久保寺辰彦さんから『吉田驛詩」の贋作疑惑のご投稿を続きましたが、

『吉田驛詩』は真筆であるという結論に達しました。

2024・3・9

久保田辰彦(千葉県鴨川市)

「安芸高田市」

 

先日、出雲と松江へ旅行した際、ちょっと足を延ばして三次と安芸高田へ行ってきました。目的はもちろん、山陽の足跡を辿り、安芸高田市歴史民俗博物館が所蔵する『吉田驛詩』を実見するためです。

 毛利元就墓所の老木 
 毛利元就墓所の老木 
 運甓居玄関前
 運甓居玄関前

山陽も訪問した杏坪の運甓居は開けっ放しで大丈夫かなと心配になりましたが、他に訪れる人もなく心ゆくまで見学することができました。

安芸高田市にある山陽も訪れた毛利元就の墓参にも行ってきました。既に枯れてはいますが、吉田驛詩に登場する「老木」も見ることが出来ました。そして、なんといっても見たかった『吉田驛詩』を学芸員さんの許可を得て実見してきました。予想はしていましたが、やはり落款印、関防印とも河津祐度が彫った通りの印でした。私の中では、これでこの書は山陽が書いたものではないことがわかりスッキリしました。


全国の美術館、博物館にはかなりの数、山陽ではない書が山陽の書として保管されていることを予想させるものでした。

 

2023・12・16

見延典子「真贋から派生して書における漢詩の書き方⑥」

 

 自ら絵を描き、画家の友人が多数いる山陽は、とうぜんながら絵画的な素養も身につけ、書の世界でも活かしている

 頼山陽筆「耶馬渓図巻」の一部

 ネットより

頼山陽「耶馬渓図巻記」
頼山陽「耶馬渓図巻記」

 

 さらに「吉田駅詩」の最後の個人所有者が日本画家の児玉希望であったこと、また本の表紙に使ってみたくなるようなデザイン性の高さも注目すべきであろう。

 想像するに「吉田駅詩」はかなりの速さで書かれている。頭の中にある漢詩をものすごいスピードで吐き出しながら、前後左右への目配りを怠らず、書ききっている。

 化政期を代表するの文人山陽の一つの到達点として、傑作と評される所以であろう。

 

「吉田駅詩」右片側
「吉田駅詩」右片側

「吉田駅詩」が「耶馬渓図巻(竹下本)」とが同じく1829年(文政12)に書かれ、同年には田能村竹田の「晴窓小娯帖」に識語を記しているを考えると、山陽に絵画的な影響が舞い降りていたことも想像される。

「頼山陽乃書風」の表紙
「頼山陽乃書風」の表紙

 ただ、書において生真面目な山陽にあって、「吉田駅詩」が饒舌に見え、違和感を抱く方がいるということもわからないではない。

 案外一杯引っかけて、勢いで書いたかもしれず(笑)、あるいは直前に何かの書を見てインスピレーションを得たかもしれず、あるいは長い間気になる書があって、それを乗り越えようと意図したかもしれない。

 「吉田駅詩」が贋作であるとするなら、贋作師は自身の作風を崩そうする山陽自身でしかあり得ない。こんなふうに思索する贋作師などいようはずはないからだ。「吉田駅詩」を経て、いよいよ山陽は「本物の頼山陽」になっていくのである。

 

2023・12・13

見延典子「真贋から派生して書における漢詩の書き方⑤」

 

 左は12月4日付けで例としてあげた山陽40歳のときの書である。

 

 七言絶句が二行で書かれ、一行が14文字ずつ。

 

 まず山陽は、碁盤の目状態を回避すべく、漢字に大小の強弱をつけて、左右の漢字が並ばないように努めている。

 

 その上で、右にくる文字が太めの文字になった場合は左側は細めに、逆に右が細めになった場合は太めに書いている(オレンジの□)。

 

 漢字の太さと細さを変えることで、非対称(アンバランス)を心がけているのである。

 

 他にも漢字の「ハネ」(青丸の部分)についても、目線を散らすような工夫がなされている。

 

 これら一つ一つについて、書く前には何度か試し書きし、本番に望んだのだろう。

 

