2019・10・22
山根兼昭さん「膨大な文献により真実を分析、終戦までの状況を再現」
10月22日、第126代天皇の即位の礼が行われます。このタイミングで「頼山陽と戦争国家」が新刊されますことは、何か両者を引き付けるものを禁じえません。
この本を読んで、改めて「頼山陽とは何者か」。「日本外史」が山陽没後も分身として一人歩きをし、重大な影響をもたらす。著者は、膨大な文献により真実を分析、終戦に至る迄の状況を再現いたしました。
「日本外史」は1844年川越版が発刊され、以来100年後1945年終戦、江戸後期維新までの約20年は多くの人々から競って読まれます。
明治に入り、37年木崎好尚は「家庭の頼山陽」を発刊、殆ど漢文で書かれております。まだ庶民が漢文を読めた証拠と思います。
大正7年、政府は国民の言葉を口語体に改めますと、以降庶民は漢文を次第に読めなくなって行くのであります。
そして時代は昭和を迎え、6年には頼山陽100年祭が時の総理大臣によって行われたのであります。この年に満州事変が勃発します。漢文で書かれている「日本外史」を読めなくなった国民に対し、政府は国威発揚のため「日本外史」をその手段として使うのであります。
昭和12年に盧溝橋事件が起き日中戦争にと発展してゆくのであります。此の頃には山陽も神格化されてしまうのであります。この「日本外史発行から100年」は僅か100年で日本を動転境地に陥しいれてしまったのであります。
そして終戦、GHQは山陽の書物を没収、教科書からも削除、戦前のあまりにも極端な山陽崇拝の反動で、戦後の山陽離れは進んだのでありました。
以来70年余、「日本外史」が口語体で読めるようになったのは、昭和50年、頼成一、惟勤訳「日本外史・上中下」。昭和51年渡辺真一郎著「頼山陽とその時代」、
平成7年見延典子著「頼山陽・上中下」などにより、本来の頼山陽像が再認識されることを望むものであります。
山根兼昭さんへ
日本人が漢文を読めなくなった背景には、明治以降の言文一致運動があったのですね。現代でも漢文、文語体が使われていなら、日本で文字の電子化はここまで発達しなかったかもしれません(笑)。多くの利便性を手にした反面、失ったものも大きいということでしょうか。
見延典子
2019・10・22
角増正裕さん「この本を出した出版社、広島の誇り」
『頼山陽と戦争国家』を読み終えました。
1点目として、この本を読むことで頼山陽の一族が頭の中で整理できました。それによって頼山陽への理解がより深まりました。
2点目として、口語体の浸透について触れられていますが、その影響でこの本自体が難読書になっていると思いました。頼山陽の理解を深めるにはこの点に課題があると認識しました。読みながら、橋本治が『桃尻語訳 枕草子』で「をかし」を「素敵」と訳しているのに感銘を受けたことが頭に浮かびました。
3点目として、この本は必ずしも部数が望めない学術書ないし専門書という分類になると思います。このご時世に「南々社やるなぁ」と驚きました。この本を出版した会社が広島にあることをとても誇りに思います。
最後に、見延先生お疲れ様でした。そのエネルギーには感服しました。今後ますますのご活躍を期待しています。
角増正裕さんへ
2点目から3点目にかけて…
広島大学の3年生にもわかる内容というコンセプトのもと、書きはじめたつもりですが、「難読書」というご指摘は肝に命じます。難しい事柄をわかるように書かなくてはなりません。
見延典子
2019・10・21
山下幸太郎さん「『おわりに』冒頭3行、その通り」
『頼山陽と戦争国家』を拝読いたしました。
「おわりに」の冒頭3行(かつて~ケースにあたる。)はまさにその通りだと思います。時代が進めば記憶が薄れるのは当然かもしれません。
また、個人顕彰の目的は知名度を上げることも含まれているため、誇張されがちです。ただし、そのために事実を歪曲してでも押し通すというあり方がいいとは思いません。昨年の「西郷どん」はまさにその象徴だと思いました。
史実を度外視してドラマや観光のために利用するというのは、かえって先人を傷つけていることになっていると思います。島津斉彬がどのようにして頼山陽を知ったのか、疑問です。斉彬の年代からすると藩主になってから頼山陽について知り、篤姫に日本外史を渡したというとほぼ没年(1858)に近いと思われます。
また、川越藩が日本外史の発信地だそうですが、おそらく川越藩でなければならない事情が隠されているのではと思いました。貨幣経済が発達したとはいえ、本が売れれば収入が上がるといういいこと尽くしの世の中ではなく、言論も制限されていたようなものです。逆に言うとそのような中で、為政者からしても売れて構わないような書物であったとしたら、川越藩が発信源になることに意味があったのではないかなと思いました。
山下幸太郎さんへ
ご感想をいただき、ありがとうございます。
島津斉昭は老中阿部正弘と一橋派を結成。正弘の側近 関藤藤陰は頼山陽の遺言で『日本政記』を完成させた人物。ここに水戸藩の徳川斉昭が絡む。以上が『日本外史』川越版が出版された前後の政治状況です。
詳しくは拙著『敗れざる幕末』に書きました。
見延典子
2019・10・18 匿名さん「こりゃすげ一な」
早速、知りたかった第二部から先に拝読。平易に記述の裏に、緻密な検証の蓄積が伺え、こりゃすげーなと思って読みました。
特に、山陽の生涯を「良い文を書くこと」と定義したのはすごい。
また、筆者の視点が生活する等身大の私たちの視点で、明確だと思いました。
資料を読み解くその過程で、確かだと思う事実につきあたった喜びが感じられるのも良かった。例えば、玉音放送のくだりなど、当時の国民にはなるほどこうみえていたのかかと気づかされることが沢山あり面白かった。
書評に取り上げられて、この本が沢山の人に読まれるといいなぁ。
他に気付いたところ 変換ミスか?
