※ホームページ         「Rutgars 日下部太郎の墓を訪ねてより」
 ※ホームページ         「Rutgars 日下部太郎の墓を訪ねてより」

2021・ 

赤松昇さん(姫路市)

「アメリカに留学し、

  その地で眠る志士たち」(後

話は変わりますが、今年の3月5日にニュージャージー州のラトガース大学150周年記念会議「ラトガース大学、日本との出会い」と題するオンライン会議が開催されました。


米国の週刊NY生活に「海を渡った若獅子たち」としてこの記事が掲載されました。オランダ修正協会を母体とする学校を前身として1866年に設立された州立大学です。

慶応3年から明治30年までに日本人300人がこの大学で学びました。岩倉具視や勝海舟の子息もここで学んでいます。幕末から明治にかけて留学した日本の志士たちは、痛々しいほどに国の為、プレッシャーや病と闘いながら命がけの学びを行っていたようです。

姫路藩士の長谷川雉郎は残念ながら明治三年夏、喀血で亡くなるのですが、彼のホームステイ先のトロイの中学校教師・ウィルソン氏は四つの行いを讃えています。一つは潔さ、二つは学問好き、三つは慎み、四つは真心であると言っています。今、長谷川雉郎の墓はニュージャージー州ニューブランズウィックの日本人留学生の墓地に眠っています。

頼山陽も講義した「白鹿洞書院掲示」の学びの基本方針(朱子と崎門学の学びの基本方針)を受け継ぎ、明治維新の志士たちは海を渡り、近代日本を支える礎となったと私は考えています。

 

週刊NY生活2021年3月6日 「海を渡った若獅子たち」

週刊NY生活WEB版「海を渡った若獅子たち」

※記事では長谷川鍛郎となっていますが、雉郎が正しい名です。

福井市グリフィス記念館 企画 日下部太郎の時代 アメリカに眠る志士たち 2019.2

私のホームページ『歴史の街・播磨 仁寿山校』に長谷川君父子瘞髪之碑の記事を掲載しています。

『日本漢文の世界』松本淳氏のホームページに長谷川君父子瘞髪碑現代語訳があります。

 

※ラトガース大学は化学、農学、科学技術分野に突出した業績を持つニュージャージー州最大の総合大学。ストレプトマイシンを発見したSA・ワックスマンを輩出した大学。ニュージャージー州ニューブランズウィックの日本人留学生の墓地に眠っている志士

日下部太郎 越前福井藩士 享年26歳

長谷川雉郎 播州姫路藩士 享年23歳

松方蘇介  薩摩藩士   享年23歳

小幡勘三郎 豊前中津藩士 享年29歳

入江音次郎 長州藩士   享年19歳

川崎新次郎 薩摩藩商人川崎正蔵の三男 享年21歳

阪谷達三  備中儒学者阪谷朗蘆の三男 享年28歳 弟芳郎は渋沢栄一の娘と結婚

『河合寸翁大夫年譜』仁寿山書堂立朱子白鹿洞書院掲示の碑 拓本
『河合寸翁大夫年譜』仁寿山書堂立朱子白鹿洞書院掲示の碑 拓本

明治維新後、その石碑は長谷川君父子瘞髪(えいはつ)之碑に生まれ変わっています。この碑は、亀山雲平先生の教え子であった長谷川君父子の瘞髪鎮魂碑です。※瘞髪(遺髪を埋める)

 

 幕末・明治初頭は遊学と留学が盛んに行われました。父である長谷川鍛冶馬は藩の命により武術習得の為に福岡に遊学に、時を経て、娘婿の長谷川雉郎は明治政府の命により米国ニューヨーク州トロイに、留学に行きました。しかし、長谷川君父子は遊学先、留学先で志半ば病に倒れて客死しました。

2021・4・30

赤松昇さん(姫路市)

「アメリカに留学し、

  その地で眠る志士たち」(前

 

 頼山陽が姫路藩家老の河合寸翁に招聘された仁寿山校には、立派な朱子の白鹿洞書院掲示碑がありました。崎門学の学びの基本方針でしたから、頼山陽もそれについて講義をしています。

長谷川君父子瘞髪(えいはつ)之碑(亀山雲平先生の漢文)地蔵院様に許可を得て撮影と掲載を行っています。
長谷川君父子瘞髪(えいはつ)之碑(亀山雲平先生の漢文)地蔵院様に許可を得て撮影と掲載を行っています。

