来年2025年(令和7)7月は頼三樹三郎生誕200年にあたります。
この物語は、三樹三郎が青春を過ごした蝦夷地での日々から始まります。
連載小説
はるかなる蝦夷地
―頼三樹三樹三郎、齊藤佐治馬、松浦武四郎の幕末
見延典子
2024・10・28
はるかなる蝦夷地 第4回
佐治馬は武四郎と別れた足で、佐八郎のいる部屋に入った。収集した骨董品を保管している部屋で、書軸、書画、水石、煎茶、陶器などの骨董品が所狭しと並べられている状態であった。
「父上、武四郎を呼びましたか」
「ああ、呼んだ。あいつは骨董に詳しいから、ついあれこれ見せてしまった」
いつもにも増して部屋に骨董があふれているのはそのためであった。
「武四郎には気をつけるように申しあげたはずです」
「心配いらぬ。骨董以外の話はしておらぬから」
若いころから骨董収集の趣味があった佐八郎は、隠居してからさらに火がついた。北前船で、骨董が届くのを待ちわびては、買い漁っている始末である。その佐八郎が何やら捜し物をしている。
「何かお探しですか」
「確かここにあったはずなのだが」といいつつ、「あった、あった」
「なんですか」
「沈南蘋の花鳥画だ。今夕宴があるから、みなに披露しようと思って。いや、待てよ。他にもっといいものがあったはずだが」
独り言のようにいいながら、「さて、どちらがいいか」と見比べて悩んでいる。酒の会で、軸をかけて楽しもうという算段であるが、集まってくる商家の旦那衆に骨董の興味があるのか。話が長くなりそうなので、佐司馬は単刀直入に切り出した。
「京都からきた若者には会いましたか」
「京都から?」
「伝えたはずですが」
「憶えておらぬ」
「結構名のある家の子息のようです」
「というと?」
「祖父は頼春水、父は頼山陽だそうです」
佐八郎の手が止まった。
「なんだと?」
それから「わしも持っておる。頼山陽を」と言って、骨董の山の中から探し出した書軸を佐治馬の前で広げた。
「父上はなんでもおもちですね。それはいつお求めで?」
「京都からの掘り出し物という中に入っていた。頼山陽は書家として名高く、なかなかよい字を書く。感心したので大枚をはたいた」
「これも何かの縁ですね。三樹三郎殿に見てもらいましょう。父上が払った値が適切か否か、わかるでしょう」
佐治馬はすぐに三樹三郎を呼びに行かせた。やがて三樹三郎がやってきたが、なぜか左馬五郎がいっしょについてきた。佐馬五郎は佐治馬の弟で、今年十四歳になる。元服前で、まだ前髪はあり、少年らしさが残っている。三樹三郎が気に入った佐馬五郎は、時間を見つけては三樹三郎が逗留している部屋にいき、京都、大坂、江戸の話を聞いているらしい。
佐治馬は三樹三郎に「父がご尊父の軸を持っている。これも奇遇と思い、是非みていただこうと思って呼んだのだ」
「よもや父の書いたものを、江差で見るとは思ってもおりませんでした」
三樹三郎は掛けてある軸の前に座った。佐馬五郎は三樹三郎の後ろに座り、肩越しに成り行きを見守っている。しかし三樹三郎の表情は芳しくない。
「三樹三郎殿、どうされたか」
「いや、これは・・・・・・」
佐司馬は察していった。
「三樹三郎殿、はっきり申しあげてくれ。そのほうが父のためになる」
「では言わせていただきますが、これは父の字ではありません」
佐八郎は顔色を失い、佐司馬は愉快そうに笑った。
「そんなことではないかと思っていた。父はなんでもいいなりで買うので、かんたんに偽物をつかまされる」
すかさず三樹三郎がいった。
「確かに贋作としてはひどい出来ですが、表具には金がかかっておりますので、何かに使えるかと」
佐治馬は吹き出した。
「よければ、その他のお軸も拝見しましょうか」
三樹三郎は次々に見ていき、三つに分けた。真筆。贋作。区別がつかないもの。真筆はわずかだった。佐八郎の機嫌はみるみる悪くなった。
