2022・11・23
見延典子「箱書きについても」⇒ 久保寺辰彦さん
久保寺辰彦さん
『吉田驛詩」を書いた人についてのお考えをお聞かせくださり、ありがとうございました。箱書きについてもお知らせください。よろしくお願い致します。 見延典子
2023・11・20
久保寺辰彦さん
「『吉田驛詩』を書いた人②」
『吉田驛詩』を書いた人はどのような人なのか・・・。
前回はプロの贋作師というより、山陽の熱烈なファンがその情熱のままに書いたり、書いてもらったりしたのではないかと推測しました。
その一方で、別の可能性も考えられます。なぜかと言えば、かなり細かく計算されて作られている痕跡があるからです。その一つが字句の違いです。と言っても以前書いた7文字の脱落については写し間違いだと私は考えています。
理由は文の意味がまるで変ってしまうからと以前にも書きました。しかし、この脱落以外にも意味は変わらないものの、文字を変えている部分があります。具体的示すと「跡」が『吉田驛詩』では「迹」、以下同様に『山陽遺稿詩』を黒字、『吉田驛詩』を赤字で示すと、閧→闘、閲→讀、路→道、什→十、酒→灑、哉→乎と変えています。この中には単純な写し間違いもあったかもしれませんが、意図的に変えているとも思えます。つまり、推敲魔である山陽が作品ごとに字句を変えていたことを知っていたため、山陽らしくするために変えたのだと思われます。
また、印についても工夫が見られます。私は『吉田驛詩帖』の河津の摸刻印は、実際に押された印とほぼ同じだと考えています。それを前提で書きますが、この上の方に押された朱文印は明らかに、大きさも字形も今までに確認されている山陽の印とは違います。しかし、これだけ違うと印譜集やほかの作品にはみられない別の印が存在したことを否定できません。作者は、それを計算していた可能性があります。
贋作に押されている印の多くは大きさも字形も同じですが、細部を見ると決定的に違うという例が多いです。一目で違うとわかる印もありますが、それは本物ではない摸刻印を摸刻したからでしょう。
問題は下の白文印です。これは確かに山陽が使っていた印だと思われますが、作品にはほとんど使われていないようです。私はまだ作品に押されたこの印をみたことがありません。『吉田驛詩』の作者は、偽物だとバレにくくするためにほとんど作品に使われていないこの印を選んだのではないかと推測します。
作品に登場しない印なら、摸刻印も作れないではないかと思われるかもしれません。しかし、探してみると弘化4年に出版された『新居帖四』にありました。作者はこの摸刻印を摸刻して押印したのだと推測します。だとすると、『吉田驛詩』の制作年代は、この『新居帖』が出版された弘化4年(1847)5月から小竹が跋文を書いた嘉永元年(1848)8月の間と非常に限定されます。
思うにこの作者は、『吉田驛詩』を書いたあとすぐにその情報を京都の積書堂、吉田治兵衛に何らかの方法で伝えたのだと思います。吉田は、この書を買い取り牧百峰と篠崎小竹に見せ、真筆だと確信して跋文を依頼し『吉田驛詩帖』を作成したのだと思います。
吉田治兵衛は山陽の生前から付き合いがあり、山陽死後も山陽の書簡があると聞いてはそれを借りて写し取り『頼山陽先生手簡』を出版したと言われています。しかし、その中にも疑わしい書が混じっていると私は考えています。
2023・11・16
久保寺辰彦さん「『吉田驛詩』を書いた人は、山陽の熱烈なファン」
『吉田驛詩』を書いた人はどのような人なのか・・・。
頼山陽の書は贋作の多いことで有名です。しかし、贋作と言われるものを書いた人は、必ずしも専門の贋作師ばかりではないでしょう。
山陽のような書を書きたいと思って臨書する素人もいるでしょうし、書の専門家でも研究のために書く人もいるでしょう。それらの書も残されたものは、山陽の書ではないため一括りに贋作と呼ばれているのが現状ではないでしょうか。また、『頼山陽先生手簡』のような手紙文の折本ができてからは、それをお手本に書の練習する人が多いため書簡に関しても夥しい数の偽物が混じっていると思われます。
この『吉田驛詩』を書いた人は、山陽の熱烈なファンであり、毛利元就ファンでもあったのではないかと推察しています。だから広島在住か出身の可能性が高いと思います。山陽ファンであるこの方は、『吉田驛感毛利典厩事作』を読んで感激して自らか、あるいは人に頼んでか、山陽風に書いてもらったのだと思います。そのため残された他の作品や同じ内容を書いた『詠吉田城』と字形が違っているのだと思います。