亀山雲平先生はこの教え子の不幸を嘆かれ、親戚の依頼を受けてこの鎮魂の漢文をつくり、長谷川家親戚一同は父子の遺髪を埋めて碑を建立しました。藩と国の為に志を高くもって他国で亡くなった二人。遺髪を合葬すれば二人の魂は一つのところに帰ってきて出会うだろうとこの碑がつくられました。

 

兵庫県姫路市木場にある小赤壁をドローンで撮影したもの。瀬戸内海側では珍しい、長さ1kmほどの海に面した絶壁。

※HatenaBlog「播磨の山々」から転載。

 

020・8・24 

赤松昇さん

「頼山陽が名づけた『小赤壁』」

 

籟山陽が名付けた「小赤壁(しょうせきへき)」がどのような所か知って頂きたいと思い、投稿致します。

 


HATENA BLOG 「播磨の山々」で小赤壁のドローン空撮をされている方がおられます。

多くの方に観て頂きたいとブログの管理人は話されています。管理人さんにはリンクOKを頂いています。

小赤壁を全貌できます。小赤壁の名の由来は、中国揚子江中流にある赤壁に思いを馳せて頼山陽先生が名付けられました。姫路藩家老、河合寸翁が創立した仁寿山校に招かれていた頼山陽先生は、文政8年(1825)秋、この海で舟を浮かべて月見の宴を開かれたそうです。この小宴席で、宋代の詩人・蘇軾(そしょく)の長江の詩「赤壁賦」から、頼山陽先生が「小赤壁」と名づけられました。周辺は野路菊の群生地としても知られています。

こちらをクリックすると、全天球パノラマでパソコン上やスマホ上で映像を動かすことができます。

 

赤松昇さんのホームページ 「歴史の街.播磨」より
赤松昇さんのホームページ 「歴史の街.播磨」より

2020・8・8 

赤松昇さん 🔁 見延典子

「頼家に伝わる

     『易経』の算木と筮竹」

 

赤松昇さんからのメール

22年前の夏に、家族で頼山陽記念館と竹原に頼山陽先生を知る旅に出ました。頼山陽記念館で偶々、特別展があり、頼家に伝わる『易経』の算木と筮竹を観ることができました。


私は象数易と義理易を学んでおりますが、思考鍛錬ツールとしての象数易の頼家の算木と筮竹に出会う事は、感動と驚きでした。河合寸翁さんも『易経』を好まれ、彼の書斎は八角樓で襖の金具は太極でした。頼山陽の偉業と『易経』に魅かれ、ホームページに掲載しております。

   赤松昇さんのホームページ 歴史の街・播磨「易経」

 

赤松昇さんへ

ホームページの「易経」を拝見いたしましたが、残念ながら基礎知識に乏しく、理解するのに時間がかかりそうです。頼山陽は12歳でこれを理解していたとすれば、やはり能力が違いますね。

「頼山陽ネットワーク」では、石村良子代表、進藤多万さんと頼山陽の史跡巡りの本を時間をかけながら編んでいく考えです。とうぜん姫路も載せますので、その折りにはご教示くださいますよう宜しくお願い致します。

                          見延典子

 

2020・8・7 曽根天満宮で、同時期に詠んだ2種類の漢詩

 

赤松昇さんが入手された「靈松詩」と、進藤多万さんが訳注している漢詩を突き合わせたところ、頼山陽は同時期(文政8年、46歳)に曽根天満宮で2種類の漢詩を詠んでいるものの、進藤さんが訳注しているものは『山陽詩鈔』に収められているに対して、「靈松詩」は未収録であることがわかりました。

そこで進藤多万さんにお願いして「靈松詩」の訳注を書いていただくことになりました。                 (見延典子記)

※曽根天満宮(兵庫県高砂市曽根)には菅原道真が植えたとされる松がある。

2代目の松は大正13年(1924年)に国の天然記念物に指定されたが、昭和27年(1952年)に枯死。現在は5代目。枯死した松の幹が霊松殿に保存されている。

「靈松詩」の冒頭部分 提供/赤松昇さん
「靈松詩」の冒頭部分 提供/赤松昇さん
『山陽詩鈔』掲載の「曽根菅廟を過ぎ…」の冒頭部分 提供/進藤多万さん
『山陽詩鈔』掲載の「曽根菅廟を過ぎ…」の冒頭部分 提供/進藤多万さん

2020・8・5

進藤多万さん ➡ 赤松昇さん 「訳注があります」

 

