見延典子訳『日本外史』足利氏
参照/『日本外史解義』(頼成一)『日本外史を読む』(藤髙一男)
2022・11・15 「南北朝の分立」
南北朝の分立
九月、評議した結果、利を餌にして興福寺を抱き込み、足利高経に越前の兵を、小笠原貞宗の信濃の兵を率いさせ、東北(官軍)の糧道をすべて絶たせた。また佐々木高氏に貞宗の援助をさせ、新田義助の兵を撃って、敗走させた。比叡山はもはや誰からの援助もなく、兵糧もなくなった。そこで足利尊氏は秘かに「臣は初め讒言を受けて罪を得、頭をまるめてお指図を待っておりました。義貞と義助は朝廷の力を盾に、私恨をはらそうとして、今日のようなことになりました。陛下、いやしくも臣の志をご推察くださいまして、お乗物をお廻しなされ、京都へお帰り下されば、政権を奉還して、諸々の廷臣は以前の通りに致します」と誓書を後醍醐天皇に献じた。歩醍醐天皇はご塾考されることもなく、すぐさまその言葉を受け入れられた。それを訊いた新田義貞は不満足であった。天皇は義貞に皇太子を守らせ、越前に行かせ、乗物を命じられて、京都に還られた、直義は兵の大将として迎え、新主光明天皇のために剣璽を授けられようにお願いした。天皇は贋の剣璽をお伝えなされた。そこで尊氏は文官の官爵を剥ぎ取り、武官を捕らえ、天皇を花山院に留置し、義貞追討の詔を越前にくだされるようにお願いした。足利高経は越前の兵を併せ、義貞を金崎城に取り囲んだ。また高師泰を派遣して、助け、攻めさせた。そのうち後醍醐天皇は逃げ出され、行方がわからなくなった。内も外も驚き、騒いだ。尊氏は「これはめでたく、良いことだ。天皇がおられたら、いつまでも番をしていなければならない。承久、元弘のときのように島流しもできない。思うに、天皇は畿内に居られるだろう。行きたいところに行かせ、おいおい図ればよい」といった。二年、瓜生保、杣山から金崎を助けた。師泰は今川頼圀にこれを迎え撃たせ、破って殺した。金崎はいよいよ苦しんだ。義貞は城から杣山に逃げた。ある人が師泰に「このころ城兵は馬を洗っていないようだ。兵糧がなくなり、馬を食っているのではないか」といった。師泰、高経は一気に城へ登った。案の掟、城兵は飢えて疲れ、戦うことができず、みな、自殺していた。太子は虜にされ、後に尊氏に殺された。後醍醐天皇は吉野におられ、行宮を建てられた。これから人は京都を北朝、吉野を南朝といった。
2022・11・10
「尊氏、再挙して京都に入る」
尊氏、再挙して京都に入る
五月、足利尊氏は一色頼行、仁木義長に九州を守らせ、自分は諸将軍を率いて太宰府を出発し、厳島まできた。そこへ僧賢俊が光厳天皇の書をもってきた。尊氏は非常に喜び、諸将に錦の御旗を立てさせた。あちこちの者が先を争うように尊氏についた。軍艦がおよそ七千余艘もあり、鞆津まで進撃してきた。少弐頼尚の計略で二万人を足利直義につけ、上陸して福山城(岡山県倉敷市北部の山)を攻めおとさせた。新田義貞は叶わないとみて、白旗城の囲みを解いて敗走した。備前、丹波、美作の官軍はみなこの形勢をみて解散し、去った。尊氏は室聿にまで来た。赤松則村は包囲からでて迎え、敵が置き去りにした旗や幟を百余りも城下から拾い集め、尊氏に献上した。尊氏はそれらの紋所から、かつては自分の家臣が多いことを知り、「彼らは害を避けるために一時敵に官軍に降参したしたのであり、また降参して戻ってくるだろう」といった。案の掟、降参してくる者が多かった。直義の軍も来て、正成の兵を湊川で挟み撃ちして、皆殺しにした。軍を一つにいて義貞を討った。義貞は京都に逃げ、再び後醍醐天皇を奉じて比叡山に立て籠もった。