見延典子が、先祖かもしれない赤穂義士「菅谷半之亟」について書いています。「菅谷半之亟は先祖か①」もご覧下さい。
2024・12・18
久保寺辰彦さん
「久保寺の先祖は吉良邸近くに住む。討ち入りの半之丞を見たかも」
旧暦12月14日といえば、誰もが知っている忠臣蔵、四十七士の吉良邸討ち入りですが、見延さんのご先祖かもしれない菅谷半之丞を私の先祖が見たかもしれないというお話です。もう50年も前のことですが、小学生の時に両国の親戚の家に遊びに行ったことがあります。
その後、親戚付き合いは無くなったため、どういった関係の親戚なのか両親が他界した今はわかりません。先日、懐かしくなって親戚の家があった場所あたりに行ってきたのですが、すでに親戚らしき家はなく、御近所の人に聞いてもわからないとい
うことでした。私が覚えているのは親戚の家が両国公園の目の前だったこと、公園の丸い滑り台で遊んだこと、お相撲さんをよく見かけたことくらいです。その訪問で、両国公園のある場所が勝海舟の生誕地だと知りしりました。
今、BS時代劇で再放送されている『小吉の女房』を見ておられる方はご存知だと思いますが、勝海舟は父親(小吉)の実家である男谷家で産まれています。剣術家で有名な男谷清一郎は海舟の従兄弟にあたります。
本所と呼ばれるその場所は、吉良邸のすぐ近くです。
何気なく江戸時代(安政2年)の古地図を調べてみるとびっくり。久保寺家と男谷家はご近所さんでした。そして、吉良邸も。
元禄時代にご先祖様が、もしこの地に住んでいたら吉良邸討ち入りを見に行ったかも。そして見延さんのご先祖かもしれない菅谷半之丞も見たかもしれない・・・という妄想のお話しでした。
2024・12・17
描かれる菅谷半之丞②
赤穂城跡近くの大石神社にも47士全員の立像がある。それぞれの足下には奉納者の名前が書かれ、多くは子孫らしいが、菅谷半之丞には特に書かれていなかったような気がする(うろ覚え)。写真を拡大してもたが、読み取れない。残念。
残念といえば、赤穂市内には半之丞の屋敷跡があったのだ。帰ってから気がつくが、時、すでに遅し。
左の写真はネットに出ていたものです。慎んでお借りします。
ところで同じサイトに菅谷半之丞の家系図の一部が掲載され、半之丞の祖父の代まで判明していることも知る。
2024・12・16 描かれる菅谷半之丞
播州赤穂市内で見つけた菅谷半之丞の絵を紹介しよう。
「容貌魁偉」といわれた菅谷半之丞の立像まである。作者によってさまざまな描かれ方がされている。
「大石邸長屋門」の説明板によれば「大石内蔵介、主悦父子が朝夕出入りした。元禄14年3月主君の刃傷沙汰を伝える早打ちが叩いたのもこの門である」。菅谷半之丞も訪れたことがあるだろう。
2024・12・15
菅谷半之丞の足跡を訪ねて
花岳寺を参ったあと、かつての赤穂城下を散策する。
赤穂城は正保2年(1645)常陸国笠間から入封した浅野長直が築城を命じ、寛文元年(1661)完成。本丸と二之丸は輪郭式、二之丸と三之丸の関係は梯郭式で、近世城郭史上珍しい変形輪郭式の海岸平城。浅野家が断絶後、永井家、森家の居城となり、明治の廃藩置県後、赤穂城は払い下げられ、屋敷地は民有地となった(公式サイト)
「史跡赤穂城跡」を訪ねる。建物は残っていない。
2024・12・13 花岳寺 菅谷半之丞の墓②
墓の文字、一番上の「刀」は1切腹をした、2大業を為し得た、3罪人の印、など諸説あるようで、どの義士にもついていた。
菅谷半之丞の説明には「祖父の代から浅野家に仕え、城引き渡し後は兄、姉のいる備中三次にいき、江戸では谷中、石町に仮寓し、吉良邸の偵察」とある。現在の広島県三次市で身を潜めていたという話と合致する。
手を合せて、47士像があるという建物へ向かう。
47士全員の人形の中で、群を抜いてリアリテイのある顔、姿。講談ではイケメンになっているが、正反対に醜男だったという説もある。真偽は定かではない。ただ、すでに書いているように、やはり四角い顔をしている。うーん、おばあちゃんに似てるような(笑)
目指す「義士墓」は入り口を入って左手にある。
2024・12・13
花岳寺 菅谷半之丞の墓
花岳寺の境内には「忠義塚」のほか「忠義桜」まである。
47士の遺骨は東京の泉岳寺に納められ、ここには遺髪のみ納められていると伝わるそうだ。
ずらりと並ぶ義士の墓から「菅谷半之丞」の墓をさがす。あった!!
