特に記載のない場合は見延典子が書いています。

2022・5・11 新江利彦さん「北斎の描く象」

漫画研究者の夏目房之介たちにより、水木しげるが長い間アメコミ漫画家ウォーレン・クランマーや浮世絵師葛飾北斎からの敷き写し(トレース)または切り貼り(トレースですらない)で漫画を作っていたことが明らかにされました。葛飾北斎の作品は水木しげるだけでなく、オランダ人画家フィンセント・ファン・ホッホ(ヴィンセント・ヴァン・ゴッホ)によっても模写されています。一方、2016年にオランダ・ライデン国立民族学博物館で北斎による洋画六枚が発見されて、北斎のほうでもまたオランダ経由で輸入されたヨーロッパ絵画を研究していたことが判明しました。『北斎漫画』などにみられる象の造形は若干おかしいのですが、これは想像で描いたからではなくて、実際にヨーロッパの画集の象を見て、それをデフォルメした可能性があります。オランダ商館を運営する「連合東インド会社」(VOC)は、1795年から解散の年(1799)まで征服者であるフランス革命軍の影響下にあり、そのフランスの画集に似たような怪物風の象を描いたものがあります。残念ながら、この象は、南アメリカの動植物の正確なデッサンで知られたフランスの博物学者シャルル・プリュミエ(1646-1704)が、なぜか行ったことのないアジアまたはアフリカの象を、想像で描いたものらしいのです。

左/シャルル・プリュミエ「象」(1709以前)

 

上/東京都墨田区すみだ北斎美術館所蔵

 

 


2022・5・9 新江利彦さん「頼山陽、北斎画派との接点」

 

山陽は父親である春水に反発しながらも春水のネットワークをしっかり受け継いでいます。頼春水の子の山陽は、福岡藩士亀井南冥の子で、「山鬼」など伝・屈原(前278没)の詩の注釈書『楚辞玦』で知られる昭陽と友情を結びます。山陽は自立した知的な大人の女性を好みました。

幕末の福岡藩には貝原東軒、亀井少琹、野村望東尼、二川玉篠、高場乱などの女性の教師・医師らが現れて、維新の志士たちへの教育や、地域医療に尽くしたことが知られています。このうち亀井少琹ショウキン1798生)は昭陽の娘、南冥の孫娘です。文政元年(1818)の山陽の九州旅行でも、山陽はまず昭陽を訪ね、旧交を温めます。ふたりのハイブロウな会話に、もしかしたら少琹も加わったかもしれません。山陽は若き漢詩人でもあった彼女との対話を歓迎したでしょう。

亀井南冥・昭陽父子は、徂徠学派として、また医師として、実証的な儒学研究、医学研究を行いました。実学を重んじ、世の中の役に立つ技能の習得を強く勧める徂徠学派亀井家の儒学は、寛政異学の禁のために、短期間藩校で教えられただけで、幕末まで私塾で教えられ、藩士のほか、制約の少ない自由身分(藩士の家督を継がない次男・三男や、町人・農家)の弟子も多かったということです。南冥が書いた論語の注釈書『論語語由』は、農家から出て幕臣となった渋沢栄一の愛読書だったことで知られています。

実学を重んじた亀井塾門下からは、19世紀前半の福岡藩で活躍した藩士蘭学者の青木興勝のほか、182425年にフィリップ・フォン・シーボルト(ドイツ語読みだとジーボルト)の長崎鳴滝塾で学んだ医師の武谷元立ゲンリュウ(のち藩医)、農村開発に貢献した庄屋の内野元華ゲンカ(『済民草書』著者)など、在野の蘭学者も多く出ています。

頼山陽が九州を旅した1818年の段階で長崎滞在が確認できる亀井塾門下生は、現存史料からは確認できませんが、シーボルト資料は鳴滝塾の最初の学生たちがオランダ商館付き医師の学生たちであったことを示しています。そのため、山陽が長崎で出会ったオランダ人医師と会話した時の通訳は、亀井塾門下生で長崎留学中であった武谷元立である可能性があります。北斎画派との接触の可能性もこのときです。

