特に記載のない場合は見延典子が書いています。
2021・2・10 米山俊哉さん→ 見延典子
「麒麟が来る」最終回の感想
ご指名いただきましてありがとうございます。最終回は、観ておりました。うだうだ申したいところですが、一言で申せば、脚本家さんの視点は「光秀さんの味方は鞆の浦と御所だった」ということに尽きるのでしょうか。土蜘蛛もナイスでした。
ということで、信長さんが光秀さんに「足利将軍を殺せ」と命じた瞬間に敵認定。さっそく「敵は本能寺にあり」と申されることになったのでありましょうぞ。
なお、脚本家さんは鞆の浦の西の浦・呉の三津田の産、と伺っておりましたので、正直なところ、もう少し毛利小早川のこと書いていただきたかったのですが、最後の場面で「小早川隆景は秀吉といち早く手を結びよって、憎き奴め~(こんな感じ)」と言わしめたので、まあ、これぞ郷土愛でよしといたしましょうや。
ただ残念なのは、もう少し早く拙著が出版されておれば脚本家さんも目を通すことができ、まったく違った結末になった(真実に迫れた)でありましょう。が、時間があったなら、という所詮は「たられば」話。
まあ、最後の場面で、将軍さんの毛利へのボヤキが本来ならば毛利家当主輝元に対してのはずが、なぜか対隆景だったのは一縷の光明、おそらくコロナ中断の間にひょっとして拙著も目を通していただいたに違いあるまい、と自認することぐらいの感慨は、ちょびっとはございましたが。また「たられば」ですが、主人公が染谷さんだったら、また違ったドラマになったのかな、とも思いました。
付け加えますと、はやり10年くらいじっくりと大河ドラマに(小早川隆景を)売り込まねば、と臍を噛んでおったわけであります。ドラマなのに史実を凌駕するパワーには降参です。ふ~ん、歴史はこうして創られるんじゃ。どなたかご一緒にロビー活動を!
あ、頼山陽先生が先でした。失礼いたしました。
2021・2・8
見延典子 → 米山俊哉さん
「麒麟が来る」最終回、ご感想は?
NHK大河ドラマ「麒麟が来る」の最終回が放送されました。ドラマの最後にチラッと「小早川隆景」の名前が出てきましたね。広島出身の脚本家の地元愛を感じました(笑)「本能寺の変を動かしたのは毛利元就の3男小早川隆景だった」と主張されている米山さんのご感想を伺いたいところです。
2020・12・14
『麒麟がくる」の脚本家
13日放送のNHK大河ドラマ「麒麟がくる」は将軍足利義昭から織田信長を討つように迫られ、苦悶する光秀の姿が描かれた。これが本能寺の変の伏線になるのかは知らないが、玉三郎演じる正親町天皇のいる御所に招かれるなど(史実かどうかわからない)武士の本分をよく理解している人物として描かれている。
信長も尊王家だった(あるいは朝廷を利用しようとしただけかもしれない)という説があるが、少なくとも『麒麟が来る』の脚本家は多少なりとも『日本外史』をかじったことくらいはあるように見える。
気になって、『麒麟がくる』の脚本家「池端俊策氏」についてネットで調べると、なんと1946年生まれ、広島県呉市出身で、広島県立呉三津田高校を卒業したと書かれている。
『日本外史』をかじったことくらいはあるように見えると書いたが、今は確信に変わっている。
16歳の頼山陽に挑戦! 見延典子が冷や汗をかきなから書いています。
2020・5・22 「明智光秀論の大意(全)」
「多恩」と「少恩」について、禅問答のような記述が続きます。正確な訳文ではなく、あくまで大意で、こんなことを書いているのではないか、という推量も含まれます。どなたでも訂正しください。
16歳の頼山陽は織田信長が明智光秀に恩賞を与えすぎたため、光秀を増長させ、結果として「大逆の臣下は多恩の君主より出づ」と考えたようです。また君臣の関係を父子の関係と重ね合わせ、子は父に逆らってはならないとしています。この直後、山陽は父春水との確執に苦しみ、理想と現実の間に墜ちていくのです。