しかし後伏見法皇、光厳天皇、その弟の豊仁親王は病気という理由から従われず、尊氏のもとへ拠られた。尊氏は東寺を城として立て籠もった。六月には比叡山を攻め上ったが、敗けた。義貞は追いかけて京都に入った。貞氏は町中に兵を隠しおき、弱い兵で戦わせながら退却しつつ、敵をおびき寄せて、町中に入らせた。義貞の伏兵が大いに戦ったが、義貞は敗走した。また義貞が挟み撃ちを計画していると知り、迎え討って敗走させた。義貞は奈良興福寺の僧兵を誘い、一方で畿内、南海の兵士に足利の兵糧の道を絶たせた。尊氏は細川定禅、今川範国を派遣して、南海の兵を敗走させた。
七月、義貞はたびたび失敗して思うようにいかなかったので、今度こそはと四方から攻めようと計った。まず藤原隆資が尊氏の布陣した東寺の南門を攻めた。味方の兵が北に出て、義貞を防いでいた。高師直と弟の師泰だけが南門にいて戦ったが、敗けた。義貞の軍は門の物見を焼き払った。城内では、恐れからかなり混乱していた。尊氏は経をよんで、平気であった。土岐頼氏はそばに座っていた。頼氏は「もし悪源太がいれば、このくらいのものを防ぐのは何でもないことなのに」といった。悪源太とは賴氏の子頼直のことだ。それで頼直が尊氏に面会した。頼氏は喜んで頼直に「北面の戦争はまだか」と問うた。「存知ません。私が三条に居りますと、東寺のほうから煙が上がったのを見たので、何かあると帰ってきたのです」と頼直がいった。師直が「敵は南門を攻めてきた。ご苦労だがこれを防いでくれないか」というと、頼直は承知して出て行った。尊氏は呼び返して、宝刀を与えた。頼直は拝してもらい受け、北門から敵の左のほうへ打って出て、馬から下りて矢を射かけた。敵は乱れ、潰えた。頼直は馬に乗って馳せいき、六人を斬った。師直も頼直を助けるために敵を撃ち、隆資を敗走させた。一方、義貞は北門に寄せ来て、尊氏と勝負を決めたいと申しいれた。尊氏は憤然と立ち上がり「早く門を開けよ。余は天朝に敵対はしない。「ただ、義貞と勝負したい」といった。上杉重能は「義貞はどうにもならなくなってこんなことを申し込んできたのです。将軍はなぜ大切な御身を軽んじられるのですか」と諫めた。ちょうど土帰頼遠が大宮通の敵を破り、勝った勢いで尊氏の後部から撃ちかけてきた。義貞は大敗し、左のマユを負傷し、比叡山に逃げ帰った。そこで足利氏は廃帝光厳天皇を奉戴して、もう一度位におつけしようと相談した。皆、元弘のときに一度廃された方なので縁起が悪い、といった。そこで八月、豊仁親王を立てた。これが光明天皇である年号は元のまま建武を使用した。後に歴応と改めた。かくして尊氏は権大納言となり、直義は左馬頭になった。
2022・11・5 「足利尊氏、九州に走る」
足利尊氏、九州に走る
赤松則村が足利尊氏に「摩耶城を保持したい」と請うた。ある人は「それは天下の人望を失う策だ。京都を取り返すには現在の兵で十分だ」といった。そこで直義に兵をつけた東へ上らせた。官軍と豊島で戦ったが、
敗れて帰還した。ちょうど大友貞宗、弘世らが兵鑑を率いて助けにきたので、湊川で官軍を迎え討ったが、また大敗した。則村は尊氏に「負けてばかりでは兵を無駄には使えません。戦をやめ、諸将を中国、南海にとめおき、ご自分は九州で再度の旗揚げを図られたほうがよい」と説いた。尊氏はこれに従い、則村に書を与え、彼を父と呼び、深く結びついた。尊氏は直義と定宗の舟に乗り、西へ向かった。多くの諸将は新田義貞に降参した。義貞は戦勝続きに驕り、怠り、女色に耽り、尊氏を追い詰めようとはしなかった。それで尊氏は赤間関に着くことができた。
