広江殿峰宅址(下関市)
 広江殿峰宅址(下関市)

2017・2・13

なぜ? が消えない

 

「広江殿峰の石碑が破棄された」という中津のオッサンからの報告は衝撃的だった。谷口匡さんが書かれた「頼山陽と下関の商人広江殿峰」のに、山陽が書いた碑文が掲載されている。謹んで転載する。

(問題があれば削除致します)


口語訳を一読するだけで、殿峰の人となりがわかり、山陽の殿峰への深い哀悼の意が伝わてくる。だからこそ、殿峰の子秋水も全文を掲載したいと思い、2メートルの石碑になったのであろう。

 

石碑の所有者は誰だったのだろうか。中津のオッサンによれば某寺という。子孫が途絶えて〃お荷物〃になり、破棄したのだろうか。

 

なぜ? が消えない。

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

「広江殿峰翁墓碣」 頼山陽

 

赤馬關當西道襟喉、海陸商旅所輻湊。而廣江翁猫以風流知名海内。凡載筆豪研而東西行者、自単一技以上、莫不館於翁。余意翁特自導者耳。及西遊、往来主翁家、戦後知向淺視之也。翁運営容衆、畑中有所竪別。家不甚富、而憐才気能、郎其窮困。其自奉朴素、日日粗布蔽膝、篠奴僕理事。事誤諏抵客室、談笑慮酬、客安之。留滞動渉旬月、而隠妻學亦不之厭也。余聞異本以孝蒙其藩雌羊。事理享和筆画云。蓋其仰事傭育、備有條理、本之以下、施及腰游、無煙奮、皆業事歓心。世學者往往以文五行爲二途、甚至以好事慶務敗産。聞翁之風、寧能無偲。余與翁別三年、而得翁言卜。實文政壬午九月六日。享年六十七。葬邑興暉寺。翁諦爲盛、字文旦、號殿峰、通稽吉右衛門。配三輪氏生三男一女。長男爲禎仲爲尚皆先死。季鐘。女適邑中野某。又一女妾出在家。章章學、従余游。今爲嗣以書來請日、葦子在時毎言、忍所一人遍天下、晩乃得識馬櫛。則先生碑銘其墓 。翁多技能、善書、多三章者。浜弓刻印、公卿侯伯徴其侭雛。世多知者、故不著。著其尤翠黛人不及知者。遂銘之日、翁無二書月一藻。二品楽観翁座間、四方文翰与米塩之籍、委如魚鱗、了有次第。拮据昏農、人下之敏、余服其篤所以能早引衆。況於骨肉。展此度者、不壼乃子孫。余知人過關者、必拝且泰
然也。 友人藝國頼裏撰井書。孤子鐘建。

