見延典子訳『日本外史』足利氏(下)
参考文献/頼成一『日本外史解義』(1931)
藤高一男『日本外史を読』』Ⅱ(2002)
応仁の乱(応仁元年・1467~文明9年・1477)後の状況です。
2024・9・7
東西両陣、兵を解く
東西両陣営とも、総大将に死なれてしまった後も睨みあっていた。
文明5年(1473)12月、足利義政は将軍職を子の足利義尚の譲った。9歳であった。
畠山政長が管領となったが、七日で辞職し、一族の畠山義統に代わった。東陣に降参してきた労を賞するためであった。
文明9年(1477)11月、西陣の諸将はそれぞれ兵を解き、各々の国に帰っていった。そのため足利義視は土岐市の美濃へ行き、世話になった。東陣も自然に解散した。
これまでに応仁元年から11年経過していた。その間、両陣の兵士が代る代る放火、略奪をしたので、公卿や武家の屋敷はほとんどなくなり、京都は荒れ野原になった。関白の藤原(一条)兼良以下の公卿衆は四方に逃げ隠れ、殺された者もいた。歴代の大事な多くの書物が焼けてなくなった。
しかし足利義政は相変わらず酒盛りや歌を詠み、平然としていた。使者を朝鮮に行かせて、明国発行の勘合符を求めて、外国との交通の安全を得て、国の珍しい宝を買い取った。
文明11年(1479)足利義政は隠居して東山にいき、祖父足利義満の金閣寺になぞらえて銀閣寺を建て、世の中の戦乱は意にもとめなかった。
諸国の強い家来などは往々にして戦乱に乗じ、主人の国を奪い取る者もいた。
後花園天皇を葬った年(文明3年)斯波氏の家来甲斐某はその主君を殺して越前国を奪い、西陣に味方した。朝倉敏景はその甲斐某を殺した。その功で、足利義政は朝倉敏景に越前国を与えた。これをきっかけに、同じ斯波氏の家来織田氏が尾張国を奪った。足利義政は問題にしなかった。
この頃から天下の武人は、足利氏を馬鹿にして、ご機嫌伺いに出向く者もいなくなってしまった。
山名氏およびその党の諸将で諸国に散らばっていた者もだんだんと衰微して、滅びる者も出てきた。
しかし細川氏(京都)と上杉氏(鎌倉)が東西で威張ったいたことは今まで通りであった。