投稿者名がない場合は、見延典子が書いています。
2024・11・15
標柱②
前回の続きである。中津の近砂敦さんによれば「中津では左右の石柱に注連縄を渡したものは『縄鳥居』と呼ばれています」という。
ネット検索すると「標柱(しめばしら)は全国的なものではなく、瀬戸内海沿岸、特に広島県に多い」と紹介しているサイトもある。
見延自身は「標柱」は「ひょうちゅう」と読み、目印のために建てる柱をイメージする。
2024・11・14 宣揚文
多家神社の標柱に書かれた宣揚文について、手島秀昭さんが文言を教えてくださった。
盛徳照乾坤 盛徳乾坤を照らし ※乾坤は天地の意味
優恩露草木 優恩草木を露(うるお)す
建立 大正14年(1925)⒋月吉日
従一位勲1等侯爵 浅野長勲 謹書
寄進者 広島市紙屋町木村勝吉 広島市大手町三村仙太郎
石工 広島市蟹屋町岡崎長造(明治41年の尾長天満宮の標柱も)
規模 高さ338㎝ 幅42、5㎝
この宣揚文と同じものが可部町の大坪神社の標柱にもあり、そちらは昭和6年(1931)建立、当時の広島県知事川淵洽馬(こうま)が書いているという。おそらく定型文のなのだろう。時代的に天皇の「徳」「恩」によって五穀豊穣がもたらされ、国家繁栄を祈願する内容と考えられる。
ところで天満神社(広島市中区)を訪れたときにも、宣揚文の内容こそ異なるものの、標柱を見た記憶がある。ネット上の写真をお借りすると、上方には注連縄(のようなもの)が渡されている。ただ、注連縄(のようなもの)のない写真もある。行事のあるときにだけ渡されるのか、単に経年劣化で取り払われてしまったかは不明である。
標柱について書いてきたが、大分県の「中津のおっさん」こと近砂敦さんから、「中津では標柱とは呼びません」という連絡をいただく。
次回、その話を書きます。 つづく
10月19日、20日付で、多家神社本殿前にある「石柱にようなもの」と書いたところ、手島秀昭さんから「あれは標柱(しめばしら)です」と教えていただく。調べてみると、標柱に書かれている文は「宣揚文」と呼ぶこともわかった。但し、今のところ漢字が読み取れず、書かれている内容は不明のままだ。おわかりのい方はご教示ください。
2024・11・12
標柱(しめばしら)
※10月19日、20日の記載は修正済みです。
ただ、たびたびの水害で景色は一変し、往時をしのぶものはない。
鵜上寺は、石井城観音とも呼ばれて延喜年間(901~922年)に創立された。明治15年(1882年)の社寺統廃合の際、存続を県令に願い出て、廃寺を免れたという。今は集会所として使用されている。
周囲の墓所の合間から瀬戸内海方面が見える。ここが石井城観音の「観音」が祀られていた場所か?