 続きます。

 


2023・12・11

見延典子「真贋から派生して書における漢詩の書き方④」

 

 下はいずれも『頼山陽遺墨選』に載っている頼山陽34歳の書。まず左側を書いたが、これまで見延が書いてきた理由から山陽は満足できず、右のように書き改めたと考えられる。右の右下、□で囲った部分は、左にくるであろう漢字を想定し、対称にならないように崩し方を変えている。

      まだ続きます。


これも見延が書きました。
これも見延が書きました。

2023・12・8

見延典子

「真贋から派生して

書における漢詩の書き方③」

 

 次に気づいたのは、横並びの文字の書き方である。対句を崩しても文字の大きさが同じなら、図の左、碁盤の目のようになってしまう。


 碁盤の目の弊害は対称になりやすいところにある。そうならないように右のように字の大きさに強弱をつけて非対称、アンバランスにするのだ。

 改めて12月4日例に出した漢詩を見てみると、山陽が右の文字と極力並ばないように書いていることに気づく。非対称を心がけているのだ。

 一方、例として出しては恐縮ながら、上は久保寺さんご所蔵の御軸。右隣にある文字への配慮がないまま、並べて書いている感が否めない。山陽なら、もっと高い意識をもって書いたのではないか。

                        続きます。

 

2023・12・6

見延典子

「真贋から派生して

書における漢詩の書き方②」

 

 多くの書は行をまたぎ、句が分離される形で書かれているのはなぜか。その答えがおぼろげながらわかってきたのは、数年前に絵を習い始めてからである。

見延典子が参考として描いた。        うまい、下手は別です(笑)
見延典子が参考として描いた。        うまい、下手は別です(笑)

 教室で教わったのは、左右対称に描かないということである。上の絵はチューリップを描いたもので、左が左右対称。右が左右非対称。

 日本画の描き方について調べると、伝統的に左右非対称であると書かれているものが多い(皆さんもインターネットでお調べください)

 

 一方、漢詩には対句という技法がある。

 輿行吾亦行    輿(こし)行けば 吾も亦行き

 輿止吾亦止    輿止まれば 吾も亦止まる

 

 漢詩を記録として書き留めるのであれば、形式通りに書けばいい。ところが「書を絵画的芸術」としてとらえるなら、対句(左右対称。輿行吾亦行 輿止吾亦止)は崩す必要がある。

 一文字、あるいは二文字、三文字ずらしていけば対称性は否定され、非対称になる。これが漢詩を書として表現する場合、句のかたまりを行をまたいで書く理由と私は考えた。

 もう一つ、気づきがあった。 

                       続きます。

 

仮に①とする
仮に①とする

 上の写真①も、右の写真②も、下に写真③も『頼山陽乃書風(2010頼山陽記念文化財団)』に掲載されている頼山陽の7言絶句である。

 おそらく右の②のように7絶が(7文字+7文字)×2行でキチンと書かれている書は珍しいだろう。

仮に③とする
仮に③とする

2023・12・4

見延典子

「真贋から派生して

書における漢詩の書き方①」

 

 私は頼山陽に出会ったころから、書における漢詩の書き方にわからないところがあった。例えば、7言絶句を書く場合、7文字×4行として書くことはほとんどない。

仮に②とする
仮に②とする

 多くの書は、①や③(③は7言絶句ではなく、7言古詩というらしい)のように行をまたいで、7文字のかたまりが分離される形で書かれている。なぜこんな書き方をするのか、書に詳しそうな方にうかがった記憶があるが、明確な答えではなく、答えの内容は憶えていない。

 そのまま歳月が流れた。自分なりに一つの答えが見つかったのはごく最近である。

                                                                          続きます。

 

2023・12・2

久保寺辰彦さん「見延さんの理屈は通る 

⇒ 見延典子「『吉田驛詩』の贋作疑惑が晴れ、山陽の名誉が守られた」

 

見延典子さんへ

「山陽が『吉田驛詩』を書いたとき、これが完成形だったという私の考えはいかがでしょうか?」

という問いかけにお答えします。

「吉田驛詩」が真筆であるという見延さんの視点から見れば十分理屈は通ります。つまりこれは小竹が言うような7文字の脱落ではなく1句(請詔復仇眞偉)の脱落であり、この時点ではまだこの句の着想がなかったということですね。