三樹三郎は小声で、佐司馬に「いいすぎましたか?」と訊ねた。
佐司馬は首を振り、「いや、いい薬になっただろう」
なりゆきをみていた佐馬五郎が、不思議そうに三樹三郎に訊く。
「どうしてわかるのですか」
「祖父や父の書やったら、子どものことから見ていますから、間違えることはありません。ほかの書家についても、ある程度でしたらわかります。贋作はどうしても文字に勢いがなくなります。第一邪心が現れて、書としては見られたものではありません」
「三樹三郎殿は書も書かれるのですか」
「はい。幼い頃からしこまれました」
「今、お持ちですか?」
「ええ。部屋にあります」
「ぜひ拝見したいものです」
2024・10・26
はるかなる蝦夷地 第3回
松前藩は、文化四年(1807)幕府から全島上知を命じられ、陸奥国伊達郡梁川に移封になった過去があることはすでに紹介したが、原因
は交易を巡って幕府の忌諱に触れたことであった。幕府の目を盗み、私服を肥やしているとみなされたのだ。
以降、幕府は箱館に奉行所を置き、松前藩を直轄地とした。だが経費のかかる話であり、利益も見込めないことから、1821年(文政4)には松前藩に帰藩を命じた。わずか十四年の直轄支配であった。
表面的には落ち着いたかに見えるものの、幕府が松前藩を信じたわけではないだろう。幕府に目をつけられた以上、今後も嫌疑をかけられる可能性はある。
もっとも佐治馬はこうした経緯を冷ややかに眺めていた。父の佐八郎は「松前藩あっての熊石屋。何があろうと松前藩を第一に働かなければならない」と説くが、佐治馬は多くの松前藩士は江差のことを見下していると思う。彼らは、江差の商人は金儲けがうまく、遊興にふけって面白おかしく生きている、それに対して自分たちは武士として忠義を貫き、清廉に生きていると考えている節がある。だが実際には幕府の目を盗み、金子を貯めていたのだった。
松前藩に限らず、多くの藩でも公にできないことはあるだろう。長州藩や薩摩藩では朝鮮や中国と密貿易をしているという噂がある。幕府とて知らないわけではなく、事実をつかみきれないだけだけだろう。
佐治馬にとって最も大切なのは、江差の繁栄を守ることであった。それがひいては家業の熊石屋を守ることにつながると考えていた。
佐治馬は武四郎が幕府の隠密ではないかと勘ぐっていた。それゆえ警戒心を抱きつつ接していた。
松前藩では、藩主や藩士が運上金の納入を条件に、蝦夷地の交易権を商人に委託し、経営を請け負わせる「場所請負制度」が行なわれている。「場所」とはアイヌ交易の地の意味で、藩主も、家臣である知行主も商船を「場所」に派遣し、アイヌと交易を行うのだ。農業を基盤にできない松前藩ならではの独特の制度であった。
ただ、松前藩とアイヌの立場は対等ではなく、松前藩の圧政に反発してアイヌが蜂起する事件も起きた。松前の地が幕府の直轄地になったときには、東蝦夷地の場所請負制が廃止されたが、松前藩領にもどると元の通りになった。
佐治馬の立場でいえば、「場所請
負制度」の上に松前藩から役割を与えられ、商売が成り立っているわけで、そこを否定しようという思いには至らない。むしろアイヌが蜂起する事態にならないように目を光らせる必要を感じる。
つまり蝦夷地内部を探索するという武四郎に対しても、自分たちにとって必要な見聞、つまりアイヌに不審な動きがないかを調べ、まだ眠る資源に関する新しい知見などをもちかえる人物と期待しているところがある。だからこそ寄宿させ、見合う費用も払い、優遇してきたのだった。
だが佐治馬がうすうす感じているように、武四郎は佐治馬が期待するような人物ではなかった。
武四郎も当初は松前藩のために蝦夷地を探索しようという思いはあった。ところが蝦夷地内部で見たのは松前藩の、アイヌに対する過酷な支配であった。過重な労働を強い、多くを搾取し、女性を平気で強姦する。武四郎はアイヌに対して同情がわき、実態を告発しなければならないという思いにかられた。
