頼山陽に関する情報です。

2024・9・23 見延典子「頼山陽忌」

 

 頼山陽は1832(天保3)9月23日、肺結核のために53歳(満51歳9カ月)でこの世を去りました。本日で192年目(没後193年)を迎えます。太陽暦では10月25日ころです。

 この日を迎えるたび、何か記念事業を行ないたいと思いつつ、今に至っています。というのも記念事業をするなら生誕日(山陽は12月27日)がよいという声があるからです。但し、そういう声をあげる方が生誕日に何かされているかといえば、何もされていません。

頼山陽の墓(左) 右は愛妻梨影の墓 京都の長楽寺
頼山陽の墓(左) 右は愛妻梨影の墓 京都の長楽寺
島だった比治山
島だった比治山

2024・6・8 

石村良子

「頼山陽文徳殿の小料理屋」

 

広島市郷土資料館の企画展 「デルタの三山」=比治山、黄金山、江波皿山の今昔」に行ってきました。

幻の江波焼きについての展示を見るためでしたが、比治山、黄金山、江


波は島であったという事で(白島も箱島という島)興味深かったです。

その中に比治山の頼山陽文徳殿の写真(頼山陽史跡資料館蔵)もあり文徳殿の前に料理屋が?花見の時にはにぎわったようです。そういえば府中の龍仙寺も「春水日記」には春水や山陽は舟で行ったとありました。

2024・5・27 赤松昇さん「『歴史の街・播磨』が完成」

 

私が住居しております姫路市白浜町の出身で、山崎闇斎学派の世界的に有名な岡田武彦先生がおられました。生前、岡田武彦先生も「河合寸翁と仁寿山校」に関して気になっておられたようで、私が探究をしてい

播磨の守護職赤松円心が敬った松原八幡神社
播磨の守護職赤松円心が敬った松原八幡神社

る事をお知りになり、生前、お手紙で人材育成の重要性と仁寿山校の顕彰の励ましのお言葉をいただきました。

岡田先生の励ましで『歴史の街・播磨』が完成いたしました。岡田先生没後20年になりますが、先生の御恩に報いる為、岡田先生のホームページを立ち上げました。ご高覧ください。『岡田武彦 その哲学と陽明学』(旧タイトル 哲学者 岡田武彦と陽明学)

https://www.okadatakehiko.com/

よろしくお願い申し上げます。

                          

蜀山人(1749~1823)の紀行文『小春紀行』

西国街道 広島~岡山
西国街道 広島~岡山

2024・5・23 

見延典子「蜀山人一行、神辺では

   脇本陣菅波序(平)助宅へ

 

1805年(文化2)10月24日、尾道の脇本陣 鉄屋庄十郞宅に宿泊した蜀山人一行は翌25日寅の刻(午前4時~6時)に出立。昼食を神辺でとっています。


 

 神辺の宿にいりて脇本陣菅波序(平)助がもとに昼の休す、こゝに菅太仲(菅茶山)といへる学者ありといふ事をきけり、又此のあたり近きもの 鞆にてつくれる千とせ紙、ならびに名酒を持来りて書をこふ、

 

 蜀山人は菅茶山を知らないような書き方をしている。書を請われたようで、菅家に残っているかもしれない。この夜は矢掛宿に泊まっている。

 

2024・5・21 見延典子「江戸時代の人の健脚ぶり」

 

 昨日、書き忘れたが、西条四日市(東広島市)を出立した蜀山人一行は、怒田本郷で昼食を取っている。行程はその後も続き、同日の宿泊先は尾道である。酉の刻(午後5時~7時)を過ぎたころ到着している。

 下の地図では西条、本郷間は10里(40㎞)くらいであるが、紀行文にあるように、アップダウンが激しいので、実際の歩行距離に50㎞位ではなかろうか。JR西条駅JRと尾道間は約51㎞、車の場合は山陽自動車道を通ってやや大回りになるので59㎞である。

 江戸時代、頼山陽も含め、男性なら一日40㎞~50㎞歩くと聞いたことがあるが、まさにその通りである。

 ただ、蜀山人は56歳。公用でもあり、駕籠に乗っていた可能性もある。というのも道中の詳細を綴っているからだ。細々したことを夜にまとめて書くといっても、尾道宿に泊まった翌日は寅の刻(午前4時~6時)には出立している。宿での執筆はまず不可能だ。

 駕籠に揺られながら文を綴りつつ、ときどきうたた寝? 宿や食事の手配は部下がしてくれる。そんな旅なら、さぞ楽しいだろう。

 

2024・5・20 見延典子「蜀山人の紀行文に『頼春水』」

 

 蜀山人(1749~1823)の紀行文『小春紀行』を読んでいたら、頼春水が出てきた。蜀山人は、姓は太田、号は南畝。江戸時代中期から後期にかけての下級武士で、狂歌師や戯作者としても活躍した人物。

『小春紀行』は1805年(文化2)公用で江戸から長崎に行ったときの紀行文。春水の話は帰路に出てくる。

        現在の広島県内東部の地図 ネットより

 

1805年(文化2)10月24日

 行程=夜明け前、西条四日市(現東広島市)の宿泊先角屋を出立、右竹原道、左上方道と記した石表を上方道に進み、溜り市(田万里)または新庄村、かはら坂、南村村、小柳などを経て怒田本郷宿に入る。

 

 怒田本郷の宿に入り、米多屋勇二がもとに昼餉す。養老の額に春水書あり、春水は安芸の儒官千秋弥太郎の号なり、祇園会のかたかきし屏風あり、此の宿の一寺に小早川氏等の古き塚ありという事を後に聞きしが、此日志らずして見すぐせり。

 

 1805年(文化2)春水は60歳。同年5月9日、山陽(26歳)に屏居放免の達しがあり、閏8月26日~9月24日 春水、山陽、景譲、

十(三穂)ら14人で竹原に墓参に行っている。

  蜀山人は春水を知っていたが、春水が蜀山人を知っていたかは不明。ただ、蜀山人は広島城下の春水邸を素通りしている。交流はなかったのだろう。当然というべきか、山陽についての記載はない。

ホームページ編集人  見延典子
ホームページ編集人  見延典子

 

「頼山陽と戦争国家

国家に「生かじり」された 

ベストセラー『日本外史』

『俳句エッセイ 日常』

 

『もう頬づえはつか      ない』ブルーレイ

 監督 東陽一

 原作 見延典子

※当ホームページではお取扱いしておりません。

 

 紀行エッセイ

 『私のルーツ

 

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