来年2025年(令和7)7月は頼三樹三郎生誕200年にあたります。
この物語は、三樹三郎が青春を過ごした蝦夷地での日々から始まります。
連載小説
はるかなる蝦夷地
―頼三樹三郎、齊藤佐治馬、松浦武四郎の幕末
見延典子
主な登場人物
頼三樹三郎(22才)は頼山陽の3男
齊藤佐治馬は江差の町年寄(27才)
松浦武四郎(29才)は後に「北海道」の名付け親となる
齊藤佐佐馬五郎(14才)は佐治馬の弟
齊藤佐八郎は佐治馬、佐馬五郎の父で、隠居している。
1846(弘化3年)9月末、蝦夷地に渡った頼三樹三郎は、江差の商家で、町年寄をつとめる齊藤家の食客となっている。
2024・11・22
はるかなる蝦夷地 第8回
江差は日ごと寒さが進み、雪が降り、凍えるような日々になっている。海は鈍色を深め、ゴウゴウと地
響きのような音をたてながら打ち寄せてくる。瀬戸の海でも、もちろん琵琶湖でも見たことのない圧倒的な迫力だ。
だが三樹三郎の心は弾んでいる。三樹三郎は佐八郎の隠居部屋を訪ねた。佐八郎の求める書について、書くべき文言を尋ねるためであった。
その日も、佐八郎は集めている骨董を広げていた。三樹三郎が用件を切り出すと、「江差らしい風景でも漢詩に詠み、書いてほしい」という。
「なるほど、わかりました」
「すぐ近くに別棟があり、その庭の様子を詠んでくれてもいい。ただ、今の季節であれば、詠むべき材が限られるだろうが」
「冬は冬なりの風景があります。まして異郷での景色は新鮮です。先ほども海のほうまで歩いてみて、しばし海の様子に見入ったところです。とりあえず、お庭を拝見させていただきたいと思いますが、いかがでしょうか」
「ではあとで使用人に案内させよう」
話が終わったあと、三樹三郎は広げられた骨董の中に、見慣れない文鎮があるのに気づいた。円形をして、上に龍の彫り物が施されている。
「この文鎮は先日まではお持ちではありませんでしたね」
佐八郎の表情がパッと明るくなった。
「今し方、なじみの古物商がきて、置いていった。鴨長明が使っていたそうだ」
「鴨長明?」
「何やら、書いているだろう。つれづれなるままになんとか・・・」
「徒然なるままに日暮らしですか」
「そう、それだ」
「でしたら、兼好法師かと」
「そうだったかもしれない」
三樹三郎は顔を近づけ、しげしげと眺めた。佐八郎が手にとってもいいというので、持ってみる。ずしりと重く、鉄でできているようだ。そういえば、江戸から北上してきたとき、南部鉄の文鎮をみた記憶があり、その風合いに似ていないこともない。横には桐の箱があり、箱書きもしてあるが、肝心の文鎮に比べ、箱のほうが立派に見える。
「で、お買い求めになったのですか」
「いや、しばらくそばに置くといって帰っていった」
三樹三郎は内心安堵しつつ問うた。
「で、先方はいかほどと?」
佐八郎は左の掌を開いた。
「五両は、あまりにも高すぎるかと」
「その十倍だ」
三樹三郎が苦笑すると、佐八郎も笑った。
「わしにもつきあいというものがある」
「はい。なんとなくわかります」
「骨董もおもしろいが、人というものもおもしろい」
「と申しますと?」
「どんな者であれ、誠実な面とそうでない面をもっている。自覚する、しないにかかわらず。そして大半の者は無自覚であり、騙そうと思って、騙してはいない。ただ、世の中には騙そうと思って、騙す者がいる。そういう輩に騙されなければ、いいだけのことだ」
「それならいっそ・・・・・・」
「返せばいいというのだろう。いや、この文鎮一個あれば、三日や四日、あるいはもっと、あれこれ考えていられる。それがたのしい」
「はあ、そういうものですか」
「三樹三郎殿も、年齢を重ねたらわかるだろう」
2024・11・6
はるかなる蝦夷地 第7回
三
何日かして三樹三郎は佐治馬に呼ばれた。佐治馬は丹前を羽織り、キセルで煙草を吸っているところだった。仕事を終え、帰邸した直後なのだろう。
佐治馬はいったんキセルを煙草盆に戻してから「どうだ。身体の痒みは?」
三樹三郎は江差に着いたころから、手や顔に痒みを感じていた。いずれ治るだろうと思っていたが、治るどころか痒みは増すばかりである。見かねた佐治馬が知り合いの医師本多豆山に診療を依頼したところであった。
「ありがとうございます。本多先生によれば、乾癬という皮膚の病気で、寝具などを介して谷から感染したようです。潜伏期間が一、二ヵ月というので、奥州を旅行中に感染したように思います。もっとも治療法は肌を清潔に保つことしかないといわれました」
