見延典子が書いています。
2019・7・31 広島県立文書館所蔵の戦前の絵葉書
広島県立文書館が所蔵し、ネットで公開している戦前の絵葉書に、頼一族関係のものがあるので紹介する。(紹介に際して画像を加工しています)
2019・4・13
見延典子著『頼山陽』レビュー
アマゾンに見延典子著『頼山陽』レビューが追加されていたのでご紹介する。レビューを寄せたのは「やすさん」、評価は☆☆☆☆★
社会的に皇国史観が否定され、文学的に漢文が敬遠され、頼山陽の名が評判ともに立ち消えた戦後、ふたたび江戸時代の漢詩の面白さという点から、向学的な読者に向けて彼の名にライトを当てたのは、中村真一郎と富士川英郎という外国文学に明るい、抒情を解する文学者たちでした。
この小説では、さらに漢詩に疎い(あるいは興味のない)読者にも、この人物の面白さを知ってもらおうと、その曲折の人生と時代離れした人間性とが、現代ドラマ仕立てで描かれています。遺された膨大な資料に基づいて史実を忠実になぞりつつも、民主主義思想を大胆にとりいれ、会話の端々にもそれを表すことで、頼山陽という人物に新しい命を吹き込もうとしています。
その著書である『日本外史』については、ハイライトの場面を紹介するだけでなく、その意義についても説かれています。
硬直化した徳川封建社会をゆさぶる為に書かれた執筆動機を評価する一方で、作者の思惑を超え、動乱期の志士たちを刺激して明治維新が実現したこと――これは最後の章でふれられていますが、中央集権国家が成った以後の「頼山陽像」については「曲解」と断じています。
さらに踏み込んだ民主主義な評価を下すため、彼に、
「誤解なきよう申し述べておきますが、わしは天皇家を称賛しているわけではありません。」下巻35p
と言わせ、その歴史観にみられる名分論(身分を弁える大切さ)を、倫理的な側面(盲従ではないこと)とともに強調し、皇国史観自体への執着はなかったのだとするあたり、そして『日本外史』を貫いている勤皇思想を、とどのつまり彼をここまで育ててくれた、父を頂点とする家族親戚に対する感謝の念によって発動させたところなどは注目されます。
それもまた好意的な一種の曲解なのかもしれません。が、文中で著者自ら示しているように、彼の取り組んだ問題が「歴史という波濤に呑みこまれ、今も洗われ続けている」証拠でもありましょう。
作品としては、主人公へと同じくらいの感情を注ぎ込み、彼を支え彼を成長せしめた家族親戚の面々の姿が描かれています。ことにもこれまで歴史家が軽視した、家督相続の身代りに立てられた景譲、聿庵が味わった苦悩、そしておそらく誰も注目しなかった山陽の前妻である淳や、聿庵と深い仲になった下女といった女性たちに対して、目いっぱいの同情が注がれています。
母梅颸の日記が十全に活用されているのでしょうが、それだけでなく、後妻となった梨影についても、子育てに奮闘する姿のみならず、出身を違えた妻連中に混じっての集い、果ては実家への帰省にまで筆は及んでいます。ライバル江馬細香に対しては、正妻として振舞いにおいても心理戦にも勝ったはずなのに、
「細香が帰った後、山陽の欲望は梨影に向けられるという構図、それを考えると、素直に喜ぶことはできない」414p
と愛憎の機微について踏み込んだところなどは、これは曲解どころか著者の創見にして、読者をうならせる独擅場のように感じられました。
一方で九州旅行の際には禁欲を守ったとか、魔性のリビドーを<石>と名付けた、こういう解釈の部分は小説として「あり」なのだと思いましたが、食い足りないと思われたのは交友関係についてです。
親友代表のような形で、田能村竹田のことが丁寧に描いていますが、もっと肴にできそうな篠崎小竹や、後藤松陰をはじめとする弟子たちとのやりとりが意外にあっさり流されていて、三木三郎を託すこととなる梁川星巌夫妻との因縁に言及が少ないのも残念な感じです。
