見延典子訳『日本外史』足利氏(下)

参考文献/頼成一『日本外史解義』(1931) 

               藤高一男『日本外史を読』』Ⅱ(2002)

2024・12・9 足利氏論賛③

 

晋の文公は諸侯の身分のままで周の天下をきりもりし、また霍氏は大将軍の地位のままで漢の天下を取り裁いた。このようなことは昔から前例がある。それも場合によっては仕方ない。

 しかし何も好んで名号を選び、実際に適応するようにしなくてもいい。それに公侯から下賤な者に至るまで、順序によって上の者は下の者を使役するようになっている。だから結局天子の民でない者はいないのである。それで文公が天下を治めても、霍氏が下を治めても、将軍が下を治めても順序を違えたとは思えない。

 新井白石のいうように、新たに爵号をつくってみても、結局は一日もその地位に安んじていることができなかったであろうと、頼山陽は確信する。

 頼山陽が思うに、足利氏は名実とも得ようとしたが、すでに自分の身を処置する大義を誤っていた。天子に仕え、下の民を制御していく上においても、計画を誤っていた。それには以下の理由がある。

 そもそも足利氏はその実を得ていて、天子に差し上げるのに容器を贈った。天子はただ空の容器をもっていらしたにすぎなかった。ならば、がんばって北朝を助け、南朝を倒さなくてもよかったのである。それを足利氏はどこまでも北朝を助け、南朝を倒そうとしたから天下は騒然として人民を治められなくなった。

 そして旧臣一族を分けたため、いわゆる三管領に多くの土地や人民を与え、また貴い官位を許し与え、さらに中枢の権力をも授けた、これはまるで虎に翼をつけたのと変わりない。応仁の乱が起こったのはここに原因があった。結局、将軍の足利氏までが、皇室と同じように空の容器を擁するようになった。とどのつまりが足利氏は位も役職も失った。なんと計画性のない話ではないか。(了)

 

新井白石
新井白石

2024・12・4 

足利氏論賛②

 

 頼山陽は次にように思う。

 新井白石の論は足利氏を助けた暴論である。天下には名と実がある。昔は皇室が天下を統治して年貢米や布帛を取り立て、功労のある者には位と祿を与えて報いた。この時代、権は朝廷にあったのである。


  ところでその後名を盗もうとして失敗した者がいた。平将門である。また成功した者もいる。源頼朝である。両方を得ようとして、両方とも失った者もいる足利氏である。

 平将門は関東八州を平定しないうちから帝王の真似をした。天の誅伐が下される暇もなく直ちに殺された。

 源頼朝は守護職を置くように願い出て、天下の兵権、糧食を分け取った。だが称号は総追捕使という位に過ぎなかった。ところが実権を得ているから称号などはどうでもいい、立派にするには及ばないというやり方だった。

 足利尊氏が建武中興の事業を奪い取ってからは、わずかな土地も一人の民も、みな彼の所有でないものはなかった。朝廷ではいたずらに名ばかりで、実のない虚位を持っていたにすぎなかったが、源頼朝のように兵権、糧食の一部を分け取ったのではなく、丸取りした。しかし名義分際のあるところは乗り越えられなかった。だから北朝の天子を守り立て、自分は将軍となって天下をきりもりした。その点は源氏の前例のようにやったのである。

 足利義満に至っては心驕って奢侈贅沢の極致で、すべての天子の真似をして、外国(明)と信書をやりとりして自らを「日本国王」と称した。旧臣や一門の族を分類して三管領、四職、七頭などつくって朝廷の五摂家、七清華に倣った。名実ともに併せ得ようと思ってやったのではないか。

 朝廷でも太上天皇の号を下賜された。これは古今前例のないことで、笑いを遠い後世までも残した。それについても足利義満が平生からもっていた下心が垣間見える。義満ははやく死んだので、志を果たし得なかったことは日本にとって幸福であったといわないわけにはいかない。

 ところが新井白石は、これを遺憾としているのは何ごとであろうか。昔、孔子は「告朔(こくさく)の餼羊(きよう)を愛しむ」といった。このように皇室はすでに実を奪われてしまった。しかし幸いにも名だけで残っていた。だが白石は名まで奪い取って名実ともすべて奪おうという論をしている。これは足利氏を助けた暴虐といってよい。

 

2024・12・2 足利氏論賛

 

 頼山陽がいう。源頼朝は天子の土地を盗んで皇室の臣下、大江氏、三善氏らを手もとに引き寄せた。足利氏は天子の土地を無理矢理奪い取って、皇室の臣下を自分の家来のようにこき使った。それ故足利氏の罪は源氏以上に悪いといえる。ただ、源氏は源頼家、源実朝のあと滅んだが、足利氏は十三代(十五代)続いた。

 思うに、源氏は一族の者以外絶やして、孤立無援になり、自ら倒れた。しかし足利氏は子弟や旧臣を諸侯に封建し、家系をつなぎ保つことができた。だからすぐには滅びなかった。

 足利氏が諸侯を任じた方法は非常に拙劣で、足利本家を重く、子弟や旧臣を軽くし、体制を乱さないようにすることをしなかったから、一時的に天下を平定できても、やがて謀反人がハリネズミのように群れ起こり、敵対してくるようになった。中世代の足利義政より後は天下は乱れて、謀反人が鳥や獣のようにすばしっこく逃げ回って、制御できなくなった。

 そもそも源氏の将士が凶暴で悪賢かったのは、足利氏の将士以下ではなかった。けれども源氏の将士は源氏のために駆け回って骨を折り、一人として源氏に弓を引いて謀反しなかったのはなぜなのだろうか。理由があるわけではない。彼ら将士の勢力が微弱なため、容易に押さえつけることができなかったからであり、また人を任免したり、置き換えたりする権力がいつも源氏の手中にあったからである。

 一方、足利氏は臣下に対して豊富な土地を与え、土地の人民を支配させた。そればかりかその勢力を子孫まで相続させ、固めさせてしまった。足利氏は彼らが反乱しないように備えを怠ってはならなかったにもかかわらず、考えもなく彼らに土地を割き与え、細川氏、赤松氏らのような一家の者に三、四箇所にも跨がる土地を領有させた。甚だしいのは山名氏のように天下の六分の一も領有させた。だから足利氏は彼らを制御できなくなったのである。

 足利基氏を鎌倉公方にしたことに至っては京都室町と並んでまるで二君のような形にした。そのため両家に子孫は猜疑心で倒し合いを計るようになった。結果、鎌倉は上杉に覆され、室米は細川氏に弱められた。どちらも「尾大にしてふるわず、末大にして必ず折るるものなり」という昔の諺の通りになった。

 足利氏がこのような結末を迎えたのは理由がある。足利氏は後醍醐天皇の中興の事業を奪い取ってしまおうと計った。そのため賞や分不相応な土地を無闇に与え、賞賜の利欲の心を満たすことばかり考え、のちのちのことまで深く考えなかった。だから一時は天下をとり、平定しても、将士は強くなって制御できなくなったのだ。彼らに落ち度を責問すると、眦をあげて怒り、事を荒立てたのは不思議ではないのだ。足利氏は彼らの欲求を満足させて自分の欲も成就させた。彼らはその下心を知って、恩賞を求めた。足利氏は見透かされていた。だから制御などできるはずもなかった。

