見延典子訳『日本外史』後北条氏

参考文献/頼成一『日本外史解義』(1931) 

               藤高一男『日本外史を読』』Ⅲ(2002)

2025・4・3 川越城の戦い①

 

 天文十三年(1544)今川氏親は使者をやって上杉憲政と約束し、伊勢氏(北条氏)との境に兵を繰り出し撃って出て長窪城を囲んだ。

 北条氏康は自ら大将となって長窪城を助けようとした。ちょうどその時、

川越城
川越城

使者が川越城からやってきた。使者は北条氏康に「両上杉氏が和睦連合して兵を合せ、まさに川越を取り囲もうとしている」といった。北条氏康は川越にいってみたが、敵は一向に見えなかった。

 そこで諸将を集め「川越は両上杉氏にとって重要な所だ。きっとここが争い場所になる。一人の勇将を守らせよう。そうすれば敵を引きつけて勝つことができる」。皆、勇将に北条綱成を推挙した。

 北条綱成はもともと福島氏で、代々今川氏の大将となり、遠江国の土方城を守っていた。父の福島正成は武田氏に殺された。綱重はまだ幼少で、北条氏の相模国に逃げてきた。豊胸氏綱は彼を可愛がり、「北条氏」という姓と、自分の名の一字「綱」を与えたのである。

 北条綱成は常に軍陣の先鋒となり、黄色で「八幡」の二文字を書いて旗印としていた。戦うときはいつも敵陣に駆け込んで突き進み、「勝った、勝った」と大声で呼び立てた。彼の向かう所、勝たないことはなかった。湯治「黄八幡」の名は関東八州に響いていた。

 そこで北条氏康は北条綱成に三千騎を与えて川越城を守らせて、自分は引き返した。そして長窪城の囲いも解いた

 天文十四年(1545)両上杉が大挙して攻めてきて「こんどの戦争でこそきっと小田原(北条氏)をうち滅ぼしてやる」と言った。川越城に到着するや、城を取り囲み、必ず攻め落とすと心に決めた。しかし北条綱成が固く守ってなかなか落城しない。上杉氏は古賀城に使者をやって助けにきてほしいと足利晴氏に頼んだ、北条氏康も同じように足利晴氏に助けを請うた。足利晴氏は両方を和解させようと思い、どちつかずの返事をした。

 上杉氏の家臣の難波他某、小野某が足利晴氏のところに行き「貴公は北条氏を親しむべき者と思っていますか」と訊いた。晴氏は「そうだ」と答えた

 また二人は、「伊豆国、相模国は貴公が以前所有していた国ではありませんか」と言った。

 足利晴氏は「そうだ」と言った。

 すると二人は「故北条早雲、故北条氏綱は勝手に戦を起して伊豆国、相模国を掠め取り、ついに武蔵国、下総国の近傍にまで及び、今ではこのように貴公を困らせ、苦しませている。彼らの志は関東を全部取り、自分が公方になあなければやまないのです。彼らは今日、わが上杉氏を滅ぼせば、明日はきっと貴公の古河城に及ぶでしょう。今、北条氏が貴公を尊んでいるのは、貴公をとりこんで都合のよいようにしようとしているからです。実際、北条氏が貴公に近づいているのは最近の話です。それにひきかえわが上杉氏は以前から貴公に仕えています。旧知を去って、新地の者におつきになるのになぜ迷っているのでしょうか。今、川越城は落城しそうで、しません。気がかりなのは関東の将士が二心をもち、一つにならないことです。もし貴公が旗を推し進めてわが軍陣にご来臨くだされば、皆のものは味方をするべきか背くべきかを知って力を合わせて進みますから、きっと川越城を攻め落とすことはできるでしょう。城を落とせば勢いに乗じて片っ端から攻め進んで小田原城を落として法成寺を滅ぼし、貴公を鎌倉にお戻しし、皆が昔のように首を並べてお仕えしましょう。よくお考えの上、お計り下さい」

 足利晴氏は大いに喜んで諸侯に号令した。年を越して攻撃し、北条氏の兵糧を運搬する道を四方から断ち切った。

 北条氏康はこれを聞いて「私は必ず助けにいく。ただ、案じるのは川越の城兵が私の行くのを待たずに決戦し、討死することである。誰かわが計略を告げてくれる者はいないか」

 側らにいた北条綱重の弟の弁千代、十八才が進み出て「非常に大切な役目、是非とも私が参ります。もし敵に捕まったらひどい拷問を受けるでしょうが、死んでも決して話しません」

 北条氏康は「ならば行って、お前の兄(北条綱成)に『私のために城を守ってくれ。私が両上杉に勝つのは数ヶ月以内である。急ぎすぎて死んではならぬ』と伝えてほしい」

 弁千代は出かけ、偽りの上杉氏の紋をつけ、一騎で川越城に入っていった。

 当時、北条氏康の兵は四方の国堺あたりの諸城を守っていたので、小田原城にいた兵はわずか八千余人であった。そこで北条氏康はこの兵を引き連れて川越城を助けにいった。

 上杉憲政、上杉朝定は足利晴氏の兵を合せて八万騎もいた。氏康は敵を驕らせておいて、不意に襲おうと計った。そこで偽って和睦して休戦しようと請うた。憲政は承知しなかった。