 

 注 あくまで新江利彦さんの見解であり、見延は確認する資料を

   見つけておりません。

 

2022・5・7 

「頼山陽の序」の謎②

 

『演義三国志図鑑』の「頼山陽の序」について、ある方が「頼山陽の字に似せて書いた贋作だよ」などという。根拠は「墨にかすれがないから」という。うーん、それって単に印刷上の技術の問題と思うけど。

 というわけで、一度調べた『頼山陽全書』(文集)をもう一度点検し直すと、なんと、「外集」に掲載されているではないか。5日掲載の墨の字が山陽のものか結論は先送りにするとして、「序」を書いたことは確認できたのである。

       まだ続きます。


2022・5・5 「頼山陽の序」の謎①

 

『演義三国志図鑑』の「頼山陽の序」について、見延がわからないこと。

1 「頼山陽の序」の原本はどこにあるのか?

2 「頼山陽の序」が昭和35年刊の本に出てきた背景。

 そもそもこの「頼山陽の序」が真筆か否かという問題はあるが、とりあえず真筆ということで、今しばらくはこの2点の疑問を解決するために書いていきたいと思う。

『演義三国志図鑑』(昭和35年、36年刊)の「凡例」には、「本書は天保年間に発行された『絵本通俗三国志』を底本とし、二三の現代語訳を参照して編述した」と書かれている。

『絵本通俗三国志』をネットで検索すると「津軽デジタル風土記」がヒットし、そこに以下のような解説が掲載されている。

 

通俗三国志』(元禄二~五年(一六八九~一六九二))五〇巻は、明代に成立した中国四大奇書の一つ『三国志演義』を、湖南文山(こなんぶんざん)が訳したものである。文山の詳細は不明だが、京都五山の一角である天龍寺の僧・義轍(ぎてつ)と月堂(げつどう)兄弟のことであると言われる。当初兄の義轍が着手したものを、その没後に月堂が引き継いで完成させたとされている。これを池田東籬(いけだとうり)が校正し、葛飾戴斗(かつしかたいと)が四〇〇点以上の挿絵を付して絵本の体裁をとったものが『絵本通俗三国志』である。天保七年(一八三六)から刊行が始まり、天保十二年(一八四一)に八編が刊行されて完結した。校正と挿絵の挿入の結果、八編七五巻の大長編となった。『三国志』を題材とした絵入り本の中で最も人気を博したとされる。
 池田東籬は読み本作家として知られた人物である。天明八年(一七八八)京都に生まれ、御所勤めをしていた傍らで読本や名所案内、実用書の執筆をしていた。挿絵を描いた「葛飾戴斗」は長年葛飾北斎だと思われていた。北斎は生涯で八十回以上号を改めており、戴斗もその一つである。しかし現在、実際に挿絵を担当していた「葛飾戴斗」は葛飾北斎の高弟にあたる二世葛飾戴斗であろうとされている。二世戴斗は本名を近藤文雄といい、元は豊岡藩士で、江戸の上野山下に住んでいたとされる。絵が北斎と非常によく似ており、また江戸在住であったものの、彼の携わった刻本(こくほん)は大阪のものが多いことから「大阪北斎」「犬北斎」などと呼ばれていたとされる。絵師が長く誤解されていたのは、北斎の画風を戴斗がよく習得していたためである

 このサイトには以下の紹介があり、「絵本通俗三国志』を直接読むことができる。

国文学研究資料館「新日本古典籍総合データベース」の全文画像ビューアで画像を閲覧することができます
絵本通俗三国志

『絵本通俗三国志』にも「序」はあるが、それは「洛士 東亭主人誌」と署名され、内容にも頼山陽に触れた箇所はない。

                          続きます。

 

 奥付には「昭和35年 編集兼発行者 松橋暉男 国会新聞社 領価金3500円」とある。これを2015年日本図書センターが復刻したのである。

2022・5・3

俗気たっぷりの頼山陽

 