 思うに足利氏は土地と人民を餌に天下の豪傑を釣ったが。この魚をひきあげることはできなかった。釣り糸が垂れて、魚も餌も一緒になくなってしまった。考えてみれば、哀れである。足利氏は急いで天下を取ろうと思い、一時的に計画は進めたが、禍を子孫に残すことになった。だから足利氏の一族郎党が代る代る殺し合い、十三代(十五代)のあいだ一日も平穏な日がなかったのは、中興の大事業を盗み取った報いではないか。後世の人はこのことから恐れ慎むことを知るべきである。

 

 新井白石が『読史余論』で次のように書いた。「武家の礼式や制度はおおよそ足利義満のときにできあがったが、遺憾に思うことがある。それは天子が行なうべきことを足利氏が代わりに行なって、それで将軍と称したことである。そのことからして筋道に合わない。臣下は土地を将軍からもらい、官爵は皇室からいただいた。これも筋道に合わない。義満は学問も、腕前もあったのだから、もし古今の礼式や制度を参考にして筋道に合う官爵を制定し、また自分は天子より一等下ることとして、朝廷の公卿は別として、天下万民は悉く自分の家来としておけば名と実が合ってよかったのではないか」

2024・11・29 

足利義昭、織田信長に頼る

 

 足利義昭は、朝倉義景という男ではとても大事を頼むに足らないとわかったので、近くの国の諸将を尋ね調べて「誰か自分の助けになる者が一人ほしい」と思った。それには織田信長に及ぶ者はいなかった。


  以前、美濃国の土岐氏は家臣の斎藤某に国を奪われた。信長は尾張国の兵を連れて今川氏に勝って、三河国・遠江国を併せ取り、ついに斎藤某を誅して美濃国をも併せ取り、その威名は四方に聞こえていたのである。

 永禄十一年(1568)六月、足利義昭は細川藤孝・上野清信の両人をひそかに信長のところへやり、意中を伝えて諭させた。信長は非常に喜んで足利義昭を迎えた。そこで義昭は越前国の一条谷城を出発した。朝倉義景は留まるように強く請うた。義昭は承知しなかった。

 七月、義昭は美濃国に至って岐阜城に入り、信長と京都へ上がることについて相談し、使いをやって六角義賢を諭させたが、承知しなかった。

 八月、義昭は信長とともに兵を率いて六角義賢を攻めて走らせ、ついに京都に入った。

 九月、摂津国・河内国を攻めた。そのときには将軍足利義栄は腫瘍を患って死んでしまっていた。義栄の官位は佐馬頭に進んでいた。このとき三好の三人衆は逃げたり、降参したりした。十河義継・松永久秀は競争して信長の機嫌をとった。信長は畿内の地を彼らに分け与えた。細川藤孝・和田惟政らも土地をもらった。

 十月、詔して足利義昭を征夷大将軍とした。義昭は信長の成功を褒めて、足利の二つ引き紋を下賜し、信長を父と呼んだ。これは尊氏が赤松則村を待遇した前例に倣ったのである。義昭は京都が戦乱で焼き尽くされたので、一時は細川氏綱の旧宅に居り、それから本国寺に移った。

 永禄十二年(1569)正月、三好家の三人衆は信長が京都にいない隙を狙い、一万人を集め、義昭のいる本国寺を囲んだ。野村越中らはよく防いだ。摂津国、河内国の諸将が京都に来て、義昭を助けた。伊丹親興は賊を撃ち破って、走らせた。そこで義昭は二条城に移った。

 元亀元年(1570)義昭は信長と連合して三好氏の残党を摂津国で撃ったが、うまくいかなかった。六角氏、朝倉氏、浅井氏は一時に起こって、信長を大津で攻めて追い詰めた。義昭は和解するように命じた。

 元亀二年、六月、遊佐長教が主君畠山昭高を弑した。昭高は畠山昭政の弟で、長教が立てた者である。信長は長教を討って誅した。十河義継、松永久秀も信長に弑せられた。信長は大いに恩義を施し、威光を示し、故意に義昭の短所を挙げて、上下の者に発表した。 

 義昭はこれに憤慨し、「信長を除きたい」と思った。そこで義昭は長尾(上杉)景虎や関東の諸将を引き込んで自分の助けとした。

 天正元年(1573)二月、義昭は石山、堅田に砦を築いて兵を起こして信長を討ったが、かえって信長に攻め破られた。そこで偽って和解を結んで戦争をやめた。

 七月、義昭は三淵某及び朝廷の臣下の二人に二条城を守らせ、自分は槙島に立て籠もった。信長が兵を率いて攻めてきた。細川藤孝は待ち受けて降参した。信長は二条城を攻め下した。三淵某はこのとき討死した。三淵某は細川藤孝の弟である。

 信長はついに義昭が立て籠もった槙島をも攻め破り、自軍の将羽柴秀吉に命じて、将軍足利義昭を河内国の若江に移らせた、こんなことで織田氏が足利氏に変わって天下を治めることになったのである。

その後義昭は和泉国・紀伊国・播磨国をさまよい歩いてたあと、毛利氏を頼り、鞆津にいった。信長は秀吉に毛利を攻めさせ、自らも大将になって後に続いた。

ところがその途中の京都で、家来の明智光秀によって弑せられたので、秀吉が代わった。

天正十三年(1585)秀吉は「征夷大将軍になりたい」と願った。前例では征夷大将軍は源氏の者でなければ任命されない。そのため秀吉は足利氏を名乗ろうと思い、義昭に「貴公が私を養子に相手くださるなら、あなたを大国の領主のし、安楽にお家を富ませ、位を高くし、子孫を繁栄させて一生を送らせてさしあげましょう」といった。義昭はこれをいやしんで謝絶し、承知せず、「私は運命が窮まったが、これでも八幡公(源義家)や等持院(尊氏)の子孫である。自らの安逸を計って先祖を汚すのは恥ずかしい」というので、無理に頼めなかった。

天正十六年(1588)義昭は髪を剃った。慶長二年(1597)八月、没した。官位は権大納言、従三位まで昇った。亡くなったとき三宮に準じられた。足利義氏も関東で没した。

 

足利氏の子孫

 足利義昭が没してから九年間は後継者がいなかった。羽柴秀吉が東方征伐をしたとき、関東で足利氏の子孫を捜し求め、足利基頼の甥の孫である足利国朝を得たので、足利義氏の跡目とし、下野国の喜連川に居らせて五千石を給した、喜連川公方といっていた、

 

 足利義栄の父足利義維は足利義植に養われ、義栄と義助を生んだ、義助は義種を生んだ。義種の威光は代々が阿波国の蜂須賀の賓客となって厄介になった。両家は細川、上杉の二家とともに今日まで存続している。この平島にいる者は代々又次郎といったのは尊氏の前例に拠ったものである。喜連川にいる者は代々佐兵衛督に任じられた。これは直義、基氏の前例に拠った。喜連川は足利氏の本国下野国にあるので、後に徳川氏が天下を平定してから、特に賓客として優遇した。

足利義昭
足利義昭

2024・11・26

足利義昭の流寓

 

 将軍足利義輝が没したのは三十歳で、官位は参議、従四位であった。義輝には二人の弟がいた。一人は覚慶といい、奈良の一条院の住職で、人知は周暠といって禅を鹿苑寺に習っていた。


  義輝が殺されたとき、賊が平田某を脅し、周暠をおびき出して「貴公を奉戴して将軍といたしましょう」といった。周暠は信じて出かけ、夷川を渡るとき平田某は後ろから斬り殺した。周暠の供の者は逃げたが、小四郎という十六才の者が刀を抜いて平田某と戦い、斬り殺した。