武四郎が幕府の隠密ではないかと勘ぐった佐治馬の勘は半分当っていた。武四郎は初めて東蝦夷地の探索を終えたあと、つまり昨秋から正月にかけて水戸藩と接触していた。水戸藩では蝦夷地経営を画策していたからだ。幕府の対応が遅いため、幕府に対抗意識をもつ水戸藩が独自に動いていた。目的はロシアからの防衛が主であったが、蝦夷地を意のままに経営したいという考えはあった。
藩主であった徳川斉昭に会うことは叶わなかったが、『新論』を著わした稀代の学者会沢正志斎と対面することができた。会沢正志斎は武四郎の後ろ盾となり、路銀を与え、蝦夷地についてのさらなる情報を求めた。
武四郎は昨年の東蝦夷地の探索で『初航蝦夷日記』を記し、今回は北蝦夷地の探索で『再航蝦夷日記』を書いたが、両書は水戸藩への報告書であった。そこには蝦夷地内部の状況とともに、松前藩が行なっている蝦夷地支配の様子について洗いざらい書いていた。武四郎は水戸藩の隠密だったのである。
2024・10・25
はるかなる蝦夷地 第2回
この頃の江差は戸数二千、人口は三万、北前船が寄港する蝦夷地最大の港である。 五月(五月下旬から七月上旬)ころはニシン漁が終わり、ニシン加工品を求めて各地から交易船や人々が江差港にやってくる。 その賑わう様子は「江差の五
にもない」と謳われるほどである。
江差齊藤家の先祖は齊藤四郎左衛門尉藤原和興の三男興武で、口伝によれば、美濃国の武将斎藤道三の一族という。慶長二十年(1615)大坂夏の陣で松前藩藩主松前盛廣と出会い、翌年渡海し、松前藩に俸禄。江差で藩士半商として定着した。
七代で「長崎俵物江差熊石屋」と号して問屋に指定され、八代で江差町の最高責任者である町年寄と沖之口収納方に任ぜられた。長崎俵物とは、長崎貿易で輸出品であった水産物のうち煎海鼠と乾鮑二品を指し、後に鱶鰭を加えて三品とした。
町年寄は藩士分で食録として百十石を給され、沖之口収納方は福山(松前)に儲けられた沖之口番所で、船舶や積荷、旅人を検査し、規定の税金を徴収する役目を担っている。
松前藩は文化四年(1807)から十二年間ほど奥州梁川に移封になったことがあるが、そのときも齊藤家は幕府から直接江差下代を命じられるほどであった。
屋敷はかつて津軽陣屋があった小兵衛沢の上にあり、後ろ三面は山を負い、屋敷の前には川が流れている。佐治馬の父佐八郎は十代で、今は隠居している。
佐治馬は十一代として文政三年(1820)現在の屋敷で生まれた。江差は海に近く、港周辺には有象無象が集まり、なんともいえない猥雑な熱気を放っている。佐治馬はそんな江差が大好きで、江差に生まれたことを誇りに思いながら成長した。
務めにも意欲的で、二十歳で町年寄見習い、五年前には二十二歳で町年寄になった。さらに奉行所にも出仕し、在方掛、山方掛、沖之口掛を歴任していくことになる。才気にあふれ、これらの江差をひっぱっていく人材として期待されている。
齊藤家の屋敷は、日中は商売の関係で多くの人が出入りするが、奥まったところは生活空間である。
帳場にいた佐治馬は、用事を思い出して茶の間に向かった。父の佐八郎を探したのだが、見つからず、さらに奥へ進んだところで、若い男と鉢合わせになった。驚いたのは佐司馬よりむしろ男のほうで、身体をのけぞらせた。
齊藤家の屋敷は広い。 日中は商売の関係で多くの人が出入りするが、奥まったところは生活空間である。
帳場にいた佐治馬は、用事を思い出して茶の間に向かった。 父の佐八郎を探したのだが、見つからず、さらに奥へ進んだところで、若い男と鉢合わせになった。 驚いたのは佐司馬よりむしろ男のほうで、身体をのけぞらせた。
「何をしている、こんなところで」