それ以外にも以前述べたように「」→「」のように7つの文字が違っています。これも最終稿に到るまでの、その時点での完成形と見ることもできます。それを補強するがごとく「吉田驛詩」の「河漲聲萬刀戟」の「」は、完成稿では「」になっていますが、「詠吉田城」でも「県立美術館藏」でも「」になっています。

しかし、私のように「吉田驛詩」が贋作であるという視点から見ると改行したとき「」の次に書く文字を「」と繋いでしまったというのは写し間違いであり、同様に7つの文字の違いも、らしく見せるための小細工と見ても理屈は通ってしまいます。

最終的には落款印を確認するしかないのかなと思います。

                         久保寺辰彦

久保寺辰彦さんへ

 10月8日、久保寺さんご所蔵の御軸の真贋から飛び火して始まった「吉田驛詩」の真贋論争が、ようやく終焉を迎えました。

 私としては「吉田驛詩」の贋作疑惑が晴れ、頼山陽の名誉が守られたことを改めて喜んでおります。

 ホームページ上における真贋論争は幕を閉じますが、「吉田驛詩」の成立過程に関して、これまで触れていない私なりの考えがございます。

 次回、その点に触れてフィナーレにしたいと思います。

                        見延典子

 

2023・12・1

見延典子「『吉田驛詩』が真筆である証拠」⇒久保寺辰彦さん 

 

「時」→「昨」、「児」→「見」のご指摘をありがとうございます。

 その上で、私の質問の仕方が間違っておりました。私自身も経験することですが、推敲は一文字直したせいで周辺も直す必要が生じる、ということのほうが多いものです。山陽の「推敲課程」も一部の言葉の修正というより、全体に及ぶものと考えたほうがよいでしょう。

 

 さて、今回、久保寺さんが「杉ノ木資料 草稿」と「広島県立美術館藏」の詩を加え、「頼山陽推敲」の順番に並べてくださったおかげで、私なりに気づきがございました。

 

 それは 山陽が「吉田驛詩」を書いたとき、これはこれで完成形と考えていたのではないか、ということです。でなければ、山陽は書き改めたはずです。彼はある種の完全主義者ですから。

 

 小竹が書いた「此幅義挙間脱戈請詔復仇眞偉七字子成當時或自知之不復補蓋以其妨観美也」には「或」とあります。小竹が「或」と不確実さを前提に書いているのに、確実な事実のように、私自身も、そして久保寺さんも思い込んだところに、そもそもの問題があります。

 

「吉田驛詩」を真筆として論じている私の立場からいえば、「吉田驛詩」で使った文言を、決定稿「吉田驛感毛利典厩事作」で用いている事実こそ、「吉田驛詩」が真筆である証拠になります。

 

 もちろん、この考えが「贋作疑惑」を抱く久保寺さんのお考えと相容れないことは承知しております。

 

 山陽が「吉田驛詩」を書いたとき、これが完成形だったという私の考えはいかがでしょうか?

                         見延典子

                   11月30日の記事を一部改めました

2023・11・30

久保寺辰彦さん「頼山陽の推敲課程についての回答」 ⇒ 見延典子

 

見延典子さんへ

見延さんが示してくれた「1.詠吉田城」の前に、頼山陽史跡資料館所蔵の杉ノ木資料の中に草稿とみられる資料があります。また、「詠吉田城」と同じ時期に書かれたと思われる広島県立美術館所蔵の「吉田駅感毛利典廐事作」があります。ただし、これは書幅の関係からか、完成稿と比べると5句が脱落しています。以下、草稿から問題の部分を並べていきます。

 

1.杉ノ木資料 草稿

想見出師誅豕蛇      想見す 師を出して豕蛇(しだ)を誅せしを

風濤雷雨助義幟      風濤雷雨 義幟(ぎし)を助け

与我昨遇定如何      我と昨に遇うは定めて如何

復仇眞偉擧      勅(みことのり)を請うて仇を復せしは眞に偉擧

黄金橕斗擎日車      黄金斗を橕(ささ)えて日車(にっしゃ)に擎(ささ)ぐ

乃祖酷肖荀文若      乃祖(だいそ)酷(はなは)だ荀文若に肖(に)たり

 