三月、菊池武敏が兵を起こして官軍に味方し、少弐貞経を攻め殺した。貞経は死ぬとき、子の頼尚に「私は三浦義明のようにここで討ち死にする。おまえは私の志を忘れず、よく慎んで将軍に仕えよ」と遺言した。頼尚は兵を引き連れて、尊氏を迎えた。尊氏は貞経が死んだかどうか尋ねた。頼尚は士気が阻喪するのを恐れ、「噂にすぎません」と答え、宗像氏の所へ案内した。ちょうど武敏が攻めてきた。尊氏は香椎神社にあがって軍勢を望むと、四五万騎もいる。味方はたった五百人であった。それだけでなく鎧や馬も十分ではない。尊氏は「こんどこそ討ち死にだ」といい、赤坂まで陣を進め、直義を先に進ませた。頼尚は「敵中で戦えるのは三百人にすぎません。他の者は将軍がおいでになったと聞けば皆降参するでしょう」といい、進んで多々良が浜で戦った。仁木義長、細川顕氏等勇気を奮って敵兵と組み討ちし、鎧を剥ぎ取り、馬を奪い取って進んだ。ちょうど北風が吹き出し、浜の真砂や石が吹き飛ばされ、敵兵は気後れして退散した。直義は風を利用して兵を放ち、博多まで追いかけた。武敏は全軍をつれて引き返し、戦った。直義はとうてい敵を支えきれないと思い、使者を尊氏の陣に使わし、衣物の袖を切って形見に送り、別れを告げてから「兄上、長門にお逃げなさい。私はここで踏みとどまり、討ち死にします」。尊氏は「弟が死んで、どうして生きていられようか」と自ら大将になって助けにいった。すると松浦氏、神田氏は大軍が来たと勘違いし、部下もろとも降参してきた。その軍をいっしょに討って武敏の軍を破り、太宰府まで追った。そこで貞経が死んでいたことを知り、尊氏直義は追悼会を催した。
尊氏は一色頼行、仁木義長に菊池、八代の諸城を攻め落とさせた。九州は皆足利に服した。その上中国、南海の諸将が揃って尊氏に味方した。義長の兄頼章は久下時重らと共に丹波に、赤松則村は播磨に、石橋和義は備前に立て籠もった。そこで新田義貞は則村の居城白旗城を攻めた。ところが城の壁がまだできあがっていなかった。則村は義貞に「元弘のはじめに、私は王事に励み、たびたび北条氏を打ち負かしました。それだというのに、恩賞といえば降参した捕虜よりも少ないのです。それが不満で朝廷に背き、北条氏側についたのですが、本当の志ではありません。何とぞ播磨の守護職に任じてください。そうすればご恩に報いたく存じます」という偽りの手紙を送った。これを信じた義貞は喜んで則村のために詔を請うた。使者が往復するのに十日間かかった。詔書が届いたときには城壁はすっかりできあがっていた。それで則村は「将軍職はすでの将軍からもらいうけた。あてにならない詔はいらない」と詔書を突き返した。義貞は激怒し、六万人の兵で則村を囲んだ。弟の
義助には石橋和義を攻めさせた。和義も則村も堅固に守り、降参しない。使者を使い、尊氏に知らせた。
2022・11・3 「足利尊氏、京都を攻める」
「足利尊氏、京都を攻める」
延元元年(一三三六)正月、足利尊氏は新田義貞を大渡で攻めた。我が軍(尊氏軍)には川で溺れた者が多数出た。これより前、赤松則村が官軍に背いて尊氏に味方し、命令して山陽道を屈服させていた。細川和氏の従弟・細川定禅、顕氏の二人はともに讃岐国にいて、南海道を屈服させていた。そこで定禅らは赤松範資と兵を合わせて山崎を攻めた。尊氏はそれを訊き、赤松貞範を派遣して助けさせ、攻めて官軍を破った。義貞は敗走し、天皇をお連れして比叡山に立てこもった。尊氏は京都に入いりこんだ。範資、貞範は則村の子である。尊氏は園城寺の僧兵を誘い込んで降参させ、定禅にたてこもらせ、比叡山を力で押さえつけた。折しも官軍の北畠顕家が陸奥国の兵をひきつれ、行在を助けにきた。定禅は兵を増してほしいと頼み続けた。尊氏は気にもかけなかった。翌日定禅は負けて帰ってきた。義貞は追いかけてきて、東山に陣取った。