 図書館で借りた『演義三国志図鑑』には、中身は同じながら、別のバージョンがある。


「国会新聞社」と「広島県新聞社」の関係が今一つわからないが、まずは山陽が「序」で何を書いているかを紹介することが先決であろう。同書には下のような「序」が合計4枚あり、訳文もついている。

 すでに『演義三国志図鑑』(底本は絵本通俗三国志)の正本が出版されているようで、山陽は「続刊をしようと計画する者が、私(山陽)のところに序文を書いてくれといってきた。門人たちは通俗的で卑近なものとしてお止めくださいというが、私は笑い、眠気を催すような本はすてて、この本をとる。筆に墨をふくませて、序を書いた」(要約は見延)

 

 山陽の「序」はホントに面白い。何が面白いかというと、山陽は見延が小説『頼山陽』で描いたような俗気たっぷりの人物であったことが手に取るように伝わってくるからだ。今、見延の頭の中にはさまざまな仮説が渦を巻いている。あるいは今まで語られてこなかった山陽・・・それが意図的なものかも含めて、山陽の新しい側面が今現れ出ようとしている。いささか興奮しているので、頭を冷やし、順を追って書いていきたい。

 

2022・5・1

頼山陽と葛飾北斎との接点

 

 頼山陽と葛飾北斎。いったいどこに接点があるのだろうか。

 

 北斎が生まれたのが1760年、没したのが1849年なので、山陽(1780-1832)が生きていた時代とは重なっている。では両人を仲介したのはだれなのか?

 『演義三国志図鑑』の挿絵。

葛飾北斎(1760-1849)江戸時代後期に活躍した浮世絵師。 現在の東京都墨田区に生まれ。十代の終わりに人気浮世絵師・勝川春章に入門し、絵師となる 。代表作が「富嶽三十六景」

 さらに調べると、実際に『演義三国志図鑑』の挿絵を描いたのは、近年では北斎の弟子「戴斗」であることがわかったという。新江さんの御文にも以下のように書かれていた。

山陽は、葛飾北斎・載斗子弟の『絵本通俗三国志』(1832頃、復刻2005、また『演義三国志図鑑』として復刻1961及び2015)にも序文を寄せています。


改めて「葛飾戴斗」について調べてみる。

 

葛飾載斗 ?? 江戸時代後期の浮世絵師。

もと但馬(たじま)(兵庫県)豊岡藩士。葛飾北斎の門にはいり,文政-嘉永(かえい)(1818-54)のころに活躍。肉筆画のほか,版本の挿絵,錦絵なども手がけた。本姓は近藤。名は文雄。通称は伴右衛門。別号に洞庭など。著作に「花鳥画伝」など。 出典/講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plus

 

「但馬豊岡藩士」というあたり、山陽に近づいて来た感じがする。本姓近藤文雄。通称伴右衛門に注目すれば、ヒントが得られるかもしれない。

                           続きます。

 皆様からの情報もお待ちしています。

 

 なるほど「頼山陽序 葛飾北斎筆」と書かれている。

 なんじゃ、これ!

 もう一回書く。

 なんじゃ、これ!

 

2022・4・29

なんじゃ、これ!

 

 新江利彦さんが4月23日付でお書きになっている『演義三国志図鑑』を図書館から借りてくる。

 よほど古いものかと思ったが、奥付には「昭和36年 広島県新聞社 領布価3300円」とある。

 しかも表紙をめくると、冒頭には頼山陽の序が掲載されている。

頼山陽の序
頼山陽の序

2022・4・28 短期連載 最終回

新江利彦さん「頼山陽の詩に見る星」

 

頼山陽の詩に見る星

 

儒者は「春秋」や「易経」を正しく理解するため、数学や天文学をある程度理解しておく必要があり、頼山陽はおそらく父親からじきじきに二十八宿の和名や十二宮星座における位置を学んでいただろうと思います。