また賊は兵にもう一人の覚慶を見張らせ、供の者を退け、細川藤孝だけを許して、給仕をさせていた。藤孝は細川頼之の弟細川頼有の九代の孫で、父は細川元常といった。元常は大和守三淵宗薫の子を養子にした。これが藤孝である。あるいは「藤孝は義輝の忘れがたみで、三淵宗薫に養われた」ともいう。

細川藤孝は成長して材能が多かった。覚慶は藤孝と内々に相談して謀を用い、「病だ」と偽って医者を呼ばせた、藤孝は米田宗賢という医者を薦めた。宗賢は看病のため当直すること数日、覚慶の病気が治ったということにかこつけて夜、番兵に酒を与えた。番兵らは皆よい潰れてしまった。そこで宗賢は覚慶を助けて近江国に逃げた。険阻な所までくると、藤孝もやってきて、三人は甲賀山を通って矢島に至り、和田秀盛の家に宿泊した。

賊の番兵が気づいたときにはすでに遅く、四方へ手配りして追いかけた。よもや甲賀山の剣を越そうとは思わなかった。それゆえ捕まえられなかった。

上野清信、和田惟政ら十余人は「覚慶が屋島にいる」と聞いたので、みな行って、従った。覚慶は髪を伸ばし、名を足利義昭と改めた。

 翌年(永禄九年=1566)義昭は細川藤孝を六角義賢のところへやって万事を約束させた。ところが義賢は子の六角義弼と仲が悪かったので、領地内が騒がしかった。義賢は辞退して、足利義昭の命令をうけなかった。そのうち松永久秀らは「義昭は近江国にいる」と聞き、義弼をやって殺させようとした。義昭は察したので、細川藤孝ら十余人らと夜琵琶湖を渡り、若狭国に逃げ、武田義統を頼った。義昭の妹婿である。ところがあまりに国が小さいので不安になり、辞去してこんどは越前国に行き、朝倉義景を頼った。義景色は義昭を敦賀に連れて行った。ちょうど敦賀で一揆が起こった。危険だからと言うので、義昭を一条谷の本城に移した。

 

2024・11・19 

将軍足利義輝、弑せられる

 

七月、三好長慶は死んだ。当時三好政康、三好康長、及び岩成左通の三人を「三好家の三人衆」といっていた。松永久秀はこの三人衆と相談して長慶の死を隠匿し、将軍足利義輝を廃して足利義栄を立てようと計画した。以前から足利義栄は将軍になりたがり、たびたび長慶に打ち明けていた、しかし長慶は承知しなかったのだった。

 この年の冬、将軍足利義輝は新しく幕府とする二条の斯波氏の邸宅を修繕する費用がいるので、畿内に課税した。特に摂津国は家ごとに二分の課税をしたので、世間は騒ぎ立てた。そこで足利義栄は今が機会だと思い、将軍になりたい思いを三人衆に告げた。三人衆は久秀に相談して承知した。

 永禄八年(1565)四月、将軍

      足利義輝


 足利義輝は新しい邸宅に移ったが、門の塀ができていなかった。三人衆は「この時機を失ってはいけない」といった。

 五月、三人衆は松永久秀と子の久通らとともに千余人を引き連れて、めいめいが一本ずつ竹の枝を刺して目印として「清水寺に参詣する」といいふらし、京都に入った。また「幕府の警備をゆるめさせておいて迫ろう」という計画で、わざと訴訟の書面をたずさえて、幕府の近臣進士晴舎に頼んで将軍足利義輝に差し出した。

 義輝の母の慶寿が義輝に向かって「兵力を使っての脅しで訴えるやり方は、高師直や山名宗全がやった手法です。今はひとまずその願いを許して、事が起こらないようにしたらよいでしょう」といった。進士晴舎が取り次いで、二、三回行ったり来たりした。

 そのうちに賊ははやくも幕府に迫り、四方から鬨の声をあげながら攻め込んだ。幕府の者どもはみな大いに驚いた。幕府に泊まっていた一色秋成、上野輝清、高師直、彦部晴直、細川隆是、武田信景、杉原晴盛ら三十人は刃をそろえて突き進み、敵に肉薄して戦い、数十人を斬り殺した。近臣の進士が「賊に騙されて主君が私を疑うような羽目になったには誠に残念である」といい、自害した。

 このとき幕府の兵で京都にいた者が騒動を聞きつけて、三本木に集まってきた。ある者は「早く行って救おう」といい。ある者は「人数が違う。味方は少なく、的は大勢だから救いに行ってもだめだ」といった。

 治部藤通と弟の治部福阿弥の両人が沼田某とともに奮って「自分らは討死するよりしかない」といった。三人は槍を引っ張って幕府の門まできて大声で「我らは将軍足利義輝と共に死にたい。どうか中にいれてほしい」と叫んだが、賊は許さなかった。そこで三人は賊と同じように竹の枝をさして賊の中に混じり、門内に入りこんだ。

 足利義輝は大勢の者を集めて最期の酒宴を開いていた。義輝は三人を哀れんで、逃がしてやろうと思い「お前たちは外へ出て、まだ集まらない者を呼んできてくれ」といったが、三人は「他の者に命じてください」と断った。

 足利義輝は辞世の歌を愛する妾の袖に書き付けて「足利氏の運命もこれで終わりだ」といった。そして家に伝わった宝刀十余口を持ち出し、代わるかわる取り替えて戦った。刀の刃がこぼれたり、折れたりした。そこで倉を開けて珍しい宝物を庭にまき散らした。賊は争ってつかみ取ろうとした。義輝は三十余人の者とそこへつけ込んで踏みにじった。殺したり、傷つけたりした数は相当であった。そのうちに味方の兵は討死してしまった。義輝はそれでも奮戦した。

 賊は義輝に近づこうとしなかった。賊の池田某は扉の影から踊り出て、義輝の足を斬って倒した。賊が一気に集まり、障子を義輝の上に倒し、槍先を集めて蟻の巣にようについて殺した。義輝の愛する妾も殺し、夫人の近衛氏だけは逃がしてやった。母の慶寿はひどく嘆き、あられもなく泣きながら「将軍は死んでしまった。この上老いた私がどうして生きていられようか」と自らに火をつけて焼け死んだ。

 賊の池田某は義輝を殺したときに障子で目を怪我し、のちに盲人となって町を乞食して歩いた。京都の人は指をさして「将軍を弑した罰があたったのだ」といった。三好家の三人衆は十河義継を守って立て籠もり、将軍として足利義栄を迎え入れた。

 六月、足利義栄は阿波国を主発して摂津国に至り、十二月普門寺白に入り込んだ。将軍となり、従五位に叙せられ、佐馬頭に任じられた。三好家の三人衆は手柄を独占して、得意の顔色だった。それをみて十河義継は彼らを怨んだ、

 永禄十年(1567)三月、十河義継は逃げて松永義久秀のところへいった。久秀は多門城に立て籠もって畠山高政と連合して、三好の三人衆の一人三好康長を攻めていた。康長は奈良の東大寺に陣取っていた。十月、久秀は焼き討ちをやって康長を走らせた。

 

有吉佐和子
有吉佐和子

2024・11・2

有吉佐和子著『恍惚の人』の「恍惚」 出典は『日本外史』の「三好長慶」の老いの場面

 

