特に記載のない場合以外、見延典子が書いています。
2020・3・10
頼山陽文徳殿前に駐車するクルマ➁
梅庵さんから連絡を受け、頼山陽文徳殿を訪ねると、件のクルマが写真のままに駐車されている。
たまたま2人の見学者が訪れ、階段に置かれたままの黄色いビ一ルケ一スや新聞紙をよけるように階段を上がっていく。
「ここは誰が管理しているんじゃろう」「誰じゃろうね」という会話が聞こえる。はい、広島市の生涯学習課です、と心の中で答える。
写真には写っていないが、撮影中、広島県警と書かれたバイクに乗る警官が坂道を下ってくる。付近の定期パトロールか。少なくともこのクルマは目に入っていることだろう。
2020・3・5
梅庵さん 🔁 見延典子
「頼山陽文徳殿前に
駐車するクルマ」
お雛さんの日に文徳殿の前に、かようなクルマがでんと駐車されておりました。中には軍手があり、バンパーの上には埃も。すでに駐車場状態?そういえばビールケースは駐車場確保の目印として存在してるよう? もはや司法の手に委ねる時。ということで勝手に「歴史資源活用ええんかい!」からご報告させていただきました。
梅庵
梅庵さんへ
写真とともに、ご投稿いただき、ありがとうございます。
写真の車は1月18日に頼山陽文徳殿を訪ねた時にはすでに駐車していました。またご近所の方からの苦情も耳にしております。
2020年3月3日、梅庵さん撮影。
頼山陽文徳殿前に長期間違法駐車されている車は、見学者はもちろん、歩行者やバスの妨げになっている。
頼山陽文徳殿前は私有地ではありません。しかもこの車はさらに歩道にはみ出して駐車しています。もちろん違法駐車です。歩道を妨げ、現代美術館へ向かうバスの運転の支障にもなるでしょう。
この場所から徒歩30秒のところに、「広島東警察署比治山交番」があるのに、なぜ取り締まりがされないのか不思議でなりません。
またお寄せいただいた写真に黄色の↓で示したように、階段には常時新聞紙が置かれています。車の駐車場所とともに、この階段は広島市の所有であり、なぜ広島市が新聞紙の置かれた状態を黙認しているのかも謎です。あるいは広島市は特例をもって、違法駐車とともに、新聞紙の放置を認めているのでしょうか?
見延典子
2020・3・3
広島陸軍被服支廠④
広島陸軍被服支廠の概要を駆け足で紹介してきた。建設には国が関わり、軍施設として明治から昭和にかけて重要化し、広島の市民生活に深く根を下ろしていたことがわかる。
「頼山陽文徳殿の保存、活用と何が異なるのだろうか」という投げかけから書きはじめたが、大日本帝国時代の遺産として、広島陸軍被服支廠の果たした役割をまざまざと見せつけられた思いである。
広島陸軍被服支廠に比べ、頼山陽文徳殿は昭和に入っての建設であり、建設に関わったのも広島を中心とした一握りの人々である。投じられた費用も限られ、利用期間も短い(詳細は拙著『頼山陽と戦争国家』をご参照下さい)
とはいえ、広島陸軍被服支廠と頼山陽文徳殿は、戦前の日本や、軍都広島をおおっていた思想の下でつながっている。頼山陽文徳殿についての学び思い返せば、広島陸軍被服支廠で行われていたことを想像するのは、さほど難しくはない。
もっとも以上のような感想は、あくまで私が抱くものであり、広島陸軍被服支廠の保存、活動を訴えている団体や人々との間には温度差があるようだ。 (まだ続きます)
2020・2・29
広島陸軍被服支廠③
広島陸軍被服支廠は、概ね広島、九州の部隊と海外派遣部隊の補給を任されていた。
作られていたのは軍衣袴(軍服の上下)、編上靴、長靴、古毛布で作った防寒外套と付属品、防蚊覆面、防蚊手套、襟章、肩章、巻脚絆、背嚢、雑嚢など。洗濯場があり、戦地からの還送品の選択修理が行われた。軍服、軍靴は民間への製造委託も行われていた。
