頼山陽『日本外史』北条氏を見延典子が口語訳します。アーネスト・サトウは『日本外史』の中で最初に「北条氏」を英訳しました。
写真はNHK総合で放送中の「13人の鎌倉殿」からお借りしています。
2022・5・15
北条泰時、執権になる
藤原氏の血をひく北条政村が執権をねらう。烏帽子の三浦氏との関係悪化。北条義時、政子、大江広元らが亡くなる。式目五十条を作る。
北条泰時、執権になる。
元和元年(一二二四)大きな干魃があった。世間では北条氏が天皇に対してやった乱逆のせいだと噂した。北条氏は神仏に祈祷し、お祓いにつとめた。六月、北条義時が病死した。北条泰時、時房は関東に帰った。政子は執権の職を泰時に継がせて、将軍藤原頼経を守らせようと思った。だが親の喪に服しているのでどうしたものか迷い、大江広元に相談した。広元は「はやく相談して、泰時を執権にして人心を鎮定したらよいでしょう」といった。
泰時には八人の弟がいた。そのほとんどの母は藤原氏の出であった。泰時は弟たちに父の土地をわけ与え、自分はごく少ししかとらなかった。というのも「自分は将軍になったので、他には何も求めない」というのだ。だが継母の藤原氏は弟の藤原光宗と相談して、自分の生んだ四郎(北条)政村を執権にし、自分の娘婿の参議藤原実雅を将軍にしようとした。四郎(北条)政村が元服したとき、三浦義村が烏帽子親になり、父と子の約束を交わした。そこで藤原光宗は弟藤原光重としばしば三浦氏を訪ねた。ひと騒動が起きそうなので、鎌倉幕府は騒々しくなり、ひそひそ話がさかんになった。ある人が北条泰時を戒め、兵備を厳重にするように勧めた。だが泰時は「兵備はそのままでよい」といい、出入りの許可を数人だけにすることにした。また弟時氏と従弟の北条(佐介(時盛)とを六波羅に遣わすことにした。二人は「鎌倉のほうが心配だ」といった。泰時は「いや、京都のほうはよほど心配だ」といい、予定通り二人を派遣した。
一人の腰元が泰時に耳打ちして「藤原光宗、光重兄弟が大奥の前で『決して心変わりは致しません』と話していりのを耳にしました。おそらく恐ろしい企てがあるに違いありません」。泰時は「兄弟とも心変りしないというのは結構なことではないか」といった。しかしいつまでも騒ぎはおさまらない。ある夜、政子は一人の腰元を連れて、三浦義村の屋敷にいった。義村はあわてて出迎えた。政子は「近ごろは世間の噂が騒々しい。聞けば、北条政村、藤原光宗があなたの屋敷で毎日相談しているそうですね。何を企てているのですか。よもや泰時を滅ぼそうなどというのではないでしょうね」というと、義村は「まったく存じません」と答えるので、政子は顔色を変えて「知らないとはいわせませんよ。あなたは政村を守り、謀反を企てているのですか。それとも和平がお望みなのですか」と怒った。義村は「四郎(北条)政村に他意はありませんが、藤原光宗は少々異なった目論見を持っています。私はやめさせるつもりです」。
翌日、義村は北条泰時に会いにいき、「私は故義時殿から手厚い待遇をうけたことは忘れていません。お子の貴公も、四郎殿(政村)もどちらも大切なお子たちです。私の願いはただ一つ安穏平和です。光宗殿から謀反の企てをもちこまれましたが、諫めて納得させました」
泰時は「われわれは政治について仲違いがあるわけではない。えこひいきなどしない」と顔色も変えに応じた。
さらに十日たち、再び鎌倉が騒然となった。政子は藤原(九条)頼経を抱いて泰時の屋敷に入り、三浦義村はじめ多くの老将を呼び寄せ、大江広元に罪を認めさせた。また藤原実雅を京都に送り返し、藤原光宗を信濃にながし、藤原氏を北条に帰した。その後、朝廷の評議で藤原実雅が越前に流されることが決まり、万事けりがついた。ただ、その一味には格別の咎め立てはしなかった。嘉禄元年(一二二五)六月、大江広元が没した。七月政子が没した。
北条泰時は評定、引付をおいて政事の相談をした。また自分の家に家令を置き、平盛綱、尾藤景綱に任じた。地頭の侵略を再び禁じ、地頭は国司と張りあってはならないと命じた。京都には篝火卒を置き、非常時に備えた。鎌倉の将士のうち、六衛府の官職を帯びながら京都で実際に護衛していない者や、護衛していても期限に遅れた者は京都の役人に科料を納めさせた。
貞本元年(一二三二)北条泰時は三善康連と相談して式目五十条を定め、政事や訴えを裁くときの助けとした。評定衆十二名とともに「我らは正直に天下の裁判を司る役目である。もし不公平をしようとすれば国つ神に註されるだろう」と誓った。また「役人どもが裁判をする際は、軽い罪ならその被告だけにとどめ、巻き添えにさせてはならない。盗みをした者はその値を倍にして罪をあがなわせる」
武田信光が海野幸氏と境界を争った。海野氏が正しかった。それで泰時は海野氏に与えた。ある人が「武田信光が怨んでいます」といった。泰時は「以前、和田氏が胤長の罪を許してほしいと頼んできたことがある。亡父はそれを聞き流してしまった。和田氏は争うことさえできなかった。要するに訴訟事というのは私意を挟んではならないものなのだ。それさえ注意すればよい。人の怨みをおそれて判決しなければ、執権などいらないことになる」。武田は恐れ入り、書面を提出して他心なきことを誓った。泰時はこれを諸将に示し、同様の場合は誓書を提出することを慣例にした。
2022・5・11
東軍の勝利
北条氏の権勢威力は盛んになり、天皇、上皇の処遇まで決める。
三浦義村(兄)義胤(弟)の父三浦義澄
東軍の勝利