 前回、後半で紹介の「時に長慶は老いて認知症になり、人の見分けもつかなくなり」の原文(読み下し)は「時に長慶老いて病み、恍惚として人を知らず」である。

 1972(昭和47)に発行され、ベストセラーになった有吉佐和子著『恍惚の人』の「恍惚」の出典は『日本外史』という話は聞いてい


たが、どの場面かまでは知らなかった。今回、三好長慶の老いた場面であったことがわかった。有吉佐和子は『日本外史』を読み込んでいたのだ。

 

2024・10・31

三好氏の専従

 

 天文二十二年(1553)五月、三好実休は君主の細川持隆を殺してその妻を奪った。実休は三好長慶の弟三好之虎である。

 将足利義輝は三好氏の勝手気ままさに閉口し、細川晴元を呼び出した。晴元は旧臣を呼び集めて京都に入り、三好氏の邸宅を焼き払った。

 将軍足利義輝
 将軍足利義輝

阿波国にいた三好長慶はこれを聞いて激しく怒った。八月、長慶は兵二万人を率いて京都に入り、堀川の邸にいた足利義輝を攻めようとした。義輝と管領細川晴元は近江国に出奔した。三好長慶は丹波国に軍勢を移して攻めて、多くの城を陥れた。播磨国も攻めた。

 弘治二年(1557)後奈良天皇が崩御し、皇太子が位についた。正親町天皇である。

 永禄元年(1558)五月、将軍足利義輝、管領細川晴元は坂本に陣取り、北白川に兵を繰り出し、三好長慶の兵と戦った。将軍方の将士で討死した者が百余人もあった。六角義賢が助けにきた。そこでまた和睦を結んだ。

 十一月、将軍足利義輝は京都に帰った。長慶は目通りし、細川晴元を芥川城(大阪高槻市)に幽閉した。だが晴元は年を越すと亡くなった。細川氏綱は淀城にいた。彼も五年後に亡くなった。

 当時、細川氏、上杉氏は滅亡が近づいていた。それに代わり三好氏、長尾氏が方を並べていた。

 永禄三年(1560)長尾(上杉)景虎は京都にきた。三好長慶が案内して将軍足利義輝に目通りさせた。義輝は景虎を長慶より上座に座らせた。景虎は義輝に「長慶はあなたを軽蔑している。私は彼を撃ち殺して、あなたの心配を取り除こう」と小声でいたが、義輝は危険を感じて許さなかった。

 永禄四年(1561)三月、三好長慶は将軍足利義輝を招いてこの義長の新屋敷で饗応した。松永久秀が係になって取り計らった。

 永禄五年(1562)三月、三好実体は久米田というところで畠山高政と戦って敗れて死んだ。高政は畠山政国の子である。

 以前、高政は長慶を助けて手柄を立てたことがあった。そのうち六角義賢と共同して三好氏を滅ぼそうと謀り、毎年戦争をしていた。このたびは三好実体を討ち取ったので、兵はますます奮い盛んにあった。義慶は子の義長、弟の冬康、叔父の康長、政康、家臣松永久秀らといっしょになって高政を攻めさせ、高屋城を乗っ取った。時に長慶は老いて認知症になり、人の見分けもつかなくなり、一切を久秀に任せていた。久秀は長慶の子の義長の才智名望を忌み、内心彼を除こうと思っていた。

永禄六年(1563)八月、久秀は義長を芥川城で毒殺し、代わって十河一存の子義継を長慶の跡目にした。

永禄七年五月、久秀はまた三好冬康を長慶に讒言した。長慶は冬康を飯盛城から呼び寄せて殺した。

 

三好長慶
三好長慶

2024・10・25 三好長慶、諸政を牛耳る

 

 当時、管領非細川晴元は京都にいた。玉井某は故の細川高国の養子細川氏綱を守り立て、遊佐長矩は故の畠山稙長の弟畠山政国を守り立て、いずれも摂津国、河内国に起こり、大坂の判官寺僧徒と兵を連ね合せて、北方の京都に対抗した。


 管領細川晴元は三好宗三らを遣わして、防がせたが、勝てなかったので、三好長慶を呼び出した。長慶は十九歳で、細川持隆の兵をあずかり、武勇の名が高かった。父海雲(三好元長)の一件から管領細川晴元を怨んでいたので、命令には従わなかった。弟の三好之虎が彼を諫めた。そこで海を渡って兵庫に至り、小清水城にはいった。三好宗三は以前、海雲を讒言して殺した。ここにおいてまた三好長慶を讒言した。長慶は怨んだ。

 天文十八年(1549)三好長慶は遊佐長教と連合和睦して、一蔵城の三好宗三を攻めた。三好宗三は管領細川晴元に援助を請うた。

 管領細川晴元は京都を出て榎南城に入った、六角定頼は晴元と婚姻関係にあったので、兵を出して晴元を助けた三好長慶は「私は足利義栄を将軍とし、細川氏綱を管領に据えることができれば、なにも心配ない」といった。義栄は足利義維の子である

 六月、三好長慶は弟の十河一存とともに榎南城を攻め落とした。三好宗三は逃げた江口で死んだ。管領細川晴元は坂本に逃げた。

天文十年(1550)三月、管領細川晴元は三好長慶が来襲しようとしていると聞いたので、如意ヶ嶽に城を築き、将軍足利義晴を迎えて奉戴しようとした。ところが将軍足利義晴は病気のため穴太の山中で没した。将軍足利義晴の官位は権大納言、右近衛大将、従三位まで昇った。管領細川晴元、六角定頼は、足利義輝を将軍として迎え、宝泉寺に移った。

十一月、三好長慶は京都に入って阿弥陀峰に陣取り、兵を分けて三井寺の駐屯し、大津に火を放った。将軍足利義輝は朽木に移り、管領細川晴元は志賀に陣取った。

天文二十年(1551)正月、管領細川晴元は三好長慶の兵を迎え撃ったが、大敗した。

天文二十一年(1552)六角定頼は子の六角義賢を三好長慶の所に行かせ、和睦を結ぼうとした。そして「将軍足利義輝は貴公に追われて数年間、京畿の外に遠く離れておられる。貴公はたびたび武勇を振るわれ、それはたいしたものだ。しかしいい加減のところで和睦をなさらないと、天下の者が貴公をとやかく言うようになる」といった。

これに対して三好長慶は「私は決して将軍を犯そうと思ったわけではない。ただ、右京大夫殿(管領細川晴元)が三好宗三を助けたのを怨んでやったまでだ。だが宗三は死んでしまった。右京大夫殿には髪を剃ってもらい、代わりに細川氏綱を管領に立て、右京大夫殿の子の細川信良に管領を譲ってくれれば、私は慎んで職を辞する」。早速和睦ができた、管領細川晴元は髪を剃って丹波国に走った。

二月、将軍足利義輝は細川信良を連れて京都に帰った、

三好長慶は相国寺に入り、将軍にお目通りした。細川氏綱を立てて管領とし、細川信良を腰水城においた。人質としたのだ。そこで三好氏が細川氏に代わって京畿地方の政治を行なうことになったのである。

三好長慶は家臣松永久秀を留めて幕府を譲らせ、二分は兵士を連れて南方の阿波国に帰った。松永久秀は西岡の商人で、悪賢い人物なので、三好長慶から親しまれ、信用されていた。

 