2.県立美術館藏

想見出師誅豕蛇

風濤雷雨助義幟

与吾昨遇定如何

(脱落)

(脱落)

乃祖酷肖荀文若

 

3.「詠吉田城」

想見出師誅豕蛇

風濤雷雨助義幟

与吾昨遇定如何

請詔復仇眞偉擧

更見黄金橕斗擎日車

乃祖酷肖荀文若

 

4.「吉田驛詩」

想見出師誅豕蛇

風濤雷雨助號令

百怪惶惑避義擧    百怪惶惑(ひゃくかいこうわく)して義擧を避く

(脱落)
黄金橕斗擎日車

乃祖酷肖荀文若

 

5.「吉田驛感毛利典厩事作」(「山陽遺稿」)決定稿

想見出師誅豕蛇

風濤雷雨助號令

百怪惶惑避義戈

請詔復仇眞偉擧

黄金橕斗擎日車

乃祖酷肖荀文若

 

以上から推測すると「義幟」→「號令」に「与我昨遇定如何」→「百怪惶惑避義戈

 

に推敲したと思うのですがいかがでしょうか。

                        久保寺辰彦

2023・11・29

見延典子「頼山陽の推敲課程」 ⇒ 久保寺辰彦さん

 

 これまで久保寺さんが『吉田驛詩」に関してお示しの資料は「吉田驛感毛利典厩事作」(「山陽遺稿」)と「詠吉田城」です。

 その中の該当部分について、「頼山陽の推敲課程」を見延の想像ながら書きたい思います。

 

1、詠吉田城

想見出師誅豕蛇

風濤雷雨助

与吾時遇定如何

請詔復仇眞偉擧

更児黄金橕斗撃日車

乃祖酷肖荀文若

 

2、「吉田驛詩」

想見出師誅豕蛇

風濤雷雨助號令

百怪惶惑避義擧

黄金橕斗撃日車

乃祖酷肖荀文若

 

3、「吉田驛感毛利典厩事作」(「山陽遺稿」)決定稿

想見出師誅豕蛇

風濤雷雨助號令

百怪惶惑避義戈 

請詔復仇眞偉

黄金橕斗撃日車

乃祖酷肖荀文若

「義擧」に関しては「義幟」→「義擧」→「義戈」の順に推敲したと想像できます。いかがでしょうか?
 注 1の赤字は3の決定稿にない字 

   3の青字は2の「吉田驛詩」にない字

 

2023・11・26

久保寺辰彦さん「『義』』に違和感」 ⇔ 見延典子「すばらしい」

 

見延典子さんへ

「百怪惶惑避義挙の訳ですが、私も疑問を持って7文字脱落の件と釈文について昨年(2022年)「頼山陽史跡資料館」に問い合わせました。意味が違ってくるのではないかと。

それについての回答は「前任者が残してくれたデータをもとに作成したのでチェックが甘かった」という返信を頂いています。

具体的な訳を教えて頂いたわけではないので何とも言えませんが、安芸高田市の「吉田驛詩」が「山陽遺稿詩」の「吉田驛感毛利典厩事作」と同じだと考えていたように思います。ですから、「吉田驛詩」にはない部分の「晴賢討伐の詔を請い受けて、大内義隆の仇を討ったのはまことに偉擧であった。」という訳まで載っています。

「百怪惶惑避義挙」の訳として「陶軍は恐れ惑って毛利軍の義兵を避けた。」と解釈することは「義挙」=「義兵」と考えることで私には違和感があります。「義挙」は行動であり、兵そのものではないと思うからです。いかがでしょうか。

                        久保寺辰彦

久保寺辰彦さんへ

1、頼山陽史跡資料館の回答について

 まず「吉田驛詩」があり、その後山陽が推敲した最終決定稿が「吉田驛感毛利典厩事作」です。従って、図録の写真に「吉田驛詩」を載せているのもかかわらず、「吉田驛感毛利典厩事作」の訳文を載せたことは「チエックが甘かった」としているのでしょう。

