見延典子の新たなルーツ探しの旅

ポスタ一には「菅谷半之丞は三次町寺戸に庵を建て、討ち入りの時を待ちました」と書かれている。身近なところに半之丞の足跡があったわけだ(右はポスタ一に描かれた菅谷半之丞のイラストを拡大したもの)

 

2019・12・13

忠臣蔵サミットin三次

 

昨年7月、広島県三次市で「忠臣蔵サミットin三次」なるものが開かれ、ポスタ一に菅谷半之丞が描かれていることを知った。※「忠臣蔵サミット」は正式には「義士親善友好都市交流会議」といい、忠臣蔵ゆかりの全国の自治会がもちまわりで年一回開く発表会らしい。今年で31回。


演じるのは妻夫木聡クン。お笑いの中にあって、唯一の「知性派」。この出会い、本腰をいれて調べよ、という先祖からの伝言かもしれない。

 

2019・11・25

「決算!忠臣蔵に菅谷半之亟」

 

現在、公開中の「決算!忠臣蔵」

さほど期待せずに観に行ったところ、開始10分くらいで、菅谷半之亟が軍師&参謀として登場した。

菅谷半之亟を演じる妻夫木聡クン。
菅谷半之亟を演じる妻夫木聡クン。

ネットより
ネットより

2019・11・9 

rrrrさん

「私の先祖も菅谷半之丞です」

 

 私の先祖も菅谷半之丞です。

 

私の父方の祖母の方であり、家紋が同じらしいです。

 


rrrrさんへ

初めまして。嬉しいご連絡をいただき、ありがとうございます。

菅谷半之丞について、そろそろ本腰を入れて調べなくてはと思っていた矢先ですが、わからないことのほうが圧倒的に多いというのが現実です。

ご存じのことがあれば、ぜひ教えてください。個人情報については、掲載に際してじゅうぶんな対応を行います。よろしくお願い致します。

                          見延典子

 

新発田城の辰巳櫓
新発田城の辰巳櫓

〇新発田藩の初代藩主溝口秀勝は、尾張国(現愛知県)中島郡溝口村の出身で、慶長3年(1598)に豊臣秀吉の命により6万石を与えられ、加賀国(現石川県)大聖寺から新発田に入封。溝口家は、越後で起きた上杉遺民一揆を平定し、慶長5年の関ヶ原の戦いでは徳川方に付いた外様大名です。入封当時の藩領は、沼などの多い未開墾地でしたが、歴代藩主が河川改修や干拓などの治水と新田開発に努めた結果、美田の広がる蒲原平野へと生まれ変わりました。また、8代藩主の直養は学問を好み、安永元年(1772)に越後で最初の藩校「講堂」(後に「道学堂」と改称)を設立し、同5年には全国で3番目の医学館を設立しています。

2019・5・5

ひろしまフォト歩きさん

「堀部安兵衛と新発田藩について」

 

「堀部安兵衛について」取り上げていただきありがとうございました。少しでもご参考になればと思い、新発田城でいただいたパンフレットの内容をそのままお知らせします。

 

〇赤穂義士堀部安兵衛は、寛文10年(1670)に新発田の旧外ケ輪(とがわ)に生まれる。新発田藩の家臣の来歴を記した「世臣譜」によると辰巳櫓の管理責任者であった安兵衛の父中山弥次衛門は、櫓の失火の責任を負って浪人となりました。息子の安兵衛は18歳の時、家名再興のため江戸に出て、高田馬場の敵討ちによって名を挙げました

 溝口秀勝初代藩主と思われる。
 溝口秀勝初代藩主と思われる。

 ひろしまフオト歩きさんへ

   写真と情報をいただき、ありがとうございます。まだ調査の扉を開

   いたばかりです。今後とも何かあればよろしくお願いいたします。

                           見延典子

 

2019・5・4

堀部安兵衛は新発田出身

 

新年早々立ち上げた新たなルーツ探しのコーナー。もろもろの事情から更新できずにいた。

ところが先日、ひろしまフォト歩きさんの新潟の旅シリーズで、堀部安兵衛の写真(右)がUPされ「赤穂義士・堀部安兵衛は新発田出身で高田馬場の敵討ちで名をあげた」と書かれている。赤穂浪士の出身地は中越地方にも及んでいるのか。ここから菅谷半之亟の山形につながる手がかりがつかめないものか…

 

 堀部安兵衛の像 新発田城址公園            写真/ひろしまフォト歩き
 堀部安兵衛の像 新発田城址公園            写真/ひろしまフォト歩き

菅谷半之丞 ネットより
菅谷半之丞 ネットより

2019・1・30

菅谷半之丞と酒田(山形県)

 

菅谷半之丞についてはほとんど調べたことがない。

私の父方の祖母の父、つまり私の曽祖父は山形の本間家に仕えていた。「本間様には及びもせぬが、せめてなりたや殿様に」と謳われた酒田(山形県)の豪商である。


そこで菅谷半之丞の子孫が酒田に来たことがあるかを探ることが ルーツ探しの糸口になるのではないかと考えた。だがなんと、菅谷半之丞には妻子がないという情報がインターネットに出ているではないか。早くも崖っぷちである。しかし妻子を離縁して討ち入りに加わったということではないのか。まずはそのあたりから調べてみよう。

 

2019・1・29

菅谷半之丞とは?

 

私の父方の祖母の旧姓は「菅谷」という。「先祖は菅谷半之丞」といっていた。昨年、上梓した『私のルーツ』を書いている時、その話を思い出した。いつか調べようと思っていたが、今、調べるしかないと思い直し、情報を求めることにする。お気づきのことがあれば、ご連絡下さい。よろしくお願いいたします。

菅谷半之丞 ネットより
菅谷半之丞 ネットより

菅谷半之丞(すがやはんのじょう)

1660-1703 江戸時代前期の武士。
播磨(兵庫県)赤穂藩士。赤穂四十七士のひとり。馬廻り役兼郡代。禄100石。元禄15年吉良邸討ち入りに加わる。元禄16年2月4日切腹。44歳。名は政利。変名は政右衛門。

ホームページ編集人  見延典子
ホームページ編集人  見延典子

 

「頼山陽と戦争国家

国家に「生かじり」された 

ベストセラー『日本外史』

『俳句エッセイ 日常』

 

『もう頬づえはつか      ない』ブルーレイ

 監督 東陽一

 原作 見延典子

※当ホームページではお取扱いしておりません。

 

 紀行エッセイ

 『私のルーツ

 

οο 会員募集 οο

 

「頼山陽ネットワーク」の会員になりませんか? 会費は無料。特典があります。

 

 詳しくはこちら