このような心理は私も山陽ファンなのでわかります。私は、山陽の書こそ真似しようとは思いませんが、印が欲しいと思って消しゴム版が得意な人に頼んで作ってもらいました。
以上のように専門の贋作師ではない方が書いたので、このような書風の山陽の書は他には見当たらないというのが私の推測です。と・・・ここまで書いてきて、全く逆の思いもあるので次回はそのことについて書きます。
2023・11・13
久保寺辰彦さん「なぜ『吉田驛詩』を山陽の真作だと勘違いするのか」
⇔ 見延典子「教えてほしいことがございます」
見延先生へ
箱書きについてを述べる前に、なぜ『吉田驛詩』を山陽の真作だと勘違いしてしまうのかについて書きます。
この『吉田驛詩』について、いろいろ調べていくうちにこの書は確かに山陽のある部分をよく真似ていると思うようになりました。それは字形ではなく言ってみれば「気」です。迫力というか作者の高揚した心情が
文字として現れていると思います。
以前、見延先生が「推敲魔であり、迷うことの多かった山陽が、心を集中させ、一気に書き通せたときの喜びはさぞ大きかったでしょう。この書の最後「頼襄」には山陽の自信、喜び、安堵があふれています。」とおっしゃった通りだと思います。しかし、残念ならがそれは山陽の心情ではなく、この書を書いた作者の心情ではないでしょうか。この作者の「気」が山陽と似ているため、小竹や立斎も初めて目にした時には間違えたのだと思います。
私は小竹の審美眼を疑うものではありませんが、大阪に住んでいた小竹がどれ程山陽の作品を目にしていたのか気になります。確かに山陽の書簡の文字については二人のやり取りの多さからすぐに判別できる目を持っていたと思います。しかし、山陽の書作品となると果たして小竹と小竹死後の人々とどちらが多くの作品を見てきたのでしょう。
多くの遺墨帖や山陽の作品を見てきたのは小竹死後の人々ではないでしょうか。また『吉田駅詩』が傑作と言われながら、なぜ所有者が転々とするのか、『吉田驛詩帖』以外に戦前の夥しい遺墨帖類に全く出てこないのはなぜか、その答えは贋作疑惑が周知の事実だったのではないかと推測します。
では、贋作疑惑があるのに何故、転々とするほど買い手がつくのでしょうか。それは、あの法帖にもなった原本を手にいれたいと思う人が多かったからだと思います。当時私が生きていたら私でもそう思います。そして、やはり贋作だと確信した後は欲しい方に譲ると思います。
久保寺辰彦さんへ
以前から、教えてほしいと思っていることがございます。
久保寺さんがおっしゃるところの「贋作『吉田駅詩』を書いた作者」
とは、どのような方を想定しているのでしょうか?
見延典子
2023・11・12
見延典子「篠崎小竹の審美眼」⇒ 久保寺辰彦さん
久保寺辰彦さんへ
「印影」「落款」と強気だった久保寺さんが、なぜか弱気になった今回の「7文字の脱落」が、これまでで最も説得力がありました(笑)
失礼ながら、後半の久保寺さんの独自すぎる解釈ではなく、前半の篠崎小竹の跋文の話です。小竹といえば、長年ベンチに入ってマウンドにたつ山陽の投球を見続けてきた友人です。久保寺さん、そして見延のように、テレビ中継で断片的に山陽や作品を見ているわけではないのです。
その小竹が「7文字の脱落」について書いていることこそ、『吉田驛詩』が真筆だという何よりの証拠です。それでも贋作の疑いがあると主張されるなら、『吉田驛詩』のみならず、小竹の審美眼まで否定することになるのでしょう。
見延典子
2023・11・11
久保寺辰彦さん「『吉田驛詩』「戈請詔復仇眞偉」七文字の脱落」
これから述べることは私の推論であり、証拠や根拠などの裏付けはありません。ですから、こういう考え方もあるのか程度に聞き流して下さい。
山陽はご存知の通り、推敲魔で「山陽遺稿」などの発刊された完成稿とは違う字句の作品が多く残されています。
『吉田驛詩』とその完成稿の字句は「路」が「道」になっていたり、「什」が「十」になっていたりするもののほぼ同じです。その中で一番の違いは「戈請詔復仇眞偉」の七文字の脱落です。「それこそ、山陽の推敲の痕跡だ」と考える方もいると思います。しかし、『吉田驛詩帖』の跋文を書いた篠崎小竹は次のように考えたようです。「此幅義挙間脱戈請詔復仇眞偉七字子成當時或自知之不復補蓋以其妨観美也。」
私は漢文読解能力が低いので頼山陽記念文化財団発行の会報『雲か山か』45号から解説を引用します。
「すなわち、この双幅では、「義」と「擧」の間に「戈請詔復仇眞偉」の七字が脱落しており、山陽は当時このことを知っていたかもしれないが、書の美観を損ねないように敢えて復補しなかったのだろうと推測しているのである。」