「過曾根菅廟 有公西遷時手植松樹 見秋玉山題排律 依韻作歌 比至魚碕成之」曾根の菅廟に過(よ)ぎる 公の西遷時の手植の松樹有り 秋玉山の題する排律を見 韻に依りて歌を作る 魚碕に至る比(ころ) 之を

という詩があります。

もし同じなら、訳註があります。

 

2020・8・4

赤松さん「頼山陽の『靈松詩』を翻訳できる方を紹介してほしい」

 

お世話になっております、姫路市の赤松昇(会員)と申します。

高砂市に在ります曽根天満宮に頼山陽が奉納した、「靈松詩」を神社本庁の書籍から見つけ出しました。残念ながら漢詩を翻訳されたものがなく、また、私は漢文の素養が有りませんので翻訳することができません。何方か有志の方(ボランティア)で翻訳していただく方はおられないでしょうか。菅原道真公を思い、霊松詩をどのように書かれ奉納されたのか知りたいと思い筆を執りました。もし、可能であればデータを送らせていただきます。

翻訳後、見延様と私のホームページに紹介できればと思っております。

曽根天満宮に説明文が無いのが残念でたまりません。学者としての頼山陽が大先輩の学者である菅原道真公に対してどのように思いを馳せて奉納したのか知りたいと思っています。

尚、曽根天満宮は、私のホームページ(歴史の街・播磨-頼山陽)に動画を掲載しております。

「歴史の街・播磨」https://synchronicity64.wixsite.com/harima

よろしくご検討を、お願い申し上げます

 

2017・6・13赤松昇さん「頼山陽の史跡映像をYouTubeに」

 

姫路の赤松です。

頼山陽に関する史跡映像を撮影してYouTubeにアップしました。ご覧ください。

 ①歴史の街・播磨 仁寿山校跡から姫路城、姫路神社、河合寸翁神社などを

 https://youtu.be/noVh5F1S65A

②頼山陽と姫路懐古

 https://youtu.be/-2e3SCmQukc

③頼山陽と曽根天満宮

 https://youtu.be/AILKoVhiELM

④頼山陽と六騎塚

 https://youtu.be/qnx1omfKs-I

⑤頼山陽と赤松円心 頼山陽「日本楽府・赤松円心の飜覆手(はんぷくしゅ)[決意を変える]」

 https://youtu.be/S3j4uW6Yv5A

尚、詳しい解説は私のホームページ&ブログ「歴史の街・播磨」に記載しております。

https://synchronicity64.wixsite.com/harima

宜しくお願いします。

 

仁寿山校の跡地は土塀を残し、竹林になっている。この中に入ると、タイムスリップしたように感じられる。人づくりの場として再建できないものか心を痛めている。

2017・2・25

赤松昇さん「仁寿山校について」②

 

仁寿山の由来

 

文政四年(一八二一年)、藩主・酒井忠実は永年にわたる藩政改革、財政再建の功に報いる為に当時幡下山(はたしたやま)といわれていた山を彼に与えた。河合寸翁はこの山を論語の雍也第六の『仁者は寿(いのちなが)し』から命名した。


■「賢人は国家の宝」

・河合寸翁の人材を愛する心が学校の設立を実現させた。

・藩の補助を受けたが私塾であった。姫路藩は藩立として好古堂が存在した。

・文政五年開校(1822)。初め仁寿山書院と称した。

 

■校風と授業について

・校舎内に朱子の白鹿洞書院掲示碑を建立した。(学問の心構え。1825

頼山陽は文政八年(1825)の秋に、この朱子の「白鹿洞掲示」を学生に講義を行った。

・実学を重んじ、「治国平定天下経世済民の人材を養成する」※1ことを主目的とした。

・学問に志がある子弟、藩選抜の子弟、及び他藩の志がある者を受け入れた。

・「経書を講説」※2

 五経:易経、詩経、書経、春秋、礼記/四書:大学、中庸、論語、孟子など)

・「学科は漢学、国学、習字、習礼などで、素読、復読、討論、質問辨義などを行った。」※3 

 習礼(しゅうらい:重要な儀式の予行)

   復読(繰り返して読む)

 質問辨義(質問し正しく弁ずる)

・太極図・論性説を発行。(1832

・仁寿山に招聘された人々

頼山陽(4回):学問のあり方など様々な問題を討論させた。

堤鴻佐、猪飼敬所、摩島松南、斎藤拙堂、大国隆正、松林飯山など

・河合寸翁没(七十五才1841

・「1842年 仁寿山を廃止し、寄宿舎を好古堂に移す。医学寮は残る。」4

 