完治には半年から、場合に酔っては一年くらいかかることもあるという話もした。
佐治馬は「毎日、風呂に入るように」といった。
「食べさせてもらっているだけでもありがたいのに、お心遣いをありがとうございます。」
「かまわぬ。それより頼みがある」
「頼み? なんでしょうか」
「父が書を書いてほしいそうだ」
「私に、ですか?」
「もちろん。内容はまかせるから、ぜひ三樹三郎殿に書いてほしいそうだ。父のことだ。謝金はたっぷり弾むだろう。それともう一つ。佐馬五郎に誌を見せてくれたそうだな。おかげで詩に興味をもちはじめたようだ。来年は元服を迎える。年の離れた弟ではあるが、いずれ齊藤家のために働いてもらうことになり、それなりの素養は身につけてほしい。ついては佐馬五郎に漢詩を指南してやってほしい」
三樹三郎の顔が一段と明るくなった。
「佐馬五郎殿は、先日も熱心に漢詩の話を聞いてくださいました。ご関心があるのなら、きっとよい詩を書くようになりましょう」
「それと、わし自身も漢詩を学び直したいと思っている。本多殿も同じようなことをいっていた。どうだろう。知人数名にも声をかけるから、われわれにも漢詩を教えてもらえないだろうか」
「まことですか」
「冬のあいだは集まることが多い。せっかくなら実になるような集まりにしたい」
三樹三郎は弾むような声で応じた。
「ありがとうございます。その話、ぜひ進めてください」
江戸の昌平坂学問所を退学になったあと、自分はどのように生きていくべきか、遅ればせながら考えた。おめおめ京都に帰れず、といって生活のための手段はない自分で稼げるものといえば、文を売り、漢詩を売り、書を売ることだった。それは父山陽もやっていたことだ、
父は若い頃、書を売るために近隣を旅し、その様子を春水が「猿が芸を売るようで、恥ずかしい」嘆き、山陽を「旅猿」と蔑んでいた。もっとも内心では、自力で生きていこうとする息子を応援していたに違いない。三樹三郎自身も、江戸から北上する過程で、見よう見まねで「旅猿」をやってきたが、心のどこかで迷いがあった
今、たまたま辿りついた江差で、齊藤佐治馬と出会い、父山陽が歩んだと同じような道を示してくれている。これを幸運と呼ばずしてなんだろう。
2024・11・3
はるかなる蝦夷地 第6回
三樹三郎が佐馬五郎と話しているところに、松浦武四郎が帰ってきた。使用人のための部屋で、二組の寝具を広げれば一杯になるほどの広さしかない。武四郎が入ってくると、部屋は急に窮屈になったように感じられる。佐馬五郎は察したように「また来ます」と出ていった。武四郎は佐馬五郎に目を向けたが、言葉をかけることもなく見送った。
武四郎とは数日間、同じ部屋で寝起きしている。無口というわけではないが、三樹三郎についてばかり聞きたがり、自分の話はほとんどしない。三樹三郎は多弁なほうで、訊かれればなんでも答える。この数日は三樹三郎が一人で話していたような状態であった。
武四郎は鼻がやや赤くなり、着物は肩や裾が濡れている。屋外に出ていたように見える。そのまま火鉢に手をかざしながら、肩をすぼめ、「寒い」といいながら、手をすり合わせている。この時代の暖房は火鉢くらいしかない。囲炉裏の火を燃やし続けることで寒さを防ぐ方法もあるが、薪が必要なことから食客の寝泊まりする部屋には囲炉裏そのものがない。
三樹三郎は佐馬五郎に見せるために広げていた書をしまい始めた。その様子を横目でみて、武四郎が「三樹三郎殿が書いたものか」と訊いてきた。
「ええ。江戸を発って以来書いてきた詩です」
「詩才があって、うらやましいな」
「子どもの頃からしこまれましたから」
「父君は詩の大家であろう」
「皆様は父の才を褒めてくださいます。わしもいずれ亡父のように詩集を編みたいと願いながら詠んでいますが、なかなか」
三樹三郎は言葉を切り、「武四郎殿は、詩は書かれないのですか」と訊き返した。
「書くことは書く。和歌も詠むが、人様に見せるようなものは詠めない。そのかわり歩くのは好きで、歩くことは苦にはならない。一日に16里(72㎞)ほどあるいたことがある」
「16里? 信じられません」
火鉢の上においてある鉄瓶の湯がわいた。三樹三郎は身体が冷えてきたので、湯飲み茶碗を二つだし、湯を入れ、一つを武四郎に差し出した。三樹三郎も湯をすすりながら、
「探検ってそんなにおもしろいのですか」
「おもしろい」
「けど原始林ばありの道なき道をいき、獣にも遭うのでしょう」