三道から集まってきた東軍は京都の町にあふれ、官軍兵を捕らえたり、斬ったりした。三浦胤義は部下を率いて東寺に立て籠もった。官軍は佐原景吉に攻めさせた。胤義は「おまえは我が一族ではないか」と叱りつけた。胤義は部下の騎兵をことごとく失い、長男とともにその妻の家に行こうと木島(京都の西)の森にある神社に隠れた。知り合いの僧に出会った。僧は自殺を勧めた。まず長男が切腹した。胤義は僧に「まず我々父子の首を妻に見せたあと、三浦義村に『兄さんは手足のような弟を自ら殺し、定めし満足であろう』と伝えてほしい」と頼んだ。僧はその通りにした。義村は二人の首を泰時に送った。
泰時は佐々木経高が後鳥羽上皇の謀略を助けたあと、鷲尾(京都の西)の山中に逃げ隠れていると聞き、助けてやろうと思った。だが経高は自殺した。子の隆重、兄の子の広綱も没した。広綱の幼子は赦されるはずであったが、叔父の信綱の願いで斬った。泰時は時房と相談し、今回の件ではできるだけ罪を軽くし、探し出してまで罪人にするのはやめることにした。奏上して、首謀者を求めた。後鳥羽上皇は藤原忠信、源有雅、藤原光親及び中納言藤原宗行、参議藤原信能だと応えられた。泰時は彼らを捕まえ、諸将に預けた。北条時氏は自分とともに宇治川を渡った六騎を呼びよせ、酒で慰労した。勝利を鎌倉に知らせた。鴨倉では上も下も喜びあった。
北条義時は、軍勢を西へ派遣したあと、不安で日夜怯えていた。折しも雷が厨に落ちた。泰時は大いに畏れ、大江広元に「わが運命は極まっただろうか」と訊いた。広元は「君臣の運慶はみな天が司っている。今、事の正か不正は天の心にある。何も恐れることはありません。故将軍頼朝公が陸奥の藤原泰衡を討って勝たれたときも、雷が陣屋に落ちました。であれば、これは吉兆かもしれません」。そのうち勝利の知らせがやってきた。
広元は文治年間、平家に味方した者を罰した先例に倣い、公卿の斬罪を論決した。泰時は京都で殺すことを遠慮し、七月諸将に命じて関東に送らせ、途中で斬り殺した。ただ、藤原忠信だけは妹が源実朝に嫁いでいたため、越後に流した。その後、泰時は藤原光親が後鳥羽上皇を諫めたという書面を入手し、光親を殺したことを残念に思ったという。義時は九条廃帝を廃し、高倉天皇の孫で、守貞親王の子を立てた。御堀河天皇である。ついに後鳥羽上皇に迫り、髪を剃って僧形になってもらい、隠岐にお移しした。順徳上皇は佐渡、後鳥羽上皇の皇子雅仁、頼仁の両親王は但馬、備前にお移しした。土御門上皇はこんどの事件に関係ないばかりではなく、これを諫められて。それでそのまま不問に付した。土御門上皇は義時に「親、兄弟が遠方に行くのに、私一人が京都に留まっているのは忍びない」と仰せになった。そこで十月、土御門上皇を土佐、のちに阿波にお移しした。同月、藤原秀康父子が奈良で捕まえられた。義時は没収した領地三千余ヶ所を戦功のあった将士に分け与え、自分は一ヶ所もとらなかった。北条氏の権勢威力はますます盛んになった。泰時は官軍を破って北条時房とともに京都に留まり、都を鎮撫していた。四年、六波羅の南と北に分かれて留まり、両六波羅と称した。
泰時は京都にいたとき、栂尾(とがのお、京都の西)の僧高弁の高い評判を聞いていたので、ある日出かけた。高弁は泰時に「国家を治めるのは人の病気を治すようなものです。原因も調べずむやみに薬をやると、病気は悪くなるばかりです。治乱の原因は上に立つ者の欲心から起ります。貴公が欲心を絶って民を導けば立派な政治ができましょう」といい、泰時は大いに喜んだ。
2022・5・9
北条義時の西征②
官軍と戦う北条氏ら東軍。北条泰時の活躍。山陽の合戦譚が冴える。
六月一日、官軍はもろもろの分担を決めた。宮崎定範・仁科盛遠らは越中方面(北陸道)を防ぎ、藤原秀康、三浦胤義らは諸侯を九隊に分け、大井川の渡しを渡って官軍の大将大内惟信を撃ち、敗走させた。三浦胤良は助けに行こうと思った。藤原秀康は「われわれは今、前後から敵の攻撃を受けている。いっそ退き、宇治川、勢多を守ったほうがよい。詔のご趣意もそのようである」といって、真っ先に馬にむち打って、逃げ出した。三浦胤義以下みな従った。
官軍の大将山田重忠は源満政の子孫で、そこに留まり、奮戦した。北条泰時が川を渡ってきた。重忠は矢継ぎ早に射て、東兵を倒した。重忠はかなわず、逃げ出した。官軍の大将鏡久綱は自らの姓名を旗に記し、大江(毛利)季光と戦って負け、「臆病者の藤原秀康と事を共にしたのが残念だった」といって自殺した。北条泰時は武田信光と合流した。三浦義村は策をたて、全軍を五隊に分けた。子の泰村が「渡しはかならず泰時殿に従い、生死を共にすると義時殿に誓いました」といい、父の義村と別れ、泰時に従った。泰時は太鼓を鳴らして京都に向かった。
京都では驚き、震えた。九条廃帝は比叡山に御幸になった。山徒は「とうていわれわれは東軍を防げません」と体よく謙遜して断った。九条廃帝は還られ、手もとの兵二万五千を分けて、宇治、勢多、淀を守らせた。北条時房は勢多を攻めた。山田重忠は山徒二千を使い、勢多端を切り落として奮戦した。時房は勝てず、退却した。北条泰時は宇治を攻めた。前中納言源有雅、参議の藤原範茂(のりもち)が奈良の僧徒万人を率い、河岸を埋め尽くす勢いで陣取った。
