2020・9・27
中嶋康博さん ⇒ 石村良子代表 「お尋ねの根拠については…」
拙文の最後に「細かい字句平仄に拘らなかった先師の書いたままを尊重して上梓したものの、やはり訂正すべくこれらの朱筆が施された、というような経緯だったのだろうか。」と書きましたが、お尋ねのその根拠については、仰言るように「山陽在命中の写本:頼山陽自書『山陽詩鈔』」の画像とつきあわせてみればはっきりしたことがわかることと思います。
しかし師匠の詩集を刊行する際に、写本の最終形を見ていないとは考えられず、拙文の結論としては、後藤松陰が一旦はそのまま印刷させたものの、後世からの嗤笑を恐れ、独断により訂正したものである可能性を書いたものであります。その経緯があって「校山陽詩鈔刻成題其後」を書き残したのではなかったでしょうか。
それから「机」は「機」の異体字だったのですね。https://glyphwiki.org/wiki/u673a
気がつきませんでした。御教示ありがとうございました。
2020・9・26
石村良子代表 ⇒ 中嶋康博さん「お尋ねします」
〇詠史 〇到郷從杏翁、、、〇得家書〇過廉塾
字が前のままなのは4詩、〇過廉塾は辞廉塾になっておりました
後藤松陰書入れ本『山陽詩鈔』の論文の御紹介有難うございました
いつも私が参考にしております 木崎愛吉、頼成一共編「頼山陽全書、詩集」を調べてみました
山陽死後も色々の版木により出版されたと思いますが 後藤松陰が書き入れた訂正?の根拠は何を参考にしたのでしょうか
先生の詩を添削はないでしょうから 前記 木崎愛吉、頼成一共編は山陽在命中の写本も参考にしたようにあります
(写真 参考書は輯注に詳しい)
頼山陽 自書『山陽詩鈔』が見たいものです
記は機の略字体という事ですがこの時代使われてたんですね
2020・9・24 中嶋康博さん 🔁 見延典子「頼山陽の生年は…」
ホームページにて報知して頂きまことにありがとうございます。
頼山陽の生年は引き写したもので、御指摘いただくまで気がつきませんでした。旧跡保存会のカタログなどを参照し、さっそく1780に改めました。
重ねて御礼を申し上げます。ありがとうございました。取り急ぎの訂正まで。(それから中嶋康弘ではなく中嶋康博です。康弘だと中曽根さんみたいですね(笑))
中嶋康博さんへ
頼山陽の生年の件、了解です。私が早とちりをしていたようです。
中嶋さんなら、間違えるはずはないと思ったもので…。
またお名前のミスも、申し訳ございませんでした。お詫び申し上げます。
余談ながら、私は若いころから表記にミスが多く、ある方から「著者校」(著者自ら校正すること)は最終決定稿なのだから、責任をもって行うようにと叱責された記憶が蘇りました。後藤松陰もそのことを充分承知していたからこそ、山陽の書いたものを尊重したのではないでしょうか。
恥ずかしげもなく自分の体験を書いてしまいましたが、ご労作「『頼山陽詩鈔』後藤松陰手澤本について」を拝読しつつ、「誤植と校正」は出版物というか、物を書く者にとっての永遠の課題のように感じました。とともにデジタル化が進もうとも、人が物を書きつづける限り、「誤植と校正」の問題は残り、だからこそロマンが生まれるとも感じました。負け惜しみでしょうか(笑)
見延典子
2020・9・23 見延典子 ⇒ 中嶋康博さん「教えてください」
「『頼山陽詩鈔』後藤松陰手澤本について」を拝読しております。
さて本論からは外れますが、頼山陽の生まれを「1781」とされているのは「太陽暦での表記」かと思います。最近の学界では、このような傾向が強まっているのでしょうか?
先日の頼山陽文化講座でも、若い学者さんが頼山陽の生まれを「1781」としていて、気になっております。
よろしくご教示ください。
2020・9・23 中嶋康博さん
『頼山陽詩鈔』後藤松陰手澤本について
頼山陽の祥月命日にあたり、かつて『江戸風雅』20号に掲載して頂いた後藤松陰書入れ本『山陽詩鈔』の紹介論文を公開しました。
(全文をご覧になりたい方はクリックしてください)
https://shiki-cogito.net/kanshi/sanyo/sanyoshisyo.html
このたび、その出版・校正を一任された弟子の後藤松陰(1797-1864)名は機、字は世張、美濃安八郡の人)による書き入れ本が発見され、 その書き入れを元に板木の修正が行われたことが確認された。
よって修正後の版本との異同を、書き入れられた部分に就いて掲げ、そこから窺われることも一緒に記し、頼山陽研究のための書誌資料として供することとした。※01
『山陽詩鈔』は現在、日本古典籍総合目録データベースで検索される版本のうち、「天保三年」という一番古い刊記を持つ四冊(八巻)本が確認され、うち国文学研究資料館、岐阜大学図書館に所蔵するものは、画像もインターネット上に公開されている。(※02国文学研究資料館所蔵本 岐阜大学図書館所蔵本)
これを岐阜大学図書館にて実見したところ、見返しには「天保癸巳(四年)新鐫 書林五玉堂蔵」とあるのに、奥付の年月は確かに「天保三年歳次壬辰夏四月刻成」となっていた。※03
頼山陽が亡くなったのは、天保三年九月二十三日である。
評伝『頼山陽とその時代』のなかで中村真一郎は、「歿前十二日の夕方に、雨のなかを大阪から届けられた」篠崎小竹の序文を喜んで読み、識語を書き入れたものの、「毎日苛いらしながら待っていた校正刷」については、「とうとう見れないままで死んで行った山陽に同情を禁じ得ない。」と記している(単行本577p)。この奥付の日付をそのまま信ずるなら、病床にあった山陽は、本文の刷り上がりを、せめても手にすることができたことになろう。
しかしこの版本には、山陽没後天保三年十月の日付を持つ篠崎小竹の「序」が付いており、すでに矛盾を呈している。本文も、広く出回っている「発兌版」(奥付年月を「天保四年歳癸巳三月発兌」とする四冊八巻本※04国文学研究資料館
同(鵜飼文庫))と同じ版木で刷られている。
和本の世界では、刊記の年がそのまま印刷された年であるとは限らない。殊にベストセラーともなると、摺り版の見極めは難しい。
このたび発見された『山陽詩鈔』は、見返しを「天保癸巳(四年)新鐫 書林五玉堂蔵」とし、奥付の刊記も同じく「天保四年歳癸巳三月発兌」とする四冊八巻の揃い本である。(25.7cm×18.0cm一、二冊目の原題簽は剥れており、手書きのものが貼られている。)
しかし内容を閲するに、「発兌版」の原型といえる版本で、すでに『詩集日本漢詩』第十巻(富士川英郎編・昭和六十一年汲古書院刊)のなかに影印が掲げられた「長沢規矩也旧蔵本」と全く同一のものであることが判った。(※05内閣文庫本)
ただし本文の鼇頭に、校閲者である後藤松陰自身のものと思われる、詩篇の字句に関する指摘が十二ヶ所、朱筆細書で施されている。うち八ヶ所において、その指摘に従った版木の修正が施され、字句の変更がなされたことが、その後刷られた多くの「発兌版」との比較から確認された。
以下に、朱筆が施された詩篇のすべてを順番に書きだして、修正後の版本(岐阜大学図書館所蔵本)の異同とともに画像を掲げてみた。
(以下、全文をお読みください)