「心配はいらぬ。アイヌが道案内をしてくれる」
「アイヌ?」
「知っているか」
「原住民のことですね」
「そや。アイヌは和人が渡る前から、蝦夷地に住んでおる」
「言葉はどうなんですか。通じないでしょう」
「だいたいならわかる」
「怖くはないのか」
「アイヌは穏やかで、善良や。こちらから仕掛けない限り、刃向かってくることはない。それやというのに、アイヌを食い物にしている者もおる」
「食い物?」
「アイヌがいいように使われているという話や」
武四郎の口調が強くなった。これまで見せたことのない素顔がのぞいたような気がしたが、その素顔というものが三樹三郎にはまだわからない。
武四郎は話題を三樹三郎のほうに戻した。
「江戸の昌平黌に通っていたというていたが」
「はい。大坂の塾にいたとき、篠崎小竹先から幕府の御納戸頭係の羽倉簡堂殿を紹介され、その口利きで入学することができました。ただ、残念ながら水野忠邦公の失脚で、要職は離れられましたが」
「さすがに交流の人脈が多岐にわたっているな」
三樹三郎はお玉が池で玉池吟社を開き、多くに門弟をかかえていた梁川星庵、福山藩の江戸丸山邸で、後に藩主となる阿部正弘の教育にあたる門田朴斎、関藤藤陰、江木鰐水が山陽の弟子であった話などもした。
「親戚には尾藤水竹がいます」
「尾藤?」
武四郎の顔が明るくなった。
「ご存じですか」
「会ったこともある。二州殿の子息だろう」
「水竹殿の母とわしの祖母は姉妹なのです。わしの祖父と二州殿は義兄弟ともいえます」
二州は伊予国川之江出身で、大坂に学問修行に出たところで頼春水と出会い、朱子学を学んだ。春水は広島藩の儒者、二州は幕府の儒者になったのだった。
「それは知らなかった」
「どうして水竹殿と会われたのですか」
「さて、どうしてだったか。誰かに連れていかれたのか。善光寺坂にある水竹殿の屋敷には、活きのいい若者が大勢集まっていたな」
武四郎はどことなくはぐらかすような言い方をするが、記憶は確かなようである。そのころの水竹のもとには政関心のある若者が集まって、酒を飲んでは議論をすることが多かった。三樹三郎もときどき顔を出し、その輪に加わっていた。先の話だが、安政六年(1859)に水竹が亡くなり、寡婦となった「とう」という女性と、武四郎は四十二才で結婚することになる。「とう」は福田という旗本の娘であった。
「桜任蔵をご存じですか」と三樹三郎は問うた。
「桜?」
「水戸藩士ですが」
武四郎は表情を変えず、「いや、知らぬ。その者がどうした?」
「いつも過激な議論をしていました。桜殿に限らず、水戸藩士は熱い者が多い。幕府への対抗意識が高く、水戸斉昭公の感化をうけているともっぱらの話です」
武四郎は何食わぬ顔でいった。
「そんな話は初めて聞いた」
2024・10・31
はるかなる蝦夷地 第5回
佐馬五郎はそのまま三樹三郎が逗留している部屋までついてきた。
樹三郎は抱え持ったきた袋から紙の束をとりだした。いずれもびっしりと文字が書きつけてある。佐馬五
郎はそのうちの一枚をとりあげ、読みあげようとしたが、手こずっている。
「これ、むずかしいですね」。
佐馬五郎も読み書きはしこまれているが、見たこともない漢字が並んでいるのだ。
「江戸を発っていらい、道中で詠んだ詩ですよ」
今年の三月昌平坂学問所から退寮の通知があったあと、途方にくれた。初対面の佐治馬に「おめおめ京都には帰れません」と話したように、期待をこめて送り出してくれた母に合わす顔がない。茫然自失の中、かねてより憧れだった奥州に行ってみたいという思いがわきあがってきた。
四月に江戸を発ち、草加(埼玉県草加市)、古河(茨木市古河市)、日光山(栃木県日光市)、中禅寺湖(栃木県日光市)、白河の関を越えて、会津若松(福島県会津市)では浦上玉堂の次男である浦上秋琴と交流し、秋琴の案内で柳津(福島県河沼郡柳津町)の円蔵寺に参った。さらに仙台(宮城県仙台市)に向かい、三本木(宮城県)の伊藤文叔の宿を塒に松島、石巻、湧谷を巡り、一ノ関(岩手県)では大庄屋大槻衣関の世話になり、達谷の窟、毛越寺、中尊寺、高館、衣川柵跡、義経堂など歴史が残る各地を訪ね、盛岡、野辺地でも縁者の世話になった。
「蝦夷地に渡ろう」と思ったのは、どの時点であったろうか。奥州に行ってみようと考えたときには、すでに蝦夷地も視野に入っていたかもしれない。
天保八年(1837)アメリカ船のモリソン号が通商交渉のため浦賀に来航し、幕府は異国船打払令により撃退したが、二年後幕府の政策を批判した高野長英、渡辺崋山らが弾圧された。蛮社の獄である。
