見延典子訳『日本外史』足利氏(中)
参考文献/頼成一『日本外史解義』(1931)
藤高一男『日本外史を読』』Ⅱ(2002)
※現在、応仁の乱(応仁元年・1467~文明9年・1477)
2024・9・4 応仁の乱を起した細川勝元、山名宗全の死去
足利義視、西陣に擁立せられる
当時、伊勢貞親は鈴鹿の関にいた。京都が乱れていると聞き、京都に帰り、細川勝元を頼った。勝元は伊勢貞親が山名宗玄と仲が悪いのを知っていたので、留め置き、自分の味方にしようと思った。彼のための七頭の旧職を取りもどさせ、幕府内で敵に内応する者を探りだしてほしいと請うた。
足利義視は伊勢貞親を憎んでいた。彼が再び兄弟のあいだ(足利義政、義視)を邪魔しないと恐れて不安を感じた。そこで幕府からひそかに逃げだそうと計り、ついに忍び出て北畠教親の陣営に行き、一緒に北畠教親の陣地の伊勢国に出発した。
応仁二年(1468)四月、将軍足利義昭は足利義視に書面をやって呼び出した。足利義視は疑い、応じなかった。細川勝元、畠山政長、赤松政則らが連判状を出して、幕府に戻ってほしいと請うた。それに応じて帰ってきた。
九月、足利義視は幕府に入った、折から「細川勝元が足利義政を廃して足利義視をたてようとしている」とあらぬ噂を言いふらす者があった。将軍足利義昭は疑い、恐れた。
細川勝元はこれを聞き、ひそかに足利義昭を西陣に逃がそうと計った。十一月、雨の中、武田信賢に足利義昭を連れて、比叡山に登らせた、山名宗全はこれを聞いて喜び、兵をやって足利義視を迎え、斯波氏の屋敷に入れた。足利義視は正二位、権大納言であった。
十二月、詔して足利義視の官爵を削りのぞいた。大納言藤原教忠らは七人留まって御所にいたが、彼らもとうとう西陣に逃げ込んだ。そこでまた彼ら七人の名前を名簿から除いた。
細川勝元が再び管領となった。赤松政則は侍所司となった。赤松政則の家老の浦上某は所司代となった。これからは両陣の対抗があたかも兄弟で争うような形になった。(足利義政は東陣に、足利義視は西陣にいたから)
東陣、漸く地歩を固める
文明元年(1469)二月、細川勝元は部下の兵を遣わして夜、西陣に火をつけさせ、山名宗全陣営に攻めこませた。山名宗全は薙刀をひっさげて出てきて、自ら庭内で戦った。山名宗全の従兵が四方から集まってきて、細川勝元の武将安富某ら十名を殺した。残兵が脱げ帰ってきた。
四月、将軍足利義政は丹後国を武田信賢、畠山政国の二人に分け与えて、役人に丹波国に行かせた、山名氏の役人が防ぎ合い、互いに勝ったり負けたりした。
五月、多賀忠高が近江国の兵を率いて京都にやってきて、東陣を助けた。しかし西陣の徒党の六角亀寿が近江国に兵を挙げたと聞き、多賀忠高はすぐ引き返した。そこで細川勝元は、武田国信に北白川に城を築かせて比叡山に付随させ、近江国の商人の往来が便利になるようにした。また山名是豊に天王山に城を築かせ、西陣の兵糧運搬の道を塞がせた。
山根宗全は畠山義就を勝龍寺に駐屯させ、これを防がせた。また大内政弘に駒野に城を築かせて、家来の二尾某に留守をさせた。しかし二尾某は背いて東陣に味方した。
このとき少弐嘉頼の子、少弐教頼が対馬から九州に帰ってきて、旧領を取り戻そうと計った。そのため西の果ては大いに乱れた。
このように所領国が危なくなったので、大内正弘は周防国に逃げ帰った。そのため西陣は勢いを失った。また赤松氏の将中村も播磨国、備前国、美作国を掠めとり、ことごとく赤松氏の旧領を取り戻した。
文明二年(1470年)十二月、後花園上皇が幕府で崩御した。文明三年正月、後花園上皇を葬った。戦乱中のことで、葬式は簡素であった。将軍足利義政は徒歩でお送りした。