◆頼山陽の詩

『発播仁寿山校諸生』『姫路懐古』『重陽在仁寿山校』など

◆頼山陽、藩主酒井忠実に『日本外史』を献上

◇頼山陽について記載されている最近の市販書籍

『姫路藩の名家老 河合寸翁』 熊田かよこ 著 神戸新聞総合出版センター―藩政改革と人材育成にかけた生涯-201511

◇頼山陽と姫路ついて詳しく書かれている資料(冊子)

『頼山陽の姫路観と仁寿山校の教育』 島田清著 兵庫教育研修所 19693

 

※参考書籍

『姫路城史(下巻)』 橋本政次著 ㈱名著出版発行 19734

※1、※2、※3は『姫路城史(下巻)』より引用

『近世の松原村』松原郷土史シリーズ3  大西文雄 著灘の松原自治会発行 19983

4は『近世の松原村』より引用。

『頼山陽の姫路観と仁寿山校の教育』 島田清著 兵庫教育研修所発行 19693

『姫路市史 第四巻 本編 近世2』 姫路市市史編集委員会編集 姫路市 発行 20093

 

 

 

仁寿山校は、文政5年(1822)に開校し、頼山陽など有名な学者も特別講義をしたが、寸翁の死後廃校となった。天保13年(1842)寄宿舎は姫路城下にあった藩校・好古堂に移され、医学寮だけは明治維新までこの地に残された。上の図は元藩士の下田重復が明治43年に描いたもので、盛時の様子を示している。現在、井戸と土塀の一部だけが残っている。寸翁の墓は仁寿山々

麓の河合墓所の中にある。(平成24年1月姫路市教育委員会、姫路市文化財保護協会現地掲示板の記載より)

※河合寸翁は武士で、山崎闇斎学派の儒教学者。藩政改革と財政改革を実行。73万両の負債を返済した。

 

2017・2・24

赤松昇さん「仁寿山校について」①

 

合寸翁(道臣、1767~1841)は姫路藩主酒井家の家老で、産業を盛んにして藩の財政を立て直したことで名高い。彼は多年にわたる功績により、藩主から与えられたこの地に、人材養成のための学校を開き、仁寿山校と名付けた。

仁寿山全景 お旅山山頂から見た仁寿山。写真左手に姫路市街が見える。山頂から左山麓に河合家墓地と右山麓に仁寿山校跡の林(赤と白の電力線鉄塔の右)が見える。頂上の六一亭があったところにはパラボナアンテナが建っている。六一亭は六つの藩がここから一つに観えることから名付けられたと云われている。


2017・2・21

赤松昇さん「小赤壁について」

 

私の住んでいる姫路市の海側に小赤壁と呼ばれる断崖絶壁があります。今回はこの情報を提供させていただきます。


姫路市の海側に『小赤壁』と呼ばれる地があります。小赤壁の名の由来は、中国揚子江中流にある赤壁に思いを馳せて頼山陽先生が名付けられました。

姫路藩家老、河合寸翁が設立した仁寿山校に招かれていた頼山陽先生は、文政8年(1825)秋、学生らとともにこの海で舟を浮かべて月見の宴を開かれたそうです。この小宴席で、宗代の詩人・蘇軾の長江の詩、「赤壁賦」が詠まれ、この時、頼山陽先生が「小赤壁」と名づけられました。周辺は野路菊の群生地としても知られています。木庭山の断崖絶壁である小赤壁は高さ約50m、長さ約800mあります。

 

追伸

私は『易経』を学んでいるものです。頼山陽先生は12歳で『易経』を読み終えたと聞いています。私の『易経』は、王陽明研究の第一人者である岡田武彦先生が話されている義理派と占筮派を一体として説いた『易経』を目指しています。

以前、広島の頼山陽記念館にて頼山陽先生の算木と筮竹をみて感動したことを覚えています。「頼山陽先生と易経」についてどなたか情報をお持ちでしたらお教えください。尚、『日本外史』の楠氏編 後醍醐天皇の占筮は大変興味を持って読みました。

 

ホームページ編集人  見延典子
ホームページ編集人  見延典子

 

「頼山陽と戦争国家

国家に「生かじり」された 

ベストセラー『日本外史』

『俳句エッセイ 日常』

 

『もう頬づえはつか      ない』ブルーレイ

 監督 東陽一

 原作 見延典子

※当ホームページではお取扱いしておりません。

 

 紀行エッセイ

 『私のルーツ

 

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