尊氏は東山を指さし、将士に「聞けば、義貞は平地での騎馬戦が得意という、彼が今、山を背にして出てこないのは、おそらく兵が少なく、平地での戦いができないことを知られないようにしているのだろう」といい、大将に兵数の多寡を調べに行かせたが、負けて退却してきた。そこで尊氏が自ら出かけたが、敵兵が郡中に混じれていて軍が乱れ、逃げ帰ってきた。日暮れになって敵も引きあげた。定禅は部下の兵に「このたび敗れたのは自分の責任だ。自分は恥をそそごうと思っている。敵兵は皆疲れているに違いない。疲れていない兵は略奪に出かけている。この際不意打ちをしたらよい」といい、兵三百人を引き散れて、夜、引き返して敵前に火を放ち、後方から襲った。案の定、義貞は備えがなく、敗走した。定禅は追撃して、大将数十人を討ち取った。かくして尊氏は再び京に入った。そのうち官軍がまた攻めてきた。足利軍は戦況が不利になり、敗北した。ところが陸奥国の兵二万騎が粟田口に火をつけ、攻め寄せてきた。尊氏はそれを見て「あれはおそらく北畠の兵だろう。自分が当ろう」といい、四条で戦った。義貞の軍が大勢で押しかけてきた。尊氏軍は顧みて敗走したが、踏みとどまって桂川で一戦し、一隊を皆殺しにした。官軍は引きあげた。尊氏はまた京に入ったが、「義貞が討ち死にし、部下は逃走した」と聞いたので、兵を分け、敗兵を待ち受けた。ところがその隙を官軍が攻めてきた。尊氏は敗れ、丹波国に敗走した。
二月、尊氏は兵庫に向かった。陣中に熊野道有という者が陣中にいた。光厳天皇の臣下の仲間と知り合いだった。尊氏は道有に「私がたびたび負けたのは戦の仕方が悪かったわけではない。私に国賊という名をつけられているからだ。はじめは、皇族を奉戴しようと考えていたが、みな比叡山にいらしたので、できなかった。思うに、光厳天皇は長い間心が塞いでおられる。おまえが詔をいただいてくれないか。私は後醍醐天皇と光厳天皇との間で位を奪い合うようにして、国賊とよばれないようにし、望み通り大事を成就させたい」といった。道有は承知して立ち去った。
2022・11・2 「朝廷、尊氏を討つ」
朝廷、尊氏を討つ
当時、諸国の兵士は関東にいく者や、京都に行く者で入り交じり、街道のにぎやかなことは織るようであった。直義以下の諸侯はみな武装して尊氏に会い、「官軍を迎撃したい」と申し出た。尊氏は返事をしなかったが、やがて「私の官位が高くなったのと、酷使する北条氏に鬱憤が晴らせたのは、わずかな手柄もあろうが、やはり天皇のご恩によるものであり、恩義に背くことはできない。お怒りに触れたのは、第一に護良親王を斬り殺したこと、第二に兵を徴集したことだが、この二つは私の命令ではないから、まだお怒りを鎮めることはできよう。許されなければ、坊主になり、浮世を離れるまでだ。諸君は自分で謀を立てればよかろう。私は天皇に弓はひけない」と顔色を変えて内に入った。諸将は驚き、目を見張った。
二日たち「義貞が三河まで来ました」という報告があった。上杉憲房、その子憲顕、細川和氏、その弟細川頼春らが足利直義に「将軍尊氏がおっしゃったことは道理にかなっていますが、武士は足を立てて乱が起こるのを待っています。将軍がひとたび挙兵されたと聞けば、彼らは雲のように集まってきて、影のように付き従うでしょう。将軍とて何が禍となり、何が福となるかはわかっているでしょう。無益に時を過ごし、敵に箱根や足柄を通過させれば大変なことになり、後悔してもはじまりません」。そこで義直は言い分通り、諸将を出立させたが、二度戦い、二度負けた。直義は二万機を引き連れて助けにいったが、また敗れた。