 

2025・4・2 上杉憲政の暗愚②

 

長尾意玄は二人の言葉を上杉憲政に告げた。そこで憲政は上杉朝定と和睦し、国内に命令して奢侈の沙汰を禁じ、武備を整頓し、将士の子弟を取り立て、そこで本間、猪俣二人罪を許してもとの領地を返してやった。

 上杉憲政
 上杉憲政

 気に入りの家臣である菅野信方、上原兵庫の二人は、これを妬んで一族郎党と相談して、以下のように上書した。「北条早雲はもともと伊勢乞食だ。今川遺児の力を借りて伊勢国を盗み取った。この小国で、卑しい者の末裔

(北条氏康)を気にかけることはない。それなのにわが家老は見当違いをして恐れすぎている。本当に笑い事である。今、天下の大族といえば西に大内氏、東にわが山内上杉氏がいる。中でもわが山内公(上杉憲政)の号令は遠く陸奥国、出羽国の果てまでも届いて、麾下の大将で小田原城(北条氏)の三倍もの富を所有する者が六、七人はいる。それなのにビクビクして乞食の子孫を恐れ、忍びの者までも派遣して、様子を探らせられた。どうして近隣諸国から笑いを受けるようことをお考えになるのか。本間、井俣は命令に背いて罪を受けたのに、すぐに復位させられた。世間では上杉に人物がいないからだと言うだろう。聞くところ北条氏康は歌を詠むことが好きで、見目良い小姓を愛し、軍事には関心がない。大将で役立つのは鉄砲の撃てる根来法師だけだ。なので下々の者は常に恐れ、「管領(上杉氏政)が出陣すれば北条氏は木っ端みじんにやられるだろう」と言っている。だいたい関東の将士がわが君(上杉氏政)のご威徳に従っているのは昨日に始まったことではなく、以前からのです。どうして他の兵力を借りるようなことが要りましょうか。扇谷(上杉朝定)と和睦するのはずいぶん損が多いと思います。わが君には和睦をお許しなさいますな」

 上杉憲政はこの書面を見てたいそう喜び、「長尾意玄は私をだましたのだな」といって、遊戯娯楽することは今迄通りであった。

 上杉氏の将士で、北条氏に内通していた者は本間、井俣に内通をいいたてられたので非常に恐れ、賄賂を菅野信方、上原兵庫に渡し、罪を免れるように取りなしてもらった。

 菅野信方、上原兵庫は上杉憲政に説いて本間、井俣を排斥し、ほどなく二人を毒殺した。菅野信方、上原兵庫は諸家の賄賂を取り込み、「良い家柄の継嗣であっても年の若い者は領地を家老に分けてやればいい。そうすれば君の恩をいただき者が多くなる」と建議した。上杉憲政は聞き入った。

 また高野山の僧侶で、弓の巧みな者を引き入れて俸禄を与え「この者さえよければどうして北条氏の根来法師に劣ろうか」といった。しかし上杉憲政の毎年の収入は徐々に少なくなり、兵も弱くなった。彼は自ら大将となって北条氏康を討ち滅ぼそうと思い、出陣の用意をしながら、やめたことが再三に及んだ。関東の人はそれ以来、ぐずぐずして不決断のことを「管領のご出馬」といって笑い草にした。

 

「日本外史を読む会」(頼山陽史跡資料館月に2回)では掲載箇所を皆で音読し、語り合う。
「日本外史を読む会」(頼山陽史跡資料館月に2回)では掲載箇所を皆で音読し、語り合う。

2025・3・8 上杉憲政の暗愚①

  

 天文十年(1541)北条氏綱は没した、五十五歳であった。跡取りは北条氏康で、十六歳であった。

 当時、扇谷の上杉朝定は勢力を削られて縮小していたが、山内の上杉憲政は東北で盛んであった。上杉憲政は憲総の孫である。今川氏親の子、今川義元は甲斐国主の武田信虎とともに上杉憲政に通じていた。


 上杉憲政は心が驕り、怠慢で、気に入りの菅野信方、上原兵庫の二人に政治を専断させ、依怙贔屓が多かった。ひとり酒盛りをして遊ぶことに耽り、舞妓を数十人も抱えていた。国内までもその風潮が移り、武事を問題にする者はいなくなった。上杉憲政は平素から伊勢氏(北条氏)は微弱な者と侮り「あれは小さな家筋だ。何ができようか」といっていた。しかし家老の長尾意玄だけは「伊勢氏は注意すべき」と言っていた。

 以前、本間某、井俣某は足軽大将となって戦功があった。上杉憲政が先代の跡目を相続したとき、領地内に命令を出して鹿を射ることを禁じた。ところが可愛がっている家臣の菅野信方、上原兵庫がそれを破った。役人は二人を恐れ、申し立てなかった。ところが本間某、井俣某の二人は菅野信方、上原兵庫の領地近くに土地をもっていたので、一緒に鹿狩りをしたため、役人に告訴され土地を取り上げられ、蟄居することになった。家臣の長尾意玄は本間某、井俣某を呼び出し、計略を授けて派遣し、偽って北条氏康に仕えさせて様子を窺わせた。