蝦夷地でも寛政四年(1792)ロシアのラクスマンが根室に来航して、通商を求めた。近年は再びロシア船の出没し、幕命を受けた松前藩が主導して要所に砲台を築いたが、蛮社の獄のあと異国船打払令は廃止され、二年前の天保十三年(1842)には薪水給与令が発令された。これは来航した外国船に薪水、食料を与えて退去させるというもので、打払令を緩和した内容であった。
このような話は、政治に関心をもつ若者のあいだでひろがり、三樹三郎も北方への関心が強まっていた。
ただ、陸奥の三厩に着いてときには北国は冬を迎える季節になっており、波も荒くなっていた。松前に渡るという船の船頭からは「乗せてもいいが、命の保証はない」と脅かされた。それでもどうしても北の大地を踏みしめたいという思いにはあらがえ、船にのりこんだのであった。
三樹三郎は佐馬五郎の代わりに吟じた。
舟中作 頼三樹三郎
風波発舟三厩礒 風波舟を発す三厩礒
竜飛濤声似龍飛 竜飛の濤声龍の飛ぶに似たり
険危良是証他日 険危良し是れ他日に証せん
乱点潮痕在留衣 乱点の潮痕留めて衣に在り
(文意、波風の強い中、三厩を出航した。竜飛の波の音は龍が飛ぶときの声に似ている。危険ではあるが今しかない。着物には激しい潮の跡が留め、激しく濡れている)
「この詩は荒れ狂う津軽海峡を渡ってきたときの様子を詠んだものです」
三樹三郎が説明すると、佐馬五郎は、
「海が時化たときの様子が伝わってきます」
「確かに、よく無事に渡ってこれたと思います」
話をしながら、三樹三郎は自分の詩の修正をはじめる。
「まず書いてみる。何日かして読み返してみる。するともっとよい表現が思いつくことがある。これを推敲といいます」
「そんなものですか」
「次の詩は、松前についたときに詠んだものです」
松前客懐 頼三樹三郎
望南海水濶如天 南海を望めば水濶(ひろ)きこと天の如し
萬里白雪意惘然 萬里白雪意(おも)い惘然たり
鉄艦長檎満三港 鉄艦長檎三港に満ち
問来不見五畿船 問ひ来って見えず五畿の船
(文意 松前に渡ってから、来し方の南の海を望めば、広いことは天のようで、よくぞ渡ってきたものである。はるかに白い雪がかかったようにぼんやり見える。港には異国船に対峙するため、鉄の船体に長いマストのある船が港にあふれている。誰に訊いても京阪の船は見えない)
「『客懐』とはどんな意味ですか」
「ふるさとを懐かしむという意味です。五畿は大和、山城、摂津、河内、和泉を指し、松前で見た景色はまったく馴染みのないもので、望郷の念が過りました」
三樹三郎には二歳年上の兄の支峰と五歳年下の妹陽子がいたが、昨年母からの便りで、陽子がわずか十六歳で亡くなったことを知った。子どものころから病弱ではあったが、これほど早く亡くなるとは想像もしていなかった。母も娘を失い、悲しみは癒えていないのではないか。そんな話にも佐馬五郎は静かに耳を傾けてくれる。
「親にとって子どもは元気なことが一番です。願わくば、世間に迷惑をかけないことも。佐馬五郎どももわしの失敗はお聞き及びでしょう。他山の石となさってください」
「はい、わかりました」
自分を慕い、素直に話を聞いてくれる佐馬五郎は、弟のようにいとおしく思える。異郷にあって佐馬五郎の存在は心の支えになっていく。
2024・10・28
はるかなる蝦夷地 第4回
佐治馬は武四郎と別れた足で、佐八郎のいる部屋に入った。収集した骨董品を保管している部屋で、書軸、書画、水石、煎茶、陶器などの骨董品が所狭しと並べられている状態であった。
「父上、武四郎を呼びましたか」
「ああ、呼んだ。あいつは骨董に詳しいから、ついあれこれ見せてしまった」
いつもにも増して部屋に骨董があふれているのはそのためであった。
「武四郎には気をつけるように申しあげたはずです」
「心配いらぬ。骨董以外の話はしておらぬから」
若いころから骨董収集の趣味があった佐八郎は、隠居してからさらに火がついた。北前船で、骨董が届くのを待ちわびては、買い漁っている始末である。その佐八郎が何やら捜し物をしている。
「何かお探しですか」
「確かここにあったはずなのだが」といいつつ、「あった、あった」
「なんですか」
「沈南蘋の花鳥画だ。今夕宴があるから、みなに披露しようと思って。いや、待てよ。他にもっといいものがあったはずだが」