文明四年、細川勝元は畠山義統に将軍足利義政の思いから降参するように解いた。それで降参した。将軍越中国、能登国を畠山義統に与えて、北国から来る兵糧の道を通じさせた。西陣はだんだん勢いが衰えて、逃げる者や降参する者が続いた。
文明五年三月、山名宗全は病気で死んだ。それでも西陣は兵を解散しなかった。細川勝元は山名宗全の喪に乗じて、西陣を撃とうとした。五月、細川勝元も病死した。子の細川政元が跡を継いだ。細川勝元は山名宗全と戦をおこしたが、勝負が決まらないうちに死んでしまったわけである。しかし精悍は留まるところ、細川氏に帰することになった。
2024・8・31
東陣、相国寺を奪還
細川政之がやってきて、細川勝元に「滝は相国寺に駐屯しています。私どもは『釜中の魚』のようなものです。急ぎ一将を遣わして撃って退けましょう」
細川勝元は「俺も同じ事を考えていた。だが諸将士は各々守備について敵を防いでいる。持ち場を離れて移るわけにはいかない。助けに行く者はいないか」
線の数によって一つ引き両紋(新田氏)、三つ引き両紋(三浦氏)などがある。子孫や家臣に下賜されたので、武家に多い家紋。「私のルーツ」で書いている通り、見延のルーツ「中駄(中屋)家」も二つ引き両紋である。
上は「足利二つ引き両」で、足利将軍家が使用した。北条氏に滅ばされた畠山の名跡を、足利義純が継いで再興した源姓畠山氏や、一色家も同じ家紋である。
秋庭某なる者が進み出て「畠山公こそ格好の者です」
細川勝元も「そうだ」といった。
畠山政長を呼び、理由を話し「事は迫っている。ご苦労だが、貴公が一戦してもらいたい。予定通りに勝てば忠勤は貴公が一番で、誰も上に出る者はいない」
畠山政長は「不束者ではございますが、かたじけなくも命令をうけましたからには、行かないわけにはまいりません。しかし考えてみますと、先の御霊林の戦いで多くの士卒を失い、残っているのはわずか二千。どうしたらよろしいでしょうか」
細川勝元は御霊林の戦いで助けに行かなかったことを恥じて、顔を赤くした。そこで細川政之が部下の大将東藤某をやって畠山政長の救援とした。
畠山政長は幕府の四つ足門を出た。見送る者が「こんな少ない兵では勝てないだろう」と互いに語り合った。
畠山政長は鞍に腰をおろし、「諸君、心配するな。この畠山政長が行くのだ。たとえ百万の敵であろうと、破ってみせる。もし勝てたなら、その功は独り占めする。諸君は証人になってくれ」
そこで細川政長は進んで敵陣を望み、部下の斥候(少人数)の騎兵を指さして「あの山門の前にいるのは誰だ」と訊いた。
「土岐成順です」
「山門の後ろにいるのは?」
「一色義直です」
「その南にいる者は?」
「衛門佐殿(畠山義直)です」
神保長誠が畠山政長に「敵は大勢で、盛んなことはご存じの通りです。兵を一箇所に集中して、力を合わせてかかっていけば、彼らは兵を放ち、我らを囲みにくるでしょう。そうなれば敵の一面を突破できます」
畠山政長はその通りにした。盾をかぶって進み、敵に接近した頃盾を捨て、いきなり門前の敵を突いた。敵陣は大いに崩れ、退却しながら門の後ろの陣に戻っていった。門後の陣は重なり、こみあい、槍を振るうことができない。畠山義就が、その将甲斐荘某に向かって「あれは尾張守(畠山政長)だろう。わが前軍は槍に穂先が揃っていない。きっと負けるだろう。はやく隊伍を整えよ。俺が前軍に代わって進むことにする」。その言葉が終わらぬうちに、門の後ろの兵が大いに敗れて後ずさりして、畠山義就の陣まで押され、戻されてきた。畠山義就は戦えず退却した。