しかし、私はこれを作者の単純な写し間違いだと考えます。
「戈請詔復仇眞偉」の七文字の脱落と聞くと、あたかもこの七文字が漢詩の一文だと思いがちですが実際の漢詩は次のようになっています。
「百怪惶惑避義戈 請詔復仇眞偉擧」この赤字の部分を抜いて、「義挙」と繋いでしまったのです。私も紙の文章をパソコンで打ち直す時によくやるミスです。
山陽がこのようなミスをするとは考えにくく、もし間違いに気づいていたら書き直すと思います。なぜなら、意味が違った文になってしまうからです。漢文素養の低い自分ですから間違いがあったら指摘して下さい。
「百怪惶惑避義戈 請詔復仇眞偉擧」の部分は次のように訳されています。「陶軍は恐れ惑って毛利軍の義兵を避けた。晴賢討伐の詔を請い受けて、大内義隆の仇を討ったのはまことに偉擧であった。」(図録「頼山陽の書風」より)
「義戈」は「義兵」です。「義挙」は「正義のために事を起こすこと」です。つまり「百怪惶惑避義挙」となると、「陶軍は恐れ惑って正義のために事を起こすことを避けた」となってしまいます。山陽は毛利軍を正義、陶軍を賊と考えているため、陶軍に義挙という言葉を使うことは考えられません。
『吉田驛詩』の作者は1枚目の左から2行目一番下の「義」を書いたあと最終行の一番上の文字を書くときに「義」に続く文字として「擧」と間違って繋いでしまったのではないでしょうか。その時に写しとっていたのは完成稿である「山陽遺稿詩」の「吉田驛感毛利典厩事作」だと推定します。『吉田驛詩』には山陽とは違う字形が多く、落款も違うのは山陽の実際の作品を見て真似たものではないからだと思います。ですからこの『吉田駅詩』の作成時期は、「山陽遺稿詩」が刊行された天保12年以降、『吉田驛詩帖』ができる嘉永元年の約8年間の間に作成されたものだと考えています。 次は箱書きについて書きます。
2023・11・9
見延典子「集中力は落款に至るまで」 ⇒ 久保寺辰彦さん
多くの「山陽外史」をありがとうございます。
ところで久保寺さんがご投稿された、11月7日付「神戸鹿峰翁遺愛品展覧図録」掲載の6曲一双の落款(右)をどのように考えられますか? 特に「陽」「史」です。
この「陽」も「史」も例をみないものです。
なぜ山陽がこのように上下に分断された書き方をしたのかを考えるに、おそらく1枚に2文字ずつ書くという書き方の「韻」を踏むように、書いたからではないかと見延は想像します。
同様に『吉田驛詩』の「陽」に「こざとへん」をつけたのは、なんども書いているように「横長」にするためで(結果として「こざとへん」の縦棒が長くなっていますが)、「史」のはらいの部分が従来と異なるのは「角張った」感じにしたかったからで、加えて「外」の「、」がそとに出ているのも「横長」にするためです。
『吉田驛詩』は、山陽がそうとうにイメージトレーニングを重ねた末、想像を越えるような緊張感をもって挑んだ作品であり、集中力は落款に至るまで持続しています。
見延典子
2023・11・8
久保寺辰彦さん 『吉田驛詩』落款について2「山陽外史」
『吉田驛詩』落款「山陽外史」を比較します。
(作成年は図録「頼山陽遺墨選」による)
これらも人によっては同じに見えると思います。私が特に気になるのは「陽」が縦長になっていること。全体的に横長の文字を意識しているはずなのにこれは縦長になっています。また「外」の点の位置が極端に外側についていること。最後に「史」の払いの書き方です。
もし、『吉田驛詩』が山陽の真筆ならば、山陽唯一の書風と言えるのではないでしょうか。
だから橋本佐内が言った山陽の書の中でも一番といったことも他とは違うという意味では、正しいと言えます。
次は詩の内容から見える疑惑についてです。
2023・11・7
久保寺辰彦さん「GDPで換算すると約580万円の六曲一双」
⇒ 見延典子「書家の作品に」
見延典子さん
宮島の岩惣の六曲一双の屏風と同じ字句の別の六曲一双を見つけたのでお知らせします。これは以前にも紹介した「神戸鹿峰翁遺愛品展覧図録」からです。
書画蒐集家の財界人である神戸拳一の遺品150点が昭和2年に売りに出された時の図録です。この147番の落札価格は、当時の金額で3600円、今の価格にGDPで換算すると約580万円。ちなみに山陽の作品の中で最高値は33900円、換算額は約5500万円。この図録にある最高値を付けたのは田能村竹田の「亦復一楽帖」で13万9100円、換算するとナント2億2500万円。さすが昭和11年に国の重要文化財に指定されただけあります。