独り言のようにいいながら、「さて、どちらがいいか」と見比べて悩んでいる。酒の会で、軸をかけて楽しもうという算段であるが、集まってくる商家の旦那衆に骨董の興味があるのか。話が長くなりそうなので、佐司馬は単刀直入に切り出した。
「京都からきた若者には会いましたか」
「京都から?」
「伝えたはずですが」
「憶えておらぬ」
「結構名のある家の子息のようです」
「というと?」
「祖父は頼春水、父は頼山陽だそうです」
佐八郎の手が止まった。
「なんだと?」
それから「わしも持っておる。頼山陽を」と言って、骨董の山の中から探し出した書軸を佐治馬の前で広げた。
「父上はなんでもおもちですね。それはいつお求めで?」
「京都からの掘り出し物という中に入っていた。頼山陽は書家として名高く、なかなかよい字を書く。感心したので大枚をはたいた」
「これも何かの縁ですね。三樹三郎殿に見てもらいましょう。父上が払った値が適切か否か、わかるでしょう」
佐治馬はすぐに三樹三郎を呼びに行かせた。やがて三樹三郎がやってきたが、なぜか左馬五郎がいっしょについてきた。佐馬五郎は佐治馬の弟で、今年十四歳になる。元服前で、まだ前髪はあり、少年らしさが残っている。三樹三郎が気に入った佐馬五郎は、時間を見つけては三樹三郎が逗留している部屋にいき、京都、大坂、江戸の話を聞いているらしい。
佐治馬は三樹三郎に「父がご尊父の軸を持っている。これも奇遇と思い、是非みていただこうと思って呼んだのだ」
「よもや父の書いたものを、江差で見るとは思ってもおりませんでした」
三樹三郎は掛けてある軸の前に座った。佐馬五郎は三樹三郎の後ろに座り、肩越しに成り行きを見守っている。しかし三樹三郎の表情は芳しくない。
「三樹三郎殿、どうされたか」
「いや、これは・・・・・・」
佐司馬は察していった。
「三樹三郎殿、はっきり申しあげてくれ。そのほうが父のためになる」
「では言わせていただきますが、これは父の字ではありません」
佐八郎は顔色を失い、佐司馬は愉快そうに笑った。
「そんなことではないかと思っていた。父はなんでもいいなりで買うので、かんたんに偽物をつかまされる」
すかさず三樹三郎がいった。
「確かに贋作としてはひどい出来ですが、表具には金がかかっておりますので、何かに使えるかと」
佐治馬は吹き出した。
「よければ、その他のお軸も拝見しましょうか」
三樹三郎は次々に見ていき、三つに分けた。真筆。贋作。区別がつかないもの。真筆はわずかだった。佐八郎の機嫌はみるみる悪くなった。
三樹三郎は小声で、佐司馬に「いいすぎましたか?」と訊ねた。
佐司馬は首を振り、「いや、いい薬になっただろう」
なりゆきをみていた佐馬五郎が、不思議そうに三樹三郎に訊く。
「どうしてわかるのですか」
「祖父や父の書やったら、子どものことから見ていますから、間違えることはありません。ほかの書家についても、ある程度でしたらわかります。贋作はどうしても文字に勢いがなくなります。第一邪心が現れて、書としては見られたものではありません」
「三樹三郎殿は書も書かれるのですか」
「はい。幼い頃からしこまれました」
「今、お持ちですか?」
「ええ。部屋にあります」
「ぜひ拝見したいものです」
2024・10・26
はるかなる蝦夷地 第3回
松前藩は、文化四年(1807)幕府から全島上知を命じられ、陸奥国伊達郡梁川に移封になった過去があることはすでに紹介したが、原因
は交易を巡って幕府の忌諱に触れたことであった。幕府の目を盗み、私服を肥やしているとみなされたのだ。
以降、幕府は箱館に奉行所を置き、松前藩を直轄地とした。だが経費のかかる話であり、利益も見込めないことから、1821年(文政4)には松前藩に帰藩を命じた。わずか十四年の直轄支配であった。
表面的には落ち着いたかに見えるものの、幕府が松前藩を信じたわけではないだろう。幕府に目をつけられた以上、今後も嫌疑をかけられる可能性はある。
もっとも佐治馬はこうした経緯を冷ややかに眺めていた。父の佐八郎は「松前藩あっての熊石屋。何があろうと松前藩を第一に働かなければならない」と説くが、佐治馬は多くの松前藩士は江差のことを見下していると思う。彼らは、江差の商人は金儲けがうまく、遊興にふけって面白おかしく生きている、それに対して自分たちは武士として忠義を貫き、清廉に生きていると考えている節がある。だが実際には幕府の目を盗み、金子を貯めていたのだった。