折しも長雨で用水が満ちていた。北条泰時は明日になるのを待って進もうとした。三浦泰村はその夜に先んじて進み、河を挟んで矢で交戦した。足利義氏が助けに行った。泰時は全軍を率いて、従い、進んだ。橋板はめくり取られていた。平氏は橋桁を伝わって進んだ。官軍から矢や石が雨のように降ってきたので、関東の兵士は死者が多かった。泰時は芝田兼義に川を泳いで渡らせて見た。春日貞幸、佐々木信綱らが後に続いた。どのうち貞幸の馬が負傷し、貞幸は溺れた。従者が助けた。泰時は自分で焚き火をして暖めてやった。貞幸は生き返った。将士は我先に渡ったが、溺れる者は八百人もいた。信綱は真っ先に中島(なかのしま)に着いた。子の佐々木重綱は十五歳であったが、父の馬の尻尾をつかみ、泳いで渡った。信綱は重綱に命じ、兵士を送ってもらうよう頼みに帰らせた。泰時は承諾して、すぐ兵士を派遣した。子の時氏を呼び、「我が軍は今、負けようとしている。お前は死ぬ覚悟で事にあたれ」と命じた。
時氏は六騎を率いて渡った。三浦泰村が続いた。泰時も渡ろうとした。春日貞幸が馬を引いて諫めたが、聞きいれようとしない。貞幸は「では鎧を脱いでお渡りください。でなければ、鎧の重みで溺れます」と欺いた。泰時は馬から降りて鎧を脱いだ。その間に貞幸は馬を奪って立ち去った。泰時は渡ることができなかったが、五百騎は渡ることができた。芝田兼義、佐々木信綱も対岸に渡り、共に官軍を攻め立てた。互角の勝負であった。足利義氏は民家を壊し、その材木で筏を組み、軍隊を渡した。泰時も向こう岸に着いた。武蔵、相模の将士も大いに奮戦した。官軍の源有雅は潰え去った。右衛門佐の藤原朝俊は八田知尚、佐々木氏綱らを率いて留まり戦ったが、討ち死にした。時氏は火をつけ、進んだ。三浦義村と大江(毛利)秀光とは大納言藤原忠信を淀に攻めて、打ち破った。山田重忠、三浦胤義は逃げ帰り、後鳥羽上皇に逐一奏上しようとしたが、後鳥羽上皇は門を閉めて入れなかった。重忠が門を叩いて「臆病者の主君のためにひどい目に会わされた」と罵ったあと、嵯峨に行き、自殺した。胤義は逃げ帰った。
泰時は樋口河原(京都の五条近く)まできたところで、後鳥羽上皇の院宣を持った使者に出逢った。馬を下り、藤田三郎にそれを読ませた。「近日のことは私の意思から出たことではなく、みな家来どものしたことである。その方は彼らの罪を論定し、兵士に京都で騒ぎ、乱させないにせよ」とある。泰時は時氏と六波羅に陣を進めた。北条(名越)朝時が北陸道をすすんだときには、従軍兵は四方までになった。官軍は大弓を張り、寒原の砦で防いだ。朝時は夜、数十頭の牛の角に薪を縛りつけ、それに火をつけて官軍を追い立てた。官軍は敵が来たと思い込み、大弓を放った。東軍の兵はその間に砦を越えて市振(越後)まで行った。そこでも官軍が険しい地に立て籠もり、柵を立てて守っていた。東軍の騎兵は海を渡り、歩兵は柵を破って進み、砺波山で戦った。仁科盛遠を殺し、宮崎定範を敗走させ、京都で泰時と合流した。
2022・5・7
北条義時の西征①
北条泰時を大将に京都に攻め入る。大江広元の助言による。
北条義時の西征
北条義時の屋敷に集まり、相談した。三浦義村、安達景盛は「足柄、葉米を食い止め、官軍がくるのを待とう」といった。大江広元は「それはいけない。険阻なところを守り、ムダに日を過ごしては心変わりしてしまう。それは負ける戦術というものだ、それより兵を直ちに進めて京都を攻め、成功か失敗かは天運にまかせたほうがよい」といった。
政子は之に従い、北条泰時を大将にした。義時は武蔵だった。武蔵野兵が来るのを待ち、出発しようとした。五日たち、ある人が「根拠地を離れ、遠く敵地に進むのは非常に危ない策だ」といった。大江広元は「武蔵から兵が来るのを待つのは良いやり方ではない。ぐずぐずしているから異論が出るのだ。こんなに延ばしては、武蔵野の兵とて心変わりしないとはいえない。今夜のうちに泰時ただ一人でも鞭を当て、出発したほうがよい。そうすれば関東の武士は雲の竜を追うように従うに違いない」。三浦康信は病気で伏せっていた。政子が呼びよせて相談した。康信の返答も広元と同じであった。泰時を出発させることにした。
夜明けころ、泰時は十八騎を率いて西に向かって出立した。相模守の北条時房、前武蔵守足利義氏、駿河守三浦義村らが従った。三日間で十万騎にまでなった。彼らは東海道から進んだ。式部丞の北条(名越)朝時は北陸道から進んだ。武田信充、小笠原長清らは東山道から進んだ。今回の軍は、父が行けば子を留め、子が行けば父を留めてというようにして従い、合わせて十九万人にも膨らんだ
北条義時は押松を解放し、後鳥羽上皇に「私は罪もないのに、征伐されることになりました。逃げ隠れは致しません。訊くところ、陛下は戦争がお好きだそうで、長男泰時と次男朝以下十余万人の軍勢を差し上げて戦争をさせますので、ご覧下さい。もしご満足いただけなければ、他に二十万人ほどおります。私自身は大将になり、後から出かけます」と上奏させた。朝廷の者たちは顔色を失った。後鳥羽上皇は「関東武者の中には、隙を見て泰時を誅する者が出ようから、案ずるに及ばない」とおっしゃった。
2022・5・4
承久の変
後鳥羽上皇の挙兵 三浦義村と北条義時の絆 北条政子の統率力
承久の変
三年(一二二一)五月、後鳥羽上皇は順徳帝から太子に位を譲らせ、相談に行き来しやすいようにされた。太子は位に就かれた。九条廃帝である。上皇は城南寺で流鏑馬を催すことにかこつけて、畿内の兵千七百人を召集し、藤原公経を押しこめ、京都経営の任にあった大江親広、伊賀光季を呼び寄せられた。親広は脅かされて服従したが、光季は参内しなかった。三浦胤義、藤原秀康の二人で光秀を討たせた。光秀、子の光綱は奮闘して討ち死にした。その日、上皇は五畿七道に詔して、北条義時を討たせることにした。将士を集めて、「関東の者で義時に組みするものはどれくらいいるか」とお尋ねになった。胤義は「千人ばかりに過ぎません」と答えた。すると荘家定という者が進み出て「そうではございません。北条氏は人々の心をとりこんで久しく、北条氏のために討ち死にしてもよいと言う者は数えきれません。私も関東にいたなら、やはり丸め込まれていたでしょう」といった。上皇はこれを聞いて不機嫌になり、ますます兵を集められた。押松というよく走る男に詔を持たせ、関東の諸豪族を説得してまわらせた。特に三浦胤義には手紙で「褒美をやるから」と書かせ、三浦義村を誘わせた。