 

2、「義兵」と「義挙」

 話を戻します。今、私がお伝えしようとしているのは「百怪惶惑避義挙訳は「陶軍は恐れ惑って毛利軍の義兵を避けた」(訳は「義挙を避けた」でもいいです)であり、漢文として山陽は間違ったことは書いていないということです。

 

 その上で「義兵」か「義挙」については、おそらく山陽も久保寺さんと同じように「果たして『義擧』がふさわしいのか」と考えたのでしょう。ですから、決定稿では「百怪惶惑避義挙」を改め、「百怪惶惑避義戈 請詔復仇眞偉擧」に修正したのです。

 

 すばらしい。久保寺さんは山陽を正しく理解されています。

 

                           見延典子

2023・11・25

見延典子「久保寺さんの訳が間違いです」 ⇒ 久保手辰彦さん

 

「篠崎小竹の審美眼」に次いで、「頼立斎の記憶力」にまで疑問を呈する久保寺さんの勇気には、ちょっと返す言葉が見つかりません(笑)

 

 で、久保寺さんの妄想に負けないように、私の瞬間的な閃きを書けば、久保寺さんが疑惑をお持ちの『吉田驛詩』の白印は、篆刻家立斎作の印ではないでしょうか。お時間があれば調べてみてください。

 

 さて、本題です。久保寺さんがこれまでお示しの中で、最も問題なのは「七文字欠落」だと思います。以前、頼山陽文化講座で「文字が欠落しした山陽の書状の贋作」を見た記憶が蘇りました。

 

 ですが、『吉田驛詩」の「七文字欠落」は、久保寺さんがおっしゃるように、漢文上の間違いではありません。

 

11月11日付け、久保寺さんのご投稿から

「百怪惶惑避義戈 請詔復仇眞偉擧」の部分は次のように訳されています。「陶軍は恐れ惑って毛利軍の義兵を避けた。晴賢討伐の詔を請い受けて、大内義隆の仇を討ったのはまことに偉擧であった。」(図録「頼山陽の書風」より)

「義戈」は「義兵」です。「義挙」は「正義のために事を起こすこと」です。つまり「百怪惶惑避義挙」となると、「陶軍は恐れ惑って正義のために事を起こすことを避けた」となってしまいます。山陽は毛利軍を正義、陶軍を賊と考えているため、陶軍に義挙という言葉を使うことは考えられません。

 

 山陽が書いた「百怪惶惑避義挙訳は、図録「頼山陽の書風」にある通り「陶軍は恐れ惑って毛利軍の義兵を避けた」です。

 明らかに久保寺さんの「陶軍は恐れ惑って正義のために事を起こすことを避けた」の訳のほうが間違いです。

 つまり漢詩の内容は、これはこれで正しいのです。

 

 現に山陽は確信をもって「擧」の字を書いています。保寺さん、ここまではOKでしょうか。OKであれば、続きを書きます。

          見延典子

                   

頼山陽が確信を持って書いている「擧」


2023・11・24

見延典子「やっぱり上手い」 ⇒ 久保寺辰彦さん

 

 『吉田驛詩』箱書きについて、ありがとうございました。

 その件について書く前に、10月18日付けで「贋作」と決めつけてしまった「登々菴行記」がずっと気になっておりました。一ヵ月以上・笑

 なんど見直しても、やっぱりうまい。飽きない。山陽でしょうね。

2023・11・24

久保寺辰彦さん「『吉田驛詩』箱書きの持論」

 「過桜井驛址」
 「過桜井驛址」

 

この箱書きについても私の推論であることを御承知おき下さい。

以前と同様、荒木氏が書かれた機関紙「雲か山か」第46号を参照させて頂きます。

『吉田驛詩』は外箱、中箱、内箱の三重の箱に納められています。そのうち、外箱には何も書かれていません。内箱の表には「頼山陽吉田驛長篇雙幅」と書かれ、裏には「嘉永紀元戊申夏 友人小竹筱崎弼觀」と「昭和四十年五月十日 児玉希望寄贈」と書かれています。最初の篠崎の箱書きは嘉永元年(1848)京都の書肆(書店)吉田治兵衛が「吉田驛詩帖」を出版することにした際に篠崎に頼んだものだと思われます。昭和四十年の方は、戦後所蔵者となった画家の児玉希望が母校の吉田小学校に寄贈する際に書いたものだと思われます。問題は中箱の立齋の箱書きです。

