2025年(令和7)は頼三樹三郎生誕200年にあたります。
この物語は、三樹三郎が青春を過ごした蝦夷地での日々から始まりました。
連載小説
はるかなる蝦夷地
―頼三樹三郎、齊藤佐治馬、松浦武四郎の幕末
見延典子
あらすじ 1847年(弘化4)8月、蝦夷地江差の齊藤家で一年間で逗留した頼三樹三郎(23歳)は、患っていた乾癬も快癒し、念願であった蝦夷地探索も果たし、江差を発った。日本海側沿いに南下しつつ帰京する予定だが・・・。
2025・4・25 第41回
江差を発った三樹三郎の旅はさらに続いていく。江差に渡る前は太平洋側を北上したのに対し、復路は日本海側を南下しようと考えていた。当時は白河の関と隣接する陸奥国は蝦夷(えみし)の住む国と考えられていたが、北前船の西航路の発達により陸奥国の海岸沿いには栄えている港町も多い。
ところがいきなり試練に見舞われる。1847年(弘化4)八月初め
松前の福山を出航したあと、想像以上の荒波に船は方向を失っていく。蝦夷地に渡るときも海が荒れ、三樹三郎は船酔いに苦しんだ。悪夢の再現であった。
「汗漫、幾度か帰期を誤り、空しく、母兄をして遠悲を懸けしむ。果爾、今朝、天譴を受け、身を魚腹に葬らんとす。北溟の陲」「狂気蓬に駕して、高く山に似たり。竜飛・白紙、一瞬の間。盲風、雨を挟んで天墨の如し。何の処か青森の第一湾」「鯨口を脱し来って危蓬を繋ぐ。暮雨冥濛たり、漁戸の嵐、松籟、半更、夢を吹いて動かし、猶驚く、身は大涛の中に在るかと」
竜飛に入港するはずが、着いたのは数十里離れた九艘泊であった。源源義経一行が九艘の船を停泊させたという伝説の残る地である。だが伝説を面白がる余裕もなく、岡にあがったときは二度と船には乗りたくないと本気で思った。
弘前まで歩き、宿を得たところで、三樹三郎は江差の齊藤佐治馬に書状を認めた。
「渡海は大風雨で、同行の柴山紫陰と転覆するものと覚悟しましたが、天は未だ我を見捨てなかったようで、南部九艘泊というところに着き、万死を脱しました。その後津軽弘前城下に入り、弘前藩の絵師百川文平(学庵)殿の屋敷に入りました」
佐島馬には蝦夷地で書きためた漢詩や文の草稿をあずけ、あとで北前船にのせて京都へ送るか、敦賀まで行くという梁瀬存愛に持たせ、三樹三郎が敦賀に着いたところで届けてほしいと頼んでいた。厚かましい頼みに思えたが、もし持参していればこの嵐の中、草稿がどうなっていたのかわからない。
百川文平は百川玉川の次男で、朝川善庵に儒学、谷文晁に画を学んだ。三樹三郎より二十歳以上も年上ながら、詩文にもすぐれていて、話も合う。だが何があったのか二年後に蟄居を命じられ、1849年(嘉永2)五十歳で死去する。