寺辰彦氏のコメント拝見いたしました。さすがにご見識のある方に見ていただき光栄です。画像がはっきりしないとのことでしたので、より鮮明な写真を送ります。

当方はまったくの素人なので恥ずかしいのですが、子成の印影に違いがよくわかりませんでした。できれば久保寺氏にもう一度見ていただきご教示いただければありがたいのですが…

(鑑定していただくつもりはありませんので、もし失礼な内容であれば無視してください。万が一、真筆の可能性があればとても興味深いと思ったものですから)

    肱黒家の軸

   『頼山陽と九州』から


※肥本さん、久保寺さんから送られてきた画像の拡大縮小、切りとりなどは事務局が行なっております。

 

2022・9・15  久保寺辰彦さん ⇒ 肥本英輔さん

「落款の文字より『頼氏子成』印の方が・・・」

 

右下の画像は頼山陽史跡資料館の平成30年度企画展の図録『頼山陽と九州』から抜粋したものです。文政元年10月、九州を遊歴中の書ですが、比較してどうでしょう。私は落款の文字より「頼氏子成」印の方が気になります。画像が不鮮明だったため判別はできませんが、違うような気もします。

      肱黒家の軸

   『頼山陽と九州』から


2022・9・13 肥本英輔さん「山陽が松島の弟子に送ってきた軸」

                      ⇔ 見延典子

 

見延先生の「日本外史」北条氏の訳文とても読みやすくて面白かったです。まさかこんな面白いものとは思っておりませんでした。

 

さて、山陽が肥薩国境の野間の関所を超えた日、松島家に立ち寄った際に書いた書軸の件ですが(本欄7月~8月参照)、その後、松島の弟子の肱黒三省にも軸が送られてきたようです(添付写真)。薩摩で詠んだ詩がたくさん書かれていて驚いたのですが、やや乱雑な書体なので、何か理由があるのでしょうか。落款は本物のように思うのですが。

肥本英輔さんへ

 軸の内容は確認しないまま申し上げるのは失礼かと思いますが、「賴」の字が真筆とは異なる気が致します。いかがでしょうか。

                        見延典子

 画像落款部分

 

文化11年 35歳

 

参照/賴山陽遺墨選

(右も同じ)

文政10年 48歳


2022・8・14

見延典子 ⇒ 石村良子代表

「頼山陽の柳」

 

 神辺まで行かれたのですね。

 頼山陽が植えた柳のことは、『頼山陽史跡詩碑めぐり』に載せ、私も確認に行きたいと思っていました。

今は残っていないそうで残念です。

 

 山陽が植ゑし村舎の大柳 典鳥

 

右/『頼山陽史跡詩碑めぐり』掲載。

山陽は在塾中、門前に柳を手植えしたことを1914年(文化11)8月「過廉塾。村舎門前柳樹 是余曽栽者」と回顧し、漢詩に詠んでいる。

 

   上/頼山陽が描いた柳の絵。

   菅茶山顕彰会ホームページより


菅茶山は陶淵明の故事にならい、五柳先生を自認し、池の周囲に五本の柳を植えていたというが、その柳が現存しているかどうかです。

お話を聞くと、鵜野様がボランティアを始めた2001年ごろにはたしかに5本の柳があったそうですが、次第に枯れ、2006年に最後の1本から鵜野様が接ぎ木し、幸いなことにその1本が大きく育ったのが、現在のこる柳ということでした。山陽が手植えしたという門のところの柳はありませんでした。

 茶山饅頭、五柳饅頭
 茶山饅頭、五柳饅頭

2022・8・13

石村良子代表「神辺 菅茶山旧跡

   

