見延典子訳『日本外史』足利氏(中)

参考文献/頼成一『日本外史解義』(1931) 

               藤高一男『日本外史を読』』Ⅱ(2002)

平成7年まで使用されていた欄干の柱を使用した一条戻橋。縮小版で復元。

2024・6・28

東陣(細川氏)、戻橋で苦戦

 

 その二日後、細川氏の兵は、前方の累を攻めて火矢を放って焼き、将兵を走らせた。山名宗全は斯波義廉、山名教之を遣い、細川師春の大宮の屋敷を攻めさせた。細川師春は細川勝元に救援を頼んだ。そこで細川勝元は京極持清を派遣した。


東陣(細川氏)、戻橋で苦戦

 その二日後、細川氏の兵は、前方の累を攻めて火矢を放って焼き、将兵を走らせた。山名宗全は斯波義廉、山名教之を遣い、細川師春の大宮の屋敷を攻めさせた。細川師春は細川勝元に救援を頼んだ。そこで細川勝元は京極持清を派遣した。一万の兵を率い、戻り橋を通っていかせたが、京極持清は陣取るところまでいかなかった。そのとき斯波義廉の大将、鹿草、朝倉などが叫んで京極持清に迫った。京極持清の兵はとうとう潰えて退き去り、戻橋を早く渡ろうと思い、川に落ちた者は数千名もあった。

 赤松政則が「備中守(細川師春)は孤立の軍を連れて大宮の屋敷に立て籠もっている。これを助けない者は武士ではない」といって二、三百騎をまとめて猪熊小路から助けにいき、斯波義廉の兵を撃って走らせ、細川師春を救い出し、細川政之の村雲の屋敷に入り込んだ、山名氏の兵は後を追いかけ、細川政之の屋敷の外に火を放って煙や炎の中で戦った。こんな戦いを二昼夜やったので、町中死体でいっぱいになった。

 

西陣、岩倉山で勝機を失う

 六月、東と西の両陣は、互いに備えを解いて退却した。東陣は相国寺に立て籠もり、西陣は斯波氏の屋敷に立て籠もり、対峙して戦わなかった。そのうち西陣のほうは兵が増してきた。大内政弘は平素から西陣に味方していた。河野氏と兵三万で救援にきた。

 東陣は赤松政則に摂津で大内政博らを防がせておいて、畠山政国、武田国信に斯波氏の累を攻めさせ、大内政弘らがくる前に西陣の斯波邸を攻め落とそうとした。二十日ほど攻めたが、陥れることはできない。

 一方、大内政弘は逃げて五条まできたが、京都に入れない。そこで東方の岩倉山に逃げ込んだ。山名氏はその松明を望み見て、三方の道から邀撃したが、みな破れて退却した。赤松政則は神楽岡を通過して、御霊口から東陣に入った。

 

 

2024・6・21  応仁の乱

 

 細川勝元が評議し「幕府の門前に一色義直の屋敷がある。西陣(山名氏の屋敷がある)と続き、山名氏のために守っている。大将を一人遣わして実相院に陣取り、連絡路を断ち切れば一色義直は恐れて逃げ出すだ

応仁の乱を伝える絵巻
応仁の乱を伝える絵巻

ろう。そうなれば、将軍足利義政を捕まえ、連れてきて、味方の引き込むことができる。

 五月24日、細川勝元は武田国信らを遣わし、実相院に陣取らせた。案の錠、一色義直は逃げ出した。そこで細川勝元は幕府に行き、将軍の大旗を願い受けて、四つ足門に立てた。また足利義視を迎えて幕府内にきてもらい、将士をやって各町々に駐屯させて山名宗全を討った。

 

山名宗全、兵を諸国に起す

 西陣の山名宗全はこれを聞き、「千手を打たれたのは残念だ」。山名宗全もまた兵を繰り出した。山名宗全は自分の支配下の丹馬国。播磨国、因幡国の兵を繰り出した。一族の山名教之は伯耆国、備前国から、山名教清は美作国、石見国から、斯波義兼は越前国、尾張国、遠江国から、畠山義就は大和国、河内国、紀伊国から、畠山義統は能登国から、六角高頼は近江国から、一色義直は丹波国、伊勢国、土佐国から、土岐成頼は越前国から、みな山名宗全に味方した。兵は十一万であった。

 山名宗全の子の山名是豊は、細川勝元と親子の約束をしたので、東陣(細川氏)に味方した。

 西陣(山名氏)は垣屋某を遣わして実相院を攻めさせ、大田垣某を遣わして、東面の累を守らせた。

 

 

ホームページ編集人  見延典子
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