 本間某、井俣某は田原城に行き、北条氏の重臣多目氏に頼んで「山内公(上杉憲政)は忠臣を粗略にして諂う者だけを近づけ、私たちも罪をかぶってこんなことになった。たとえ罪を許されてもあんな者には仕えたくない。何卒こちらに奉公させてください」と願い出た。

 多目氏は二人を疑ったが、しばらく受け入れ、兵士の組に入れておいた。それから一年余りのち、二人は逃げて平井城に帰り、北条氏の状況を書き連ねて長尾意玄に以下のように告げた。

「私どもが北条氏康を観察したところ、落ち着いて勇気があるが、心の底がわからない。剛柔の二面を兼ね備えて、時には書を読み、時には率先して剣術や槍術の稽古をし、礼節をわきまえている上に、厳かで重々しく構える。また手柄があって取り立てるにも身分の低い者でも粗略に扱わない。用を命じる場合も老人や子どもの関係なく器量に適した役目をいいつける。将士の子弟で、総領息子でなくても俸禄を与えて用をさせ、功があれば位を授ける。そんなふうだから部下は北条氏康を恐れつつも、彼を愛し、命を投げ出したいと願っている。わが上杉の将士らもみなひそかに北条に内通している。内通していないのは九人だけである。北条早雲が『両上杉が滅亡するのは北条氏の3代目のとき、上杉両家の仲が悪いのはこちらには都合がいい』といっていた。

 

2025・3・7 

北条氏綱の勢力、関東に及ぶ

 

 北条氏綱は父の遺訓を守って戦争の兵器を整えた。そのうち相模国を平定して進み、扇谷の上杉朝興との間の武蔵国の取り合いをした。

 大永四年(1524)北条氏綱はついに江戸城を攻め落とした。上杉朝興

河越城
河越城

は川越城に立てこもった。北条氏綱はたびたび川越城にいる上杉朝興を攻めたが、落とせなかった。

 北条氏綱は使者を平井城(山内上杉憲総の本拠)に派遣して上杉朝興のいる川越城を挟み撃ちする約束をした。上杉憲総は軍勢を留めて、どちらも助けなかった。しかし上杉朝興は北条氏綱にたびたび攻め破られた。

 北条氏綱は足利高基と婚姻した。足利高基とは足利成氏の孫である。足利高基も伊勢氏(北条氏)の兵力を借りて上杉氏に報復しようと思い、子の足利晴氏に北条氏綱の娘を娶らせた。

 そこで氏綱は、上杉氏の代々が鎌倉の足利氏に対して臣下としての道を踏ませなかった罪を暴露して、関東の将士を諭した。

 天文六年(1537)四月、上杉朝興は死んだ、その子の上杉朝定に遺言して相模国をとらせようとした。父上杉朝興が死んで三カ月のしかならないうちに、子の上杉顕定は深大寺城を修復して、北条氏綱に戦いを仕掛けた。氏綱は兵を率いて、みずから河越城に攻め寄せ、川越城から五十余町のところに陣取った。

 上杉朝定は兵を深大寺城から引き戻し、自ら川越城を救った。ちょうど七月十五日の夜であった。月光が野に照っていた。両軍は互いに矢を射かけあった。とうとう北条綱氏側は上杉朝定を大いに破って川越城をとった。

 上杉朝定は松山に逃げた。松山城主難波田某は彼を迎えて城に入れ、賊軍をとりまとめ、城外に出て陣取った。北条氏綱はまた撃って大いに破った。

 この戦争で相模国の人平岩重五は上杉朝定の叔父の上杉朝成を生け捕りにした。北条氏綱の将の山岡某がやってきて上杉朝成を奪って北条氏綱のところへ送り届けた。重吉が後からやってきて、自分が捕虜にしたと功を争ったが、その功はどちらとも決まらなかった。

 そこで氏綱は二人(平岩重吉、山岡某)の鎧と馬の形や色をこっそり記憶して、生け捕りの上杉朝成を山角某に預け、川越城に押しこめておいた。山角は上杉朝成を丁寧に待遇した。時々酒をだして互いに親しく話し合った。

 ある時、上杉朝成は鎌倉時代の古事を話し合った。山角は「年寄りから聞いた話ですが、源頼朝が奥州を征伐したとき、由利八郎という者が宇佐美実政に生け捕りにされた、それを天野則景は自分が生け捕ったのだと言ったので争いになった。頼朝は梶原景時、畑山重忠に交代で、このことを由利八郎に聞きたださせた。由利八郎は梶原景時に返事をしないで、畠山重忠には答えたそうだ。畠山重忠には礼儀作法があったからである。勇士という者には無礼な仕打ちであたるべきではないとはこのようなものである』