現在頼山陽史跡史料館古文書教室では茶山より頼春水への手紙を勉強しております。

夏休み、神辺菅茶山旧跡に行ってまいりました。只今改装中で完成は10年後だそうです

菅茶山顕彰会の前会長鵜野様が偶然当番でボランティア詰め所におられ説明を聞くことが出来ました。

「頼山陽史跡詩碑めぐり」本を書いた後ですが、気になって確認したいことが有りました

茶山の親友頼春水も、伝陶淵明作の詩の一節「冬嶺孤松秀ず」から書斎を「嶺松蘆」となずけたと云事で

2人の陶淵明への接近の違いにそれぞれの性格を感じております。

  事務局注/『頼山陽史跡詩碑めぐ 

   り』に山陽が描いた廉塾の門脇、

   柳の絵が掲載されています。

 


2022・8・10 近砂敦さん(大分県中津市)→ 見延典子

「頼山陽、日田で詠んだ漢詩」

 

『日田名所之栞』 大正5年発行 (筑後鉄道開通に際して)

掲載されている頼山陽の漢詩とし下記の漢詩が載っていました。

 

訪廣瀬簾卿   (広瀬淡窓の咸宜園の紹介にて)

訪唔聲處認柴門   村塾新開松竹間

斗折蛇行臨筑水   竹枇馬耳見豊山

羨君白首比間住   愧我青鞋何日閑

且喜一尊共醒酔   細論詩律手頻〇

 

隈川舟遊  (三隈川の遊舟紹介にて)

山護溪村風力微   擇晴酢艋沂輕漪

抔深處忽忘交浅   灘速時尤覚棹遅

趁暮沙橋歸犢子   避寒石筍聚魚兒

天涯遊倦歸心急   佳境還〇逐隊嬉

 

細論詩律手頻〇は开の横に刑の文字です。佳境還〇逐隊嬉の〇は為と思いますが、よくわかりません。私にとって初見ですのでご報告いたします。

 

近砂敦さんへ

『頼山陽全書』の「詩集」両詩が掲載されていました。下の写真ご参照。

赤は旧字も含めて、全伝に掲載されていたものです。急いで写したので、ミスがあるかもしれません。

                      見延典子

訪廣瀬簾卿   11月8日

唔聲處認柴   村塾新開松竹間

斗折蛇行臨筑水   竹枇馬耳見

羨君白首比間住   愧我鞋何日閑

且喜一尊共醒醉   細論詩律手頻

 

泛舟前渓

山護溪村風力微   擇輕漪

深處忽忘交   灘速時尤

趁暮沙橋歸犢子   避寒石筍聚魚兒

天涯遊倦歸心急   佳境還逐隊嬉

 

2022・8・8 本英輔さん「私の想像」 ⇒ 見延典子

 

いつもご指導いただき、誠にありがとうございます。

 

確かに先生のお見立てのとおり、箕山は出水でも聞き取りを行い、その際に松島道益の子孫からおもしろい逸話を聞いて、そのまま事実として記載したのかもしれないですね。

私が疑問に思ったのは、深水春山の紹介で訪ねたのだから当然山陽は儒者であり、高名な春水の息子だと松島たちは分かっていたはず、ということです。飽くまで想像ですが、田舎者の出水郷士たちはだれも青貝鞘のしゃれた矢立は見たことがなく、山陽が席を立った折に、これは何だろうかと門弟たちが大いに興味を持ったのではないかと。それで話が盛り上がって一気に何枚も書いてもらうことに。で、山陽先生はとんでもないところに来てしまったなと。

 なお全伝によると、松島家を訪ねた日に深水春山に「帰路立ち寄るので揮毫の客を手当てしておいてほしい」という趣旨の手紙を送っているようですね。言葉もわかりにくい松島家の異様な雰囲気をみて、鹿児島で稼ぐのは相当厳しいと感じたのではないでしょうか。

以上、勝手なことを縷々書いてしまいましたが、ご容赦ください。

 

 

2022・8・6 見延典子⇒肥本英輔さん

「初出は、大正4年発行、坂本箕山著『頼山陽大観』か

 頼山陽の、御地出水でのエピソードは、同じものが鹿児島市立西郷南州顕彰館発行の冊子(左の写真)にも載っています(下の写真)