長尾氏、関東管領

これより前、関東では伊勢氏康が平井城の上杉憲政を攻めた。城は落ちた。関東八州の将士は上杉憲政の子の龍若を捕まえて氏康に降参した。山内の上杉氏は滅んでしまった。以前扇谷の上杉氏も伊勢氏に滅ぼされた。

平井城より逃れや上杉憲政は越後国に奔走して長尾景虎を頼り、自分の姓氏、官爵のすべてを景虎に譲った。景虎は長尾為景の子である。長尾氏はこれから「上杉」を名乗り、関東を管領することになった。

古河城にいた足利晴氏は伊勢氏康に和議を請い、妻の伊勢氏が生んだ子の足利義氏を立てて自分は隠居した。伊勢氏康は義氏を鎌倉においた。そして後に京都(将軍足利義輝)に請うて佐馬頭に任じられるようにした。

 

2024・10・22 

細川晴元、管領となる

 

天文二年(1533)本願寺の僧徒が細川晴元と仲違いとなった。本願寺の僧徒は界城を攻めとった。細川晴元は淡路国に逃げた。木沢長政は京都の法華宗の一揆を誘いこんで界城を攻め、取り戻した。

四月、細川晴元は阿波国の兵をつれて京都に帰り、木沢長政を助けた。本願寺の僧徒は大坂に城を築いて立て籠もった。細川晴元はこれを攻めたが、陥れることはできなかっ

細川晴元[1514~1563]管領となった後、家臣の三好長慶追われ、剃髪して隠居。以後管領家細川氏の権威は失墜。


た。和睦をして戦をやめさせ、京都に入り、将軍足利義晴を朽木(都西の山の中)から迎え、自分は管領となった。

将軍足利義晴が朽木にいたころ、関東の足利高基が古河城から使者を立てて「自分の子を元服させるので、昔からのしきたりのように将軍の名前の一字がほしい」と申し出てきた。そこで「晴」の一字を与えて足利晴氏と名づけた。

当時、関東管領上杉憲総はすでに死んで、子の上杉憲寛が管領となり、伊勢氏綱を相手に武蔵国の領有で争っていた。足利高基は子の足利晴氏のための伊勢氏の娘をもらい、その力を借りて、昔の仇である上杉氏に怨みを報いようと思った。

足利高基の弟の足利義明は陸奥国にいた。享禄年間、上総国の守護武田豊三が原氏と戦った。千葉氏が原氏を助けた。豊三は勝てなかった。そこで豊三は陸奥国の足利義明を迎えて君主とした。遠近の者が争って三方についた。とうとう原氏を攻め滅ぼした。

足利義明は御弓にいて、御弓御所と称していた。常に関東を平定して故の足利基氏の昔の事業を興そうと思っていた。足利高基は心中これを害として、伊勢氏に勧めて御弓御所を滅ぼそうとした。

天文十七年(1538)伊勢氏が大挙して足利義明を攻めた。義明は弟の足利基頼とともに兵を率い、迎え討った。義明は敵陣に突き進んだ。敵陣は恐れ、みななびいた。そこで義明は留まって、後から来る騎兵を待っていたが、流れ矢に当って死んだ。弟の基頼は下野国に逃げた。こうして伊勢氏がその土地を全部合せとった。

天分十四年(1545)上杉憲政は上杉朝定と連合して伊勢氏を攻めた。上杉憲政は上杉憲寛の子で、上杉朝定は上杉朝興の子である。それで憲政、朝定は使いを遣わし、足利晴氏に援助を請うた。足利晴氏は疑い惑い、ぐずぐずしていた。晴氏の家来が代わる代わる来て、出かけるように勧めた。そこで変えた両上杉氏と一緒に川越を取り囲み、その年を越した。ところが伊勢氏康が両上杉氏の軍を破った。足利晴氏は古河城に逃げ帰った。

天文十五年(1546)将軍足利義晴は子に元服させようと思った。当時、京都は乱れていて礼式など行なうことができない。そこで子を坂本に連れていき、日吉神社の神主の家で元服させ、名を足利義藤とつけた。後に足利義輝と改めさせ、将軍職を譲った。六角定頼が仮の管領となり、元服の式の烏帽子親になった。

 

2024・10・19 細川高国、三好元長と争う

 

永正十七年(1520)正月、細川澄元は大内義興が京都を去ったのを聞いたので、三好元長とともに兵を繰り出して摂津まできた。元長は長輝の孫である。管領細川高国は負けて近江に逃げた。

五月、管領細川高国は六角定頼と連合して京都まで攻め込んだ。三好元長は大敗して、捕虜になった。細川澄元は播磨に逃げ出して、阿波に帰って病死した。三好元長も阿波に逃げ帰った。これから細川高国は増長してわがままになった。足利義稙はこれを嫌い、畠山尚長の子稙長を管領にしようと思った。高国はそれを聞いて怒った。

大永元年(1521)三月、足利義稙は高国に無理をおしつけられて阿波を出奔した。その後二年たって義稙は死んだ。官位は権大納言従二位であった。細川高国は義晴を播磨から迎えた。詔して足利義稙の職をとりあげ、足利義晴に与えた。これは細川高国の願いによったのである。

この年、後柏原天皇は朝廷で初めて即位の儀式を行なわれた。本願寺の僧が儀式に必要な資金を差し上げた。そこで詔して僧を門跡の格に準ぜられた。

大永六年(1526)、後柏原天皇は崩御した。皇太子が即位した。後奈良天皇である。

管領細川高国は讒言を信じ、その家来の香西光茂を殺した。そのため京都はまた乱れた。足利義晴は坂下に逃げ、それから近江に朽木へ行き、佐々木植綱に頼った。三好元長は阿波にいて、この話を聞き、細川澄元の子の細川聡明五郎を守り立てて、兵を起して京都に攻め入った。

管領細川高国は助力を近江国、若狭国、越前国の諸将に頼んだ。越前国の朝倉孝景が来て、管領細川高国を助けた。

大永七年(1527)二月、三好本長が京都にやってきた。管領細川高国は桂川の東に陣取り、朝倉孝景は鳥羽に陣取った。三好元長は三隊に分け、管領細川高国と桂川を間にして陣取った。三好本長の前軍は川の上流から渡り、後軍は下流から渡った。管領細川高国の人は左右を見て動揺した。

そこで三好元長は本軍を円陣にして川の中流を渡り、直ちに管領細川高国の陣をついた。高国の陣は一つになって、三好元長の本陣を取り囲んだ。しかしそのうち三好元長の前軍後軍が皆渡ってきて、内外から挟み撃ちした。細川高国は大敗して、旗を捨てて逃げた。三好元長の軍はこれを追いかけた。隊伍がかなり乱れた。そこで朝倉孝景が横から撃ってでて、三好元長を破った。元永は阿波国に帰った。

三月、三好元長は大挙して界浦にやってきて、次々諸城を下した。ただ、伊丹城だけは下らなかった。管領細川高国は兵を遣わして伊丹を救い、自ら東寺に陣取った。

畠山義宣は畠山義豊の子である。兵を起して三好氏に味方し、丹波国の香西宇治と連合して、みんで管領畠山高国を攻めようと約束した。細川高国は支えきれないと思い、和睦を申し入れた。三好元長は偽って許可した。

享禄元年(1528)管領畠山高国を助けていた多くの者らは解散して国に帰った。そこで三好基国は高国を攻めようと思った。高国は大いに恐れて出奔し、北畠氏、六角氏、朝倉氏、尼子氏と順々に頼っていった。しかしみな受け入れてくれなかった。結局備前国に行き、浦上村宗を頼った。