薩摩から琉球にわたり舜天王統を築いたとされる源為朝(鎮西八郎為朝)を歌った「鎮西八郎歌」(『山陽詩鈔』第二百五番)に出てくる女宿(うるきぼし、Albali、みずがめ座エプシロン星)と牛宿(いなみぼし、Aldhabih、やぎ座ベータ星)は、コンピュータで使用できる天文学ソフトウエア「ステラナビゲータ」の計算では、山陽がこの詩を歌った文政元年旧暦九月三十日(1818/10/29, 木曜日)の午後九時には両星とも海に沈むので、「女、牛、地にたれて、海茫々」はたいへん写実的な叙景詩といえます。

 

2022・4・23 短期連載③ 新江利彦さん

「日本とベトナムの『趙雲、幼主を祐けて夫人をむ』図比較

 

日本とベトナムの「趙雲、幼主を祐けて糜夫人を諫む」図比較

山陽題図詩の中に、『三国志』(陳寿撰、280頃、その演義は羅貫中撰、1522頃)に取材したものがあります。山陽は、葛飾北斎・載斗子弟の『絵本通俗三国志』(1832頃、復刻2005、また『演義三国志図鑑』として復刻1961及び2015)にも、序文を寄せています。

頼山陽は葛飾北斎、載斗子弟の『絵本通俗三国志』に序文を寄せている

     ※国会でデジタルで確認済み。序文内容については調査中(見延)

 武者装束が完全に日本化された大和絵 無名氏「趙雲子龍救主之図」。趙雲

 は絶世の美女風に描かれる。幼主阿斗を抱く白髪の武者は蜀帝劉備玄徳か

北斎・載斗の三国志図は津軽藩伝来本があり、ねぶた絵の題材になったと可能性があります。そのうちのひとつ、「趙雲(子竜)、幼主(阿斗=劉禅公嗣)を祐けて糜夫人を諫む」は、ベトナム(越南)北部の版画集落でつくられる「ドンホー(東湖)年画」に、「子竜扶阿斗」という、曹操孟徳のもとから劉室の幼主を救出するという同じ題材のものがあります。『演義三国志図鑑』は国立国会図書館内ならデジタル版がみられるのですが、館外一般公開はしておらず、確認できませんでした。横山光輝の漫画で三国志に触れた世代は、横山が煩雑をいとわず、登場人物を姓・名・字の四文字~五文字フルネームで表記してくれていたおかげで、子竜が「留営司馬」こと趙雲の字(あざな、元服後の自称)だとすぐわかるので、ラッキーですね。

左/津軽ねぶた絵「幼主を抱く趙雲」(川村岩山)

上/ドンホー年画「子竜扶阿斗」


横山の趙雲像は初期はひげなし、後期は薄ひげの美男ですが、津軽ねぶた絵の趙雲(「三国志」の趙雲と「越絶書」の伍子胥の図柄と混交?)もひげなしの美男。ドンホー年画の幼主を抱く騎馬の趙雲像もひげなしで小柄。中国の趙雲像は薄ひげが多いですが、ひげなしの女性的な美貌のものもあり、日本の大和絵の作者不明のものに、美女のような趙雲像があります。一方、日本の浮世絵の趙雲像は上述のような図像学上の趙雲像を無視したひげもじゃが多くて、残念です。図像学上の趙雲が薄ひげまたはひげなしであるのは、その職務上、三国・蜀の劉室女性の保護にあたることが多く、男性器を切除してひげなどが生えなくなった宦官的な任務を帯びていたことと関係があるかもしれません。実際、趙雲の職務「留営司馬」に似た「行軍司馬」は、唐代の中国では宦官の職名でした。

 

2022・4・21 短期連載②

新江利彦さん「頼山陽の九州旅行とナポレオン賛歌」

 

本人も絵心があり、画家の友人や恋人をもった頼山陽の詩は、たいへん絵画的です


ナポレオン賛歌「仏郎王詩」(天保三年=壬辰年1832『山陽詩鈔』第百六十二番、嘉永七年甲寅年1854刊行の『仏蘭西偽帝那波列翁一代記』再録)のような、絵に触発(インスパイヤ)された題図詩も多くあります。山陽が見た肖像画の詳細は不明ですが、もしかしたら、色彩豊かな描写から、菊池樺郷が模写したもののカラー版であったのかもしれません。

頼山陽は長崎で、オランダから持ちこまれた「ナポレオンの肖像画」を見た模様。はたしてカラー版だったのか?