 上杉朝成はこれを聞いて嘆いた。

 山角が「図らずもお気に障るような話をしてしまった。何卒お許しください」

 上杉朝成が「私も由利八郎のような者です。この間の戦争で、私は部下の士卒を失い、自分一騎で戦った。すると黒い鎧を着て赤い馬に乗った者が後ろから追いかけてきて、私に呼びかけた。だから私は手綱を引き返して戦い、二人とも落馬した。私は敵を組み伏せ、刀を抜こうとした。敵は力を奮って起き上がり、私の上になった。そのうち数人の者がやってきて、私は捕虜にされた」

 山角はこれを北条氏綱に告げた。氏綱は「黒い鎧で、赤い馬とは平岩重吉のことだ」といった。そこで重吉に褒美をやった。氏綱の賞罰が明確であったことはいつもこういう具合であった。

 北条氏綱に威勢名声はますます遠くまで及んだ。武蔵国、下総国の諸城が次々降参してきた。ただ、足利高基の弟足利義明は下総国の御弓に居て北条氏綱と勢力を争っていた。

 足利義明は以前から兄と仲が悪かった。それで逃げて里見義煕を頼り、近くの土地を掠め取り、兵力がだんだん盛んになってきた。足利高基はこれを妨害して北条氏綱に頼んで彼を滅ぼそうと計画した。

 これ以前、足利義明、里見義弘は兵艦数百艘を率いて鎌倉に押し寄せ、鶴岡八幡宮を打ち壊して宝物を略奪した。北条氏綱は「私は神に代わって罰を行なうのだ」といった。そこで兵を率いて、撃って退けた。

天文七年(1538)再び兵を繰り出して足利義明にいる御弓を攻めた。里見義弘が安房国、上総国の兵を連れて足利義明を救いにきた。

 十月、北条氏綱は足利義明、里見義弘と鴻台で戦って大いに破り、義弘を走らせ、足利義明を生け捕りにした。そのとき斬った首の数は二千余級からあった。

 天文九年(1540)北条氏綱は鶴ガ丘八幡宮を再建した。関東の士民は北条氏綱の様子を見て、彼につく者が日増しに増えた。畿内、西国の商売人もしばしその地方の騒乱を避けて逃げてきて集まり、小田原は賑わい、豊かになり、上方のようであった。

 関東地方に山伏で毎年大和国の大峰に参内する者が界浦を通った際にその市で鉄砲を見つけ、めずらしいと思って持ちかえり、氏綱に献上した。関東地方で鉄砲を使用するようになったのは北条氏が最初である、その後、鉄砲鍛冶や紀州の根来寺の坊主で鉄砲を扱うことのうまい者を呼び寄せたので、北条氏の兵の威力はますます増した。

 

北条氏綱
北条氏綱

2025・3・5 

北条早雲、病死

 

 永正十六年(1519)北条早雲は病気にかかり、韮山で亡くなった。八十八歳であった。その子の北条氏綱が跡を継いだ。氏綱は容貌が目立って優れ、兵を用いることが得意であった。早雲が事業を成功できたのは氏綱の働きが大きかったという。

  早雲は氏綱に遺言して次のようにいった。「私は上杉を滅ぼし、関東八州を併呑しようと考えていたが、成し遂げないうちに死のうとしている。私の子孫たる者は私の意思を継いで怠ることがあってはならない。今、わが領地はそう多くない。私が蓄えて財産をばら


まいて養成すれば二代はもちこたえるだろう。三代からあとは財産を積み、それに頼ることはない。もし両上杉氏が互いに不仲になれば、子孫はジッとしているだけで大きくなるだろう。上杉の様子を見るのに、日々衰えて、滅亡するのはそう遠くない。しかし上杉は大きな一族だから容易に潰せない。長い時間をかけて疲弊するのを待てばいい。悪性のできものに例えるなら、毒が回って膿ができるまで三十年後かかる。そうなれば潰裂しても救うことはできない」

 さらに家訓二十一カ条を定めて将士に頒布した。

 

北条早雲
北条早雲

2025・2・20 北条早雲 伊豆国、相模国を治める

 

 伊勢長持は伊豆国の国主となり、韮山城にいた。長持の母方の横山氏は北条氏の遠縁であった。このとき韮山にも北条氏がいたが、絶えていた。そこで長持を養子にし、北条の娘を嫁がせた。また長持は、長男の伊勢氏綱に韮山の北条氏の孫娘を嫁がせた。北条氏も伊勢氏と同じく平氏から出て、縁故があるというので、ついに北条氏を名乗り、三鱗の紋所を用いた。持氏は髪を剃り北条早雲と号した。


  北条早雲は北条氏の元の事業を回復して、平素からの大志を成し遂げようと思い、いつも三島明神に参詣していた。すると「大きな杉が二本あって一匹に鼠がその根を噛んで倒し、鼠は虎に変化したという夢をみた。

 目が覚めて、易者を呼んで占ってもらった。易者は「貴公は子年の生まれで、子は鼠の神です。その鼠が杉を倒したのだから、貴公が両上杉氏に勝つ前兆です」。早雲は秘かに喜んだ。