この、六曲一双は「なんでも鑑定団」ならいくらの値を付けるのでしょう。気になるところです。
久保寺辰彦
久保寺辰彦さんへ
初めてみる頼山陽の六曲一双です。ありがとうございます。
宮島の六曲一双が「書道」の領域にとどまっているのに対し、この六曲一双は「書家の作品」になっていますね。「まねできるもんなら、やってみな」とでもいうような山陽の意気込みを感じます。
もっとも見方によっては鼻につくかもしれず、夏目漱石が山陽を「才子」として距離をおいたのは、こんな書きぶりをみてでしょう。
見延典子
追伸
骨董の値は需要と供給のバランスでしょう。一般家庭で、置き場所に困るような屏風類は、かつてのような値はつかないと思います。
2023・11・6 久保寺辰彦さん「文政10年より以前の作品は」
⇒ 見延典子「大丈夫ですか?」
見延典子さん
私が特徴的だと言った「襄」ですが、これは文政10年頃から見られる特徴です。私はこれを「右下がりの襄」と呼びたいと思います。以下「遺墨選」からです。
ところが、それより前の「襄」には右上がりの襄の方がむしろ多いかもしれません。
以上のことから、文政10年より以前の作品は、右上がりだからといって贋作だとは言えないと思います。
ただ、宮島の岩惣の屏風は落款印を見ないとなんとも言えませんが、第一印象から忖度なく言えば、真筆の可能性は低いと感じました。
久保寺辰彦
久保寺辰彦さんへ
「右下がりの襄」が文政10年ころから見られる特徴であり、それ以前の山陽ならふつうに書いていたとすれば、作品によってはひきだしから出して使うこともあるでしょう。
久保寺さんのおっしゃるところの『吉田驛詩』疑惑の最大の根拠が大きく崩れることになりませんか? 大丈夫ですか?
見延典子
追伸
宮島の屏風、本体の丸みのある字体と比較し、落款「賴」は目をつぶるとして、「襄」は直線的で、手が違う印象をうけますね。
今のところ、めずらしく久保寺さんと同意見です(笑)BY素人
2023・11・5
見延典子 「宮島にある6曲一双の屏風」⇒ 久保寺辰彦さん
久保寺辰彦さんへ
多くの「襄」。こんなふうに比較することはなかったので、新鮮です。
ありがとうございます。「山陽外史」の落款も届いていますが、その前にお尋ねしたいことがございます。
宮島岩惣所蔵、屏風の落款
本日付けで上口雅彦さんが送ってくださった6曲1双の屏風を紹介しております。こちらに掲載。
その落款を確認しましたところ、久保寺さんが贋作疑惑があると主張されている『吉田驛詩』の「襄」のと同じで、二つめに縦線二本の頭の部分が左側よりも右側が高くなっていることに気づきました
久保寺さんの論法でいえば、この屏風は贋作と考えてよろしいでしょうか。
見延典子
2023・11・4
久保寺辰彦さん
『吉田驛詩』落款について①「襄」
落款の違いについて説明します。この「襄」は、図録「頼山陽遺墨選」の「題胡騎射猟図」から抜き出したものです。以下のように解説されています。
「雄々しい気構えと結構、力感溢れる運筆で、迫力に満ちた作品となっている。制作年代は不明であるが、五十歳の作とされる「吉田駅詩」(安芸高田市重要文化財、法帖「吉田驛詩帖」の原本)を髣髴とさせる書きぶりから、五十歳頃の作と考えられる。」
山陽は詩の内容によって書きぶりが変わることもあります。ただ、落款(署名)については同じ年代に書かれたものはそれほど変わってないと思います。
特徴的なのは赤丸で囲んだ部分です。つまり、一つめが一画目の点と二画目の横線は離れる傾向がある。離れてないにしても点が横線を突き抜けてしまうことはない。二つめに縦線二本の頭の部分は左側よりも右側が低くなるということです。では『吉田驛詩』と比較します。
以下、「遺墨選」から同じ年代の「襄」を抜き出してみます。できるだけ同じくらいの大きさと思える作品から抜き出しています。
『吉田驛詩』は実験的に横長の文字を多くし、それに合わせた落款にしたという言い分もあるかと思いますが、他の作品には全く見られない「襄」となってしまっています。
番外編ですが、面白い画像を見つけたので紹介します。これは、「頼山陽ネットワーク」のHPのどこかにあったはずの画像です。
調べてみると「開運!なんでも鑑定団」で2018年9月11日に放送されたもののようです。
頼山陽の書|開運!なんでも鑑定団|テレビ東京 (tv-tokyo.co.jp)
この落款は明らかに山陽の書ではありませんが、やはり右側の縦線の方が高くなっています。
次に「山陽外史」を比較します。