浦上村宗は君主の赤松義村を殺していて、自分も朝倉氏と同様に諸侯の列に加わりたいと思っていた。だから高国と結びついたのである。

この頃、三好元長は細川聡明五郎に元服させ、名を細川晴元とつけた。界城にいて、三好元長が補佐していた。三好元長の叔父三好政長は、三好宗珊といった。彼が元長のわがままを憎み、細川晴元の寵臣木沢長政、柳本弾正等と結託して、三好元長を讒言した。木沢長政は畠山義宣の家来であった。柳本弾正は香正氏の一族である。

享禄二年(1529)柳本弾正が伊丹城を攻めた。三好元長は伊丹の城将と婚姻関係があった。だから城将を助けようと思った。柳本弾正は枚方に走った。細川晴元は弾正を呼び戻して兵を牽きいらせ、伊丹城を攻め落とさせた。三好本長はひどく怨んで、勝手に阿波国に帰った。

管領細川高国は三好元長がいないと聞いたので、兵を出して細川晴元を攻めた。晴元は悔やんだ。阿波国の元長を呼んで、自分の助けとした。

十一月、管領細川高国は浦上村宗と兵をあわせて、細川晴元を攻めた。赤松氏の遺臣のなかで浦上村宗に従わない者は赤松晴政を守り立てて、細川晴元によしみを通じた。

享禄四年(1531)春、三好元長は兵を繰り出し、細川晴元を助けた。六月、天皇寺の付近で大いに戦って浦上村宗を殺し、管領細川高国を走らせた。三好元長の兵が彼を探し出して殺した。播磨国の力持ちの島村という者がそのとき奮戦して、討死した。

天文元年(1531)正月、三好元長は柳本弾正の子を京都で殺し、伊丹城で受けた恨みを返した。細川晴元は非常に怒った。三好本長は髪を剃って謝り、海雲と称した。

しかし細川晴元は心中なかなかうちとけなかった。内密の三好宗三、木沢長政に海雲を殺す計画をさせた。

菱川晴元の一族細川隆が「海雲は大功を立てたのに、殺すのは不義です」と諫めた。だが晴元は聞きいれなかった。ついに三好宗三、木沢長政をやって本願寺の僧徒をひきこんで顕本寺の海雲をとり囲ませた。海雲は子の三好長慶を自分の妻に連れて阿波国に逃げさせ、自分は自害した。木沢長政はその君主の畠山義宣を殺した。

 

 

大内義興
大内義興

2024・10・18 

大内氏の上洛

 

 大内義興は細川氏の事変を聞いて、山陰道、山陽道、西海道のすべての兵を率い、足利義稙を守り立てて東に向かった。細川高国もまた兵を挙げて加勢した。将軍足利義澄は恐れ、高国に書面をやって和睦を結ぼうとしたが、聞きいれなかった。


 永正五年(1508)将軍足利義澄は近江国に逃げて六角定頼に頼った。細川澄元は三好長輝と一緒に阿波国に逃げた。

 四月、足利義稙と大内義興は界浦まで来た。これより前、畠山尚長は家来の木沢某らと畠山義豊を攻め殺し、たびたび故の細川政元と戦った大内氏が旗を挙げたので、兵を連れて足利義稙についたのである。

 足利義稙、大内義興は京都に入った。三好長輝な兵を摂津国に出し、近江国の六角氏の兵と連合して京都を挟み撃ちにした。しかし三好長輝は大敗して知恩院で自害した。

 六月、詔して足利義澄の将軍職を奪い、足利義稙に返した。将軍になった義稙は大内義興を管領にした。

 永正六年(1509)十月のある夜、賊が幕府に入り込み、将軍になった足利義稙を刺そうとした。義稙はみずから刀を抜いて四人を斬り殺し、自身も九箇所の創を負った。これは足利義澄の仕業ということで、兵を遣わして義澄を近江国に探したが、捕まらなかった。

 永正七年(1510)将軍足利義稙は自ら大将となって六角定頼を攻めたが、負けて帰ってきた。関東ではこの年の六月、山内の上杉顕定は長尾為景を討って上杉房義の仇を返そうと思い、信濃国の高梨で戦ったが負けて死んだ。

 上杉顕定は子がいなかった。それゆえ足利政氏の子の足利顕実を養い、また上杉憲実の子の憲総を養った。上杉顕定が死ぬときに多くの家来は足利顕実を追い払い、上杉憲総を立てて管領とした。

 八月、細川政賢は南海、東国の兵を連れて京都に入り、足利義稙を攻めた。細川政賢は持賢の孫である。義稙は大内義興に謀に従い、敵鋒を丹波に避け、政賢を京都におびき入れた。そのうちに兵を集めて南、京都へ帰り、政賢と船岡山で戦って大いに破った。そこで大内義興の功を申しあげて、従三位に叙した。これは異数の叙位だが、畠山政長、赤松政則の前例に従ったのである。

この月、足利義澄は近江の嶽山で没した。その官は参議、従三位まで至った。足利義澄には二人の子があって、長は足利義晴、末子は足利義維といった。義晴を赤松義村に頼み、義維を細川澄元に頼んで預けおいた。この義村の子は正則である。

 十年(1513)、足利義稙はまた六角氏を攻め、負けて帰ってきた。

十五年(1518)、大内義隆は西、周防に帰った。長い間京都にいて、入費が要ってやりきれぬから帰ったのだった。そこで細川高国が代わって管領となり、気ままに政をやっていた。

 

2024・10・16 三好氏の台頭

 

 永正四年(1507)管領の細川政元は賊によって殺された。家来の三好長輝が賊を誅した。これには以下のような経緯がある・

 細川政元は平素鬼神を信じて、女性を近づけなかった。そのため子がいなかった。政元は藤原(九条)政基の子、藤原澄之(以降細川澄之)を養い、また同族細川政春の子、細川高国を養っていたが、二人とも気にいらなかった。さらの同族細川頼之の子細川澄元も養った。

 以前から細川頼之の子孫は代々が管領となり、上館といっていた。二弟細川詮春(のりはる)、細川満之は代々讃岐国、阿波国を支配し、下館といっていた。それはあたかも関東における両上杉のようであった。

 細川政春というのは下館の細川詮春の後である。細川元勝も、同様である。

 下館の細川澄元はまだ幼かったので阿波国にいた。三好之慶の子の三好長輝が補佐をしていた。

 薬師寺与次、香西又六はともに管領細川政元の家令であった。彼らは相談し、「管領細川政元の言うことや行いはいつも変だ。このままではこの役を長く勤められない。下館の細川澄元が跡をとり、三好長輝が権を振るうようになると、我らは自然に下積みにならざるを得ない。それよりはやく大事を行なって、細川政元を殺し、細川澄之を守り立てたほうがいい」

そこで細川政元の近侍福井、戸倉などに金をやって政元の様子を窺わせた。この年六月、細川政元は物忌みで身体を清めようと、夜湯殿に入った。福井、戸倉は政元を殺した。政元の近侍波波伯部は粟国に逃げた。