ところが義村はその書面を北条義時に見せた。義時は「どちらにつこうが好きにしろ」といった。義村は「二心はありません」と誓った。義時は「自分は以前からこんなことがあるだろうと思っていた」と笑った。それから鎌倉中を捜索して押松を捕らえ、後鳥羽上皇の詔を奪って焼き捨て、政子に事情を話した。政子は諸将士を御簾の下に集めて、安達景盛に命令を伝えさせた。「私は今日、皆に別れを告げる。先の将軍源頼朝公ご自身が鎧をつけて刀をとり、乱世を鎮めて鎌倉幕府を開かれたことは御存知の通りである。今、君に諂(へつら)う者どもが君を騙し、欺き、鎌倉幕府の事業を傾けようとしている。いやしくも方々が先将軍のご恩を忘れていないなら、心を一つにして力を合わせ、讒言する者らを成敗して、これまで通り幕府の仕事を立派に成し遂げるようにせよ。もし京都に行きたい者は今のうちに行ったらよかろう」。諸将は皆感激して力を尽くすことを誓い、誰一人辞退する者はいなかった。
2022・4・30
後鳥羽上皇の憤怒②
後鳥羽上皇は、逆らう北条泰時を討つ決意を固める。
義時は右京権大夫になり、陸奥守を兼ねていた。大江広元らと諸将に頼朝の定めた古い規則を修め、行わせ、義時の妻の弟伊賀光季、広元の子親広と京都を護衛していた。実朝が暗殺された翌月、阿野全成の子時元が駿河で兵を起こし、自ら将軍になろうとした。義時は兵を送って撃ち殺した。頼経が鎌倉に着いた月、内裏の守護源頼茂が子の頼氏と仁寿殿に入り、火を放って自殺した。思うに頼茂は源頼政の孫で、自ら源氏の本家と思っていた。そのため将軍になろうと謀り、事が露見して誅せられたのである。
後鳥羽上皇は、源氏は衰えて王政を回復するときがきたと思われていた。ところが関東の勢いは以前のまま強かった。関東の家来の仁科盛遠という者が二人の倅を連れて熊野へ参詣し、たまたま道で上皇の行幸に出逢った。上皇は盛遠の倅を西面の武士に取り立てた。盛遠はたいそう喜び、そのまま京都にとどまり、帰らなかった。義時は怒って領地を没収した。上皇は返すように命じたが、義時は詔を受けなかった。また上皇の寵愛する白拍子亀菊というものは長江、倉橋の二箇所に土地をもらっていたが、地頭は女だと馬鹿にしていた。上皇は怒って地頭の職をもぎ取らせようとされた。義時は「先の右大将実朝は天子の命で平氏を滅ぼしました。そこでお願いして地頭という職を置き、功ある者を賞したのです。それほどの職を私はもぎ取ることはできません」といった。上皇は義時が重ね重ね逆らうので怒りを増幅させ、義時を討つ決心をされた。
義時は平素から右大将藤原公経と仲がよかった。上皇はまず公経を殺そうとされた。右大臣藤原公継はこれを止め、「私は、かねてから我が国は葦原いわれていると聞いております。その原のひろいところは関東です。西に移るに従い、土地が小さくなります。今、小さい土地をもち、大きな平野を持つ者に敵対し、兵の弱い者が強い者にたてつき、さらに時期を待たず行い、行うにも無闇に考えなく行っています。どう考えても、よいところはありません。あの義仲が京都を荒らしたときの難儀を戒めとなさいませ」と諫めた。権中納言藤原光親も極力諫めた。
しかし上皇はお聴き入れなさらなかった。ついに西面の武士藤原秀康に、関東の武士三浦胤義を取り込ませるように命じた。胤義の妻は頼家の端女で、そのころ頼家の胤を宿し、一男を生んだ。義時はそれを殺し、妻はひどく悲しんだことがあった。上皇の陰謀の当時、胤義は京都を護衛していて、関東に帰ろうと思っていなかった。秀康は酒を飲みながら、それとなく説得した。すると胤義は躍りあがって「私の兄の義村なら難なく義時を生け捕りにできます」と承諾した。上皇は非常に喜ばれた。
2022・4・27
後鳥羽上皇の憤怒①
源実朝の増長と暗殺。関白藤原兼実の曾孫藤原頼経が2歳で将軍になる。北条政子が尼将軍と呼ばれる。
後鳥羽上皇の憤怒
この頃の鎌倉幕府の権勢は日々盛んになった。後鳥羽上皇は常に憤られ、源氏を滅ぼす算段をされていた。初めに位を太子に譲られた。土御門天皇といった。間もなく弟君に譲らせた。順徳天皇といった。だが政治は常に上皇の手中にあった。後白河上皇の時から、上皇のお付きとして北面の武士が置かれた。後鳥羽上皇は新たに西面の武士も増設され、広く武芸にたけ、勇気のある者を召され、ご自身も刀剣も鋳造された。北条実朝を増長させてから打ち倒すことを考えられ、続け様に官位を進められた。実朝はそれに気づかず、しまいには左近衛大将になりたいと願い出た。
北条義時は大江広元に「故将軍頼朝公は官位の宣下があるごとに辞退され、子孫のために慶福の余地を残しておかれた。然るに現将軍(実朝)は三十歳にもならぬのに、官位の昇進が異様にはやい。また入朝もせず家来に官位をもらわせている。私は愚か者ではあるが、将軍の将来を気遣っている。諫言しようと思いつつ、叱られるのを恐れている。あなたはなぜ諫めないのか」といった。広元は「私も同じことを思っている。頼朝公は何につけても下問されたが、今の将軍はそうではない。だから今日まで黙っていた。将軍は居ながらにしてできあがった仕事を受け継ぎ、順序を飛ばして栄進された。災いが積み重なって害に遭うのは必定で、免れることはできない。今、貴公がおっしゃったことを申し上げてまいります」といい、幕府に出向き、諫言したが、実朝は聞き入れなかった。