十二月、諸将が帰還し、尊氏の屋敷にきた。門が閉まっていたので、激しく叩いた。一人の男が出てきて「将軍は建長寺に逃げ、髪を剃ろうとされている。髻は切ったが、まだ剃っていません」といった。将士たちはひどく落胆した。上杉憲房の養子重能が朝廷の触れ文十余枚を偽造し、「足利尊氏の一族は罪が深く重く、たとえ坊主になって世を逃れても罪を許してはならない」と書いた。直義はこれを持って尊氏のいる建長寺へいき、泣きながら「これを敵の死骸からみつけました」。尊氏はじっと見ていたが、大きなため息をつき「こんなことにまでなっていたのか。であれば私も弓矢をとり、義貞と勝負しなければならない」といって法衣を脱いで、錦の陣羽織を着て寺を出た。軍勢は喜んで歓声をあげ、みな尊氏と同じく髻を切り、尊氏一人だけが目立たせないようにした。官軍に降参しようとしていた連中もかえってきて、一日で十万人の大勢になった。
直義は六万人を率いて、箱根で義貞を防いだ。しかし足利方はやや退却した。尊氏はそれを聞いて十八万騎を率い、後ろから進撃した。「敵の正面より背後に出たほうがいい」といって、兵をひきつれたまま箱根の竹下に出た。竹下の官軍が太鼓を叩き、向かってきた。足利方の先鋒赤松貞範は、官軍の陣を望見して「都の兵で、弱腰だ」といい、矛先をそろえて足柄山から駆け下った。官軍はたちまち敗れ去った。尊氏は追いかけ、伊豆の国府までいった。義貞は西に逃げた。そこで義詮に鎌倉を守らせ、直義の軍と合流して追いかけた。京都は驚き、恐れた。後醍醐天皇は急に「賊を防いだ者には褒賞を与える」と掲示したが、応じる者はいなかった。
2022・10・14
「足利氏、関東を掌握」
足利氏、関東を掌握
足利高氏は細川和氏と弟の頼春に兵を率いらせ、関東を治めさせた。これより前、高氏の子千寿は鎌倉から逃げて故郷の下野国に帰り、新田義貞が挙兵したと聞いたので、従った。義貞は源義重の遠縁である。かくして高時は誅され、鎌倉は平らいだ。義貞が古い道具を調べたところ、一本の白旗を見つけた。紋所は二つ引きであった。しかし新田氏は中黒ので、このままでは使えない。和氏は「それは足利氏の紋所だ」と
いい、義貞の所へ行って「もらい受けたい」と申し出たが、義貞は渡さなかった。和久は怒り、高氏が京都で天皇から手厚い待遇を受けていることを吹聴し、将士の心を動かした。結果、将士は義貞から離れ、高氏の子の千寿についた。新田氏と足利氏の仲は悪くなった。後醍醐天皇は高氏を寵愛し、従三位参議に進め、天皇の尊治の一字を与え、「足利尊氏」と改めた。十二月、皇子成良親王に鎌倉を鎮めさせた。直義は執権になった。建武元年(一三三四)朝廷で戦功を評議して、尊氏を第一として武蔵国、常陸国、下総国の守護を管理させ、直義には遠江国の守護を管理させた。
関東は大乱の後で人心が落ち着いていなかった。直義は北条氏の政治を見習って、逃げていた者らを呼び集め、負傷した者を慰めた。そのため人々は心を寄せて、非常に人望があった。それだというのに京都の政治は古い制度を改変し、守護や地頭の所領地の収入から二十分の一を取り立て、御所の修繕に充てたり、紙幣を造ったりした。人民はかえって不便と感じた。武士に侮られていた公卿は、朝廷が回復したので、争って武士をこき使った。このたびの中興回復(北条氏討伐)に尽力した武士が手柄を書き留めて差し出し、「褒美がほしい」と京都に群がってきた。