 このエピソードの初では、今のところ大正4年発行、坂本箕山著『頼山陽大観』です。あるいはもっと古い掲載誌があるかもしれません。

 想像ですが、箕山がまったくの作り話を書いたとは思えず、当時の松島家に伝わっている話をそのままかいたのではないでしょうか。『頼山陽大観』以前に掲載された場合も、同様のことが推測されます。

 ちなみに山陽があとで書くと約束した書は、結局、書かれなかったようです。


 それと、昨日掲載した境川の写真の、左側に説明板が建っていますが、そこに山陽の名と詩が記されていることがわかりました(下の写真)

 肥本さんからの情報がもう少しはやければ『頼山陽史跡詩碑めぐり』の「野間の関」のところに載せられたのに、残念です。

 見延は数年前、オレンジ鉄道に揺られて米ノ津も訪ねていますので、境橋の説明板をスルーしてしまったことが悔やまれます。

 『頼山陽史跡詩碑めぐり』を刊行してまだ日も浅いのに、掲載すべき山陽関係の史跡が、他にも見つかっています。これらもまとめ、いずれ補充版として形に残せれば、と思っています。気が早いことですが(笑)

 引き続き頼山陽の史跡、詩碑の発掘作業は続けて参ります。これをご覧の皆様にはご協力のほど、よろしくお願い申しあげます。

                         見延典子

 

2022・8・5 肥本英輔さん 「薩摩人はやりそうもない話」

 

松島家に関して著名な方々がご執筆いただいていることをご紹介いただき、誠にありがとうございました。早速県立図書館に出向いて原著に当たることができました。

 

なお『出水郷土史』をよくみると、「坂本辰之助著『頼山陽』より」と注記がありまして、先生が紹介された坂本箕山と同一人物だとわかりました。

肥後と薩摩の境界を流れる堺川に架かる堺橋は明治につくられた。山陽は橋の下に流れる川を歩いて渡り、肥後から薩摩に入った。

      写真はネットより


 実は、この郷土史を執筆した人は博学だったのですが、20年ほど前に高齢でリタイアされ、お恥かしい話ですが、その後はだれも継承する人がなく、今回の掛軸も埋もれたままになっていました。今後は市の文化財(歴史史料)として大切にしていければと考えています。

 ところで、頼襄の署名を見ると、かなり雑な筆跡なので真筆か不安でしたが、酒を片手に急いで書いたとすれば納得できるような気がしてきました。ただ、坂本箕山が言うような、山陽が厠に立ったすきに刀を抜いてみるというようなお行儀の悪いまねはいくら粗野な薩摩人でもやりそうにありませんが、どうなんでしょうか。

 

2022・8・1 肥本英輔さんへ

見延典子「鹿児島県出水市の松島家について」

 

 鹿児島県出水市の松島家については『頼山陽全伝』にも載っていますが、坂本箕山の『頼山陽』と光本鳳伏『山陽先生の幽光』が長文でとりあげ、内容はほとんど同じです。


  それによれば、頼山陽は水俣の郷士徳富富太蔵の家に宿り、分家徳富鶴眠(蘇峰の祖父)と語りあったあと、薩摩にむけて出立。

 国堺を越えるころ雨がふりだし、泥まみれになりながら出水口の関所についたが、役人が通行を許さない。仕方なく茅屋を頼んで泊まった。(『全伝』では9月7日)

 

 明くる日、米ノ津に至り、津奈木の深見春山の弟子で、医師の松島道益(通称は喜左衛門)を訪ねた。道益は歓待しようとしたが、山陽は先を急ぐからと草鞋をはいたまま縁側に腰腰けて話した(『全伝』では朝食を供したことになっている)。やがて山陽は厠にいき、その間弟子たちが山陽のもっていた青貝鞘の佩刀の鞘をはらってみれば、中には墨と筆が入っている。それで文墨の人とわかり、イモ焼酎を饗して揮毫を求めた。

 

一陽平分両国雨、南為薩州北肥州、看他瀾水独無属、日夜潺湲随意流

 

 これは「過肥薩界」の推敲前という。

 主人のために二、三幅を書し、門生には「酔っているから、帰路書いて進ぜよう。紙に裏打ちしておかれよ」といって去ったという。

 

