上は同じく頼山陽書簡集にある「承弼(小竹の字)老兄」です。山陽のバランス感覚では、このような配置になることがわかります。
2020・4・10
見延典子⇒久保寺辰彦さん
「バランスを欠いている『竹』」➁
なるほど、確かにバランスを欠いているように見える「竹」ではありますが、右の作りの部分を書き足してみれば(青色)それなりです(左の写真)。山陽は「竹」のミスを「老兄」の安定感で補っています。
いかがでしょうか?
2020・4・8
久保寺辰彦さん⇒見延典子
「バランスを欠いている『竹』」
頼山陽の明智光秀論、ありがとうございます。そういう論があったとは全く
知りませんでした。漢文文化が明治、大正時代くらいの感覚で残っていれば
頼山陽は今でももっと高く評価されていたのでしょうね。
学校で教わる程度の漢文知識では全く太刀打ちできないので、これから地道に勉強してきます。
ところで、「小竹」の竹の右側がバランスを欠いてある文字が、他にもあったので写真を送ります。「頼山陽書簡集 続編」にありました。
2020・4・5 見延典子⇒久保寺辰彦さん「頼山陽の明智光秀論」
久保寺辰彦様
3月26日付け、お尋ねの「頼山陽の明智光秀論」は17歳(満16歳)の時に書いたものがあります。若書きではありますが、皆で手分けして少しずつ読んでいけば、山陽の考えに近づけるかもしれません。よろしくお願い致します。 見延典子
2020・3・27 石村良子代表⇒久保寺辰彦さん
「手紙は内容を検証するのが楽しい」
久保寺さんへ
以前 頼山陽史跡史料館で頼山陽の贋物展があり 半分本物半分贋物の展示でしたが 山陽の若い時の作品などは 私の眼には全部偽物に思えました
大英博物館もフェイク展をやったと雑誌で見ましたが レプリカで作成した物がいつの間に本物で展示されてたとかいうのもありました。
山陽物も色々なのでしょうが 手紙は内容を検証するのが楽しいです。
久保寺コレクションにお目に掛かれる日を楽しみにしております
石村
2020・3・26 久保寺辰彦さん⇒石村良子代表、見延典子
「偽物と知りながら買うこともあります」
石村代表へ
山陽ほどではないにしろ、私も骨董好きですが、女房には反対されているので古文書などの紙物だけにしています。
買ってから調べるうちに偽物だったと判明したこと数知れず(*´-`) 偽物と知りながら買うこともあります。
自分で調べてある程度納得したら本物であれば博物館や資料館に持っていき、
寄贈することにしています。いらないと言われることもありますが、それほど価値がないか偽物なのかもしれません。 山陽に関するものもある程度集まったら頼山陽史跡資料館に寄贈したいと思います。それを楽しみに勉強していきたい
と思います。
見延先生へ
確かにおっしゃる通り「竹」の字の右側の作りの部分が上がり過ぎていようですね。私も素人なので筆跡で判定は出来ず、まだまだ迷うことばかりです。
先生がよく言っておられるように山陽は「公」と「私」の降り幅か大きくそれが魅力の1つですね。その「私」の部分を知るのに書簡は役立ちます。
今、大河は明智光秀ですが頼山陽は取り上げられたことはあるのでしょうか? 私の地元(千葉)では北条に屈せず10代続いた大名の里見氏や家康の家臣
で千葉の大多喜に領地を与えられた本多忠勝などを大河ドラマにという運動がありますが、山陽こそ取り上げて欲しと思います。
久保寺
2020・3・25 石村良子代表⇒久保寺辰彦さん「骨董買い」
久保寺様
わからないことが多い方がいろいろと調べ甲斐、学び甲斐があります。
この言葉に感謝いたします、引き続きわかりましたことお知らせください。
骨董買いは楽しいですよね
本物なら当たり前 偽物なら勉強料 とかで損はしないようになっております。 石村
2020・3・25
見延典子⇒久保寺辰彦さん
気になる「竹」
送っていただいた書軸の中で、一例を示すなら、「竹」の漢字が気になります。
一般に書簡で最も敬意を払うべきは相手の名前だと思います。山陽は敬意を示す「老」を大きめに書いています。
いただいた画像の二文字目「竹」とするなら、作り(右)の部分がやや上にあがりすぎ、バランスを欠いているように見えます。
あくまで素人の意見です。いかがでしょうか?
2020・3・24 久保寺辰彦さん⇒石村良子代表
「調べたことをご連絡致します」
石村代表へ
小竹宛て書状の件で、今現在、調べたことを連絡致します。
※画像はこちらをご覧下さい。
雲華上人の上京の時期ですが、雲華上人は東本願寺の講師(本願寺の最高学位)にまでなった人なので頻繁に京都には来ていたようです。
見延氏の「頼山陽・下」226ページにも文政12年(1829)山陽50歳の時、広島へ帰る山陽と豊前の正行寺に帰る雲華上人は同行しています。その部分にも「雲華はこの数年は京の東本願寺を拠点として学事に勤む一方で、二年前の名古屋巡講、昨年の北陸巡講など、布教と布施集めに奔走している。」とあります。その雲華上人と大阪の篠崎小竹がどの時期に会っていたのか、まだわかりません。そして、書簡の冒頭にでてくる「瓢」の字ですが、これは本当に「瓢」という字なのか自信がありません。「頼山陽先生手簡 第二集」に出てくる「瓢」の字とはかなり違うように見えます。そして、その書簡に出てくる「瓢ニ恥かゝせ申さず候のみならず」の「瓢」は瓢箪のことを言っているのか、そこに入っているお酒のことをいっているのか、それともよく山陽が掛け軸などに瓢箪の絵を書きその中へ漢詩などを書いた作品のことを言っているのか、よくわかりません。
また、雲華上人と瓢のかかわりを調べてみると、手簡第二集の冒頭の文と全く同じものが書簡集続編610ページに雲華上人宛てとしてでてきます。まったく同じ文章を違う日付で違う人に山陽が書くとは思えないのでこれもよくわかりません。小竹宛の書簡が「臘月廿六日」になっていますが、もしこれが天保二年のことならば、前日の二十五日付の江馬細香宛ての書簡に「幸今夕は雲華師・笠山など参候故」とあり、雲華上人と25日に会っているようです。しかし、それ以上のことはわかりません。
すいません、わからないことだらけです。(笑)でも、わからないことが多い方がいろいろと調べ甲斐、学び甲斐があります。引き続きご指導よろしくお願いいたします。
関係画像を添付しますのでご確認ください。
令和2.3.24(火) 久保寺より