そこで香西又六らは丹波国から細川澄之を迎えて立てた。将軍足利義澄はこれをとめることができなかった。

七月、三好長輝は兵を繰り出し、下館の細川澄元を守り立て、京都に攻め込んだ。香西又六は嵐や兄城を築いて立て籠もり、兵を出して百々橋を防いだ。波波伯部は三好長輝の先鋒になって福井、戸倉と出会い、戦って二人を斬った。星川澄之は香西又六、薬師寺与次とともに討死した。そこで三好長輝は将軍足利義澄に頼んで下館の細川澄元を管領につかせ、自ら政を行なった。

三好長輝はのちに髪を剃って、三好希雲と称した。希雲の先祖は小笠原長清といった。その子の小笠原長房は阿波国の守護となり、信濃国から移って三好郷にいた。細川氏が四国を領地としたときに、細川氏の部下になり、重臣となった。こんどの一件で初めて世間に名が現れた。

一方の細川氏はこのころから衰えていった。

 

第8代将軍 足利義稙
第8代将軍 足利義稙

2024・10・4

将軍足利義尚夭逝し、足利義稙(よしたね)が継ぐ

 

この年の九月、将軍足利義尚は自ら大将となって六角高頼を討った。六角高頼が将軍の命令に背いて京都に来なかったからであった。

十月、六角高頼が甲賀山に逃げた。足利義尚は鈎(まがりの)里に陣取った。


足利義尚は幼少のころから文学が好きで、藤原(一条)兼良と政治上の問答をしたことがあった。藤原兼良は、足利義尚のためにその問答の言葉を書き留めて、『樵談治要』という書物にした。また足利義尚は馬に乗って弓を射ることにも慣れていた。鈎(まがりの)里にいて年を越したが、陣中で『春秋左氏伝』の講義をした。

足利義尚は「自分はこの族(六角高頼)を滅ぼさなければ、二度と京都に帰らない」といった。

延徳元年(1485)三月、足利義尚は陣中で病気にかかり、二十五歳で没した。官位は内大臣、右近衛大将、従一位まで昇った。幕府の内外は皆彼の死を惜しんだ、義尚は死ぬ前に足利義煕と改めた。義煕には子がなかった。

足利義政は足利義視を美濃国から呼び寄せて、その子義材を養って将軍の跡目とした。義材は名を義尹と温め、後に足加義稙と改めた。

延徳二年(1490)正月、足利義政は没した。官位は左大臣、右近衛大将、従一位まで昇り、三宮に準ぜられた。

翌年(延徳3年 1491)足利義視も京都で亡くなり、足利政知は伊豆で死んだ。死んだ政知には茶々丸という子がいた。足利政知は後妻の生んだ足利義通を愛して、茶々丸を疎んじた。茶々丸は怨んで、父の政知を殺した。足利義通は逃げて今川氏親を頼った。氏親はその大将伊勢長氏を遣わして茶々丸を殺させた。

伊勢宇長氏はとうとう伊豆国を取り、更に進んで相模国を狙っていた。

 このとき扇谷の上杉定正は、折からの山内の上杉顕定に勝って鉢形城にいた。郡の威力がかなり振るっていたので、足利成氏を尊敬しなくなった。

 小田原城主大森実頼が書面で扇谷の上杉定正を次のように諫めた。「扇谷の上杉家は分家筋です。本家筋である山内の上杉家と今まで張り合うことができたのは、太田道灌のおかげです。どころが道灌を失い、兵力は衰退しています。にもかかわらず強敵山内の上杉顕定の勝てたのは幸運でした。なのに、君主の足利成氏を軽蔑して、その上将士の人望を失うようなことをやられたら、禍いは近いうちにやってくるでしょう」

 扇谷の上杉定正は改心できなかった。

 伊勢長氏は使いをやって、扇谷の上杉定正と内応して、今田氏とともに扇谷の上杉定正を助け、山内の上杉顕定を撃った。両上杉氏はここから徐々に衰えはじめた、

 足利義通が今川氏に走り頼ったとき、今川氏は義通を京都に護送した。

 細川勝元の子細川政元が当時の管領であった。細川政元は将軍足利義稙に頼み、哀歌が義通を天龍寺に寓居させた。将来僧侶にしようとしたのだ。

 足利義稙はすでに将軍職を継いでいたので、謹告の諸士がやってきて祝ったが、六角高頼だけは来なかった。義稙は「私は養父足利義尚の遺志を継いで六角高頼を攻め滅ぼそうと思う」といった。

明応元年(1492)九月、義稙は自ら大将となった高頼を撃ち、観音寺を攻め落とした。高頼は甲賀山に逃げ込んだ。義稙は凱旋した。

 当時は畠山政長が管領になっていた。政長は昔からの大将であったので、威力声望を鼻にかけ、諸将を軽蔑していた。それで諸将は不満を抱いていた。

 畠山義豊は畠山義就の子である、この義就が管領畠山政長の驕りぶりを訴えるため誉田城にこもって挙兵した。

 明応二年(1943)三月、畠山政長は足利義稙を守って、畠山義豊を討った。四月、義稙は正覚寺に陣取ってたびたび義豊のいる誉田城を攻めたが、下すことはできなかった。

 畠山義豊は、細川政元が畠山政長と権力を争い、にらみ合っていることを知り、ひそかに使いを細川政元の家老三好之長に遣わして、説得した。之長の子の三好之慶が細川政元に勧めて畠山義豊を助けさせ、連合して正覚寺を取り囲んだ。足利義稙は囲いから抜けて逃げた。畠山政長の子の尚長は、紀伊国に逃げた。政長は「おれはここで死んでもいい」といった。家来の丹下某と最期の酒宴を催して自害した。

 細川政元は京都に帰り、将軍の跡目を誰にするか相談した。前の関白藤原(九条)政基は故の足利政知と縁続きであった。それ故に細川政元に「足利義通は天龍寺にいて、まだ髪を剃っていない。将軍に立てるべきである」と説いた。細川政元ももっともだと思い、諸将を集めて「故の東山公足利義政殿は前から堀越氏(足利政知)の子を養子にすると約束しておられた。それを今の将軍(足利義稙)は畠山政長とくんで、自分から国家を乱した。これでは軍兵を統率できない」といった。諸将もあえて異議を唱えるものがいなかった。そこで足利義通を将軍とした。年令はやっと十五であった。名は足利義高と改めたが、後に足利義澄と改めた。

 四月に細川政元は「足利義稙は筒井に隠れていて、また畠山尚長は高屋に隠れている」と聞いたので、兵をやって攻めた。足利義稙を捕まえて家来の物部氏の家に押しこめて人の出入りを禁じ、一人の僧だけ側に侍らせた。

 六月、足利義稙は逃げ出て越中国に出奔し、周防国に行って大内政弘を頼った。政博はまもなく死んだ。その子大内義興が兵を起して「足利義稙を将軍に復位させよう」と計った。

 細川政元の養子の細川高国はあることで細川政元を怨んでいたので背き、大内氏に内通した。それで細川氏は二つの派に分かれて、京都はたいそう騒ぎ乱れた。両上杉氏もまた関東で戦っていて、戦争をしない年はほとんどなかった。

 明応六年(1497)足利成氏は死んで、その子の足利政氏が相続した。そのうちに上杉顕定と和睦した。このとき国内の武人どもは互いに奪い合いをして、まるで天子や将軍の存在を知らない有り様であった。

 明応九年(1500)九月、後土御門天皇が崩御した。棺は黒戸に置き去りにされ、四十余日たってやっと葬礼が行なわれた。十一月皇太子が即位された。後柏葉原天皇である。後柏原天皇の分亀元年(1501)将軍足利義澄と足利義稙は各々兵を集めた。将軍足利義澄は天皇に申しあげて、義稙の官職を削るようにお願いした。