男同士の会話の殆どが「〇〇殿」と呼びかけられているのですが、登場場面が少ないなら少ないなりに、率直かつ磊落な山陽ならではの、「弟子・同輩・先輩」×「気の置ける・置けない」と、それぞれのパターンで異なった筈の言葉遣いの妙を再現してもらえたら、と思ったことでした。(後藤松陰のことを山陽は「松陰殿」とは呼ばなかったでしょうし、梁川星巌も山陽の弟子ではありませんから師に対するような敬語は使わなかったと思います。)
便利を実感します。
木崎愛吉「頼三樹伝」は品切れです。頼山陽史跡史料館にはあるはずです、こちらの蔵書が自由に借りれるようになればと切望しております。
2019・2・28
石村良子代表「今さらですが」
頼三樹三郎の本を買い求めました と言っても家で「日本の古本屋、アマゾン古書」で注文。
特に記載のない場合は、見延典子が執筆しています。
2019・2・6
新井白石『読史余論』
頼山陽が歴史書を著す際の、最重要参考文献が新井白石『読史余論』である。『日本外史』は『読史余論』の踏襲で、なんら新しいことは書かれていないという指摘は当時からあり、山陽自身が反論している。
ただ、白石は六代将軍徳川家宣の侍講を務めた人物である。その白石が書いたものを踏襲したとされる『日本外史』が、なぜ「倒幕の書」などと呼ばれるようになったのか、不思議な話ではある。
山陽は『平家物語』『太平記』などの文学作品も参考文献とし、日本人が歩んできた歴史を振りかえりつつ、総合的な着地点を求めて著作活動を続けた。若いころは急進的な面もあったが、多くの読書によって、晩年は温厚な思想を形成していった。
2018・9・22
野口武彦「江戸の歴史家」
1979年に発行された単行本を1993年文庫化したもの。
第2回サントリー学芸・思想・歴史部門受賞作(1980)
頼山陽の著作の中で一般にはほとんど読まれていない『通義』から山陽の思想とは何かを探る。
そこから導かれる結論は「頼山陽は勤皇家ではない」というもの。理由については本書をお読みください。山陽が政治イデオローグでなかったという主張は昭和50年代には萌していた。ただ、その後、野口武彦が山陽についてあまり書かなくなったのは、野口武彦自身が大衆化したことと無縁ではないだろう。山陽を思想家ととらえてしまうと、限界があり、魅力があるとはいえない。野口はそこに気づいたのである。
「広島の志士」「二十歳の炎」は版元、表紙こそ異なるものの、内容は同じ。
ご購入の際はご注意のほど。
2018・7・19
穂積健一「広島藩の志士(二十歳の炎)☆☆★★★」
戊辰戦争の折り、広島藩で結成された神機隊の隊員だった高間省三を主人公とする歴史小説。省三は「頼山陽二世だった」と繰り返し書かれると知り、読んでみることに。
同書によれば、戊辰戦争の時点で広島藩の方向は「頼山陽の史論で統一されていた」というが、あり得ない話だ。その時点で頼山陽は広島藩から見向きもされていない。
また同書は、旧広島藩士橋本素助・川合鱗三を編者に明治42年出された「芸藩志」を元に書いたという点が最大の「売り」である。その頃なら広島でも頼山陽の評価は上がっているかもしれない。
明治42年といえば、天皇の権威の強化が進んだ時代である。大逆事件は翌年起こる。同書によれば「芸藩志」はいったん世に出たあと、すぐ禁書になったそうだ。明治天皇が長州藩に下した倒幕の密勅が偽物という記述があるというから、当然の措置であろう。
いずれにしろ、明治42年という年に、旧広島藩士が書いた「芸藩志」の内容を100%事実と信じ込んで書いているところに、同書の無理と限界がある。
ただ、読みながら、ある確信が生まれた。頼山陽の尊王論は「佐幕派の尊王論」である、と。頼山陽が生きていたら、会津藩の味方をしていたろう、と。この考えを授けてくれたので☆二つとしておこう。