おかげさまで、老母は元気に満88歳を迎えた。今も月2回、札幌市中心部のカルチャーセンターに通ってている。農家の娘だった老母は花を育てるのがうまいが、この日ばかりは花を贈られ、うれしそう。
2016・9・11
究極の貧困小説 長塚節『土』
明治時代の農民を調べて、辿り着いた長塚節『土』
明治43年、夏目漱石の推薦で東京朝日新聞に連載される。この時、長塚節は32歳。5年後結核のため逝去する。
漱石は次のように書く。
「『土』の中に出て来る人物は、最も貧しい百姓である。教育もなければ品位もなければ、ただ土の上に生みつけられて、土と共に生育した蛆(うじ)同様に哀れな百姓の生活である。」
先日、紹介した船山馨『お登勢』の中にも、百姓を〃蛆虫〃に例える表現があった。百姓を先祖にもつ身には胸に刺さる表現だ。
米をつくりながら、食べるものがない百姓。飢えて、当然のように盗みを働く。最近は「貧困」なる言葉が流布しているが、『土』は『蟹工船』と双璧の、究極の貧困小説といえる。これらの小説が今も読まれているのは真実が描かれているからだろう。
池澤夏樹の『静かな大地』も、「明治初年、淡路島から北海道の静内に入植した宗形三郎と四郎。牧場を開いた宗形兄弟と、アイヌの人々の努力と敗退をえがく壮大な叙事詩」とあり、やはり池澤夏樹自身の先祖をモデルにしている。
自分の先祖について書いているためか、いずれも力作長編になっている。『海霧』は吉川英治賞、『静かな大地』は親鸞賞を受賞。
2016・9・9
北海道移住を描く小説②
原田康子『海霧』の帯には「幕末から明治、昭和へと、激動の時代をひたむきに生きた著者の血族を描いた物語」とある。佐賀県から北海道釧路に移住した原田康子自身の一族をモデルにしている。
明治22年、私の先祖は屯田兵として札幌近郊「篠路兵村」に入植。抽選で割り当てられた開墾地は泥炭地で、収穫目前の大根を流されるなどしばしば洪水に苦しめられた。
2016・9・2
屯田兵村入植者名簿に
台風10号は岩手、北海道に多大な被害をもたらした。被害に遭われた皆様、お見舞い申し上げます。
<見延典子のルーツ>
母方祖父 農民
母方祖母 郷士 (石川県出身)長濱萬蔵の弟 久蔵
(徳島藩屯田兵) ║ー 母
……井川賢蔵ー嘉平ー宇八ーカツヱ
父方祖父 農民 ║ー典子
(福井県 自由移民)
……見延重右ェ門ー梅吉ー松吉
║ー父
父方祖母(山形県出身)
(こちらのルーツについてはいずれ…)
「屯田兵の100年」には、天災と戦いつづけた先祖を始め、先達の歩みが記されている。時代は移れど、自然の脅威を前に為す術がない。
同じく船山馨の『お登勢』も、北海道の静内に渡った徳島県の稲田家の分藩運動と、お登勢の恋愛とを絡ませながら描いている。日本近代史を背景に、時代に翻弄されつつ、懸命の生きようとする人々の姿を描くところに船山文学の神髄があるようだ。この作品は2001年、沢口靖子主演でNHKでドラマ化されたそうだが、残念ながら見逃した。
2016・9・1
北海道開拓を描く小説
屯田兵について調べる過程で、船山馨の『石狩平野』に行き当たった。50年前の大ベストセラーで、北海道開拓の歴史を背景に、浮き沈みの激しい人間模様が描かれる。但し、屯田兵の話は出てこない。
『お登勢』には、江戸時代は徳島藩の領地だった淡路島が、明治になって兵庫県に編入された理由が書かれている。そしてこのことと稲田家の北海道移住とは無関係ではない。
ということで、北海道屯田倶楽部(札幌市)という会に入ってみることに。主に屯田兵の子孫の集まりのようで、35年の歴史があるとか。
届いた会報は内容がとても充実して、初めて知る話が多数載っている。勉強します。
2016・7・30
北海道屯田倶楽部
屯田兵だった母方の曽祖父を主人公に小説を書こうと決めて7月余り。
その間に、父方の「見延」のルーツが判明するという想像を越える出来事もあり、これはもはや「天からの啓示」に違いない!