 (口語訳)
 下関は九州に通ずる要所に位置し、海と陸の商人や旅人が集まってくる所である。そして広江翁は風流という一点によってその名を全国に知られている。筆や硯を携えて東西を旅する人で、一芸に秀でた者なら、翁の家を宿としたことのない人はいない。私は翁はただそれで得意がっていたのだと思っていた。しかし西方に旅をし、その行き帰りに、翁の家に泊まるに及んで、これまで翁を見損なっていたことがわかった。翁は大勢の人々を受け入れてはいたが、ちゃんとそれは弁別されたものだったのである。家が大して裕福なわけではないのに、才能ある者を惜しみ、能力ある者を励まし、彼らの貧困に対して援助した。自分の生活に関しては質素であって、いつも粗末な布の前垂れをつけ、奴僕に交じって仕事に従事した。仕事が終わると客が泊まっている部屋に行って、談笑して客をもてなし、客はそれに満足した。客の滞在はしばしば1か月に及んだが、その妻や子もそれを嫌がらなかった。私は翁が以前、孝行によって藩から表彰されたと聞いている。それは、享和3年のことだという。思うにその父母に仕え、妻
子を養うやり方が、行き届いて筋が通っており、その根本が真心から出ていて、それがついには交遊にも及び、新知と旧知とを問わず、人々から喜ばれたからであろう。世間の学者は、往々にして文学芸術と仕事とが別々の道であると考えている。物好きが高じた結果、仕事を怠って破産するに至ることさえある。そうした人たちは翁の様子を聞けば恥じないことがあろうか。私は翁と別れて3年経ってから、翁の計報に接した。文政5年9月6日のことである。享年67歳。村の興禅寺に埋葬した。翁は、本名を為盛、字を即智といい、殿峰と号し、通称を吉右衛門といった。妻の三輪氏は、三男一女を生んだ。長男の為禎と次男の為尚は、いずれも翁より先に亡くなった。末子は鐘という。娘は村の中野なにがしに嫁ぎ、もう1人の娘はめかけ腹で、家にいた。鐘は、学問を好み、私の塾に遊学した。今、後継ぎとなって、手紙を携えてやってきて、「亡父が生きていた時、私が交わった人は全国各地に及んでいるが、あとになって国君と知り合いになれた。よって先生がその墓に文章を書かれるのがふさわしいといつも申してい
ました」と依頼した。翁は多芸であって、画がうまく、翁について学ぶ者が大勢いた。また印刻に長じ、公家や大名から象刻を求められた。こうしたことは世間によく知られているので記さない。最も重要で、人に知られていない事柄を記しておく。かくて銘に言う、「翁の生前、手紙は月に1度さた。よって思い出す、翁の居間を見ると、全国からの書簡と、日々の帳簿とが、魚の鱗のように彩しく積まれていたが、ちゃんと順番になっていたことを。朝から晩まで辛苦して働き、人はそれを勤勉だと言い、私はその誠実さに敬服する。だから人々の面倒をよく見られたのだ。肉親に対しては言うまでもない。この墓に参るのは、あなたの子孫だけではない。下関を通る者は、必ずあなたの墓に参拝して暫しはらはらと涙を流すだろう」。友人である、安芸国の、賎称が文を作り、かつこれを書く。父を失った子の鐘がこの墓碣を建てる。

 

破棄された広瀬殿峰の石碑。頼山陽が墓碑銘と碑文を書く。高さ2メートルあった。
破棄された広瀬殿峰の石碑。頼山陽が墓碑銘と碑文を書く。高さ2メートルあった。

写真は下関美術館「研究紀要6」から転載

2017・2・11

怒髪衝天の中津のオッサン

続・下関探訪報告記

「広江殿峰の石碑が破棄された!」

 

1月の下関探訪でどうして気になったのが「広江殿峰の石碑」です。

広江殿峰について少し紹介しますと

1756年(宝暦六年)の生まれ、下関の醤油醸造業で長府藩の御用商人・伊予屋の養子となり広江の姓を名のることが許されていました。画と篆字篆刻に秀でており、自宅を「西江堂」称し、下関を通過する多くの文人たちに解放して文化文政時代の下関きっての文化人であるとの評価があります。


 とくに頼山陽、田能村竹田とは深い交友つづけ頼山陽は、文政元年3月に殿峰宅に約四十日間世話になっています。九州からの帰りにまた立ち寄って殿峰宅に四十数日間も滞在しています。1822年(文化5年)67歳で死亡しています。

 広江殿峰の逝去にたいして息子秋水のもとめにより、頼山陽は墓碑銘と碑文を書き、追悼し、秋水はそれを刻んで約2mの自然石に碑を建立しています。

 詳しくは下関市立大学付属産業文化研究所・谷口匡氏による「頼山陽と下関商人広江殿峰」という論文がありますのでご一読ください。

 

下関探訪時に近くに住むおばさんが一昨年、墓地改修時に碑が建立されている石垣補修のために工事業者が取り外し、その後どのようになったか不明との証言です。

下関教育委員会も所在不明とのこと、中央図書館では私たちの我儘な広江殿峰資料提供に対して真摯に対応してくださり、感謝しております。

後日、教育委員会文化財課に電話で広江殿峰の石碑のその後をお尋ねした時は調査をしてくださり「現在、墓地を管理している光禅寺さんが一昨年一月墓地改修工事の一環として、石碑が建立されていた石垣が崩壊の恐れがあり、一時撤去しましたが、再建にあたり、反対意見があり断念、その後違う場所での建立を試みたが適地がなく、破棄された」