松前藩に限らず、多くの藩でも公にできないことはあるだろう。長州藩や薩摩藩では朝鮮や中国と密貿易をしているという噂がある。幕府とて知らないわけではなく、事実をつかみきれないだけだけだろう。
佐治馬にとって最も大切なのは、江差の繁栄を守ることであった。それがひいては家業の熊石屋を守ることにつながると考えていた。
佐治馬は武四郎が幕府の隠密ではないかと勘ぐっていた。それゆえ警戒心を抱きつつ接していた。
松前藩では、藩主や藩士が運上金の納入を条件に、蝦夷地の交易権を商人に委託し、経営を請け負わせる「場所請負制度」が行なわれている。「場所」とはアイヌ交易の地の意味で、藩主も、家臣である知行主も商船を「場所」に派遣し、アイヌと交易を行うのだ。農業を基盤にできない松前藩ならではの独特の制度であった。
ただ、松前藩とアイヌの立場は対等ではなく、松前藩の圧政に反発してアイヌが蜂起する事件も起きた。松前の地が幕府の直轄地になったときには、東蝦夷地の場所請負制が廃止されたが、松前藩領にもどると元の通りになった。
佐治馬の立場でいえば、「場所請
負制度」の上に松前藩から役割を与えられ、商売が成り立っているわけで、そこを否定しようという思いには至らない。むしろアイヌが蜂起する事態にならないように目を光らせる必要を感じる。
つまり蝦夷地内部を探索するという武四郎に対しても、自分たちにとって必要な見聞、つまりアイヌに不審な動きがないかを調べ、まだ眠る資源に関する新しい知見などをもちかえる人物と期待しているところがある。だからこそ寄宿させ、見合う費用も払い、優遇してきたのだった。
だが佐治馬がうすうす感じているように、武四郎は佐治馬が期待するような人物ではなかった。
武四郎も当初は松前藩のために蝦夷地を探索しようという思いはあった。ところが蝦夷地内部で見たのは松前藩の、アイヌに対する過酷な支配であった。過重な労働を強い、多くを搾取し、女性を平気で強姦する。武四郎はアイヌに対して同情がわき、実態を告発しなければならないという思いにかられた。
武四郎が幕府の隠密ではないかと勘ぐった佐治馬の勘は半分当っていた。武四郎は初めて東蝦夷地の探索を終えたあと、つまり昨秋から正月にかけて水戸藩と接触していた。水戸藩では蝦夷地経営を画策していたからだ。幕府の対応が遅いため、幕府に対抗意識をもつ水戸藩が独自に動いていた。目的はロシアからの防衛が主であったが、蝦夷地を意のままに経営したいという考えはあった。
藩主であった徳川斉昭に会うことは叶わなかったが、『新論』を著わした稀代の学者会沢正志斎と対面することができた。会沢正志斎は武四郎の後ろ盾となり、路銀を与え、蝦夷地についてのさらなる情報を求めた。
武四郎は昨年の東蝦夷地の探索で『初航蝦夷日記』を記し、今回は北蝦夷地の探索で『再航蝦夷日記』を書いたが、両書は水戸藩への報告書であった。そこには蝦夷地内部の状況とともに、松前藩が行なっている蝦夷地支配の様子について洗いざらい書いていた。武四郎は水戸藩の隠密だったのである。
2024・10・25
はるかなる蝦夷地 第2回
この頃の江差は戸数二千、人口は三万、北前船が寄港する蝦夷地最大の港である。 五月(五月下旬から七月上旬)ころはニシン漁が終わり、ニシン加工品を求めて各地から交易船や人々が江差港にやってくる。 その賑わう様子は「江差の五
にもない」と謳われるほどである。
江差齊藤家の先祖は齊藤四郎左衛門尉藤原和興の三男興武で、口伝によれば、美濃国の武将斎藤道三の一族という。慶長二十年(1615)大坂夏の陣で松前藩藩主松前盛廣と出会い、翌年渡海し、松前藩に俸禄。江差で藩士半商として定着した。
七代で「長崎俵物江差熊石屋」と号して問屋に指定され、八代で江差町の最高責任者である町年寄と沖之口収納方に任ぜられた。長崎俵物とは、長崎貿易で輸出品であった水産物のうち煎海鼠と乾鮑二品を指し、後に鱶鰭を加えて三品とした。
町年寄は藩士分で食録として百十石を給され、沖之口収納方は福山(松前)に儲けられた沖之口番所で、船舶や積荷、旅人を検査し、規定の税金を徴収する役目を担っている。
松前藩は文化四年(1807)から十二年間ほど奥州梁川に移封になったことがあるが、そのときも齊藤家は幕府から直接江差下代を命じられるほどであった。
屋敷はかつて津軽陣屋があった小兵衛沢の上にあり、後ろ三面は山を負い、屋敷の前には川が流れている。佐治馬の父佐八郎は十代で、今は隠居している。
