2025年(令和7)は頼三樹三郎生誕200年にあたります。
この物語は、三樹三郎が青春を過ごした蝦夷地での日々から始まります。
連載小説
はるかなる蝦夷地
―頼三樹三郎、齊藤佐治馬、松浦武四郎の幕末
見延典子
主な登場人物
頼三樹三郎(23才)は頼山陽の3男
齊藤佐治馬は江差の町年寄(28才)
松浦武四郎(30才)は後に「北海道」の名付け親となる
あらすじ 1846年(弘化3)蝦夷地に渡った頼三樹三郎は、江差の齊藤家で知り合った松浦武四郎と「一日百印百詩」の雅会を成功させ、さらに江差での逗留を続ける。一方武四郎は江差を離れ、松前に赴く。
2025・3・28 第37回
一寸先も見えなくなる大吹雪、肌を切るように吹き抜ける風の鋭さ。ゴウゴウと地鳴りのような音をたててうねる日本海。江差の冬は過酷である。
瀬戸内海や琵琶湖など穏やかな風景に馴染んできた三樹三郎にとって、天候次第で荒れ狂う日本海の様子は、いかにも北の果てに来たという思いを実感させ、もはや逃げ場はないという気にさせられる。ひたすら時がたつのを待ち、耐えるしかない、と。
齊藤佐治馬の好意に甘え、近隣の湯
治場での長逗留を続ける。食べさせてもらっているだけでもありがたいのに、百印百詩の場所を提供してくれ、さらには多くの友も紹介してくれ、もはや頭の上がらない存在である。
詩会はいったん中断となったが、三樹三郎のもとには本多覃、原元圭、釈日袋、梁瀬存愛、西川雍 高野慊らが詠んだ漢詩が届けられ、添削を続ける。その甲斐あって漢詩を詠む力は上達し、先の六名に佐治馬、三樹三郎を加え、八人で漢詩を貼り合わせた詩額を作ろうという話に発展した。題材として江差にちなむもの、ならば江差港の風景を詠もうということになり、八箇所の名勝について八人がそれぞれ七言絶句を詠み、「江差八勝」となってで後世に残ることになる。
実際に詩会が開かれたのはその年、1847年(弘化4)五月で、詩額を作ることに尽力したのは漢詩では三樹三郎、資金は佐治馬である。三樹三郎はなんとしても江差の地に自分が滞在した足跡を残したかった。佐治馬はその思いに応え、支援を行なってくれたのだった。とうぜんのこととして、完成した詩額は齊藤家に納められたわけだが、程なく詩額は火災で焼け、三樹三郎は京都に帰ってから書き直すことになる。ただ、の書き直したものも京都から江差に送る途中で紛失してしまい、三樹三郎は三度書き直すことになる。後世、当初とは語句の異なるものが存在するのはそのためである。
以下、江差八勝に納められた八首の七言絶句の表題を列挙する。
江差八勝
法華寺霜鐘(法華寺の霜鐘) 釈日袋
鴎島煙檣 (鴎島の煙檣) 西川雍
津花夜市(津花の夜市)本多覃
愛宕観瀾(愛宕の観瀾)原元圭
乙浦漁火(乙浦の漁火)高野慊
豊橋涼月(豊橋涼月)齊藤観
三樹三郎の「笹山暁雪」は以下の通りである。
笹山暁雪(笹山の暁雪)
笹山帯雪立洋空 笹山雪を帯びて洋空に立つ
掩映暁波藍碧中 掩映す暁波藍碧の中
江差江頭幾千家 江差江頭幾千の家
無窓不納白玲瓏 窓として白玲瓏を納めざる無し
意味 まだ雪をいただく笹山が広々した春の空にそびえ立っている。その姿が明け始めた濃い青緑色の波の中に映っている。江差港に面した多くの家並みのどの窓からもこの麗しく照り輝く姿が見えないところはないのである。
2025・3・24 第36回
なんども通ううちに、おまさの身の上もわかってきた。出身は津軽で、父はなにがしかの譴を被って落ちぶれ、母は病がち。弟たちは幼なく、一昨年の三月のニシン漁時期にやってきて金を貯めた。ニシン漁が終わると郷里に帰ったが、今年の三月に再び舞い戻り、そのまま江差に居続けているという。年齢は十八というが、素性も含め、酒場の女の言葉だから、ほんとうかどうかはわからない。
身の上話が誠であれば気の毒ではあるが、不幸な生い立ちを感じさせない明るさがよい。江差には浜小屋、酒場、茶屋、遊郭など、さまざまな形態の遊び場がある。おまさは津軽時代の知り合いの縁で、江差で働くようになったという。
「田舎に帰らないとは、惚れた男でもできたのか」と三樹三郎は冗談めかして聞くと、曖昧にしか答えない。あんがい当っているのかもしれない。
江差追分は滞在中に憶えたという。幼い頃から歌は好きで、一度聞いたら憶えられるという。三味線もまだ二年にしかならないのに、練習の甲斐あってみるみる上達して、教えてくれる者からは「筋がいい」と褒められたという。
馴染みになるにつれて言葉にお国訛がまじるようになった。津軽からきたというのは誠であろう。それがまた独特の情緒を生んでいる。歌も三味線も上手く、明るいながら、酒が進むほどに憂いのある表情を浮かべる。そんなおまさに、三樹三郎はますます入れこみ、二日と空けず通うようになった。
あるとき、おまさは文字が読めず、書けないことを知った。三樹三郎の母の梨影も下働きをしていたころは文盲に近かったが、父の山陽に見初められて家庭に入ってからは、山陽の教えをうけて、やがて手紙を書き、絵も描けるようになった。
父母はその当時は珍しい恋愛結婚であった。三樹三郎もできるなら好いた女性と結ばれたいと考えている。三樹三郎はおまさに母の面影を見ていたのかもしれない。