余りに大勢で、役人は見分けられない。調査に一ヵ月かかっても十人余を定めただけだった。ところが一方では内々の沙汰で、とうの昔に北条氏の領地を妃の藤原氏、息子の護良親王などに分け与え、残りの土地も京都の役人、宮中の臣下、歌を謡う子、白拍子に分けて、残りはなくなった。朝廷の評議と陛下内々の沙汰とに矛盾が生じ、数人で同じ村を争ったり、北条時代にもらっていた領地は元の通り所望していいとされたはずがとりあげられたりした。赤松則村は播磨国の守護を召し上げられ、わずかに佐用という一つの荘園の所有になったにすぎない。陛下の綸旨がたびたび変ることに非難の声があがった。「こんなことが続けば、武士は公卿の奴僕になる。なんとか大将をいただき天下の政権を執らせたい」と武士はささやきあった。
足利尊氏は名声、人望が著しく、皆心を寄せていた。護良親王は征夷大将軍になられ、尊氏を深く憎悪していた。尊氏が京都を平定したときのこと。護良親王の大将殿良忠は部下の家来を取り締まらなかったので、部下が狼藉を働き、尊氏が十人余を斬り殺して獄門に晒したことがあった。護良親王は音楽や女色に耽り、客を接待するのが好きだった。客はならず者で、酔うと怒って人を殺した。護良親王はひそかに兵士を集め「尊氏を滅ぼそう」と謀った。尊氏は兵を徴集する触れを入手し、後醍醐天皇に「謀反の企てがある」と讒言した。天皇は護良親王を鎌倉にお流しになった。鎌倉の直義はこれを迎え、幽閉した。
この年、北条氏の残党本間太郎、渋谷某らが乱を起こした。直義が平らげた。建武二年(一三三五)北条時行が挙兵し、しばしば鎌倉を攻めた。直義が応戦したが、負けた、成良親王を奉戴して西に逃げ、秘かに護良親王を殺させ、京都に使者をやって注進した。尊氏はみずから大将となって「鎌倉の時行を討ちたい」と願い出て、許された。だが「征夷大将軍になり、関東を管理したい」というのは許されなかった。「戦がおさまって、改めて評議する」との仰せであった。尊氏は怒り、朝廷に黙って出発した。武士どもは我も我もと従い、矢矧駅で直義と合流した。東海道から進み、時行と七回戦い、全部勝って鎌倉に入った。時行の兵は奔走した。そこで詔して尊氏を従二位に叙し、子の義詮を従五位下に叙した。千寿のことである。また詔して「京都に早く帰るように」と催促された。直義は尊氏に「朝廷も新田義貞も兄上を憎んでいる。兄上に今があるのは天運が強いからだ。なのになぜ虎の口のように危険な所へいくのか。いってはならない」といい、尊氏も従った。尊氏は勝手に征夷大将軍、関東管領と自称し、天皇から許されたと吹聴した。幕府を頼朝時代の役所の跡に建て、手柄のあった者を賞し、降参した者を受け入れ、関東にある新田の領地をとりあげ、将士に分け与えた。将士はみな尊氏についた。
京都では尊氏の謀反が伝わった。後醍醐天皇は見にいかせられた。細川和氏が、尊氏が新田氏を弾劾した書面をもって京都にきた。書面には「北条氏が反逆したとき、私尊氏は身を捨て、先頭にたち、肘を振るって戦い、短時間で勝利した。なのに義貞はやむにやまれず挙兵し、私が畿内を平定した後になって北条討伐を申し立て、三度戦い全敗し、籠城して守勢に回った。私の長男義詮が下野国で活躍してからは遠近の将士は争って味方についた。それゆえ義貞は北条氏に勝てたのに手柄を独り占めし、手厚い恩賞を得ようとした。まさに害虫である。私は鎌倉で苦労しているのに、京都で讒言し、天皇に諂う家来がいる。趙高が秦の政治を勝手にしたため章邯が楚に降参したのと同様だ。どうか義貞を誅する詔をお願いします」