 当時、扇谷の上杉定正、山内の上杉顕定は高いに怨みあって不仲で、戦争は絶え間なかった。早雲は「この機会にわが事業を成し遂げよう」といった。

 明応二年(1493)早雲は使いを扇谷の上杉定正にやって「上杉顕定を攻めたい」と申し出た。上杉定正は許可した。

 上杉定正の部下の将大森実頼は小田原城主であった。上杉定正に「早雲は悪賢く、強い英雄です。それで今、理由もなくこちらに近づいてきました。心の内は計り知れないので、野心があるのでしょうが、彼は好意をもって近づいてきているのですから、むやみに断るわけにはいきません。礼儀正しく返答をされたらよろしいでしょう。しかし彼には充分用心してください」といったが、上杉定正はさほど気にかけなかった。

 明応三年(1494)十月早雲は上杉定正と兵を高見原に出して、上杉顕定と荒川を間にして対峙した。定正は荒川を渡ったが、馬から落ちて死んでしまった。子の上杉朝良は逃げ帰り、川越にたてこもった。早雲も韮山に帰っていった。

 当時、小田原城主の大森実頼は亡くなり、子の大森藤頼が城主を相続していたが、まだ幼かった。北条早雲は小田原城を乗っ取ろうと思った。だが韮山から東の小田原に向かうのは箱根の険阻があるので着手しなかった。

 明応四年(1499)九月早雲は人をつかって大森藤頼に「韮山で狩りをしていたら獣が山伝いに箱根に逃げ込みました。しばし箱根を貸して下さい。その獣を追い詰めてとりたいのです」といった。

藤頼は許した。早雲は兵百人余りをひきつれ、狩り装束を身につけて箱根を越え、まず牛を数十頭放った後、兵に太鼓や法螺を鳴らせて高い所から一斉に駆け下り、いきなり小田原城に打ちこんだ。藤頼は驚きどうしていいかわからなくなり、三浦に出奔した。早雲は小田原城をとり、さらに大庭もとった。

永正元年(1504)九月、上杉顕定が上杉朝良を攻めた。朝良は早雲に援助を求めた。早雲は今川氏親とともに助け、顯定と立河原で戦った。

永正二年、上杉朝良は使いを遣い顯定にやり、「聞くところ、二頭の虎が戦い合っていると、一匹の犬が隙に乗じて勢力を得たそうです。我々上杉一族は兵を備えて戦うこと数世代に及び、国内は費用がかかり衰えました。かたや早雲は着々と関東を食い取っています。貴公と私は二頭の虎ではないでしょうか」

上杉顕定もそうだと思い、上杉朝良と和睦した。そのうち顕定は長尾氏と信濃国で戦って亡くなった。子の上杉憲総が相続した。このように上杉定正、顕定は前後して亡くなった。

一方、北条早雲の勢いはますます盛んになってきた。相模国の人、松田頼重らも降参した。ただ、三浦義同だけは服従しなかった。義同は上杉高救の子である。後に三浦時高の養子になった人物である。ところが時高は実子をもち、養子の義同を殺そうと思った。義同は出奔して大森氏を頼り、その兵を借りて養父高時を弑し、新井城に立て籠もって近傍の土地を掠めとった。

北条早雲は彼を滅ぼそうと、表面上は弱いように見せかけ、戦わなかった。三浦義同は子の三浦義意を立てて、自分は岡崎城にいた。

永正九年(1512)北条星雲は急に兵を繰り出して、三浦義同のいる岡崎城を襲撃し、攻め落とした。義同は相模国住吉に移り、毎年北条早雲と戦った。結局早雲は鎌倉で義銅を大いに討ち破り、秋屋という狭隘なところまで追い詰めていった。義同は険阻な処に立て籠もり、踏みとどまって戦った。そこで早雲は兵を連れて佐原山を越えて敵の背後へ出た。義同は逃げて新井城に入り込んだ。早雲は後ろからつけていき、攻めた。新井城は要害堅固で、兵糧も充分あり、長い時間をかけても陥落しなかった。そこで数年かけて長い囲いを築き、取り囲んだ。

このとき上杉朝良はすでに死んで、子の上杉朝興がちょうど江戸にいた。新井城が危険だと聞き、朝興は兵を率いて助けにいった。数雲の兵は七千であったが、二千人を留めて新井城攻撃にあたらせ、自分は五千人を率いて朝興を甘縄で迎え撃ち、破った。

それで新井城内はいっそう苦しんだ。大森、佐保田らが義同に「上総国へ逃げて丸谷氏を頼ったらよいでしょう」といった。丸谷維持は三浦義意の妻の父である。義同は「足利持氏が死んだのはわが養父の三浦時高のせいである。そして私もまた養父を殺した罪がある。二代も悪を積んだ報いだから、どこへ行ったとしても逃げられない」

北条早雲は間者からこのことを知り、永正十五年(1518)七月大勢の者を鼓舞して激しく攻め立てた。とうという新井城は落ちた。ついに三浦義同父子を弑し、相模国すべてを攻めとった。

 

2025・2・5 関東の騒乱

 