ところがそのうち三樹三郎の飲み屋通いもままならなくなってきた。江差に来たときから患っていた乾癬が、いったんはよくなったかに見えたものの、再び悪化したのである。初めは手足に症状が出るだけであったのに、身体にまで広がり、痒くてどうにもならず、夜も眠れない。
同情した佐治馬が「温泉に行ってはどうか」と進めてくれた。いわゆる湯治である。時間のかかることであるが、根本的に治していくしかなさそうだ。
2025・3・23 第35回
江差に残った三樹三郎の周辺はぐんとにぎやかになった。詩を詠み、書書いて欲しいという依頼が舞いこむようになったのだ。もちろん三樹三郎も大いに乗り気で、揮毫の依頼はすべて引き受ける。
三樹三郎の才能に魅了された佐治馬は、以前から考えていた仲間たちとの詩会を定期的に開くようになった。
集まってくるのは以前からつきあいのある蘭方医の本多覃、同じく蘭方医で近江国出身の原元圭、日蓮宗法華寺十四世住職で、能登出身の日袋、回船問屋を営む梁瀬存愛、松前藩医の西川春庵 同じく松前藩士の高野慊である。
全員、三樹三郎の百詩を詠む様子は見物しており、三樹三郎の実力のほどはよくわかっている。「ただの酒好きな若者だと思っていたのに、人はみかけに寄らないものだな」と今は尊敬の的になっている。三樹三郎自身は何も変わっていないのに、いきなり持ちあげられたようで、こそばゆいような思いがする。
仲間たちはそれなりに顔も広く、三樹三郎への揮毫の依頼はさらに増えた。そして収入が増えれば、足は歓楽街へと向いていく。
三樹三郎には目当ての女性がいた。佐治馬が最初に連れていったくれたときに会った昇月楼のおまさである。おまさの三味線に合わせた歌声がずっと心に留まっていた。
その夜、三樹三郎は雪の降る中をおまさのいる店へと向かった。一度しか会ったことはなく、自分のことなど記憶していないだろうと思っていたが、三樹三郎を一目見るなり「頼さま。ずいぶんご無沙汰ね」といった。
「憶えていてくれたか」
「そのお顔は一度見たら、忘れませんよ」
三樹三郎はあばたの残る自分の顔を掌で撫でた。
「でもあれっきりなので、どうしているのかと思っていたよ。なんでもたくさんの詩を詠んだという話だけど」
百印百詩の話はおまさの耳にも届いていたのである。
江差では噂は飛ぶようにひろがる。江戸で起きたこと、京都で起きたことも、さして日をおかず広まっていく。特に飲み屋街では加速度的に拡散していく。
おまさといると楽しい。注いでくれる酒もおいしい。おまさの透けるような肌白い細い指先などいかにも雪国の女という感じである。
2025・3・19 第34回
一日百印百詩が終わり、まだ余韻が続く中、新年が明けた。松浦武四郎は「松前に向かう」と言いだし、旅支度をはじめた。周囲の者は道中の荒天や雪害を理由に止めたが、本人は「いや、案ずるまでもない。わしにとって松前は目と鼻の先や。それに来春には今一度北樺太へ向かいたい。そのため
地図の「江刺」は正しくは「江差」
にも松前にいて、来春の計画など知りたいのや」と聞く耳を持たず、荷造りを続けている。
その様子を見ながら、三樹三郎は「百印百詩の会は、ここ江差では大評判を呼んだ。幸いにもわしのところには揮毫の依頼が舞い込みつつある。武四郎殿とて一稼ぎできるであろうに」
三樹三郎がいうように、百印百詩を境にそれまで三樹三郎のことなど歯牙にもかけなかった者からも「揮毫をお願いしたい」と声がかかるようになっている。このまま武四郎と二人で「旅猿」を続けるのも悪くはないと考えていたところであった。
だが武四郎は「篆刻は食えない時代に生きる糧を得たいと始めただけのこと。いわば余技のようなもの」と淡々としている。
三樹三郎自身は生涯の目標として詩を詠み、書を書くことを考えているから、武四郎の言葉には落胆を覚えた。
「では訊くが、武四郎殿の人生の目標とはなんや」
「日本中をもっと歩くことや。蝦夷地とて未踏の地がある。三樹三郎殿も歩くがいい。歩けば、世に中がよう見えてくるし、飯の種も転がってる」
「飯の種?」
「三樹三郎殿とて歩いて江差まで来たから、飯の種が見つかったのやろう」
「そういわれればそうや」
「せっかく蝦夷地まで来たのや。三樹三郎殿も蝦夷地の探索をしてはどうや」
「もちろんこのまま帰るわけにはいかない。春になれば奥地に分け入ってみたいと考えておる」
武四郎は頷きながら、「いずれにしろ、江差の地で三樹三郎殿とで会えたことはよき思い出や。また会う日もくるだろう。そうや。三樹三郎殿。先日書いた百詩を、わしのために書いてくれぬか。記念に持っておきたい」
二人で成し遂げた百印百詩である。三樹三郎は一晩かけて百詩を書き写したものを二部作り、武四郎はそこに百印を押した。できあがった二部の一日百印百詩を眺めながら、二人は改めて自分たちが偉業を成したという思いに包まれた。
正月早々、松前に向かうという松四郎に連れができた。如草という号を持つ俳人がやはり箱館に向かうというのである。折しも朝から吹雪いている日であった。それでも松四郎は蓑笠をかぶり、連れとともに平気な様子で出立していった。