六年、望んでいた北条実朝は左近衛大将になり、さらに進んで右大臣になった。順徳天皇の承久元年(一二一九)正月、鶴岡八幡宮で新任の拝賀式が行われたとき、頼家の子の公卿に狙い撃ちされ、死んだ。公卿は自ら将軍になろうとした。義時は政子の命令で公卿を誅した。
政子は義時と熊野に参詣して、京都を通った。後鳥羽天皇は政子にお会いになろうとしたが、政子は「私は関東の田舎の年寄り尼で、朝廷の礼儀作法に慣れていませんので、ご辞退いたします」と伝えた。そこで前太政大臣頼実の妻をやって政子を慰労させた。政子は頼実の妻に「実朝に子はありませんからぜひとも皇子をお一人下さいませんか。その方を鎌倉の主にしたいのです」といった。実朝は公卿に殺されたので、諸将に連判させて朝廷に「願わくは、上皇に二皇子のうちからいただき、将軍にしたいものです」と申し上げた。上皇は「そんなことをしては二人の君を立てることになる」と許されなかった。実朝が亡くなったので、なんとかしなくてはならず、藤原頼経を請うた。頼朝の妹の婿藤原能保は娘を摂政良経に娶せた、良経は関白兼実の子である。良経が道家を生み、道家が頼経を生んだ。だから源氏と少し関係があるので、義時は相談をまとめ、時房を京都につかわし、頼経を請うたのだった。
七月、許されて頼経は鎌倉にきた。二歳であった。政子は政を御簾の内で聴いていた。政子ははっきりした性格で、決断力があり、頼朝を助けて天下を平定し、諸将から畏れ、敬服されていた。皆、尼将軍と読んだ。従二位に拝せられたので二位尼とも言われた。
2022・4・22 和田の乱
和田義盛は北条時政を怨み、謀反を起こしすが、討たれる。畠山重忠の末子の僧重慶も日光山で謀反を図り、捕らえられる。
和田の乱
これより先、和田義盛は上総国司にしてもらいたいと願い出たが、許されなかった。。頼朝の定めた制度では侍は国司になれないことになっていたからだ。義盛は大江広元を仲介に、願書を出して頼んでみた。三年たっても許しが出ない。諦めて「提出した願書を返してください」と頼んだが、これもかなわなかった。建保元年(一二一三)、義盛の子や甥が泉親衡という者に加勢して、亡くなった頼家の子を立てて乱を企てた。そのことがばれた。義盛は「倅の罪をお許しください」と願い出て、許された。さらに一族を皆ひきつれて幕府へ向かい「甥も許してください」と頼んだ。ところが甥は首謀者で、許すわけにはいかない。義時は甥を縛って獄吏に渡した。
五月二日、義盛は兵を挙げ、謀反をした。三浦義村は一族の関係から、これにくみした。だが弟の胤義と相談して、北条氏に自首した。ちょうど北条氏は宴会の最中で、義時は客と碁を打っていた。三浦氏からの報告がきた。義時は碁を打ち終えてから立ちあがり、烏帽子をかぶり、水干の衣を着て幕府に出かけた。大江広元とともに実朝を頼朝の影堂に移し、長男の泰時を大将に和田氏を防がせた。
次男の北条朝時は、和田義盛の子義秀と戦って傷を負った。義盛の兵は勝った勢いに乗じて、進軍しできた。兵士らの呼び、叫ぶ声が天までも震わせた。午後四時半ころから戦いが始まり、星が出てもやまない。泰時は戦いを指揮し、自ら士卒に先立って進んだ。翌朝、義盛の兵を討って退け、自分で十字路を食い止め、足利義氏に追いかけさせ、討たせた。敵兵は新手が加わり、勢いが出てきた。北条義時は大江広元と連名で、武蔵相模の兵に助けを求めた。敵の勇将土屋義清は流れ矢に当って死に、兵はひどく意気阻喪した。義盛以下が敗北して、死んでしまった。泰時は首や生け捕りを献じて酒宴を開き、諸将士を労った。その席で「余はもう酒は飲まない。昨日宴会に参加して、翌日乱が起った。自分は鎧を着て、馬に乗ったが、二日酔いだった。このとき酒は飲むまいと思った。そのうちに戦うこと数十の交戦で喉が渇き、水を求めた。葛西六郎が杯をとって酒を勧めるので、ぐいと飲み干した。自分の心の変わりやすさはなんと甚だしいことか。このあとは決して飲まぬぞ」といい、まもなく論功行賞を行った。泰時は賞を辞して「義盛には元来謀反の心はなかった。ただ、私の親父を恨んでいた。その上、諸将士の多くはこの戦で討ち死にした。自分は父のために仇をうっただけだ。どうして褒美などもらえよろうか。それより今度の件で討ち死にした人たちの家を救ったほうがよい」といったが、聞き入れられなかった。義時は義盛に代わって侍所の別当になった。京都に書面を出して、ざわついている将士を鎮め、落ち着かせた。
九月、畠山重忠の末子の僧重慶が日光山で謀反を図った。小山宗政を使い、捕らえた。宗政は重慶を殺し、帰って報告した。実朝は人を介して宗政に「重忠は無実の罪で殺され、その血筋の者が変事を起こした。しかし本当に謀反を起こしたか否かはっきりしていない。それだというのに斬ったのは何ごとか」と伝えた。宗政は目を怒らせて「あの坊主の謀反の形跡は明白だ。私が捕虜にしないで殺したのは、将軍が奥向きの頼みを聞き入れ、彼をお許しになることを恐れたからだ。将軍は歌を詠んだり、蹴鞠をしたり、武備をすててしまわれ、女を重んじ、兵士を軽んじられる。没収された多くの土地は皆ご寵愛の妾どもにお与えになる。ああ、将軍頼朝公のなされた事業も廃れてしまった」。実朝は怒って、宗政の出仕やお供を禁じたが、間もなく解かれた。実朝は人となりが優しく、やわらかで、詠歌に耽って溺れていた。罪人も歌さえ献上すれば許された。それで軍事や国事はみな義時によって決められた。二年冬、和田氏の残党が京都で乱を起こし、京都守護の番兵が平らげた。七月、鎌倉の商人の数を一定にした。
