旅猿ツアー「月ヶ瀬(奈良県)写真集」。見延典子が書いています。
2023・3・24
新発見!「日本外史の碑」
旅の最後に春日大社を訪れた。朝の境内は清々しく、初めて訪れる地でもあり、のんびり歩いた。
若宮神社の近くに、赤い登りが立つ場所がある。春日大社には多くのパワーポイントがあり、その一つだろうと思いながら近づくと「後醍醐天皇聖蹟金龍殿趾」の碑と読める。「日本外史を読む会」で「楠氏」「北条氏」「新田氏」「足利氏」と読み進め、御名を見ないときはないというほど親しんできた方のゆかりの神社・・・、金龍神社であった。
しかも碑を囲んで「楠」「新田」「北畠」「菊池」「名和」など南朝の忠臣の名が彫られている。彼らの名も親しんできたものである。
へえ、こんなところで、こんなものに出会うのかと偶然を喜んでいたら、さらに驚くべきものを発見した。日本外史の碑である。
比較的新しい碑のようである。それにしてもよもやこのような碑に出会うとは。いったいなんの導きなのだろう。さすがに喜びを通り越して、しばし呆然と立ち尽くしていた。
2023・3・22
見延典子「般若寺④」
日本では神仏集合が伝統であったが、極端な思想をもつ明治政府は仏教を弾圧した。廃仏毀釈である。般若寺にもその痕跡が残っている。左の写真は般若寺に残る「鎮守社」。
廃仏希釈といえば、興福寺も大いなる被害にあっている。
改めて書くまでもないが、「廃仏希釈」は頼山陽の没後の話である。
山陽が奈良を訪れて見ていた光景と、私たちが見ている光景とは明らかに異なるのである。(写真は見延が3月9日、10日に写した)
般若寺の子院 妙光院(室町時代に創建)は廃仏希釈によって廃絶になった。説明板によれば、土地ごと般若寺の手を離れたあと、1995年に土地だけは般若寺に戻り、現在は駐車場として使用されている。
現在、国宝になっている五重塔がなんと「25円」で民間に売りに出された。当時の貨幣価値で20万円足らず。購入者は金属を取り出す目的で、まず倒壊させようと策を講じたがビクともせず、続いて焼き払おうとしたが、反対意見が多く、辛うじて残されたという。こういう話を聞くと、短絡的な思考の薩長がますます嫌いになる(笑)
2023・3・21
見延典子「般若寺③」
般若寺には平重衡の供養塔もある。重衡は東大寺大仏や興福寺を焼亡させた後、一ノ谷で捕虜になった。鎌倉へ護送され、奈良で斬首。首は般若寺の門に晒されたという。
『日本外史』「平氏」では「南都の僧侶の請を以て、奈良阪に斬る」とある。般若寺脇の奈良坂は般若坂とも呼ばれ、京へ通る主要街道であった。般若寺は『平家物語』『太平記」ゆかりの寺である。
2023・3・20
石村良子代表
「明治天皇と大塔の宮」
明治天皇が「夕食を食べてから寝るまでの間になにをしていたのか」について、山川は〈御夕食後は蠟管の蓄音機で「北白川宮台湾入」とか、「大塔の宮」などという琵琶歌をよくお聞きになって時にはご自分で口ずさんでおいでになることもございました〉(75頁)と書いている。建武の中興を成し遂げた大塔の宮を敬慕し鎌倉宮を建立し祀った明治天皇 明治維新を実現した自身に思いを重ね 琵琶の音に聞き入っておられたのでしょうか。
石村良子代表ベ
北朝の明治天皇が、南朝の大塔の宮を敬慕されるのは「親政」という共通項に特別な思いを抱かれたのか、あるいは南朝と北朝に分かれても「万世一系」の思いだったのか・・・。
見延典子
2023・3・19
見延典子「般若寺②」
敵に包囲された大塔宮護良親王が経箱の中に隠れたという話は『太平記』にも書かれている。
『太平記』では三つの唐櫃(からふと。「櫃」はひつと読む)があり、二つは蓋が閉っていた。護良親王は蓋の開いている櫃に入り、上から御経をひきかぶって身を潜めた。敵は蓋のしまった櫃だけ調べ、親王は助かったと伝える。リアリストの山陽はこの逸話をさらりと流している。
山陽の引用した資料と、『日本外史』とを読み比べることで、山陽が『日本外史』で書こうとしたことがより理解できるだろう。
写真はいずれも3月9日見延が写す
今回のツアーでは、単独行動で、奈良市内の興福寺、東大寺、春日大社、薬師寺、唐招提寺を巡った。
個人的な感想ながら、落胆することが少なからずあった。比較的新しい時代の復元物が多く、伝わってくるものが少なかったのである。
さて『日本外史』「新田氏」の該当箇所を口語訳で紹介しよう。1331年(元弘元年)鎌倉幕府と対立していた大塔宮護良親王は般若寺に隠れるが、幕府方の兵(興福寺一乗院の按察法眼好専)が寺を囲む。
2023・3・18
見延典子「般若寺①」
般若寺(奈良市)は、今回の旅猿ツアーで是非とも訪ねたかった場所である。というのも『日本外史』を読む会の「新田氏」を読んだとき、般若寺が出てきたからである。
このように書いては失礼かもいしれないが、般若寺は復元に手がまわっていない分、在りし日の様子が伝わってくる名刹であった。
大塔宮とは後醍醐天皇の第三子護良親王である。親王は以前から北条氏が権力をほしいままにすることを嫌い、後醍醐天皇と秘かに北条氏を討ち滅ぼそうと謀られていた。後醍醐天皇は親王を二品に叙し、兵部卿に任じられた。また親王は比叡山延暦寺座主になり、尊雲と号し、境内の大塔におられた。それで大塔宮と呼ばれた。
ところが謀が漏れ、関東軍が攻め寄せ、後醍醐天皇を捕らえようとした。護良親王は回し者の手づるでこれを知り、後醍醐天皇を笠置山にお逃がしになり、自分は弟の宗良親王とともに兵を引き連れて賊を迎え、撃破された。やがて兵が潰えたので、宗良親王と道を別々にして逃げ、奈良の般若寺に隠れられた。やがて笠置山も陥落し、宗良親王のほうは生け捕りの身となられた。賊は兵を派遣し、護良親王のいる般若寺を包囲した。親王は経箱に隠れて逃れ、その後従者九人と山伏のいでたちをし、笈を背負って南に走り、十津川まで来られ、土地の豪族戸野兵衛を頼り、髪を伸ばしてその娘を娶られた。そのことを北条氏が知り、親王の首に千金の懸賞金をつけた。親王は再び逃げ、吉野山に入られた
頼山陽『日本外史』見延典子訳(参照/頼成一『日本外史解義』
中央は護良親王が隠れたと伝わる経箱。般若寺でご確認ください。