義貞はこれを聞いて、自分の管内にある足利氏の土地を取り上げ、護良親王が殺害された様子を上書して申し上げた。このとき足利直義がひそかに諸国の兵士を徴集していたが、その徴集文を西国で入手し、朝廷へ届けた。十一月、ついに詔があり、足利尊氏、直義の官職・爵位を取り上げ、尊良親王親子を遣わして尊氏を討ちに行かられた。新田義貞はその副将になった。
2022・10・13
「足利高氏、六波羅を討つ」
足利高氏、六波羅を討つ
足利貞氏は上杉氏の娘を娶り、二人の子が生まれた。高氏と直義である。高氏は通称を又太郎といい、治部大輔に任じられた。直義は兵部少輔に任じられた。高氏は跡取りになり、赤橋守時の妹を妻とし、千寿が生まれた。守時は北条氏の一族である。
元弘元年(一三三一)、後醍醐天皇が兵を起こし、笠置山に立てこもり、北条高時を攻めた。高時は高氏と直義兄弟を送って攻めさせた。兄
かつて足利尊(高)氏像として教科書にも載っていた肖像画は、今は否定され、「騎馬武者像」と呼ばれている。
弟は父の喪に服していたが、高氏は強いて出発させ、西に向かわせた。兄弟は笠置山が陥落してから関東に帰還した。
元弘二年、高時は後醍醐天皇を隠岐島に流し、光厳天皇を立てた。じきに天皇は隠岐島から脱走し、伯耆国へ帰られた。官軍が一斉に六波羅の役所を攻めた。役所の長官北条仲時、時益はたびたび戦い、負けた。高時は高氏と名越高家に助けにいかそうとした。高氏は病だったので行きたがらなかったが、再三行くように強いた。高氏は激怒し、使者に「近いうちに出立します」といったが、信頼している者には「北条氏は源氏の家来だったのに、時の流れで、我々を家来扱いするようになった。私は官軍について北条氏を倒し、足利家を興そうと思うがどうか」と訊いた。上杉憲房、細川和氏は賛成した。そこで高氏は、あとのことを考え、家族を引き連れていこうとした。
ところがある人が北条高時に「長い間源氏は兵権を失っています。そのため現下の体制からみて、高氏に謀反の心がないとは限りません。念のため妻子を人質にとり、起請文を書かせたらよろしいでしょう」といった。
高時はなるほどと思い、穏やかなものいいで高氏に申し出た。高氏は戸惑い、直義に相談した。直義は「兄上は道徳に外れた北条氏を註しようとされています。神が助けないはずはありません。むりやり書かされた起請文など、神も認めないでしょう。千寿は信頼のおける家来に守らせて、夫人は里の赤橋氏にあずけておけばよい。兄上は高時のいいなりになったふうを装い、大事を成就なさいませ」。高氏はその言葉に従った。
高時は高氏のために送別の宴を催し、白旗を高氏に与えた。「これは八幡公から伝わり、右大将を経て我が家に貰ったものである。餞別としてつかわそう」。八幡公は義家、右大将は頼朝である。高氏はこれをもらい、決意を固めた。直義以下の一族三十二人、兵士三千人を引き連れて西に向かい、三河国まで来て、旧縁のある吉良義に出会い、計略を話した。貞義は「実は私も同じことを申し上げようと思っていたところでした」と賛成した。高氏はいっそう決意を強くして京都に行き、ひそかに使者を伯耆国の行在所にやって、官軍に降参を申し入れた。
後醍醐天皇は平素から高氏の名声を聴いておられたので、非常に喜び、使者にまで土地を与え、「そなたが諸国の官軍を指揮し、国賊北条氏を滅ぼせよ。滅ぼしたなら、そなたの望み通りの褒美を使わす」と詔した。