東陣は再び相国寺を取り戻した。畠山政長の勇名は敵味方に轟いた。そこで両軍は戦いに疲れ、互いに退却した。相国寺を境に累を高く築き、塀を深く掘り、互いに持久戦の準備をした。
2024・8・19
西陣、相国寺を取る
山名宗全も下京の敵を追い払って敵
の東面に出て、三宝院、相国寺を取
り、細川方を閉じ込めるため、御霊
口を塞いでしまおうと計った。
九月、山名宗全は畠山義就、大内
政弘、土岐成頼、六角高頼、一色義直に攻めさせた。この五将は出発の 際、山名宗全に「こんどの戦で相国寺をとらなければ、生きて帰りませ ん」と誓った。各一万人を率いて三宝院を攻めた。
武田国信の弟武田元綱は、父の武田信賢と二千人を率いて三宝院を守った。一日中、力を尽くして防いだが、兵が散り散りになって逃げ去った。武田基綱一人が三宝院の門の片扉を開けて、自分から五将の敵にあたった。敵は恐れて近寄ろうとしなかった。畠山義就の勇敢なる士卒で、野老源三という男はたいそう力があった。一人抜きん出て進み、武田基綱に撃ってかかった。
武田基綱は「試しに、俺の力を受けてみろ」と怒鳴り、野老源三は兜を撃ったところ、刀が二つに折れた。武田基綱は大声をあげて逃げ去った。誰も邪魔立てせず、とめる者がいなかった。野老源三は兜を強く打たれたので、頭が砕けて死んでしまった。
西陣の五将(畠山義就、大内政弘、土岐成頼、六角高頼、一色義直)の兵は三宝院を奪取したので、次に浄華院を攻めて守将の京極持清を追い払い、近衛、鷹司以外の三十七箇所を焼き、相国寺に向かった。
東陣の細川勝元は、安富元綱ら三千騎をやって相国寺を守らせて、別の一条に兵を繰り出した。ところが寺僧で内々西陣に内通している者があって、火をつけて西陣に内応した。一条を防いでいた者は火が上がったのをみて引き返した。
西陣の五将は追いかけて相国寺の寺門まできた。
安富元綱兄弟は手勢を連れて正門を防ぎ、大内政弘、土岐成頼に向かって力の限り戦うこと七度、殺傷者は互角で、朝から晩までかかって戦った。そのうち東門の守備が崩れたので、西陣はそこに集まって一気に突入した。安富元綱兄弟はとっさに東門にはせ向かったが、胸を矢で射抜かれて死んだ。
大内政弘、土岐成頼は相国寺を勝ち取ったので、討ち取った頸を八両の車に乗せて西陣に送り込み、自分らは相国寺に駐屯した。
2024・8・17
東陣、西陣に内通する者を追い出す
この時、東陣の中にあらぬ噂がたった。「将軍の近臣に西陣に内通する者がいる。常に漏らしている。だからまけるのだ」
八月、東陣の細川勝元は家来と相談の結果、鎧武者六千人を率いて幕府の諸門を抑え守り、細川教春をやって将軍足利義政に「西陣に内通しており将軍の近臣十一人を追い出したい」といった。
応仁の乱(1467-1477)が終わると、織物職人たちは京都に戻り、山名宗全率いる西軍の陣地が置かれていた地で、織物作りを再開。京都北西部が「西陣」と呼ばれるようになったのはこの頃から。
将軍は許した。将軍の近臣十二人はみな怒り「将軍の心は西陣に向かっている。西陣が勝てば喜んで笑い、東陣が勝てば心配して眉をひそめるのは我々ばかりではない。将軍もそうなのだ。我々だけが大勢から選ばれ、放逐される命令をうけた、こんな恥をかかされたからには命を捨ててかかるに十分である」といって身支度をして、討って出ようとした。
このとき細川勝元は後花園上皇、後土御門天皇を幕府にお迎えすることにした。畠山政長は特旨で三位に叙され、輿を護衛して幕府の門まできた。門内は内通問題の始末で大騒動だったので、輿は門外に止められ、午の国から亥の刻まで約十時間とめおかれた。