2024・10・21
龍仙寺 田所明神社 鵜上寺
(広島県安芸郡府中町)
龍仙寺は、原爆が投下される直前に、頼宗家が先祖から受け継がれている資料一式を大八車に乗せて運びこんだ寺である。頼家とゆかりのある寺らしく、山陽も訪れただろう。
水害には遭っているが、戦争の被害には遭っていないようで、幹線道路から外れると、路地が入り組み、道に迷いそうになる。
田所氏(佐伯氏のほか)は五日市から府中に移り、厳島神社の厳島国府上卿として祭主も務めたという。
鵜上寺は南西に長い敷地があると書かれている。その方角は雑草や竹に覆われいるが、思いきって歩いてみれば、小さな観音堂がある、
鵜上寺の看板に「頼春水、山陽」の名前が記されているのを確認する。付近で手水鉢を二つ見つけたが、春水が名づけた「白雲亭」の面影を感じさせるものはなかった。
2024・10・20
多家神社 埃宮②
(広島県安芸郡府中町)
多家神社 埃宮について、ネットでは次のようにも書かれている。
多家神社は埃宮とも呼ばれ、古事記にも記載がある古い神社であるが、後に所在が分からなくなり、江戸時代には「松崎八幡宮」「総社」の氏子がそれぞれ多家神社を主張する事態となった。そのため1873年(明治6)に両者を合わせて現在地に多家神社として創建された。社殿は、広島城三の丸にあった稲荷神社を移築して使用した。本殿・拝殿は後に焼失し1922年(大正11)に再建されたが、宝蔵は焼け残り、江戸時代の姿を今にとどめている。
これを読むと、浅野長勲が標柱に宣揚文を書いたのは、本殿・拝殿が再建されたときであることがわかる。いずれにしろ、宝蔵は江戸時代のままである。
1868年(明治元)明治政府による神仏分離政策によって、それ以前の痕跡しのぶものは見つけづらいという印象を受ける。
おそらく頼山陽もこの地を訪れたであろうが、山陽が見た光景とわれわれが見ている光景とはまったく異なっているはずである。
2024・10・19
多家神社 埃宮
(広島県安芸郡府中町)
多家神社 埃宮のホームページ
「当地は古事記、日本書紀ゆかりの地です。神武天皇が日本を平定する旅の途でお立ち寄りになったと伝わります。この神武天皇の皇居が、日本書記では埃宮、古事記では多祁理宮(たけりのみや)と記述されています。また、多家神社は平安時代の書物「延喜式」(当時の法典)に速谷神社、厳島神社と共に安芸の国の名神大社として列せられています。」
多家神社は1874年(明治7)創建。その際、移築されたのが広島城三の丸稲荷社の社殿である。前年の1873年廃城令が出され、社殿は行き場を失ったのだろう。
多家神社前の標柱の宣揚文は大正期に浅野長勲が書いたことがわかった。多家神社に広島城三の丸稲荷社の社殿を移築しようといい出したのは、かつての広島藩主であった長勲かもしれない。明治政府にポジションを得た長勲ではあったが、広島城ゆかりの建物が遺棄されることには複雑な思いを抱いたであろうことは想像に難くない。
予定の「多家神社」「龍仙寺」に加え、「田所明神社」「鵜上寺」も巡り、最後は府中町立民族資料館。約3時間、6~7000歩の散策でした。引率の佐藤貢さん、ご参加の皆様、ありがとうございました。訪問寺社については後日紹介します。
2024・10・17
第1回頼山陽ウォーク、無事終了
Ⅰ0月17日秋晴れのもと、第1回頼山陽ウォークが9名の参加で行なわれました。引率は現地広島県安芸郡府中町在住の佐藤貢(ひろしまフォト歩き)さんです。
2024・10・10
第1回「頼山陽ウォーク」
頼家ゆかりの龍仙寺、多家神社(広島県安芸郡府中町)を訪ねる
頼山陽ネットワークでは、新たに「頼山陽ウォーク」を始めます。
頼山陽はじめ頼一族ゆかりの地を3時間ほどかけて歩くという企画で第1回目の内容は以下の通りです。
2018年(平成30)3月「ひろしまフォト歩きさんが撮影した龍仙寺。このあと水害に遭い、現在は復興している。
第1回 頼山陽ウォーク
日時 10月16日(水)12時~15時 現地集合、現地解散。
当日、朝7時時点で午後の降水確率が70%の場合は中止。
それ以下、小雨なら決行します。
訪問地 龍仙寺、多家神社(広島県安芸郡府中町)
龍仙寺は頼春水、杏坪、山陽、菅茶山など多くの文人が来遊した寺。
多家神社の宝蔵は広島城の三の丸稲荷社より移築した社殿の唯一の遺
構。県指定文化財。当日宝蔵の内部はご覧いただけません。
歩行距離 バス停一つ分を往復 + 各境内の散策
講師 見延典子
解説 尾崎和則代表
引率 佐藤貢さん(ひろしまフォト歩きさん)現地付近に在住。
参加費 無料
ご参加をご希望の方はメールをください。
集合場所など詳細をお伝えします。
広島市在住の該当者は「いきいき活動ポイント」を押印します。