名越高家が送れて京都にやってきた。官軍の大将源忠顕、赤松則村と狐川で戦って敗死した。このとき高氏は桂川の西で酒盛りをしていたが、一つの寺を指さし、名を尋ねた。ある人が「勝持寺です」というと、高氏は「寺の名のように買って自分のものにするぞ」と笑った。それから伯耆国の行在所を攻めにいくといいふらし、馬に乗って丹波国に入った。
元弘三年(一三三三)四月二十七日、篠村(ささむら)に至って、白旗を八幡神社の社前に建てた。丹波国の人久下時重が二百騎を引きつれて真っ先にやってきた。紋所は「一番」という字であった。高氏は理由を尋ねた。時重は「昔、右大将源頼朝公が挙兵されたとき、先祖の久下重光が誰よりも早く加勢しました。そこで頼朝公が自らこの字を書いてくださいました。以来紋所としております」。高氏は「我が家にとってめでたいことだ」と非常に喜んだ。
五月七日、高氏は兵を引き連れて、南六波羅を攻めようと、自ら戦勝を祈り、一本の矢を奉納した。直義以下の一族もこれにならい、矢を奉納した。矢は堆く積まれた。いよいよ出発した。沿道の兵は付き添い、京都に入る頃には五万人にも膨れ上がり、神祇官の役所跡に陣取った。
六波羅の長官北条仲時、時益は二万人の兵で防がせた。我が軍(足利)は大いに撃破し、源忠顕、赤松則村と合流して六波羅をとりまいた。我が軍の細川和氏は「六波羅を包囲すると、敵は逃げられないと観念し、死守しようとかえって志を堅くし、我が兵を失うことになる。それよりおびきだして撃ち走らすに越したことはありません」というので、高氏は一方の口を開けた。果たして逃げだし、降参する者が多かった。北条仲時、時益は光厳天皇のお供をして逃げだし、近江国で討ち死にした。高氏は行在所に報告した。後醍醐天皇は京都の御所へ帰り、光厳天皇を廃して位に復(かえ)られた。この日すぐ高氏を従四位下に進め、左兵衛督に任じ、昇殿を許された。直義を正五位下に叙し、左馬頭に任ぜられた。高氏らは鎧を着た武者五千人を連れて、天皇に付き従った。
2022・10・11「足利氏の出自」
足利氏の出自
足利氏は源義家(八幡太郎)から出た。義家が京都にいたころ、子の義国はあることのために関東に流されて上野国にいた。義国はそこで二人の子、義重と義康が生まれた。弟の義康は下野国足利郡を所領地としたので、地名をとり、足利氏とした。義康は検非違使左衛門尉になった。保元の乱のとき、源義明に従って御所を護衛して、崇徳上皇方の平家弘を捕らえたことから、その功で蔵人に任ぜられ、昇殿を許された。
義康には義清、義長、義兼の三人の子がいた。末子の義兼は身体が大きく、立派で、心が素直で、慎み深い性格であった。兄二人は源義仲の大将になり、平家との水島での戦いで討ち死にした。義兼は鎌倉で征夷大将軍源頼朝に従い、最も優遇された。頼朝の軍に従って九州で平家を討ち、またお供をして陸奥国で藤原泰衡を討った。その後、大河兼任が挙兵したため、再び陸奥国が乱れたが、義兼は諸将を率いて陸奥国を征服した。おかげで頼朝は天下を平定できた。頼朝は奏上して義兼に上総介を授けてもらい、北条時政の娘を娶らせた。かくして足利義氏が生まれたのである。
義氏はたびたび北条氏を助け、難局を切り抜けた。正四位下左馬頭になった。義氏の子が泰氏、泰氏の子が頼氏、頼氏の子が家時、家時の子が貞氏である。代々足利郡に居住し、白旗を用い、紋所は二つ引きであった。細川、畠山、仁木、岩松、桃井、吉良、今川、斯波、石橋、石堂、一色の諸族は足利氏から出て分かれた。足利氏は代々北条氏と婚姻を結び、協力し、頼りあっていた。だが足利家時、貞氏は家柄を鼻にかけ、人の下位に立つのを恥じ、常々北条氏を滅ぼそうと思っていた。
丸の内に二つ引き紋
(黒白反転させたもの)