衝撃です!! 頼山陽を横に置いといたとしても下関の江戸時代文化文政期を語る時には広江殿峰の足跡をはずすことは、下関の幕末期に高杉晋作を外すに等しいことだと思います。現在の行政においては文化財に対応する課は、文化財に対して無知な方が着任する例が多く見受けられます。そのために、専門職を採用し、また、文化財調査委員、文化財審議委員を行政長が任命します。本当に破棄されていたとしたら文化財調査委員、審議委員は「なにしとたんじゃい!!」 行政に対して提言、進言はできたと思いますしまた、義務があると思います。移転場所がなければ近くに「細江公園」があります。

個人の力では広江殿峰の石碑追跡調査は限界があります。できうれば、ネツトワークの名か頼山陽史跡資料館さんが下関教育委員会に調査を依頼し、このような悲劇を起こさないためにも文章にて報告を希望します。  

 

まさかの報告です。

中津のオッサンがいうように、頼山陽を横においても衝撃の出来事です。

ご意見、ご感想をお待ちしています。

                  頼山陽ネットワーク事務局

 

 

細江公園にある周辺案内板、現在地と東光寺の間に殿峯宅碑と墓地。
細江公園にある周辺案内板、現在地と東光寺の間に殿峯宅碑と墓地。

一読し満足感にあふれ、S氏はコピーに走り私は一服でもと1階外の喫煙所に・・・ふと見ると中の開いたバックが・・・のぞいてみると財布などが・・・周りを見渡すと目の前に下関警察署・・・なぜか小走りに警察署に・・・

下関生涯学習プラザ        4、5階に下関中央図書館。
下関生涯学習プラザ        4、5階に下関中央図書館。

携帯で「わたしゃ、今、警察で取調中」と連絡・・・また、徒歩で唐戸市場へ、頼山陽が渡った馬関から九州小倉大里への渡し場跡、旧下関駅の跡、山陽ホテル跡など確認でき、普段は気が付くことなく通過すると思われる風景が新鮮に映り込み、歩きも悪くはないと。

ザビエルの記念碑のそばにある  堂崎の渡し場・山陽道の終点。 頼山陽、吉田松陰、坂本龍馬など  が九州へ向かった。
ザビエルの記念碑のそばにある  堂崎の渡し場・山陽道の終点。 頼山陽、吉田松陰、坂本龍馬など  が九州へ向かった。

澄みきった空の下に大小の船が行き交う関門海峡と関門橋、壇ノ浦の戦い、四か国連合艦隊と長州藩との馬関戦争などの位置関係が理解できます。また歩きで英国領事館跡、秋田商会ビル史跡など見学しなから下関駅に、なぜかオチがある下関探訪報告です。

 

2017・1・20

中津のオッサン

    「下関探訪報告記」後編

 

下関中央図書館内地方史資料室に、維新関係の蔵書と資料は数多くありますが・・・係りの方が親切と憐れんだのでしょうか、探しまわって「下関市立美術館研究紀要6号の広江殿峰・秋水の稚遊と交友-西江楼の文人たち」を提供してくれました。

 

担当の女性と開けてビックリ・・・現金、運転免許、預金通帳、カード20数枚、携帯と・・・思わず「この男性の全財産では」とつぶやけば、担当の女性は無言でうなずき・・・

唐戸市場の近くにある        フランシスコ・ザビエルの上陸記念碑
唐戸市場の近くにある        フランシスコ・ザビエルの上陸記念碑

 

澄みきった冬の青空の下の関門海峡に面した唐戸市場でワイワイと鮨と生ビールを食しながら、ふと山陽が下関に立ち寄った頃は彼が酒の味がわかった時期との記載された書物の一節を思い出し、この魚と酒があれば離れなくなるのではないかと不謹慎な思いが・・その後、渡船で武蔵、小次郎の決闘の場所巌流島へ・・・