 以前、足利義政の父足利義教が将軍であった時、一族の足利持氏が代々関東の管領となって治めていた。永享年間に持氏は権臣の上杉氏に滅ぼされてしまった。それは足利義教の考えであった。

 上杉氏は二宗族があった、山内の上杉と扇谷の上杉といった。両家は京都に願い出て、足利政知を奉じて関東の主とした。しかし関東の将士は足利持氏を慕って、足利政知の命令を受けようとはしなかった。そこで足利持氏の孤児足利成氏を立てた。成氏はすでに成長して両上杉を討ったが、勝てなかった。そこで古賀を保ち、古河公方と称した。山内の上杉一族は上野国の平井に立て籠もり、扇谷の上杉一族は相模国の大庭に立て籠もった。みな表面的には足利政知を尊んで奉戴して主君とし、伊豆国に居らせた。伊豆国は山内上杉氏の管轄していた国である。足利政知には田を与えて堀越に居らせた。それで政知は堀越公方と称した

 長享二年(1487)伊勢長氏は興国寺城に移り住み、秘かに伊豆国を窺っていたが、まだ隙を生み出せなかった。そこで政治法令を立派にし、租税を軽くし、また自分の蓄えていた金銭や穀物を遠近の人民に貸し与え、利息も安くてやった。遠近の者はありがたく思い、伊勢長氏に頼ってきた。士民は毎月1日、十五日には拝謁に来るまでになった。たびたび拝謁にきた者には夫妻を帳消しにしてやることもあった。だから士民はだんだん城下で居を構えるようになったので、村里を形作っていった。

 伊勢長氏は荒木兵庫・多目権平らをそれらの頭分として七隊を編成し、足利政知に服従して仕えさせた。

 足利政知には二人の子があった。その長子は茶々丸と称し、前妻の生んだ子であった。茶々丸は継母のために讒言せられ、数年間も牢に押しこめられた。茶々丸は憤り怨み、番人が油断しているのを見計らい、牢から抜けて継母を殺し、その一味の者を集めて父の政知も弑し、大臣外山、秋山らも殺して自らが立った。

 伊勢長氏はそれを聞き、わざと病気だと言い立てて、伊豆国の温泉に入湯して茶々丸の動静を探りながら「この際伊豆国は取ってしまうことができる」と言って、帰ってから部下を集めて評議した。

 部下は「われわれは長い間新九郎君(伊勢長氏)を一国の君主としたいと願っていた。どうして手をつくさないでしょうか」

 延徳3年(1491)4月、伊勢長氏はすでに編成していた七隊を統率し、今川氏の援隊も一緒にしたので、およそ五百人になり、夜、皆で黄瀬川を渡り、朝早く堀越の邸に至り、火をつけて茶々丸を攻め立てた。茶々丸は逃げて成就院で自害した。

 伊豆国の人民は伊勢長氏の軍の威力を恐れて、荷物を背負って逃げ隠れした。伊勢長氏は兵卒へ号令を厳しくしていたので、少しも人民に迷惑はかけなかった。道路に札を立てて「自分が攻めてきたには賊子(父を弑した子)の茶々丸を殺したいだけのためである。乱暴したり、略奪したりするものではない。人民どもは各々自分の家の垣根の中で安心して命令を待っていよ。命令を待たずに脱げ出す者は、その者の作物を踏み荒らし、焼いてしまうぞ」

 当時、悪病が大流行していたので、罹患していた者は逃げ出すことができず、家で寝ていた。伊勢長氏は彼らに薬を与え、慰め、いたわった。人民はかわるがわるやってきて味方につく者が多かった。豪族の佐藤某は率先率先して伊勢長氏に味方した。伊勢長氏は彼に大見郷の地頭職を与え、彼の先代が所有していた土地を返してやり、証書に朱印を押してやった。

 関戸某なる者が深根城に立て籠もって伊勢長氏に抵抗した。伊勢長氏は兵を向かわせて責め殺した。このようにして伊勢長氏の恩恵威光は伊豆国全体に行なわれた。これを聞いた伊豆国内の将士で、もともと上杉氏についていた者も伊勢長氏に付き従った。

 伊勢長氏はたった三十日間で伊豆国を攻め取り、堀越公方のものであった領地だけを自分のものにして、その他の土地は取らなかった。

 そこで年寄りや豪族を呼び集め、「聞くところ、『君主は民を視ることあたかも子のごとく、民は君主を視ることあたかも父のごとくである』というのが昔からの道である。世の中が衰えるに従って、武士は強欲で残酷になり、人民から者を奪って思うがままにした。そのうち双方が苦しんで行き詰まることになった。ほんとうに気の毒と思う。私は他国者だが、この国を治めることになった。これからはお前らの君主となろう。お前らは私の民となってくれ。人として生まれて、君臣の関係になることは縁あればこそで、決して偶然ではない。私はただ、お前ら人民が充分に富むことを願うのみだ。今から法令を発して、租税の五分の一を減らし、他の租税はやめる。万一大将役人が法令に背いて人民をいじめる者がいたなら、お前らは訴え出てくれ」

 大勢の者は喜び、心服して、争うように伊勢長持のために働こうとした。

 

