まずは頼山陽の祖父頼惟清と祖母仲夫婦の墓。下は叔父頼春風の墓
右の写真は、頼春風の婿養子頼小園(尚平)の墓。
2016・11・1
石村良子代表「照蓮寺の頼家墓所」
たけはら町並み保存地区にある照蓮寺は頼家の菩提寺で、頼家ゆかりの人々が眠っている。
2015・12・3
BS朝日「百年名家」松阪邸
同じく町並み保存地区にあり、おなじみ「山陽柿」のある松阪邸。
松阪邸の内部も中国風の意匠が凝らされている。
各所、細部に中国文化が色濃く残っている。
だが注目は松阪邸の隣の建物。
松阪邸の隣の亭は、造った方の名前にちなみ「石霞高楼」と呼ばれる。韓国文化の感じもする。
ちなみに京都の「山紫水明処」も亭と聞く。
渡り廊下(上の写真)を進んだ先、花瓶型の入口から入ると、何とも珍しい異空間(右の写真)が広がっていた。
凝りに凝った内部。残念ながら非公開とのこと。
三浦教授によると「亭(ちん)」と呼ばれるという(左の写真)。
竹原には二つの亭があり、その一つは頼家の亭であったという。たぶん下蒲刈島に移設された白雪楼ではないか。
ここで、「石霞高楼」の内部が初めて公開された。
尚、番組で三浦教授は頼家の亭(下蒲刈島に移築した白雪楼)の天井に頼山陽の書が貼ってあったと解説していたが、進藤多万さんによれば「天井は蘇東坡の書で、欧陽脩の醉翁亭記」とのこと。
白雪楼の写真はすでに撮影済みなので、いずれご紹介しよう。
頼惟清旧宅には茶室もあるが、今回は紹介されなかった。(右の写真をご参照ください)
頼惟清旧宅に続き、春風館へ。
2015・11・30
BS朝日「百年名家」春風館②
せっかくの機会なので、番組に出演されていた広島大学大学院の三浦正幸教授の解説を紹介する。
頼惟清旧宅の屋根は向かって左側だけ長い。この頃、頼家はまだ財力がなく、敷地も狭かったため。
4間続きの室内は典型的な町屋作り、壁も江戸時代の特徴を表している。
春風館の門の左右は不対称。向かって左は与力窓と呼ばれ、門番がいた。
右の手水鉢は中国のお金「布銭」を模したもの。
番組は後半、同じく竹原市にある松阪邸、森川邸を回る。頼家とも少なからず関係があるので、次回ご紹介しよう。
2015・11・30
BS朝日「百年名家」春風館①
11月29日放送のBS朝日「百年名家」をご覧になりましたか?
見逃した方やBSをご覧になれない環境にある皆さんのために、番組の触りをご紹介します。
ここからは春風館。国の重要文化財で、通常は非公開。
要所に中国風の設えがある。
与力窓の内側は、不二庵という当時の人気デザイナーによる窓(左の写真)がある。中国風。
さらに春風館の庭に入る。
旅番組というより、築100年以上の建物の細部を紹介する異色番組。
春風館がテレビで放映されるのは初めてとのこと。
武士格の儒医者であり、塩田経営者でもあった春風。春風館は武家屋敷でありながら帳場も備える。
今回の番組の目玉というべき祠堂。孔子を祀る祭壇で、頼家のような儒教家庭にとっての要であった。
番組ではもう少し詳しい説明があった。またこの後、紹介される松阪邸や森川邸についても初めて知る話があった。竹原は奥が深いと再認識した。
2015・10・1 おでかけリンちゃん 今年の「山陽柿」
おでかけリンちゃんが今年も竹原市の街並み保存地区にある松阪邸の「山陽柿」写真を送ってくださった。
「 松阪邸の中庭に植えられた台柿の木ですが、今では大き成長しています。柿の実も、早や色づいていました。受付におられた方にお聞きすると、熟れてくると落ちるのだそうです」
皆さん、熟れて落ちる前に見にいってくださいね。
「山陽柿」については伊丹市(兵庫県)をご参照ください。
竹原町並み保存地区(竹原市)
竹原は頼家のいわば原点。多くの史跡が残っている。
写真は「ひろしまフォト歩き」さんのご提供
2014・9・18
竹原町並み保存地区
竹原は頼山陽の祖父が住んでいた地であり、頼家にまつわる史跡が多数残っている。
竹原はかつて下賀茂神社の荘園であった。そのため小京都の風情がある。
また学問が盛んな地であり、竹原で生まれた頼山陽の父・春水、二人の叔父の春風、杏坪(きょうへい)の教養はこのような風土で育まれた。
頼山陽の祖父・頼惟清(これすが)の旧宅ある。頼家は紺屋を営んでいた。染物屋である。後に塩田開発にもかかわる。
屋敷に入り、裏に回って見ると、こんな感じだ。
さほど大きな屋敷ではない。
入館料は無料。
同じ庭の山側には頼山陽の詩碑が建っている(下)。
解説の看板(左)
山陽45歳の作
中年になった山陽の心情が詠まれている。
でも小さすぎて読みにくい。
きっと進藤多万さんが救いの手を差し伸べてくれるだろう。
2014・9・21
竹原町並み保存地区2
前回、上記のように書いたところ、さっそく進藤多万さんが教
えてくださった。
竹原の頼家の縁者である多万さんは、小さい頃からこの詩だけは教えられ、暗証したという。
やはりバックボーンが違う(汗)
そういえば、竹原の春風館を訪れたとき、入ってすぐの右側の壁にこの軸がかかっていたのを思い
出す。
頼山陽史跡資料館開館十五周年記念企画展図録『頼山陽乃書(2010)に詳しく載っていたので引用させていただく。
頼山陽は文政7年(1824)45歳の時、竹原に墓参りに帰ってこの詩を作った。
「大意」
わが家から見ていた山は変わらないのに、自分は都会の塵に染まってしまい、恥ずかしい…
中年になってから読むと、胸に響く詩なのだ。