佐治馬は十一代として文政三年(1820)現在の屋敷で生まれた。江差は海に近く、港周辺には有象無象が集まり、なんともいえない猥雑な熱気を放っている。佐治馬はそんな江差が大好きで、江差に生まれたことを誇りに思いながら成長した。
務めにも意欲的で、二十歳で町年寄見習い、五年前には二十二歳で町年寄になった。さらに奉行所にも出仕し、在方掛、山方掛、沖之口掛を歴任していくことになる。才気にあふれ、これらの江差をひっぱっていく人材として期待されている。
齊藤家の屋敷は、日中は商売の関係で多くの人が出入りするが、奥まったところは生活空間である。
帳場にいた佐治馬は、用事を思い出して茶の間に向かった。父の佐八郎を探したのだが、見つからず、さらに奥へ進んだところで、若い男と鉢合わせになった。驚いたのは佐司馬よりむしろ男のほうで、身体をのけぞらせた。
齊藤家の屋敷は広い。 日中は商売の関係で多くの人が出入りするが、奥まったところは生活空間である。
帳場にいた佐治馬は、用事を思い出して茶の間に向かった。 父の佐八郎を探したのだが、見つからず、さらに奥へ進んだところで、若い男と鉢合わせになった。 驚いたのは佐司馬よりむしろ男のほうで、身体をのけぞらせた。
「何をしている、こんなところで」
佐司馬が厳しい声で威嚇したのは、屋敷内にはさまざまな決まりがあり、奥は家族以外入ってはならない決まりになっているからだった。
「すみません、ご隠居さまに呼ばれましたもので」そう答えたのは、伊勢から来た松浦武四郎で、長五尺(150㎝)ばかりの小柄な男である。
武四郎が最初に齊藤家に現れたのは昨年の初春である。 津軽から乗った船が齊藤家の持ち船だったことから、そのまま齊藤家の食客になった。
本人の話によれば、伊勢の郷士の四男として生まれ、十六歳のとき江戸で篆刻を学んだあとは、健脚を活かして諸国を巡礼。 薩摩では僧侶になって藩内に入国した。 二十一歳のとき、長崎で疫病にかかり、三年ほど仏門に専念したあと、壱岐、対馬に渡り、朝鮮の島影をみて、朝鮮の山に登ってみたいという欲望に
かられるが、ある人から北辺探索の緊急性を説かれ「ならば還俗して蝦夷地にわたろう」と思い立ち、実際に還俗して蝦夷地に来たという。 そのとき二十九歳であった。
蝦夷地を探索したいという武四郎の願いを知った父の佐八郎は、武四郎をいったん江差の人別帳に入れ、さらに箱館の商人白鳥新十郞の提案で、東蝦夷地渡船の商人 和賀屋孫兵衛の手代ということにして、東蝦夷地の探索に送り出した。
そこまで骨を折ったのには事情がある。 松前藩では蝦夷地内部の資源情報を得たいと考えていたが、領地以北は未開の原野が続き、足を踏み入れることがむずかしい。 武四郎のように率先して探索にいきたいという申し出はありがたい話であった。 とうぜんながら、松前藩は武四郎に便宜を図ることと引き換えに、蝦夷地で得た情報の提供を約束させていた。
武四郎が探索を終えて江差に帰ってきたのは半年後で、いったん江戸に帰ったが、今春、再び蝦夷地に渡ってきて、またも佐八郎の計らいで、こんどは江差の医者西川春庵の下僕ということにして、北蝦夷に出向いて探索し、先日戻ってきたところであった。
「親父に呼ばれた?」
「はい、どうしても見せたい骨董がおありになるとのことで」
佐八郎は骨董収集の趣味があり、長年書軸や陶器などを集めているが、佐治馬を含めて家族は関心がない。 そのため関心のありそうな者を呼んでは、披露していた。 武四郎がどこまで骨董に関心があるのかは知らないが、少なくとも言葉の上ではそのようなことをいって佐八郎にとりいっているように、佐治馬には思える。
「ご尊父の鑑識眼はすばらしい。特に中国の陶磁器の収集はみごとで、感服しました」
武四郎は早口にそんなことをいい「では」と佐治馬の横をすり抜け、寝泊まりしている別棟に去っていった。
後ろ姿を追いながら、佐治馬は武四郎の目に不純なものを感じ取っていた。 佐八郎は息子の佐治馬からみても、お人好しで、疑うことを知らない。 佐治馬が物心ついたときから商売の上でも騙されることが少なくなく、佐治馬が案じるほどであった。
使用人から聞いた話では、武四郎は最初の逗留の際、人目を盗んで帳場に入りこもうとしたところを見つかった。 使用人が詰め寄ると、本人ははぐらかしたという。 また佐治馬の妻のお蔦も屋敷奥に入ってきた武四郎と出食わしたことがあると話した。 そのときも佐八郎に呼ばれたと弁明したが、あとで佐八郎に訊いたところ、呼んではいないという返答であったという。