2022・4・20
畠山氏の乱
畠山重忠は北条時政の娘婿。だがもうひとりの娘婿の源朝雅は牧の方が生んだ娘だったため、牧の方に疎まれ、北条義時らに殺される。
北条時政が68歳で没する。
畠山氏の乱
この年、北条時政は娘婿の源朝雅に関西の守護を率いて京都を守らせた。元久元年(一二〇四)、北条義時は相模守になった。二年、畠山重忠が謀反したと告げる者があった。義時と時房の二人が兵を率いて討った。
もともと重忠と朝雅は時政の婿であった。朝雅が娶ったのは牧の方が生んだ女で、それゆえ最も親愛されていた。この年、実朝は京都から夫人を娶ることになり、重忠の子重保らに命じて迎えさせた。重保は朝雅を六波羅に尋ねていっしょに酒を飲んだところ、礼儀ごとから言い争いになった。朝雅は怒って牧の方に讒言した。牧の方は時政と相談して重忠父子を殺そうと企て、謀反をたくらんだと言い立てた。時政は義時、時房を呼び、討たせる相談をした。二人は諫めて、やめさせようとした。時政は怒って、内に入った。牧の方は義時に人をやり「私が継母だから、重忠を讒言するとでもいうのか」といわせた。義時はやむを得ずこれに従い、重保を撃ち殺し、鶴峰で重忠と戦い、斬った。
七月、時政は朝雅を実朝に代わって将軍にしようとした。実朝は時政の屋敷にいた。政子は諸将をつかって、実朝を義時の屋敷に移した。時政の兵の多くは義時側についた。時政は致し方なく、頭を剃って北条に隠居した。六十八であった。十一年後没した。この月、義時は兵をつかって朝雅を誅さしめ、時房を代わって武蔵守にした。
これに不満を持つ頼家も伊豆に流され、没す。北条氏の世子は頼家、一幡の異母兄弟の千幡がなり、実朝と名乗った。
比企氏の乱
三年七月、頼家が病気にかかった。政子は相談して頼家に征夷大将軍の職を譲らせ、管理しているところを分けて頼家の弟千幡と、頼家の子一幡とに伝えさせようとした。一幡の母は比企能員(よしかず)の娘である。
能員はひそかに反対の考えを持っていたので、娘に頼家を説得させた。頼家は急ぎ能員を呼び寄せ、北条氏を滅ぼそうとした。政子はそれを立ち聞きし、すぐ時政に手紙を書き、腰元に持たせた。時政は名越の屋敷に行く途中で手紙を受け取った。手綱を押さえて思案したあと、大江広元の屋敷に行って「能員は外戚の立場をいいことに、多くの侍を蔑ろにしている。また将軍が病気で政治を省みれないことにつけこみ、君命を曲げて謀反を図ろうとしている。こちらから先手を打って誅したほうがよいだろうか。いかがだろう」と訊いた。広元は「私は頼朝公の御在世のころから文事方面を議論して、兵事は関係してこなかった。今日のこともわかりかねる。あなたの心のままになされよ」といった。
時政は立ちあがり、出かけた。お供に天野遠景(とおかげ)、仁田忠常がいた。荏柄神社の前に来たとき、時政は二人を振り返り、「比企能員が謀反をした。おまえたちは兵を率いて討て」と命じた。遠景は「一人の老いぼれを殺すのに、わざわざ兵を繰り出すには及びますまい。こちらへ呼び寄せて殺しましょう」といった。時政は屋敷に帰り、また広元を呼んだ。広元は身の危険を感じ、供の侍の中から一人を連れて「もし急なことが起こったら、われを刺し殺せ」と命じて出かけた。時政は広元と対座し、久しく話しこんだが、途中でやめた。
時政は鎧を着込み、遠景、忠常を中門に隠れさせておき、人を能員にやり「私のところで供養がある。貴公も出馬いただき、相談にのってくれないか」といわせた。能員は出かけ、門を入った。遠景、忠常の二人が踊り出て、左右の手をとって組み伏せて、斬った。下僕が下僕が走り帰って告げた。比企氏の一族は頼家の子の一幡を守り立て、屋敷に立て籠もった。時政は義時、泰時を大将にして攻めさせた。比企氏は屋敷に火をかけて自殺した。一幡は焼け死んだ。
頼家は病気が少しよくなったとき、それを聞いて非常に怒り、堀親家をつかって和田義盛、仁田忠常に時政を殺させることを命じた。義盛はこれを時政に告げた。時政は忠常を呼びよせた。彼は時政の屋敷からなかなか出てこなかった。そこで忠常の足軽は忠常が殺されたのではないかと危ぶみ、疑い、帰ってそこのことを告げた。忠常の二人の弟は、兄が殺されたと思い、義時の屋敷を攻めた。義時は不在であった。家来どもはよく防ぎ、戦ってこの二人を斬った。忠常は時政の屋敷から帰る途中、このことを聞き、幕府にいったが、加藤景廉に殺された。政子は頼家に頭を剃らせ、伊豆の修善寺に流した。まもなく死んだ。そこで千幡が世子となり、時政の屋敷に移し、実朝と改めた。時政は妻の牧の方と保護した。腰元の阿波の局は秘かに政子に「牧の方は冗談をいわれても、害心がある。お守り役を頼まぬ方がよいでしょう」といい、政子もそうだと思い、実朝を幕府のうちに置き、義時の弟時房に幕府の庶務を処理させた。
2022・4・11
北条泰時の賢さ
蹴鞠に夢中の源頼朝の嫡男頼家。これに対して自分の考えをもち、賢い北条泰時。農民も大切にした。
北条泰時の賢さ
建仁二年(一二○一)秋、大風雨があった。関東地方に稲は実らなかった。下総の海では津波があり、千人の死者が出た。九月、京都から蹴鞠の師匠紀行景(きのゆきかげ)がやってきた。大江広元は行景を連れて頼家に目通りした。頼家は蹴鞠が好きだった。それで後鳥羽上皇にお願いして行景をよこしてもらったのだった。それからというもの、毎日蹴鞠の技を学び、政治はそっちのけであった。