 永正元年(1504)関東に足利政氏は、子の足利高基と仲違いし、兵を構えて戦った。これは以前、足利政氏に三人の子、足利高基、足利義明、足利基頼がいた。政氏は高基を廃しようと思った。それで高基は兵をあげて父政氏を攻めたのだった、

 山内の上杉顕定が間に入って和解させ、政氏を隠居させた。そして高基がたった。そこで弟の義明は陸奥の国に出奔し、末弟の基頼は下野国に逃げた。

 このとき伊勢氏の勢いが増した。両上杉氏は連合して伊勢氏を防いだ、

 永正三年(1506)上杉顕定の弟上杉房義は家来の長尾為景に殺された。

2024・10・1 

両上杉、関東で争う

 

 鎌倉では、山内の上杉憲忠が足利成氏と和睦をしたので、京都の足利義政も使者を立てて両人を諭し、なだめた。しかし足利成氏と上杉憲忠との間柄は、依然として疑い合って仲が悪かった。

 その後四年目に足利成年が結城成朝と相談し、力士を門の側に隠しておいて上杉憲忠を呼び寄せた。上杉憲忠はやってきて門を入った。すると力士が出てきて彼を撃ち殺した。上杉氏の一族は皆怒り、足利成氏に反した。

太田道灌
太田道灌

  翌年(康正元年 1455)長尾昌賢が京都の将軍に願い、上杉憲忠の弟、山内の上杉房顕を立てて管領とした。その房顕は、扇谷の上杉定正といっしょになって足利成氏を攻め、武蔵国・相模国の辺りで転戦した。山内の上杉房顕は砦を五十子に築いた。戦の終わらないこと、三年にも及んだ。

山内の上杉房顕、扇谷の上杉定正が「なにとぞ、一人の将軍家筋の方を君主に戴き、足利成氏を討ちとりたいと思います」と京都の足利義政に願った。

そこで義政は、香巌院の住職になっていた弟に髪を伸させ、名を足利政知とつけて関東に遣わした。しかし関東の将士を足利成氏の方に心を寄せる者が多く、政知に味方する者は少なかった。そんな次第で、政知は伊豆の堀越に留まっていた。

山内の上杉房顕は死んでしまい、その子の上杉顕定が相続した。上杉顕定は上杉定正とともに足利政知を守り立てて、たびたび足利成氏を攻めた。成氏は逃げて、古河城にたてこもった。この古河城は常磐国を後ろにし、下野国を右(北に当る)にし、下総国を左(南に当る)にしている。その上、千葉氏、小山氏、結城氏、宇都宮氏などの諸侯がこの古河城を補佐していた。

上杉顕定、上杉定正がこの古河城を攻めた。十一年経って古河城はやっと陥落し、足利成氏は千葉に走った。

その後七年目に、足利成氏は上杉氏を和睦したので、古河城を取り戻すことができた。また和を足利義政に請うた。足利義政もこれを許した。

上杉憲忠が足利成氏と以前に和睦してから再度和睦するのに、文明十年まで掛かった。

そこで山内の上杉顕定は上野国の平井に居て、関東八州を管領した。関東八州の者は山内の上杉顕定を尊んで、山内公と呼んだ。

扇谷の上杉定正は相模国の大場にいた。その家臣の太田持資は才能謀略があった。髪を剃り落として、太田道灌といった。道灌は築城に詳しかった。江戸城と川越城を築き、そこに居住した。父の太田道真と心を合せて、大いに恩恵威勢を施した。その功で、関東八州の将士はいつのまにか山内の上杉顕定に反いて、扇谷の上杉定正に味方した。

山内の上杉顕定はこの事実を不安に思い、たびたび上杉定正を撃ったが、思うようにならなかった。それで顕定はひそかに道灌を除いて、上杉定正の手足のようになっている者を取り除こうと計り、まわし者をやって「道灌は才智武芸があり、また将士の心得があり、上杉定正の家来となるべき男ではない」と盛んに言いはやらせた。

扇谷の上杉定正はだんだんと道灌を憎むようになってきた。文明十八年(1486)上杉定正は道灌を招いて、酒をご馳走した。酒席半ばに入浴をさせ、人をやって刺し殺させた。

道灌の子の太田資安は祖父の太田道真とともに山内の上杉顕定に降参した。山内の上杉顕定が「上杉定正はわが計略にかかった、かんたんにやっつけられる」とたいそう喜んだ。長享年元年(1487)兵を率いて平井を出発し、扇谷の上杉定正を撃った。

上杉定正は足利成氏のいる古河城に使いをやり、救いを請うた。足利成氏は、子の政氏に兵を牽き入らせて上杉定正を助け、上杉顕定を討った。

 

「『日本外史』を読む会」では現在同時進行で「足利氏下」を読んでいる。応仁の乱が終わっても、武士の対立、駆け引き、殺し合いが続く。日本人とはかくも好戦的な民族であったのかということを実感する。

 

2024・9・21

好戦的な民族?

 

「『日本外史』を読む会」お茶の時間
「『日本外史』を読む会」お茶の時間

足利義政が建てた銀閣寺
足利義政が建てた銀閣寺

2024・9・7 

東西両陣、兵を解く

 

東西両陣営とも、総大将に死なれてしまった後も睨みあっていた。

文明5年(1473)12月、足利義政は将軍職を子の足利義尚の譲った。9歳であった。


畠山政長が管領となったが、七日で辞職し、一族の畠山義統に代わった。東陣に降参してきた労を賞するためであった。

文明9年(1477)11月、西陣の諸将はそれぞれ兵を解き、各々の国に帰っていった。そのため足利義視は土岐市の美濃へ行き、世話になった。東陣も自然に解散した。

これまでに応仁元年から11年経過していた。その間、両陣の兵士が代る代る放火、略奪をしたので、公卿や武家の屋敷はほとんどなくなり、京都は荒れ野原になった。関白の藤原(一条)兼良以下の公卿衆は四方に逃げ隠れ、殺された者もいた。歴代の大事な多くの書物が焼けてなくなった。

しかし足利義政は相変わらず酒盛りや歌を詠み、平然としていた。使者を朝鮮に行かせて、明国発行の勘合符を求めて、外国との交通の安全を得て、国の珍しい宝を買い取った。

文明11年(1479)足利義政は隠居して東山にいき、祖父足利義満の金閣寺になぞらえて銀閣寺を建て、世の中の戦乱は意にもとめなかった。

諸国の強い家来などは往々にして戦乱に乗じ、主人の国を奪い取る者もいた。

後花園天皇を葬った年(文明3年)斯波氏の家来甲斐某はその主君を殺して越前国を奪い、西陣に味方した。朝倉敏景はその甲斐某を殺した。その功で、足利義政は朝倉敏景に越前国を与えた。これをきっかけに、同じ斯波氏の家来織田氏が尾張国を奪った。足利義政は問題にしなかった。

この頃から天下の武人は、足利氏を馬鹿にして、ご機嫌伺いに出向く者もいなくなってしまった。

山名氏およびその党の諸将で諸国に散らばっていた者もだんだんと衰微して、滅びる者も出てきた。

しかし細川氏(京都)と上杉氏(鎌倉)が東西で威張ったいたことは今まで通りであった。

ホームページ編集人  見延典子
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