「武四郎という男は、何をこそこそやっているのでしょう。何を考えているのかわからず、気味がわるくてなりません」
お蔦は勘の鋭いところがあり、その言葉は武四郎の本質を突いているように思える。 佐治馬自身も武四郎に不審な動きを感じ、警戒していた。
2024・10・24 はるかなる蝦夷地 第1回
第1部 江差の繁栄
一
齊藤佐治馬が初めて頼三樹三郎に会ったのは弘化三年(1846)九月末(太陽暦歴では十月の終わり)、蝦夷地の江差港に初冬を思わせる鈍色の雲が垂れる日であった。
松前藩の重臣山下雄城の家来が「一人あずかってくれませんか」とやってきた。持参の雄城の書状には「京都出身の頼三樹三郎という若者で、荒れる津軽の海を帆船に乗り、松前に渡ってきた」と書かれている。
「頼? どこかで聞いたことがあるな」
「京都の者で、祖父は頼春水という広島藩の儒者、父親は頼山陽といって詩人として一家をなし、史家としてもなんとかという書物も書いたそうです」といったあと、家来は少
し考え「そうそう『日本外史』です」とつけ加えた。
雄城からの書状には「山陽は『日本外史』を献上して老中首座をつとめた松平楽翁公から褒賞をもらい、姫路藩や彦根藩でも講席を開いたというから、身元は確かだ」とある。
「そのように立派な者であれば、松前で世話をすればよかろう」
「いや、それが」
「何かあるのか」
家来は小声になり「この春、酔った勢いで、上野寛永寺の石灯籠を蹴り飛ばしたそうです。ところが石灯籠には葵の紋がついていたから大問題になって、昌平坂学問所を退学になった。行く当てもなくなり、わが藩にいる学友だった山田三川殿を頼って、北上してきたようです」
幕府の手前、松前においておくわけにもいかず、江差に預けるということらしい。
「ほとぼりが冷めたころ京都に帰らせればいいかと」
「厄介払いというわけだな」と佐治馬は溜息をついてから「で、その男は?」
「玄関先で待たせております」
まず父の佐八郎に相談したいところではあるが、あいにく外出中だ。だが玄関先においておくわけのもいかず、家の者に呼びに行かせた。
やがてにぎやかな話し声が近づいてきて、左馬五郞とともに若い男が入ってきた。左馬五郞は佐治馬の弟で、まだ十四歳である。
「なぜ佐馬五郎がいっしょなのか」
「たまたまそこで会っただけです。でも話を聞いていたら、なんだかおもしろくて」
少し前に会ったばかりであろうに、佐馬五郎の声は弾んでいる。よほど話が弾んだものと見える。佐馬五郎の後ろにいた男が、佐治馬の前に進み出て頭を下げた。
「頼三樹三郎と申します。何とぞよろしゅうお願い申しあげます」
小太りで、額が突き出て、顔のあちこちにあばたがある。
佐治馬は言葉をかけた。
「京都からきたそうだな」
「はい。京都で生まれ、十六歳まで過ごしました。そのあと大坂の篠崎小竹先生の塾に入り、二年前江戸にまいりました。母と兄は京都におります」
話し声はやや高音で、言葉には京都訛の抑揚がある。
「いくつだ」
「二十二になります」
佐治馬は二十七歳だから、五歳年下である。
「せっかく昌平黌に入ったのに、惜しいことをしたものだな」
敢えて挑発するような言葉を投げかけても、
「面目もございません。母からは期待をもって送り出されましたので、おめおめ帰京するわけにもまいりません。できることはなんでもいたしますので、置いてくださいますよう、お頼み申しあげます」
と悪びれることもなく頭を下げる。
石灯籠を蹴り飛ばしたくらいだから、さぞ威勢のよい若者が現れると思っていた佐治馬はやや拍子抜けした。「男は少しくらい荒っぽいほうがいい。おとなしいばかりの男は使い物にならない」と佐治馬自身が父親の佐八郎からいわれて育ったのを思い出す。
「それにしても汚いな」
三樹三郎は薄汚れ、あちこち破れている着物の上に、綿入れのようなものを身につけているが、汗なのか、泥なのか臭気を放つほどに汚れている。
横から佐馬五郎が同調した。
「そうなんだ。こんなに臭い男は見たことがないよ。聞いたら、もう半年以上同じ格好でいるっていうから、おどろいた」
「江戸を発って以来、着のみ着のままです。上に着ているものは、確か松島で恵んでもらったものです。蝦夷地では寒さで命を落とすこともあると脅されまして、まさかと思いましたが、渡ってみれば、なるほど経験のない寒さです」
「いや、寒さはこれからが本番だ」
佐治馬は使用人に風呂と飯、替えの着物を用意させた。玄関脇にある使用人用の小部屋の用意もさせた。三樹三郎は佐治馬の目にかなったのだった。