 

 伊勢長氏(北条早雲) 1432?~1519
 伊勢長氏(北条早雲) 1432?~1519

2025・2・4 伊勢氏の台頭

 

 後北条氏はもと伊勢氏と称していた。伊勢氏は平維衡から出ている。維衡は正度を生み、正度は平季衡、正衡を生んだ。正衡は太政大臣の平清盛の曽祖である。平季衡は上総介に任じられ、子孫は代々伊勢国に居た。平季衡より十一世の孫伊勢貞行は伊勢守に叙せられ、足利義満に仕えて取り次ぎ役となり、会計係を掌った。その子は伊勢貞国、孫は家貞親で相次ぎ取り次ぎ役に任じられ、大いに権威があった。


   伊勢貞親の弟、伊勢貞藤は備中守に任じられ、尾張国の人横井某の娘を娶り、赴任先の備中国で男子を産んだ。この男子は伊勢新九郎といった。後に伊勢長氏と称し、足利義視の近習となった。応仁中、足利義視に従って伊勢国に逃げた。足利義視は京都に帰ることになったが、伊勢長氏だけはその土地に留まって従わなかった。

 当時、足利氏の中で権力をもった家臣の山名氏と細川氏は、各々が個別の党波を組んで京都で戦っていた(応仁の乱)。将軍足利義政はこれを制圧できなかった。伊勢長氏は聡い性質で、また頭脳明晰で大志があり、ひそかに金銭をばらまいて豪傑らと結託していた。

 ある日、伊勢長氏が大勢の者に向かって「天下の行き止まるところは、わかりきっている。功名をなして富貴をとるのは、今の時をおいて他にない。思うに関東八州は地形も高く、武士も馬もすぐれていて強い。昔から武を尊ぶ土地だといわれている。永享以来、その土地にこれといって定まった主君もいなかった。もしもここに土地を取って立てこもることができたなら、天下を取ることはやさしいことだ。私は諸君とともに東に向かい、機会を利用して応変の処置をとり、一家を起すことを計ろうと思う。諸君はこれに同意する気はないか」といった。大勢の者は奮ってこれに従った。

 後土御門天皇の文明八年(1476)、伊勢長氏は荒木兵庫、大目権平、山中才四郎、荒木又四郎、大導寺太郎、有竹兵衛の六人と、剣を頼りに東に向かった。ついに駿河国に至り、そこの今川義忠を頼った。今川義忠は伊勢長氏の姉婿である。折から今川義忠が死んでしまい、その子の今川義親はまだ幼かった。その将士らは互いに争い戦っていた。伊勢長氏の姉は子の今川氏親を抱いて山の中へ逃げ込んだ。

 上杉政憲、上杉定正は足利政知(堀越公方)の命令のもとに兵を繰り出して、駿河国を平定しようとやってきた。伊勢長氏が迎えて彼らに「国内の将士は誰も背いておりません。ただ、主君が幼少なことから国民が互いに疑い合っていたので、わざと徒党を立てたに過ぎません。今、ご両公にはかたじけなくもここにご出張くださり、今川氏を平定しようとしておられます。私は不束な男ではありますが、ご両公のお考えを触れまわって将士らを取り鎮めるように致しましょう。もし言うことを聴かない者がいましたら、両公には何とぞその者を討ってください」といった。上杉政憲が「承知しました」と答えた。

 そこで伊勢長氏は今川氏の将士らを呼び寄せて他心のないことを誓わせて、山に入って今川氏親の母子を迎え連れて屋敷に帰ってきた。そこで足利政和の兵士もそこを引き揚げ去った。今川氏の将士らはみな伊勢長氏に功があったとして、八幡山城に居らせた。この足利政知は将軍足利義政の弟である。

 

2024・12・28 後北条氏②

 

足利氏の末世ころになると七道の群雄が代る代わる飲み合い、噛み合いをやりだし、元亀、天正のころまでくると天下は裂けて八、九氏が割拠した。なかでも四つの氏があった。北条氏、武田氏、上杉氏、毛利氏である。

 毛利氏は安芸国から起こって山陽道、山陰道の十二カ国を合せとり、領土は四氏に中でも一番広かった、次に広いのが北条氏である。北条氏はまず伊予国を取り、そこを足がかりに関東八州を合せとった。武田氏は甲斐国から起こって信濃国、飛騨国、駿河国、上野国を合せ取り、上杉氏は越後国から起こって越中国、能登国、加賀国を合せ取り、庄内、会津にまで及んだ。

 これら四氏の国は平時にはみな競い合って耕作し、戦時には戦うというやり方で、武装の兵が数万人もいて、兵糧は山のようであった。みな龍のようにあがり、虎のように睨みあって東西に並び立ち、天下を残らずとりこもうとする者ばかりであった。

 北条氏が地形で胸や腹に当る場所にありながら、一度として軍兵を繰り出して京畿を窺うことがなかったのは武田、上杉の二氏が背に当る部分にいて、北条氏の通路を塞いでいたからである。そして武田、上杉氏の勢力は匹敵、均衡しあって勝負がつかなかった。従ってこの二氏も西の方に進出を図る暇がなかった。

