2021・2・14 見延典子 → 上田誠也さん
「なかなか重要度の高い内容」
頼山陽の「明智光秀論」の書き下しと訳をお送りくださり、誠にありがとうございます。
「多恩」と「少恩」について、禅問答のような記述が続くと感じていたのですが、上田さんの訳により、織田信長を「父」、明智光秀を「子」と捉え、「父」の多恩が結果として「子」の増長を招いたとする論旨が明確になりました。
「明智光秀論」を書いたとき、山陽は16歳でした。翌年には癇癖の悪化から「父」春水の前で「暴発」を起こします。このとき山陽は我が身を「本能寺の変」の明智光秀に重ねていたのではないかと考えると、「明智光秀論」は山陽が書いた多くの文の中でも、なかなか重要度の高い内容のように思えます。
2021・2・10 上田誠也さん(熊本県) → 見延典子
「頼山陽の『明智光秀論』の読みと解釈」
久しぶりに頼山陽ネットワークにじっくり目を通していましたら、昨年12月14日に作成された「明智光秀論」の資料が載っていました。
添付されていた漢文原本をもとに、読んでみましたら、「ネットワーク」に掲載されている読み・解釈と、多少相違する箇所がありましたので、加筆修正した資料を作成してみました。
頼山陽「明智光秀論」
読みと解釈/ 上田誠也21年2月8日時点)
事務局注 一部アンダーラインがありますが、ないものとしてお読みください。
一、大逆ノ臣或ハ多恩ノ君ヨリ出ヅ、而シテ少恩ノ君、必ス大逆ノ臣ヲ
出スト謂モノハ非ナリ、明智光秀ノ弑逆、世皆信長少恩ノ致ス所ヲ謂イ、深ク光秀ヲ罪セズ、我獨リ謂ラク、天下多恩ノ者信長ニ孰若ゾ、
大逆を犯す家臣は恩賞を多く与える主君より出るという。とはいえ恩賞を少ししか与えない主君が必ずしも大逆を犯す家臣を出すとは限らない。明智光秀が主君の織田信長を討ったことを、世間の皆は信長が恩賞を少ししか与えなかったからと批評し、光秀に深い罪があるとはしないが、私、頼山陽は独り思う。天下の大恩のある主君と信長と比べて、どちらが大恩のある主君であろうか、と。
二、光秀ハ一流人ニ非ヤ、信長乃チ衣ヲ推リテ之ニ衣セ、食ヲ推リテ之ニ
食シム、其百戦シテ取ル所ノモノ、舉テ之ヲ封ズ、土地兵馬、儼然タル大諸侯也、一流人ヲ抜テ大諸侯トナス、天下ノ多恩ナル者信長ニ孰若ゾ、且夫君ノ臣僕ニ於ル、苟モ我意ニ舛バ、捽テ之ヲ誅スル耳、
光秀は一流の人であった。だから信長は衣を光秀に譲って着させ、食料を光秀に譲って食べさせた。百戦の戦いで奪い取ったものは領地として与えた。土地、兵馬の規模は、れっきとした大大名であり、一流の光秀を選んで大大名にとりたてた。天下の大恩ある者と信長と、どちらが大恩ある者であろうか。また、主君は家臣が自分の意に背いた場合は、誅するのみということになる。
三、夫ノ箠罵ノ若ニ至テハ、則チ父ノ子ニ於ル其改ルヲ希フ也、
信長光秀ヲ箠罵スルハ、之ヲ子トシテ視ルナリ、其恩意亦厚カラズヤ、且其箠罵ヲ受ケ眦ヲ裂テ報ユ、是路人相下ラザルノ情ナリ、光秀父子ノ恩ニ報ユルニ路人ノ情ヲ以ス、其逆天ヲ滔レリ、而ルニ論者深ク之ヲ罪セズシテ、信長少恩ノ致ス所ト謂フ、是大逆ノ臣ヲ助ケテ、多恩ノ君ヲ撃ナリ、我ハ則チ忍ビズ 、
(信長が光秀を)激しく罵ったのは、父が子に改心を願うようなものである。信長は光秀を子として見ていたから罵ったのであり、その恩は厚いのである。そして(光秀が)激しい罵りを受けたからといって、怒りのあまり仕返しをしたのでは、父子ではなく、利害関係のない人と変わらない思いを抱いたことになる。光秀が子として、父である信長の恩に仕返しをしては、利害関係のない人がすることと変わらず、それは、逆心の者が天を侮ることである。けれども、世の論者はこのことを深い罪とはせず、信長が恩賞を少ししか与えなかったことを罪とする。これでは大逆の家臣を助け、大恩の主君を攻撃することになり、私はいたたまれない。