2024・12・11 赤穂浪士が眠る「花岳寺」へ
赤穂浪士の町とはいえ、まだ「菅谷半之丞」につながるものとは出会っていない。赤穂浪士が眠るという「花岳寺」へ足を伸ばす。
入ってすぐ「二代目大石なごりの松」が迎えてくれる。とりあえず右手の建物に入ってみる。
花岳寺の前の石碑には「浅野公霊廟義士木像」とある。
建物内には四十七士の名がずらりと並んでいる。目を皿のようにしてさがすと、裏門隊の中程にあった!「菅谷半之丞正利 馬回(郡代)百石 刃水流剣信士」
「単なる文字、されど文字」ようやく辿りついたような思いになって、しばらく仰ぎみていた。
こちらは販売用手ぬぐい
2024・12・10
赤穂浪士の町
播州赤穂を散策していると「赤穂浪士の町」ということを感じる。
朝早いこともあり、道行く人は少ない。ただ、どこへ行っても「大石内蔵助」「忠臣蔵」「赤穂浪士」に出会う。下はからくり時計の下の3面の絵(仮名手本忠臣蔵から)
通りかがかりの「からくり時計」は1時間ごとに扉が開いて、大石内蔵助の人形が回り出すのでは、と勝手に想像するが、次に扉が開くまでは待てず、先を急ぐことに。
2024・12・9
播州赤穂へ
9月末、旅猿ツアーで姫路高砂へ行った帰り、一人播州赤穂へ向かう。私の4人の祖父母のうち、3人のルーツはおよそ解明できた。残るは父方の祖母見延きよめ(旧姓菅谷きよめ)が先祖といっていた、忠臣蔵47士の一人「菅谷半之丞」。手がかりを求めて向かったのだ。
姫路から西へ電車で揺られること3、40分のJR「播州赤穂駅」。前夜は日没ころホテルに入ったので、翌朝を待って捜索開始(笑)
歩きはじめてすぐ、商店や銀行のデスプレイの多くが「忠臣蔵」一色に染まっていることに気づく。
2024・7・23 仕切り直し「菅谷家のルーツ」
これまで⒋人の祖父母のルーツを調べてきた。
父方の祖父「見延家」 ・・・・・・『私のルーツ』収録
母方の祖父「長濵(中駄家)」・・・『私たちのルーツ』収録
母方の祖母「中山(井川家)」・・・『私のルーツ』収録
多くの親族の力を借り、どの家も300年~400年前まで溯ることができた。一庶民のルーツとしてここまで溯れるのは珍しいのではないか。
残るは父方祖母の「菅谷(すがや)家」ルーツである。祖母が言い残したように、果たして「忠臣蔵の菅谷半之丞」まで辿りつけるか。
仕切り直しの思いもこめて、改めて祖母見延キヨメ(旧姓菅谷)の札幌時代の戸籍を申請した。曽祖父は「菅谷喜六」、曾祖母は「菅野初江」(旧姓不明)である。
2020・12・17
高橋さん ⇒ 見延典子 「武田信玄で思い当たるのは…」
メールを読んでいただきありがとうございます。
ブログ、拝読致しました。武田信玄というワードで思い当たるのは、母の実家は岩櫃山(岩櫃城跡)の麓にあり、大河ドラマ真田丸のときもドラマ後に流す映像として母の実家も撮影、放映されたくらいの近距離です。近所には「潜龍院跡」という武田勝頼を迎える予定だった寺の跡地があります。http://iwabitsu-sanadamaru.com/spot/senryuinato。(群馬県)
何かつながりがあるのかと思い興味深く感じました。
※ちなみに、母も叔父もエラの張った顔立ちをしているのでそれもおもしろいなと思いました。
2020・12・16 見延典子 ⇒ 高橋さん「群馬の菅谷家」
赤穂藩の武士だった菅谷半之亟の子孫という私の祖母は、山形県酒田市の生まれで、父祖は豪商本間家の帳簿係をしていたと語っていました。はたしていかなるルートによって酒田までたどり着いたのかを知りたくて、ルーツ探しをしております。貴重な情報をありがとうございます。
「群馬」ですか。1月31日付でお尋ねした方は、武田信玄の家臣に菅谷という名前の者がいたのではないか、というような話をされていました。それっきり調べていませんが、赤穂藩士になる前、甲斐あたりに地縁があったのかと考えたり…。
私の祖母は特徴的な顔形をしておりまして(写真は拙著『私のルーツ』に掲載)、1月31日付でお尋ねした東京在住の菅谷某氏のお顔(ネットにもお顔が出るくらいの著名人)にもその特徴が表れているように思い、連絡したのでした。「見延」のルーツ探しでも感じたのですが、遺伝子はウソをつきません。