佐司馬が厳しい声で威嚇したのは、屋敷内にはさまざまな決まりがあり、奥は家族以外入ってはならない決まりになっているからだった。
「すみません、ご隠居さまに呼ばれましたもので」そう答えたのは、伊勢から来た松浦武四郎で、長五尺(150㎝)ばかりの小柄な男である。
武四郎が最初に齊藤家に現れたのは昨年の初春である。 津軽から乗った船が齊藤家の持ち船だったことから、そのまま齊藤家の食客になった。
本人の話によれば、伊勢の郷士の四男として生まれ、十六歳のとき江戸で篆刻を学んだあとは、健脚を活かして諸国を巡礼。 薩摩では僧侶になって藩内に入国した。 二十一歳のとき、長崎で疫病にかかり、三年ほど仏門に専念したあと、壱岐、対馬に渡り、朝鮮の島影をみて、朝鮮の山に登ってみたいという欲望に
かられるが、ある人から北辺探索の緊急性を説かれ「ならば還俗して蝦夷地にわたろう」と思い立ち、実際に還俗して蝦夷地に来たという。 そのとき二十九歳であった。
蝦夷地を探索したいという武四郎の願いを知った父の佐八郎は、武四郎をいったん江差の人別帳に入れ、さらに箱館の商人白鳥新十郞の提案で、東蝦夷地渡船の商人 和賀屋孫兵衛の手代ということにして、東蝦夷地の探索に送り出した。
そこまで骨を折ったのには事情がある。 松前藩では蝦夷地内部の資源情報を得たいと考えていたが、領地以北は未開の原野が続き、足を踏み入れることがむずかしい。 武四郎のように率先して探索にいきたいという申し出はありがたい話であった。 とうぜんながら、松前藩は武四郎に便宜を図ることと引き換えに、蝦夷地で得た情報の提供を約束させていた。
武四郎が探索を終えて江差に帰ってきたのは半年後で、いったん江戸に帰ったが、今春、再び蝦夷地に渡ってきて、またも佐八郎の計らいで、こんどは江差の医者西川春庵の下僕ということにして、北蝦夷に出向いて探索し、先日戻ってきたところであった。
「親父に呼ばれた?」
「はい、どうしても見せたい骨董がおありになるとのことで」
佐八郎は骨董収集の趣味があり、長年書軸や陶器などを集めているが、佐治馬を含めて家族は関心がない。 そのため関心のありそうな者を呼んでは、披露していた。 武四郎がどこまで骨董に関心があるのかは知らないが、少なくとも言葉の上ではそのようなことをいって佐八郎にとりいっているように、佐治馬には思える。
「ご尊父の鑑識眼はすばらしい。特に中国の陶磁器の収集はみごとで、感服しました」
武四郎は早口にそんなことをいい「では」と佐治馬の横をすり抜け、寝泊まりしている別棟に去っていった。
後ろ姿を追いながら、佐治馬は武四郎の目に不純なものを感じ取っていた。 佐八郎は息子の佐治馬からみても、お人好しで、疑うことを知らない。 佐治馬が物心ついたときから商売の上でも騙されることが少なくなく、佐治馬が案じるほどであった。
使用人から聞いた話では、武四郎は最初の逗留の際、人目を盗んで帳場に入りこもうとしたところを見つかった。 使用人が詰め寄ると、本人ははぐらかしたという。 また佐治馬の妻のお蔦も屋敷奥に入ってきた武四郎と出食わしたことがあると話した。 そのときも佐八郎に呼ばれたと弁明したが、あとで佐八郎に訊いたところ、呼んではいないという返答であったという。
「武四郎という男は、何をこそこそやっているのでしょう。何を考えているのかわからず、気味がわるくてなりません」
お蔦は勘の鋭いところがあり、その言葉は武四郎の本質を突いているように思える。 佐治馬自身も武四郎に不審な動きを感じ、警戒していた。
2024・10・24 はるかなる蝦夷地 第1回
第1部 江差の繁栄
一
齊藤佐治馬が初めて頼三樹三郎に会ったのは弘化三年(1846)九月末(太陽暦歴では十月の終わり)、蝦夷地の江差港に初冬を思わせる鈍色の雲が垂れる日であった。