義時に泰時という倅があった。年は若いが器量があった。ひそかに頼家の気に入りの家来中野能成を呼び寄せて「蹴鞠は害があるものではないが、頼家公は大風雨や津波の災いを恐れないのか。頼朝公は天変に遭うたびに遊びに行くのをやめられた。後世の者が手本とすべきであろう。君は近侍の家来だ。なぜ意見をしないのか」と迫った。そのとき泰時の領地の北条から飢饉の知らせがきた。泰時は視察に行こうとした。そこへ観清(かんしょう)という僧がきて「将軍は中野能成(よしなり)がお伝えしたあなたの意見に怒り、『泰時の申すことがもっともだとしても、父や祖父を越えるとは何ごとだ。出過ぎている』と申されました、あなたはしばらく病気ということにして領地へ帰り、将軍の怒りが薄らぐのを待たれたらよろしい」といった。泰時は「自分の意見を近侍の臣に漏らしただけで、諫めたわけではない。お叱りを受けても、逃げ隠れはしない。飢饉があろうと領地に行く。明日は出発するつもりだ。将軍の怒りを避けるためと思われては困る」といい、蓑や笠など旅道具を見せて北条へ行った。
村人は昨年もみ種を借りて、来年は返すと約束していた。ところがいっこうに実らず、皆でこの地を逃げようと相談していた。泰時は多くの負債者を呼び出して、証文を焼き捨てて「おやじどもよ、安心せよ、たとえ豊年であっても催促はしないから」といい、酒食を馳走して米一斗ずつを配給した。人々は泣き「君に子孫が多く、一家が栄えるように」と祈った。
2022・4・10
頼朝が没し、政子が政事に関わる
源頼朝が没し、政子が政治に関わる。頼朝の嫡男頼家は政治に飽き、人民をわすれ、女色に溺れる。
頼朝は没し、政子が政事に関わる
正治元年(一一九九)正月、源頼朝は没し、頼家が将軍になった。政子は尼になり、政事に関わった。
北条時政は従五位下に叙せられ、遠近守に任ぜられ、政所の別当になった。大江広元、三善康信、中原親能、三浦義澄、八田知家、和田義盛、比企能員(よしかず)、安達長盛、安立遠光(とおみつ)、梶原景時、藤原行政(ゆきまさ)と政治全般に立ち合って論決した。この他の者は直接将軍に取り次ぐことはできないようにした。
頼家には気に入りの家来が五人あり、「五人の親族は罪を犯しても罰してはならない」と命令を下した。7月、三河に盗賊が起った。安達景盛(かげのり)に討伐を命じた。景盛は京都に妾を囲ったばかりで、行きたくなかったが、君命には逆らえない。賊を平らげて帰ってみると、頼家は妾を奪い取り、寵愛していた。景盛が頼家を怨んでいると告げる者があった。頼家は五人の家来に命じて討たせようとした。鎌倉府中は大騒ぎになった。頼朝が亡くなり、まだ六ヵ月しかたっていない。政子は安達氏のもとへ飛んでいき、さらに使いの者を頼家にやり、行いを責めた上で「おまえがいうことを聞かないなら、私はおまえの矢に当って死にましょう」と迫った。頼家は討つことをやめた。政子は景盛から謀反はしないという誓書をとり、佐佐木盛綱に頼家のもとへ持って行かせ、和解させた。
政子は頼家に「このころおまえは政治に飽き、人民を忘れ、賢者を遠ざけ、よくない家来を近づけ、音楽や女色におぼれ、親戚への礼を欠いている。どうか行いを改め、後悔しないようにしなさい」と諭した。だが頼家は改めなかった。まもなく梶原景時の讒言を聞いて、結城朝光(ともみつ)を殺そうとした。朝光は諸将と連判して強く訴え出た。景時は出奔したあと、また鎌倉に帰ってきた。北条時政が追い払うと京都に逃げたので、誅させた。
二年五月、境界の争いで訴えてきた者があった。地図を見た頼家は筆をとり、いきなり地図の真ん中に一本線を引き「広い狭いは天命である。いちいち調べている暇はない。すべて境界の訴訟はこれを手本にせよ。それで満足できないなら、初めから争わないことだ」といった。
2022・4・8
頼家が世子になる②
頼朝と義経の対立。惣追捕使(守護)の設置。頼朝の息子自慢。
頼朝は弟の義経に勇気と知恵があるのを妬み、排除しようと策略していた。後鳥羽天皇の文治元年(一一八五)の冬、自ら大将となって京都で義経を討とうとした。義経は逃げ、隠れた。頼朝は途中から引き返し、時政に千余人の兵士で京都を護衛させ、一方で手を尽くして諸方を探させたが、見つけ出せなかった。
時政は頼朝のいいつけで、諸国の国司には守護、荘園には地頭という役を置き、罪人の追補をさせたいと朝廷に願い出た。当初は許されなかったが、再三の押し問答の末、許された。時政は七国の地頭になり、まもなくやめた。当時、大乱は鎮められたものの、京都五畿内には事件が多く、時政は率先して仕事にあたり、万事たちどころに片付け、一年たって関東に帰った。詔によって時政は従兄弟の時定を自分の代わりにした。これも頼朝の考えに基づいたものであった。
頼朝は富士の裾野で狩りをしたことがある。世子の頼家は十二歳になり、走っている鹿を射止めた。頼朝はたいそう喜び、使いをやって政子に報告した。政子は「彼は将来の世継ぎだから、当り前のこと。一匹の獲物くらいで使いをよこすまでもないでしょう」といった。頼朝は一本とられたと恥じいった。
2022・3・24
頼家が世子になる①
頼朝の変質的ともいえる女性への固執ぶりと気性の荒さ。頼朝に勝る政子の驚くべき行動。源頼朝が北条義時を信頼している様子。