四、 然ドモ、我 亦将ニ信長ヲ罪スル有ントス、曰ク将ニ何ヲカ罪セントス、其多恩ヲ罪スル也、君ノ臣ニ於ル宜ク少恩ニスベシ、宜ク多恩ニスベカラザルカ、曰ク然ラズ、少恩ハ多恩ナル所以ニシテ、多恩ハ少恩ナル所以ナリ、曰ク何ノ謂ゾヤ、曰ク其土地兵馬ヲ嗇ズ、輙チ之ヲ臣ニ與フ、所謂多恩ナリ、
しかしながら私は信長にも罪があると思っている。何に罪があるかというと、その多恩にこそ罪がある。では主君は臣下に対して少恩にすべきで、多恩にすべきではないのかというと、そうではなく、少恩とは多恩からうまれるものであり、多恩とは少恩からうまれるものである。どういう意味かというと少しの恩だからありがたいと思うのであり、過ぎたれば及ばざるがごとく、与えすぎてはありがたみを感じないのである。その土地、兵馬を惜しまず臣下に与えることは、世にいう多恩である。
五、 然ドモ、彼以テ當然トナシ自視シテ君ニ下ラズ、君一タビ之ヲ辱ムレバ咆然トシテ起ツ、而シテ勝ザルモ固ヨリ誅セラレ、勝モ亦誅セラル、是君、臣ニ啗スニ恩ヲ以テシテ、諸ヲ芒刃ニ陷ルナリ、 而シテ猶之ヲ多恩ト謂ガコトキカ、夫所謂少恩トハ何ゾヤ、其権ヲ殺ギ、其力ヲ少シ、嗇デ之ヲ與ヘ、節シテ之ヲ授バ、斗斛ノ録彼将ニ感戴セントス、
しかしながら明智光秀は土地や馬をもらうことを当然と思い、自分中心に考えて主君信長に従わず、信長から一たび辱めをうければほえるように兵を起こした。結果として勝たなければ誅せられ、勝ったとしても誅せられることになった。君主の信長は臣下の光秀に多恩を与えたことで、かえって信長に刃向かわせてしまった。これが多恩といえるだろうか。一方、少恩とはなんであろうか。その権力をそぎ、力を少なくし、恩賞を惜しみ、控えめに授ければ、非常に少ない禄であっても光秀は感激していたであろう。
六、 然ル後駕シテ之ヲ驅バ、百ノ光秀有ト雖ドモ、則チ逐々然トシテ我指所ニ随フ、之ヲ箠チテ可ナリ、之ヲ罵リテ可ナリ、各其録ヲ保テ諸ヲ子孫ニ傳フ、少恩ノ之ヲ致スニ非ズヤ、 而ルニ信長少恩ナラズシテ多恩ナリ、猶悍馬ヲ飽シメ、其銜勒ヲ縦メテ之ヲ箠ツガゴトシ、其踶齧ヲ怪ムナシ、
そうして後、信長が光秀という馬に乗って駆ければ、百人の光秀がいたとしても、おいおい信長が指し示すところに従っただろうから、このとき鞭で打ち、罵倒することができた。自分の禄を保持し子孫に伝えられるのは、 少恩だからできることではないのか。だが信長は少恩でなく、多恩であり、ちょうど荒々しい馬である光秀を満足させようと、馬のくつわをゆるめ、鞭で打ったようなものだ。馬がひづめでけったり、歯でかんだりするのは不思議なことではなく、必然だったのである。
七、 而シテ踶齧ノ後、馬亦人ノ斃ス所ト為ル、馬何ノ罪カアラン、罪ハ飽セテ之ヲ縦ムルニアリ、我信長ヲ罪スルハ、之ヲ罪スルノミ、故ニ信長ノ多恩ハ少恩ナル所以レバ、則チ世ノ之ヲ少恩ト謂フモ亦宜ナリ、少恩ノ君必ズ大逆ノ臣ヲ出スト謂フモ又亦宜ナリ、而シテ世其少恩ノ多恩ニ原クヲ知ズ、我故ニ曰ク、大逆ノ臣或ハ多恩ノ君ヨリ出ズ、
そして、馬がひづめでけったり、歯でかんだりした後、馬が人から殺されて死んだとして、馬になんの罪があるだろうか。罪は、光秀を満足させて、思いのままに振る舞わせたことにある。私が信長に罪があると考えるのも、そこのところである。だから信長の多恩は、自分を過信した光秀にとっては少恩に感じられるものになったし、世の人が信長を少恩というのも頷ける。少恩の主君が大逆の臣下を出すというのはもっともな話であって、世の人は、よもや少恩が多恩に由来しているなどとは考えもしない。それで私は、大逆の臣下は多恩の君主より出るというのである。