2022・7・30  

肥本英輔さん「鹿児島県出水市、松島家に伝わる頼山陽の書軸2本」

                     ⇔ 見延典子

先日初めて、松島家を訪問した際に撮影させていただいた写真をおくります。ホームページでの公開の許可を得ています。『出水郷土史』(p708)に紹介されています。真贋は不明で、所蔵者も望んでいません。


写真左の軸は、頼山陽が来鹿当日に揮毫したと伝わるもの。

右の軸は(大口から亀嶺峠を超えて)水俣に着いた際に送ってくれたものと伝わっているようです。「(これから冬になるので)雁は南に向かうが、私は北に帰る…」という哀惜の情を詠んだ詩かと。

 

  肥本英輔さん

    ありがとうございます。

    松島家訪問の件は、頼山陽関係の本にも掲載されていました。

    次回、お知らせします。

                      見延典子

2022・7・29

   ヒモトエイスケさん「鹿児島県出水市にある頼山陽の軸2本」

                    ⇔  見延典子

 

  初めまして。鹿児島県出水市(米ノ津)にも頼山陽が関所通過後に立ち寄り、書を2軸書いてもらった儒医がいます。一つは「一陽平らかに分かつ両国の秋」という軽快な詩ですが、ご存知でしょうか。

 肥後と薩摩の境に流れる川はどちらにもつかず自由に流れているという山陽さんの生き方美学を暗示するようないい詩ではないかと考えています。鑑定はされないとのことですが、この儒医のご子孫の方も鑑定は希望されていませんので、残念ながら真贋は不明です。

 ただ、見延先生のご著書を拝読して、当時の出水では儒医として羽振りの良かったご先祖さんも、それなりの寸志を渡した可能性が高いと思いました。それなら本物だろうと期待が持てますが。もしこの軸にご興味お持ちいただけるようでしたら、ご返事いただければ幸いです。

 

 ヒモトエイスケさんへ

  ご連絡の書軸に関しては未確認です。

  もう少し詳しく教えてくださいますよう、お願い致します。

                         見延典子

 

2022・7・14

山根兼昭さん「やまと絵師

田中朴訥言継承者・森村適高絵師」

 

田中訥言(17671823年)は平安王朝に隆盛を極めた「やまと絵」を手本に日本独自の絵画を発展させました。

181311月、頼山陽が尾張有松を訪問した際、案内役の小林香雪は名古屋本町の豪商・岡谷惣助宅で、制作中の田中訥言を紹介しました。以来二人の交友は続き京の自宅で歓待したり、訥言の作品に画賛も書いております。

 

自作のやまと絵をバックに森村宜高絵師。森村記念館にて、

このやまと絵は、弟子の宇喜多一蕙から明治になり、森村宜稲、宜永、森村宜高(よしたか)と現在に受け継がれております。

宜高先生も、平素頼山陽には関心を持たれ、今回の「頼山陽史跡詩碑めぐり」も大変喜んで下さいました。

 

左の写真 

田中訥言が岡谷惣助から依頼された「百花百草図屏風」、徳川美術館所蔵(重要文化財)

 

 

 


2022・6・19

大石鐵蔵さん「湯島の聖堂」

 

50年ぶりに湯島の聖堂を訪問、もう巨大ビルディングの中でした。

問題山積のこの現代を林羅山はなんと思うか。指導者しかりやってもらいたいです。

 

半世紀ぶりに訪問した湯島の聖堂
半世紀ぶりに訪問した湯島の聖堂

2022・3・7 匿名さん「頼山陽の墓 裏面」

 

2019年、京都の長楽寺にお墓参りをさせて頂きました。
心残りはお花を供えることを忘れて・・・悔やまれます。

知らない数名の方々と立ち話をしたことを懐かしく思い出しています。

 

その時の拙い写真を添付させて頂きます。

 

   長楽寺にある頼山陽の墓の写真は多数いただいておりますが、

   裏面を写したものは初めてなので、ご紹介します。

                        事務局