翌年七月、政子は男児を生んだ。頼家である。世継ぎにした。北条氏は母方の祖父ということでますます重用され、秘かに人心をとりこみ、自家の基礎を固めた。頼朝には他に寵愛している女がおり、伏見広綱邸に預けていた。時政の妻の牧の方がそれを知り、政子に告げた。政子は嫉妬深く、気が強かった。すぐ牧氏の父牧宗親を広綱のもとにやり、屋敷を打ち壊して女を追い出した。女は大多和義久という者の家を頼った。頼朝はそれを聞き、かこつけて義久の家へ行き、宗親を呼び寄せて罵り、辱め、自ら宗親の髻を根元から切った。時政は岳父が辱められたのを聞いて恥じ、頼朝に無断で自分の領地の北条に帰ってしまった。頼朝は梶原景季に「江馬は時政についていかないだろう。見てこい」と命じた。江馬とは時政の息子の義時である。景季は「やはり家にいました」と報告した。頼朝は義時を呼び寄せ「おまえは親父に従わず、余のそばにいる感心な男だ。将来、わが子孫を託してもよい」といった。そのうち事件は落着し、時政は鎌倉に戻った。信頼されるのは初めのままであった。
2022・3・15
頼朝の挙兵と鎌倉開府
治承四年(一一八〇)、以仁王の「平氏を撃て」という令旨が届いた。頼朝はまず時政に見せて、関東の家人を挑発した。やってくる家人は非常に多かった。頼朝は一人ずつ
別室に呼び入れ「私のために骨を折ってくれ」と声をかけた。みな「自分だけが特別な扱いをされている」と思った。しかし陰謀まで知っているのは時政だけであった。八月、時政は佐々木経高ら八十五騎を率いて、夜に平兼隆を襲って斬り殺し、伊豆相模の豪族を集めて頼朝を擁し、石橋山に立て籠った。政子には北条で留守を預からせた。頼朝は大庭景親と戦い、敗走した。時政は疲れて、遅れてしまった。加藤景廉(かげかど)、狩野祐茂(すけもち)、堀親家(ちかいえ)、小山実政(さねまさ)らが随伴を願い出た。時政は指図して頼朝に従わせ、自分は甲斐に行き、そこの源氏に働きかけようとした。時政の長子宗時は平井の郷(さと)まで行き、伊東氏の兵にとりかこまれて、矢に当り、討ち死にした。夜になり、時政は杉山で頼朝と出会った。箱根の別当行実(ぎょうじつ)はもともと頼朝と仲がよかった。頼朝が負けたと知り、弟の永日(えいじつ)に食物を贈らせた。永日はまず時政に会った。時政は「大将は討ち死にされた」と欺いた。永日は「貴公は私を疑うのか。大将が死んだのなら、どうして貴公は生き残っておられようか」というので、時政は苦笑して頼朝に会わせた。頼朝は箱根に隠れた。頼朝は、時政や次子義時を甲斐へ行かせ、自分は土肥遠平(とおひら)に政子を見舞わせ、舟で猟島(安房。千葉県房総半島南部)に至った。
時政は三浦義澄らと頼朝を出迎えた。頼朝は「そなたは甲斐へ行ったはずなのに、どうしてここにおられるのか」と訊いた。時政は「君(きみ)の命を受けて北へ向かいましたが、途中で君が落ち着かれたところを見極めなければ、どこに行っても信用されないと思い直し、君の跡を尋ねてここまできました。君の居場所も決まったわけで、これから出かけます」といい、実際に甲斐の武田、一条など諸族のところへ向かって二万人を手に入れ、頼朝を助け、平氏を駿河の富士川で討って、敗走させた。頼朝は帰って相模の国府に着き、将士の功を論定して褒賞を行った。時政の功を第一とし、武田信義以下皆これに次ぐことにした。頼朝は鎌倉幕府を始めた。政子はこれを内助し、時政、義時は外から補佐した。諸将士は北条殿といって敬い、張り合うものはなかった。
みした。代々伊豆の北条に居り、地名から氏とした。豪族で、源氏に属していた。
源義朝は平治の乱で平清盛と京都で戦って敗れ、一族郎党は亡くなった。義朝の子の頼朝も捕らえられたが、死を許され、伊豆に流された。清盛の命令で、時政は同国の伊東祐親と頼朝を監督し、護った。頼朝の四代前の義家は東国に恩徳威光を植えつけておいた。義家こそ平直方の娘が生んだ子で、それ故時政は頼朝に心を寄せていた。頼朝は初め伊東氏を頼っていたが、その娘と密通して男児を生んだ。継母はこれを祐親に告げ、祐親は平氏から自分が疑われることを恐れて男児を水死させ、娘を江間某に嫁がせ、頼朝を殺そうと計画した。頼朝は逃げて北条氏を頼った。
しばらくして頼朝はある人に「時政には娘が多いと聞くが、一番きれいなのは誰か」と訊いた。その人は「長女が美しく、次女は不器量です。次女は後妻が産みました」と答えた。頼朝は伊東氏の先妻の娘に通じたとき、継母からの仕打ちに懲りたので、次女に密通しようと艶書を作り、下僕の安達盛長に届けさせた。だが盛長は器量の悪い次女では頼朝の愛情は長続きしない、そうなればかえって禍が起きようと考え、別に艶書を作って長女に届けた。前の晩、次女は鳩が黄金の箱を咥えてきた夢を見た。その話を姉にしたところ、姉は胸が高鳴り「その夢を買いたい」といい、「少ないけれど、夢のお代に」と化粧鏡を与えた。翌日、頼朝の艶書が届き、密通した。情好は日に日に密になった。女は政子といい、二十一であった。
この時、京都へ役務めにいっていた時政が役を終え、伊豆へ帰ってきた。途中、平兼隆に遇った。兼隆は清盛の一族で、伊豆の目代であった。時政は道中兼隆に政子を娶せることを許した。政子が頼朝と密通していることを聞いたときには驚きつつ、喜ぶ気持ちもあった。だが兼隆との約束を違えるのは難しく、知らぬふりをして政子を兼隆に嫁がせようとした。その夜、雨が激しく降った。政子は家を抜け出し、伊豆山に隠れ、頼朝と過ごした。兼隆は政子を探したが、見つけ出せなかった。時政は平素から頼朝は器量のある男と思い、高祖が縁組みしたことも考え合わせ、表面では頼朝を怒りつつも、陰ではますます手厚く接した。頼朝も時政は謀(はかりごと)に長け、頼りになると思い、互いに深く結び合った。