流島にある武蔵・小次郎の決闘の銅像。

右に関門橋、奥に下関市街、関門橋の奥が壇ノ浦であり、四か国連合艦隊と戦場跡、岸辺に長州藩砲台のレプリカ、その奥に赤間神宮がある。

 

 

 

 


細江町1丁目にある案内石柱。山陽が広江殿峰の碑文を書き息子秋水が建立。
細江町1丁目にある案内石柱。山陽が広江殿峰の碑文を書き息子秋水が建立。

地方史をディープにマニアックに調べることに生きがいを持っているS氏、アクティブな中年女性のミネちゃん、唐戸市場で鮨を食べながら生ビールを食する新春の旅とオッサンの甘言にだまされた100Kウオークの常連U氏と1月11日7時46分発の普通列車で一路下関に!!

広江殿峰一家の墓。中央に殿峯の息子秋水、右隣が殿峰、さらに右が殿峰の妻?
広江殿峰一家の墓。中央に殿峯の息子秋水、右隣が殿峰、さらに右が殿峰の妻?
殿峯の墓の裏面。文政5年に亡くなっているようだ。
殿峯の墓の裏面。文政5年に亡くなっているようだ。

海からわずかな平野部に山陽道(国道9号線)が横切りその中心地に店を構えていた広江殿峰の店、伊予屋があったとおもわれる場所へ現在は中小の飲み屋さん多く見受けられました。

殿峯の遺徳を称える門人たちが   建立した碑の横面。
殿峯の遺徳を称える門人たちが   建立した碑の横面。

約2年前に墓地の入り口にあった殿峰の息子が自然石に碑文を頼山陽が書き建立されたといわれる碑は改修工事の際に工事業者が撤去し現在行方不明と近くに住むおばさんが証言。教育委員会にたずねても「えっ、なくなっていますか?!」 

 

        後編につづく

2017・1・15

中津のオッサン

    「下関探訪報告記」前編

 

中津のオッサンはかねてより頼山陽が九州の旅に出てから、約40日間下関広江殿峰のところに滞在していたことが気になっておりました。いろいろな説がありますがこれはもう行ってみて、下関の風に吹かれてみなければならないと。

広江殿峰碑に通じる路の途中にある    広江殿峰宅跡 西江楼跡?
広江殿峰碑に通じる路の途中にある    広江殿峰宅跡 西江楼跡?

9時過ぎに下関駅に・・歩くことに使命感をもっているU氏と山ガールの一面をもっているミネちゃんの提言ですべて徒歩・・なんでも時速4.8Kで歩かなければ健康面で意味がないとか。オッサンには試練です。15分で江戸期文化文政の頃には西廻りの重要港湾であり、400の問屋街であつた下関細江町へ。

殿峯の遺徳を称える門人たちが    建立した碑。
殿峯の遺徳を称える門人たちが    建立した碑。

平野部からつづく小高い山の中腹にある殿峰の居宅である西江楼跡に立ってみると現在はビル群でわずかしか見ることはできませんが当時は関門海峡を通過する船舶がすべて見渡すことができると容易に想像できます。西江楼からつづく小道を歩くと廃寺・起禅寺殿峰のお墓に、先の大戦の空襲で本堂のほかすべて焼失、現在は名前同じの光禅寺さんが管理されているとか。

広江一家の墓左端にある墓。     殿峯のお妾さんとの説が?!
広江一家の墓左端にある墓。     殿峯のお妾さんとの説が?!

ホームページ編集人  見延典子
ホームページ編集人  見延典子

 

「頼山陽と戦争国家

国家に「生かじり」された 

ベストセラー『日本外史』

『俳句エッセイ 日常』

 

『もう頬づえはつか      ない』ブルーレイ

 監督 東陽一

 原作 見延典子

※当ホームページではお取扱いしておりません。

 

 紀行エッセイ

 『私のルーツ

 

οο 会員募集 οο

 

「頼山陽ネットワーク」の会員になりませんか? 会費は無料。特典があります。

 

 詳しくはこちら