 毛利氏は、領土こそ広いが、腿や脛に当るところにいて、腰や脛の当る京畿に向かっていたから、地形の上では中央部の地に進出して凌ぎを削ることはできなかった。

 織田氏は毛利氏、北条氏、武田氏、上杉氏の四氏に挟まって起こり、攻めやすい西方を先にして東方を後回しにして、強きを裂けて、弱きを先に撃ち、険しい所を捨てて、平らな所を先に取った。だから力を費やすことが少なく、早く成功したのである。また豊臣氏も、織田氏が残してくれた謀に従い、天下統一を果たせた。

 織田、豊臣二氏は、地形に対する見方をずいぶん考えていたらしい。根拠としたのはやはり京畿を中心としており、その点では足利氏と大差はなかった。二氏が天下を統一したあと、また分裂して長い間天下を制御できなかったのも、中心を京畿としたからではないか。

 そもそも織田、豊臣氏は足利氏にかわって天下を掌握したとはいえ、織田氏が実際に所有した土地、山河は広大ではなかった。豊臣氏は四氏以上に広大な時もあったが、長く維持できなかった。

 要するに四氏は当時の衰乱に乗じて知勇を奮い、群雄割拠したのである。また人民も彼らに頼って一時的に安穏を享受した。四氏よりほかの小さな国の凡庸な君主が無闇に戦争を起して、人民を苦しめて成功しなかったこととは比べものにならない。つまり四氏は天下に対して功徳がなかったわけではない。

また四氏を足利氏の反臣であると決めつけるわけにはいかない。「四氏が割拠したところはみな王土ではないか」といえば、時勢の変遷からそのようなことに成ったのであって、一日で成ったわけではないから、一概に四氏を咎めるわけにもいかない。彼らは経営という点でみると、部下の猛将、謀臣の事跡の中で記録に値するものはある。だから自分は四氏が盛んになったり、衰えたり、起こったり、滅んだりした由来を詳細に書き起こして「国家を所有する君主の手本にしてもらい、自らを戒めてもらいたい」と思うのだ。その上「天下の形勢とはどんなものなのかということや、分裂合一はどんなときに起こるか」ということについても、見るに足るものがあるだろうと思うのである。

 

 

2024・12・20 後北条氏

 

外史はいう。

天下をとり、治めて行くには土地の形成が第一で、これより大切なことはない。もし形勢に失敗すると、多くは分裂するようになる。

昔、文武天皇は山海の形勢が便利なところを利用されて、日本を七道に分け、王畿は真ん中にあった。桓武天皇は都を平安に定め、四方からこれに向かうようにした。思うに、盛んなことであった。しかし王政が衰えてくると、片隅に土地を盗んで

伊能図全体図 ネットより
伊能図全体図 ネットより

立て籠もり、押さえつけられない者がでてきた(阿部頼時)。彼は早く討ち滅ぼされたが、天下の勢いが分裂して、鎌倉幕府の覇業を成立させるような機運に至らしめた。これから後は関東の形勢は常に天下に優れたものになり。京畿地方は勝つことはできなかったのである。 

かつて自分は東西の各地を旅し、山河の起伏しているのを見て、我が国の地層の道筋は東北からきていて西にいくほど小さくなっていることに。これを人の身体に例えると陸奥国、出羽国は首である、甲斐国、信濃国は背である。関東八州及び東海道の国々は胸や腹にあたり、京畿は腰や尻である。山陽、南海から西は腿、脛に過ぎない、だから腰や尻のところに居て腿や脛を支配することはできるが、腹や背を支配できない。

それに平安の都は地勢が平坦で、四方から攻め立てるには都合のよいところで、天下に事件が起これば第一に戦争に挑まれるところである、鎌倉がただ一方の口だけ持って西方の畿内を押さえつけることができるような具合にはいかないである、

元弘の時に、造作なく鎌倉を本拠とした北条氏に対して、腹心の新田氏、足利氏などが怨み背いたところに禍いが起こった。これは西をもって東に勝てたということではない。

北条氏は栄えている時代には鎌倉を本拠とし、役所を京都六波羅や九州探題府に置いた。当時、北条氏は天下を制御することは臂で指を使うようなもので容易であった(地形の便を占めていたからできた)

ところが足利氏は北条氏のやったことに反して鎌倉を捨て、京都を本拠としたのが間違いであった。だがやむを得ないところもあった。足利氏は南朝が心配でならず、遠く離れた鎌倉にいることができなかった、そのため鎌倉を鎮めるのにその子弟の足利基氏をあてがい、京都室町の足利本家の藩屏とした。そのことが足利氏二宗族の争いの糸口を開く原因となり、ついに京都室町の足利氏は鎌倉に内乱を利用して鎌倉の足利氏を転覆させてしまった。そして京都室町の足利市も乱れ始めたのである。

このように四方を制御できないのに、足利氏が皇室の失敗の跡を同じように継いで失敗に陥ったのは、その地形の便を考えず、鎌倉ではなく京都にいたからではないか。