また何か情報があればお知らせください。よろしくお願いいたします。
2020・12・15
髙橋さん「私の母も菅谷半之丞の末裔」
初めてメールさせていただきます。
本日(12月14日)赤穂浪士の討ち入りの日で、色々調べておりましたら、こちらのブログに出会いました。
実は私の母も旧姓が菅谷で、菅谷半之丞の末裔と聞いております。母の実家は群馬の田舎ですが横浜開港のころ生糸の貿易をしたりしていました。本家は明治より前は造り酒屋だったそうで代々、菅谷勘三郎という名前を襲名していたそうです。半之丞のことは、かなり前に亡くなった祖父からの話でして、情報が薄いため詳しいことはわかりませんが、私も母と決算忠臣蔵を見に行ったり、赤穂大石神社にお参りしたりして色々な思いを膨らましていました。
そんな折、こちらのブログを読ませていただき、勝手に親近感を覚え、思わずメールしてしまいました。また菅谷半之丞の記事をお載せになることがありましたら、楽しみに読ませていただきたいと思います。
長文お読みいただきありがとうございました。失礼致します。
2020・1・31 菅谷半之亟、妻子の消息
菅谷半之亟についてインタ一ネットで検索すると、東京在住の菅谷某氏が子孫であると語っているという記述に出会った。そこで思いきって連絡してみたところ、いくつかのことを教えてくれた。
半之亟は正式な結婚こそしていないものの、妻同然の女性がおり、3人の娘が生まれた。その妻子は、討ち入り前に「四国の琴平」に渡ったというのである。半之亟は討ち入り後、江戸の伊予松山藩邸で切腹したというから、四国とは何らかのつながりがあったことは考えられる。
それにしても、半之亟と「山形県」の接点を探すつもりが、ますます離れていく。長い旅になりそうだ。
半之亟は一時、西条川東側(現広島県三次市)にある「甲斐谷」に身を潜め、討ち入りを待ったとされ、『芸藩通志』「三次町国郡志下調書出帳には家中の徳永氏を頼ったこと、足を悪くした風を装って月日を送ったことなどが書かれているが、
天保元年(1830)杏坪が三次での職を退いて去るにあたり、半之亟が庵を結んだ「甲斐庵」を訪ね、「甲斐庵記」を記したというのである
(右の写真)。半之亟が三次に来ていたことは、半之亟の書状にも書き残されている。杏坪が「甲斐庵」でどのような思いに抱いたのか。「甲斐庵記」を読んでみたい。
2020・1・25
菅谷半之亟と頼杏坪
堀尾哲朗さんが貸してくださった2点目の資料『赤穂事件と広島一知られざる忠臣蔵』(広島城 2006)には、思いがけなく、頼山陽の叔父杏坪の名前が出てくる。
右の写真は『赤穂事件と広島一知られざる忠臣蔵』(平成18年、広島城刊)に掲載されたもので、「法橋善信筆」とある。
昨年公開された映画「決算! 忠臣蔵」で、菅谷半之亟役を演じた妻夫木聡クンとは雲泥の差がある風貌。
ただ、四角い顔の形は「半之亟は先祖」と語っていた祖母と似ていなくもない。祖母は当時の女性と比較しても、かなり小柄であった。さて半之亟はどうだっのか。
2020・1・22
菅谷半之亟の資料
菅谷半之亟に関する資料を、堀尾哲朗さん(広島県在住)が貸してくださる。左の写真は広島の明星院が所蔵する赤穂浪士47士の木像のうち「菅谷半之亟」の像
『芸州浅野家ゆかりの名宝展』(平成14年、中国新聞社刊より)
2019・12・14
国宝不動院さん「赤穂四十七義士の碑の拓本」
12月14日は討ち入りの日。
不動院には、東京泉岳寺にあった亀田鵬斎(かめだ ぼうさい)が 赤穂浪士の討ち入りに感動して建てた「赤穂四十七義士の碑」1819年(文政2年)の拓本があります。
この碑は後に幕府の怒りにふれ、大般若の供養塔に変えられ、消滅しています。今ある泉岳寺の赤穂浪士の碑は江戸時代の拓本をもとに明治時代に建立されたものです。
亀田鵬斎は碑を建てるため、拓本をとり資金の捻出したようです。
その拓本が不動院にある経緯はわかりませんが、本日は赤穂浪士のゆかりの日なので、床の間に掛けています。