昨年も書いたが、「萬蔵祭」の由来になっている「長濱萬蔵」は私の母方の祖父「長濱久蔵」の兄。私の大伯父にあたる。
萬蔵、久蔵の父は長濱久松といい、その前の代に石川県羽咋(はくい)郡から北海道に渡ったようだ。
2016・7・26
萬蔵祭2016
今年も8月6日、7日、札幌市白石区の本郷商店街で「萬蔵祭」が開かれる。
萬蔵は白石の本郷通を含む一帯の地主であったが、土地を解放。発展の礎を築いたとして、銅像まで建てていただいたのである。
父方の祖父「見延」のルーツも農民だったという。農民から見た明治、大正、昭和。小説のテーマも徐々に絞られてきた。
2016・2・10
私のルーツ⑤ 明治37年2月10日 日露戦争 宣戦布告
朝、ラジオを聞いていたら、「明治37(1904)年2月10日は日露戦争が始まった日」と伝えていた。
日本は、明治27年の日清戦争に勝利したものの、いったん手にした遼東半島を清に返還することになった。三国干渉(ロシア、ドイツ、フランス)である。
直後、巷に流布したのは「臥薪嘗胆」という言葉。復讐のために耐え忍ぶという意味があるが、発信源は政府。遼東半島返還に反発する世論のエネルギーをロシアへの敵対心に向けさせた。背景には、日本が同盟を結んでいたイギリスの思惑もあった。
こうして今から112年前の今日、2月10日、満州を主戦場とした領土獲得の戦争が始まった。
日本の動員数 約30万人
戦没者総数 88、429人
病死者 27、192人
負傷者 153、584人
ロシアの動員兵数 約50万人
戦没者総数 42、628人
病死者 11、170人
負傷者 146、032人
(以上の数字はインターネットによる)
日露戦争の戦費は18億円。
当時の一般歳出は3億円程度というから、国家予算の6年分を費やしたことになる。
2016・2・1
私のルーツ④
明治35年の宇品港
2016年1月31日付の中国新聞の第1面に明治35年(1902)の宇品港の写真が発見されたという記事が大きく載っている。
宮内庁宮内公文書館が所蔵しているのを、広島市の「被爆70年史」編集研究会が見つけ、入手したという。
現在、広島港と呼ばれる宇品港は、日清戦争(1804)の際、ほぼすべての兵士と物資を朝鮮国に送る派兵基地であった。
日清戦争の勝利によって、宇品港はさらに強化されたことが今回の写真でわかった。
私の曽祖父は日露戦争に従軍したあと、この宇品港に帰還していることがわかっている。
曽祖父が見た光景だと思うと、この写真は私にとってひときわ感慨深い。
2016・1・5
私のルーツ③
見ているつもりが見えていない
「照富さん」が遺した冊子。
読んだと思っていたのに、なんにも読んでいなかった。
実は先月、似たような体験をした。絵の教室で水仙を描いたときのこと。先生から教えられて、初めて水仙の花片が6枚あることに気づいた。しかも3枚は内側、残りの3枚はその隙間を埋めるように開いている。どの花も、どの花も。
知らなかった…
見ているつもりが見えていなかったのだ。
そういうわけで… ってどういうわけかはわからないが(笑)、ともかく小説の材を残してくれた先祖に感謝しつつ、書き始める。
とりあえず浮かんだのが『血族』というタイトル。ありますね。確か山口瞳さん。
最終的になんというタイトルになるかは、書いてみなければわからない。
『頼山陽』に15年、『敗れざる幕末』に4年、3月刊行の『汚名』に4年かかっている。
また長い旅が始まった。
2016・1・4
私のルーツ② 小説が書ける!
前回、紹介した私の曽祖父の写真が載っていたのはこの冊子。曽祖父の直系の孫で、老母の従兄弟にあたる「照富さん」が遺したもの。
実はこの冊子はずっと以前、見た記憶がある。表紙に亡父の文字で「7・4・26」とあるのはおそらく平成7年4月26日に「照富さん」から送られてきたという意味だろう。
12・3年前、私は『平家物語を歩く』という本を書くため、自分の祖先が平家の落人伝説で有名な徳島県の祖谷村出身と知り、参考になるかもしれないと、この本送ってもらったのだった。
だが曽祖父の写真についてはまったく記憶がない。写真の記憶がないくらいだから、日露戦争に従軍したことも、のちに南カラフトに移住したことも憶えていない。そして私はいったんこの冊子を実家に送り返した。
今回、老母が送ってくれた冊子は2冊ある。
同じく「照富さん」が遺した『私達の家系と屯田兵篠路村』という冊子だ。
改めて2冊を読み、私は躍りあがった。「これさえあれば、小説が書ける!」
祖谷村、屯田兵、日露戦争、南カラフト移住、敗戦。激動の日本史を背景に、時代に翻弄されながらも力強く生きる一族を描く一大スペクタル長編だ。
すぐ原稿用紙に向かった。
2015・12・22 私のルーツ① 曽祖父の写真
『頼山陽』で江戸後期、『敗れざる幕末』で幕末、そして3月刊行の『汚名』で日清戦争を描き、次回作は日露戦争を描こうと考えた。
しかしとっかかりとなる題材がない。
…と思っていたら、「そうだ」と思い出した。
老母の米寿文集を作る過程で、確か亡父が、曽祖父が日露戦争に出征していたという話を書いていたような気がする。
母に電話すると「そうそう。日露戦争に従軍した際の写真が残っているよ」という。
すぐに送ってもらったのが上の写真である。
続きます。