特に記載のない場合は見延典子が書いています。

 新調した着物と靴
 新調した着物と靴

しかし、帰国した日本ではすでに幕府は倒れ、明治維新が始まっていた

 注目するのは栄一の和装 袴を短くし靴を履きズボンの様な物をはいている。自由な発想は考え方の参考になる。

時代が落ち着けば、文化の誇示

 日本初の文部省万国博覧会は湯島聖堂で(上)。出品物はウイーン万国博覧会にも出品 湯島聖堂に出品された名古屋城金の鯱ほこ(右) 

 

  

2021・5・12 

石村良子代表

「渋沢栄一 足元を見られる」

 

 1867年(慶応3年)、渋沢栄一は将軍徳川慶喜の命を受け、パリ万国博覧会使節団に加わりフランスに渡った。幕府側団長は慶喜の弟昭武、薩摩藩も出品し競ったという。

 帰りは洋装
 帰りは洋装

2021・4・30

渋沢栄一は「頼山陽先生遺蹟顕彰会」の顧問

 

渋沢栄一は広島市で立ちあげられた頼山陽先生遺蹟顕彰会(現在は公益財団法人頼山陽記念文化財団)の顧問を務めている。

 

同顕彰会は1931年(昭和6)、頼山陽の没後100年に先だって組織され、式典は東京、大阪、広島で行われた。東京会場では総理大臣若槻礼次郎が祝辞を述べ、ラジオ中継されたことは以前紹介した。

 

渋沢栄一記念財団のデジタル版伝記資料によれば、1930年9月30日、頼山陽先生遺蹟顕彰会総裁侯爵浅野長勲、会長広島県知事川淵洽馬の連名で栄一に顧問就任を要請して、翌年3月19日受諾されている。

 

同資料には、栄一自身が『日本外史』に刺激を受け、『日本政記』も間くしていたことも紹介されている。

      渋沢栄一記念財団のデジタル版伝記資料より

 

2021・4・19

久保寺辰彦さん「NHK大河『青天を衝け』で頼山陽」

 

久しぶりの投稿です。千葉の久保寺です。

御覧の方も多いと思いますが、418日(日)に放映されたNHK大河ドラマ『青天を衝け』で頼山陽の有名な漢詩が背景として用いられていました。

「鞭声粛粛夜過河」で始まる川中島の戦いを詠ったものです。

主人公の渋沢栄一が「俺も、今日この日から草莽の志士になる!」と宣言するシーンの背景に木彫りの衝立として使われていました。

 しかし、「草莽の志士」がキーワードなら、「草莽の臣 襄」と署名している山陽の書を使ってほしかったなぁと個人的には思いました。

でも、一般視聴者には「頼山陽」はわかっても「草莽の臣 襄」では伝わらないでしょうね。


ホームページ編集人  見延典子
ホームページ編集人  見延典子

 

「頼山陽と戦争国家

国家に「生かじり」された 

ベストセラー『日本外史』

『俳句エッセイ 日常』

 

『もう頬づえはつか      ない』ブルーレイ

 監督 東陽一

 原作 見延典子

※当ホームページではお取扱いしておりません。

 

 紀行エッセイ

 『私のルーツ

 

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