ナポレオンが偽称した帝号インペラトルは、ナポレオン以前には西ローマを継承した西欧エスターライヒ(オーストリア、神聖ローマ帝国)と東ローマを継承した東欧ロシヤだけが名乗りました。フランス共和国コンスル(執政官、この官名もローマ時代以来のもの)のナポレオンは1804年に帝号を自称し、1806年にオーストリアを破って神聖ローマ帝国を解体し、名実とも西欧唯一の皇帝となります。

 

ナポレオンは生前から自分を美化した肖像画を流布させており、山陽は文政元年(戊寅年、1818)の九州旅行の折に長崎で会った、ナポレオンのロシヤ遠征に従軍したオランダ商館員が持ち込んだものを見た模様。徳川吉宗の享保の改革の際の洋書輸入解禁後、膨大なオランダ書籍が日本に持ち込まれますが、とくに葛飾北斎がアムステルダムやジャカルタなどオランダ領内の都市や風景を描いた画集を仕入れて、新しい浮世絵アングルの考案や西洋画の模写に使用しており、従軍記念品というよりも、売り物であったかもしれません。

国立国会図書館公開、菊池樺郷模写「波利稔王像」(ナポレオン王像)

https://www.ndl.go.jp/nichiran/data/R/065/065-001r.html

国文学研究資料館公開、頼山陽「仏郎王詩」:

https://base1.nijl.ac.jp/~kindai/img/SUMI/SUMI-00050/SUMI-00050-04.jpg?log=true&mid=SUMI-00050&d=1650183934027

肝冷斎日記による書き下しと読み下し「仏郎王詩」:

 

http://www.mugyu.biz-web.jp/nikki.21.7.913.htm

 

 ベトナム語で書かれた木村蒹葭堂の本

2022・4・19

短期連載①

新江利彦さん

「木村蒹葭堂と頼春水」

 

こんにちは、一昨年(庚子年、20209月)、頼春水の友人であった商人・文人・画家の木村蒹葭堂(きむら・けんかどう)が枝芳軒静之(しほうけん・せいし)という筆名で、寛政8年(丙辰年、1796)の日本人の、大越タイソン朝(西山朝)治下のベトナム北部への漂流事件を「夢オチ」という超展開でまとめた『南漂記』(原題:南瓢記、1798)という本があります。


頼山陽は海外事情がダイレクトに入ってくる環境にいた。

 それが漢文とフランス語に堪能な若手編集者・研究者グエン・マイン・ソン(阮孟山)によってフランス語訳からベトナム語に重訳され、ハノイ(河内)のニャーナム(雅南)書店が国営の民智(ザンチー)出版社を経由して発行しており、きのう(2022/4/16土曜)、ハノイ市カウザイ郡ギアタン坊トーヒエウ街(河内市紙橋郡義新坊蘇校街)にある直営店で購入しました。蒹葭堂は出版後すぐに頼春水ら蒹葭堂サロンメンバーの友人たちに配布したようなので、頼山陽は、鎖国とはいいながら、海外事情がかなりダイレクトに入って来る環境にいたといえます。

ホームページ編集人  見延典子
ホームページ編集人  見延典子

 

「頼山陽と戦争国家

国家に「生かじり」された 

ベストセラー『日本外史』

『俳句エッセイ 日常』

 

『もう頬づえはつか      ない』ブルーレイ

 監督 東陽一

 原作 見延典子

※当ホームページではお取扱いしておりません。

 

 紀行エッセイ

 『私のルーツ

 

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