嘉永7年(1854)に書かれた中箱の表には「山陽翁吉田驛詩絹本雙幅 三枝氏所蔵」と書かれています。裏には次のように書かれています。

「山陽翁之住京、無歳不省其母、文政己丑之春、杏平叔在備後三次官廰、翁其省迂路尋之、去出廣島路、過吉田驛、有此作、此幅當時為廣島某氏書之、而是余従行所親目也距今在廿八年前、其後流傳、歸京師書肆吉田某、々莫作黒帖、而原本歸播州三枝氏、々々々改加装飾、使余識其顛末、如詩與書之賛語、墨帖跋文、筱小竹翁・余友牧信矦既詳之、余不復贅也

嘉永甲寅冬十一月   族弟立齋賴綱識」

 


 

例によって荒木氏の要点を記した訳を以下に書きます。

「この詩は、文政十二年(1829)、山陽が広島への帰省途上、吉田に立ち寄った時の作である。それを、広島の某氏のためにしたためたのがこの双幅で、この時立齋も同行して実見している。その後所蔵者が替わり、この双幅は京都の書肆・吉田氏の所蔵となった。吉田氏は「墨帖」を作り、その後原本は播州の三枝氏が所蔵する所となった。三枝氏が表装を改めた時、立齋にその顛末を識語に書くように依頼したが、詩と書の賛辞は「墨帖」の篠崎小竹と牧百峯の跋文に記されているので、繰り返さない。」以上となります。

文政12年の帰省時、立斎は20代後半でした。その時の記憶を50代前半になった立斎が呼び起こしているわけで、記憶違いも仕方ないのかもしれません。立斎は山陽の母を迎える2月の帰省時は同行しておらず、同年1020日から山陽の母を送る時に同行しています。しかし、112日に尾道で山陽と別れ、梅颸を広島まで送っているので、立斎が同行して実見したとすれば1020日から112日までのどこかです。とはいえ、「頼山陽全書」にはそれらしき記載はありません。そして、荒木氏の訳にはありませんが、「距今在廿八年前」というのも気になります。実際文政12年は箱書きをした嘉永7年から見ると28年前ではなく25年前です。これも記憶違いなのでしょうか。ただ、「同行して実見した」という立斎の言葉は嘘とは思えません。私は同行して実見した」年が文政12年ではなかったと考えます。立斎の言う28年前といえば文政9年ですが、この年山陽は帰省していません。しかし、その前年の文政8年は、叔父春風の悲報を滞在先の姫路で聞いて9月下旬、急遽山陽は竹原に向かいます。この時、立斎も山陽からの手紙の指示で京都から竹原に向かいます。立斎は1013日昼前に尾道へ着き、そのまま船便で竹原に向かいます。そして、帰京する山陽に1015日に神辺で追いつきます。それ以降、1029日に帰京するまで山陽と同行しています。立斎の「同行して実見した」というのは、29年前のこの時のことではないかと推測します。そして「実見した」というのは、「吉田驛詩」ではなく「過桜井驛址」だったのではないでしょうか。

1015日、神辺の茶山宅では例年の詩会が開かれていました。そこで山陽は茶山に頼まれ、茶山所蔵の「楠公訣児」の幅に賛を書いています。それが、この時の往路で山陽が作った「過桜井驛址」でした。と言っても、疑問も残ります。賛ですから字の大きさがかなり違うはずで、これだけ違うものをいくら29年前の記憶とはいえ間違うだろうかと思います。

ということであくまで持論です。

ホームページ編集人  見延典子
ホームページ編集人  見延典子

 

「頼山陽と戦争国家

国家に「生かじり」された 

ベストセラー『日本外史』

『俳句エッセイ 日常』

 

『もう頬づえはつか      ない』ブルーレイ

 監督 東陽一

 原作 見延典子

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