藤原公春、吉良義信が将軍の指示で近臣十二名を諭した。彼らは西陣に
逃げ込み、輿はようやく門内に入った。
思うに、細川勝元は「もし将軍が自分を助けなければ、天子をはさんで戦おうという計画で、上皇、天皇をお迎えしたのである。
平成7年まで使用されていた欄干の柱を使用した一条戻橋。縮小版で復元。
2024・6・28
東陣(細川氏)、戻橋で苦戦
その二日後、細川氏の兵は、前方の累を攻めて火矢を放って焼き、将兵を走らせた。山名宗全は斯波義廉、山名教之を遣い、細川師春の大宮の屋敷を攻めさせた。細川師春は細川勝元に救援を頼んだ。そこで細川勝元は京極持清を派遣した。
一万の兵を率い、戻り橋を通っていかせたが、京極持清は陣取るところまでいかなかった。そのとき斯波義廉の大将、鹿草、朝倉などが叫んで京極持清に迫った。京極持清の兵はとうとう潰えて退き去り、戻橋を早く渡ろうと思い、川に落ちた者は数千名もあった。
赤松政則が「備中守(細川師春)は孤立の軍を連れて大宮の屋敷に立て籠もっている。これを助けない者は武士ではない」といって二、三百騎をまとめて猪熊小路から助けにいき、斯波義廉の兵を撃って走らせ、細川師春を救い出し、細川政之の村雲の屋敷に入り込んだ、山名氏の兵は後を追いかけ、細川政之の屋敷の外に火を放って煙や炎の中で戦った。こんな戦いを二昼夜やったので、町中死体でいっぱいになった。
西陣、岩倉山で勝機を失う
六月、東と西の両陣は、互いに備えを解いて退却した。東陣は相国寺に立て籠もり、西陣は斯波氏の屋敷に立て籠もり、対峙して戦わなかった。そのうち西陣のほうは兵が増してきた。大内政弘は平素から西陣に味方していた。河野氏と兵三万で救援にきた。
東陣は赤松政則に摂津で大内政博らを防がせておいて、畠山政国、武田国信に斯波氏の累を攻めさせ、大内政弘らがくる前に西陣の斯波邸を攻め落とそうとした。二十日ほど攻めたが、陥れることはできない。
一方、大内政弘は逃げて五条まできたが、京都に入れない。そこで東方の岩倉山に逃げ込んだ。山名氏はその松明を望み見て、三方の道から邀撃したが、みな破れて退却した。赤松政則は神楽岡を通過して、御霊口から東陣に入った。
2024・6・21 応仁の乱
細川勝元が評議し「幕府の門前に一色義直の屋敷がある。西陣(山名氏の屋敷がある)と続き、山名氏のために守っている。大将を一人遣わして実相院に陣取り、連絡路を断ち切れば一色義直は恐れて逃げ出すだ
ろう。そうなれば、将軍足利義政を捕まえ、連れてきて、味方の引き込むことができる。
五月24日、細川勝元は武田国信らを遣わし、実相院に陣取らせた。案の錠、一色義直は逃げ出した。そこで細川勝元は幕府に行き、将軍の大旗を願い受けて、四つ足門に立てた。また足利義視を迎えて幕府内にきてもらい、将士をやって各町々に駐屯させて山名宗全を討った。
山名宗全、兵を諸国に起す
西陣の山名宗全はこれを聞き、「千手を打たれたのは残念だ」。山名宗全もまた兵を繰り出した。山名宗全は自分の支配下の丹馬国。播磨国、因幡国の兵を繰り出した。一族の山名教之は伯耆国、備前国から、山名教清は美作国、石見国から、斯波義兼は越前国、尾張国、遠江国から、畠山義就は大和国、河内国、紀伊国から、畠山義統は能登国から、六角高頼は近江国から、一色義直は丹波国、伊勢国、土佐国から、土岐成頼は越前国から、みな山名宗全に味方した。兵は十一万であった。
山名宗全の子の山名是豊は、細川勝元と親子の約束をしたので、東陣(細川氏)に味方した。
西陣(山名氏)は垣屋某を遣わして実相院を攻めさせ、大田垣某を遣わして、東面の累を守らせた。