松前藩の重臣山下雄城の家来が「一人あずかってくれませんか」とやってきた。持参の雄城の書状には「京都出身の頼三樹三郎という若者で、荒れる津軽の海を帆船に乗り、松前に渡ってきた」と書かれている。
「頼? どこかで聞いたことがあるな」
「京都の者で、祖父は頼春水という広島藩の儒者、父親は頼山陽といって詩人として一家をなし、史家としてもなんとかという書物も書いたそうです」といったあと、家来は少
し考え「そうそう『日本外史』です」とつけ加えた。
雄城からの書状には「山陽は『日本外史』を献上して老中首座をつとめた松平楽翁公から褒賞をもらい、姫路藩や彦根藩でも講席を開いたというから、身元は確かだ」とある。
「そのように立派な者であれば、松前で世話をすればよかろう」
「いや、それが」
「何かあるのか」
家来は小声になり「この春、酔った勢いで、上野寛永寺の石灯籠を蹴り飛ばしたそうです。ところが石灯籠には葵の紋がついていたから大問題になって、昌平坂学問所を退学になった。行く当てもなくなり、わが藩にいる学友だった山田三川殿を頼って、北上してきたようです」
幕府の手前、松前においておくわけにもいかず、江差に預けるということらしい。
「ほとぼりが冷めたころ京都に帰らせればいいかと」
「厄介払いというわけだな」と佐治馬は溜息をついてから「で、その男は?」
「玄関先で待たせております」
まず父の佐八郎に相談したいところではあるが、あいにく外出中だ。だが玄関先においておくわけのもいかず、家の者に呼びに行かせた。
やがてにぎやかな話し声が近づいてきて、左馬五郞とともに若い男が入ってきた。左馬五郞は佐治馬の弟で、まだ十四歳である。
「なぜ佐馬五郎がいっしょなのか」
「たまたまそこで会っただけです。でも話を聞いていたら、なんだかおもしろくて」
少し前に会ったばかりであろうに、佐馬五郎の声は弾んでいる。よほど話が弾んだものと見える。佐馬五郎の後ろにいた男が、佐治馬の前に進み出て頭を下げた。
「頼三樹三郎と申します。何とぞよろしゅうお願い申しあげます」
小太りで、額が突き出て、顔のあちこちにあばたがある。
佐治馬は言葉をかけた。
「京都からきたそうだな」
「はい。京都で生まれ、十六歳まで過ごしました。そのあと大坂の篠崎小竹先生の塾に入り、二年前江戸にまいりました。母と兄は京都におります」
話し声はやや高音で、言葉には京都訛の抑揚がある。
「いくつだ」
「二十二になります」
佐治馬は二十七歳だから、五歳年下である。
「せっかく昌平黌に入ったのに、惜しいことをしたものだな」
敢えて挑発するような言葉を投げかけても、
「面目もございません。母からは期待をもって送り出されましたので、おめおめ帰京するわけにもまいりません。できることはなんでもいたしますので、置いてくださいますよう、お頼み申しあげます」
と悪びれることもなく頭を下げる。
石灯籠を蹴り飛ばしたくらいだから、さぞ威勢のよい若者が現れると思っていた佐治馬はやや拍子抜けした。「男は少しくらい荒っぽいほうがいい。おとなしいばかりの男は使い物にならない」と佐治馬自身が父親の佐八郎からいわれて育ったのを思い出す。
「それにしても汚いな」
三樹三郎は薄汚れ、あちこち破れている着物の上に、綿入れのようなものを身につけているが、汗なのか、泥なのか臭気を放つほどに汚れている。
横から佐馬五郎が同調した。
「そうなんだ。こんなに臭い男は見たことがないよ。聞いたら、もう半年以上同じ格好でいるっていうから、おどろいた」
「江戸を発って以来、着のみ着のままです。上に着ているものは、確か松島で恵んでもらったものです。蝦夷地では寒さで命を落とすこともあると脅されまして、まさかと思いましたが、渡ってみれば、なるほど経験のない寒さです」
「いや、寒さはこれからが本番だ」
佐治馬は使用人に風呂と飯、替えの着物を用意させた。玄関脇にある使用人用の小部屋の用意もさせた。三樹三郎は佐治馬の目にかなったのだった。