①225ページ2行目
終身→修身
②214ページ8行目
参加文献の出版社名が抜けてます
匿名さんへ
ご感想の第一号、ありがとうございます。
匿名さんのように、まず関心のあるところから読むという読書法を、私も推奨します。特に本書は一気に通読というのは難しいと思うので。
➁の件、こちらは私家版なので、出版社はありません。明記すればよかったと反省しております。
その他の誤植は、P245、後ろから5行目「の」→「ノ」
重版の際には訂正します(笑)
見延典子
2019・10・16 ご予約者、届いてのご感想
みはら歴史と観光の会 鈴木健次さん
さっと頁をめくってみましたが、読みやすいように、分かりやすく編集されてお
り、気配りさすがと感心しております。大ヒット作品になる予感がします。
Sさん
早速開いてみました。史誌、研究論文のような印象です。
ゆっくり時間をかけて読ませていただきます。
2019・10・15
『頼山陽と戦争国家』ご予約の方にお知らせメ一ル
『頼山陽と戦争国家』をご予約の方にお知らせメ一ルをお送り致しました。万一、届いていない場合はご連絡ください。
ご予約いただいた皆様には、署名、落款(著者が彫ったもの)を入れ、15日から順次発送予定です。今、しばらくお待ちください。
引き続きお申込み受付中です。
2019・10・14
刷り上がり
『頼山陽と戦争国家』が刷り上がりました。かなりの完成度です!
表紙が微妙に修正されたが、違いがおわかりでしょうか?(「見延典子」の文字位置にご注目ください)
2019・10・10
微妙な修正
『頼山陽と戦争国家』は校了となり、現在、印刷中。
2019・10・5 『頼山陽と戦争国家』帯(表、裏)の文言をご紹介
『頼山陽と戦争国家』の帯の文言をご紹介する。
〈表〉
国家に「生かじり」 された ベストセラー
『日本外史』 幕末のベストセラ一『日本外史』は、 戦争の道を進む近代日本を背景に読まれ方が変化し、 頼山陽自身の評価にも影響を与える。山陽が史書に託した真意とは? 新田次郎文学賞受賞作『頼山陽』の著者・見延典子が 四半世紀をかけて掘り起こす、初めての頼山陽論。
〈裏〉
山陽は豪胆に見えて緻密なところがある。ロマンチストでありながら、リアリストである。遊蕩に耽ったときもあるが、 基本的に勤勉だ。吝嗇に見えて、家や骨董など大きな買物をする。甘いものが好きだったが、中年以降は酒を愛した。山 陽は極端と極端の間を往復し、自分なりの宇宙を形成した。 (「終わりに」より)
『頼山陽と戦争国家』目次
第一部 (江戸後期、幕末、明治、大正)
第一章 頼山陽をとりまく政治世界
一 頼山陽とは何か
二 政治に近づく頼山陽
三 幕府公認の『日本外史』
第二章 明治政府にとっての頼山陽
四 頼三樹三郎と吉田松陰
五 『日本政記』の愛読者伊藤博文
六 頼山陽の評価、その分水嶺
第三章 頼山陽の天皇批判
七 「足利尊氏は逆臣」という考え
八 『日本政記』で天皇批判
九 南北朝正閏問題
2019・10・4
見延典子『頼山陽と戦争国家』目次
10月30日発売、見延典子の『頼山陽と戦争国家』の予約を承り中。
四六判、280ページ
2700円(税別)
別途 送料
当ホ一ムページ会員様には著者サイン、落款入り、送料無料で、10月中旬にお届け予定です。ご希望の方はお名前、ご住所をメ一ルからお知らせくださいますよう、よろしくお願いします。
第二部 (昭和、平成、令和)
第四章 頼山陽文徳殿の建設
十 右傾化する頼山陽
十一 頼山陽文徳殿の建設
十二 広島県は山陽記念館を建設
第五章「頼山陽没後百年」の真実
十三 頼山陽先生百年祭
十四 楠正成の史跡を訪ねて
十五 つくられる「忠臣」楠正成像
第六章 戦争国家と頼山陽
十六 進む軍国化、思想統制
十七 頼山陽の神格化と反論
十八 消える頼山陽
※資料集として『日本外史』「楠氏論賛」や山陽の漢詩数編、頼山陽記念文化財団所蔵で、初公開の「山陽文徳殿建設の由来」「山陽文徳殿建設ノ経過及概要」(原文)が掲載されます。
2019・10・3
ほんとうに最終校?
三校を送ってやれやれと思っていたら、なんと四校が届いた。良心的にもほどがあるぞ。しかも最後の最後になって最大の山場にぶち当たってしまった。生みの苦しみに悶絶中。
2019・9・30
三校
『頼山陽と戦争国家』の三校が終わる。ゲラ(版元が出す印刷原稿)の直しを3回したという意味。通常は2回までで、三校は珍しい。版元の南々社は良心的な出版社である。
2019・9・25
スピン
最近の本では見かけることが少なくなったスピン(しおり)。『頼山陽と戦争国家』にはつきます。これがあると、何かと便利。目下、色を決めているところ。多くの色の中からどの色が選ばれるか、お楽しみに。
2019・9・21
『頼山陽と戦争国家』の表紙
『頼山陽と戦争国家』の表紙が決まった(写真左)。表紙の背景に使われている写真について、いつ写され、どんな意味があるか、すぐにわかる方はそう多くはないだろう。
左の男性は「頼山陽先生百年記念会」で祝辞を述べる若槻礼次郎総理大臣。昭和6年(1931)9月25日、東京の日比谷公会堂である。この写真の存在を教えてくれた石村良子代表に感謝申し上げます。