広島支廠には、昭和9年(1934)時点では宇品・龍山(現在、韓国ソウル特別市)・羅南(現在、北朝鮮チョンジン市)・奉天(現在、中国瀋陽市)・台北(現在、台湾の台北市)に、昭和15年時点では倉敷・今治・門司・久留米に出張所が設置されていた。
(参照/『陸軍の三廠』広島市郷土資料館。平成25年)
2020・2・27
広島陸軍被服支廠➁
そもそも広島陸軍支廠は明治19(1886)東京本廠、36年大阪支廠が設けられた後、建設が始まった。日清戦争の折り敷設された国鉄宇品線に隣接し、敷地は約7万坪という大規模な軍事施設である。
戦前の広島には、「宇品陸軍糧秣支廠」(現在は広島市郷土資料館)、「広島陸軍兵器支廠」(現在は跡地に広島大学病院、中国管区警察学校、段原中学校、市営住宅などが建つ)と陸軍の三廠があった。
労働者数でみれば、広島陸軍支廠が最大で、大正期には男工250人、女工3100人前後、計550人程度が雇用されていた。シベリア出兵中の大正11年(1924)には男工430人、女工850人、計1280人と平時の2倍近くが雇用された。
1日の賃金は官営であるため比較的高賃金で、男工1円20銭~4円、女工は90銭~3円と、能力により差があった。また年2回~4回の昇給、年2回の賞与のほか、勤勉な人には精勤賞が授与された。
共同組合もあり、購買会では日用品や食事を廉価で提供され、春と秋の2回、慰安会として名所遊覧、観劇、運動会が開かれ、診療所と保育所も設置された。職工と家族のための入浴場や理髪店もあり、時には有徳の士を招いての講演会や女工のための家事講習会も開かれた。軍事物資をつくるための労働環境が整えられたいたわけである。
(参照/『陸軍の三廠』広島市郷土資料館。平成25年)
現存するのは大正2年(1913)に建設された10番庫から13番庫で、戦後活用されたこともあるが、平成9年(1997)以降は閉鎖された。10番庫(現在は4号棟と呼ぶ)は中国財務局、11~13番庫(現在は1~3号棟と呼ぶ)が広島県の所有で、この3棟の扱いが問題になっているのだ。先週は与野党の国会議員も見学にきて、与党のある議員は「ユネスコの世界遺産に推薦すべき」と発言するなど、一気に保存の機運が高まっている。
頼山陽文徳殿の保存、活用と何が異なるのだろうか。
2020・2・24
広島陸軍被服支廠①
最近、広島で保存か解体かと話題になっているのが広島陸軍被服支廠である。陸軍関連の軍服や軍靴などを作る目的で、日露戦争中の明治38年(1905)に建設が決まり、一番庫から13番庫まで建てられた。
さすが専門家、川島先生から頼山陽文徳殿を設計した当時広島市営繕課勤務の小田技師が名古屋の大学の建築科を卒業していたことを教えていただく(『頼山陽と戦争国家』参照)
しかも内部のいたるところに段ボールや梱包荷物の山。なんと、明らかに頼山陽文徳殿とは無関係の車のタイヤまで持ち込れている。
2020・1・18
荒廃する頼山陽文徳殿
京都から京都華頂大学教授の川島智生先生(専門は建築)が、社会人学生10数名を引率して広島に来られた。初対面ながら、頼山陽文徳殿を調査するというので同行する。
頼山陽文徳殿の内部に入るのは、昨年4月の旅猿ツア一以来。おそらくその後一度も清掃されていないのではないか。全体に汚れ、荒廃が進んでいる印象をうける。
これらは頼山陽文徳殿の裏手に住み、この日も案内をつとめていたM氏の私物であろう。頼山陽文徳殿は広島市が所有。なぜ私物を置くことが許されるのか。川島先生はご本の出版のため内部写真を写された。無法の保管物が写された写真は、時代の証言者として後世に伝えられる。