大逆ノ臣或ハ多恩ノ君ヨリ出ヅ、而シテ少恩ノ君、必ス大逆ノ臣ヲ出スト謂モノハ非ナリ、明智光秀ノ弑逆、世皆謂ラク、信長少恩ノ致ス所ロ、深ク光秀ヲ罪セズ、我獨リ謂ラク、天下多恩ノ者孰カ信長ニ若ンヤ、
大逆を犯す家臣は恩賞を多く与える主君より出るという。とはいえ恩賞を少ししか与えない主君が必ずしも大逆を犯す家臣を出すとは限らない。明智光秀が主君の織田信長を討ったことを、世間の皆は「信長が恩賞を少ししか与えなかったからで、光秀に深い罪があるわけではない」というが、私、頼山陽は独り思う。「天下をみまわして、いかなる大恩のある主君であろうと、信長には及ばない」と。
光秀ハ一流人ニ非ヤ、信長乃チ衣ヲ推テ之ニ衣シ、食ヲ推テ之ニ食セシム、其百戦取ル所ノモノ、舉テ而シテ之ヲ封ズ、土地兵馬儼然タル大諸侯也、一流人ヲ抜テ大諸侯トナス、天下ノ多恩ナル者孰カ信長ニ若ンヤ、且夫君ノ臣ニ於ル、苟モ其意ニ舛ハ捽テ之ヲ誅スル耳、
光秀は一流の人であった。だから信長は衣を光秀に譲って着させ、食料を光秀に譲って食べさせた。百戦の戦いで奪い取ったものは領地として与えた。土地、兵馬は大きな収穫であり、一流の光秀を選んで大大名にとりたてた。天下を見回しても、光秀にとって大恩のある者といえば、信長に及ぶ者はいないのだ。だからいやしくも君臣の光秀が主君の信長の意に背いた場合は、誅するのみということになる。
夫ノ箠罵ノ若ニ至テハ、則チ父ノ子ニ於ル其改ルヲ希フ也、信長光秀ヲ箠スル子トシテ之ヲ視ナリ其恩意亦傳カラズヤ、且其箠罵ヲ受ケ眦ヲ裂テ而シテ報ユ、是路人相下ラザルノ情ナリ、光秀父子ノ恩ニ報ユルニ路人ノ情ヲ以ス、其逆滔天ナリ、而シテ論者深ク之ヲ罪セズシテ、信長少恩ノ致ス所ト謂フ、是大逆ノ臣ヲ助ケ、而シテ多恩ノ君ヲ撃ナリ、我ハ則チ忍ビズ
(信長が光秀を)激しく罵ったのは、父が子に改心を願うようなものである。信長は光秀を子として見ていたから罵ったのであり、その恩は厚いのである。そして(光秀が)激しい罵りを受けたからといって、怒りのあまり仕返しをしたのでは、父子ではなく、利害関係のない人と変わらない思いを抱いたことになる。光秀が子として、父である信長の恩に仕返しをしては、利害関係のない人がすることと変わらず、そんなことをしては(父子関係から外れた者が)逆に勢いをもってしまう。世の論者はこのことを深い罪とはせず、信長が恩賞を少ししか与えなかったことを罪とする。これでは大逆の家臣を助け、大恩の主君を攻撃することになり、私はいたたまれない。
然トモ我亦タ将ニ信長ヲ罪スル有ントス、曰ク何ヲカ罪セントス、其多恩ヲ罪スル也、君ノ臣ニ於ル宜ク少恩ニスベシ、多恩ニスベカラザルカ、曰ク然ラズ少恩ハ多恩ナル所以ニシテ、多恩ハ少恩ナル所以ナリ、曰ク何ヲカ謂ヤ、曰ク其土地兵馬ヲ嗇ズ、輙チ之ヲ臣ニ與フ、所謂多恩ナリ、
しかしながら私は信長にも罪があると思っている。何に罪があるかというと、その多恩にこそ罪がある。では主君は臣下に対して少恩にすべきで、多恩にすべきではないのかというと、そうではなく、少恩とは多恩からうまれるものであり、多恩とは少恩なのである。(少しの恩だからありがたいと思うのであり、過ぎたれば及ばざるがごとく、与えすぎてはありがたみを感じないのである)。だからその土地、兵馬を惜しまずの臣下に与えることこそ多恩であるとは、何をいっているのか呆れてしまう話である。
然トモ彼以テ當然トナシ自視シテ君ニ下ラズ、君一タビ之ヲ辱ムレバ咆然トシテ起ツ、而シテ勝ザルモ固ヨリ誅セラレ、勝モ亦誅セラル、是君臣ニ啗スルニ恩ヲ以テシテ、諸ヲ芒刃ニ陷ルナリ、而シテ猶之ヲ多恩ト謂ガコトキカ、夫所謂少恩トハ何ゾヤ、其権ヲ殺ギ、其力ヲ少ニシ、嗇デ而シテ之ヲ與ヘ、節シテ而シテ之ヲ授バ斗斛ノ録彼将ニ感戴セントス
しかしながら明智光秀は土地や馬をもらうことを当然と思い、自分中心に考えて主君信長に従わず、信長から一たび辱めをうければ叫ぶように兵を起こした。結果として勝たなければ誅せられ、勝ったとしても誅せられることになった。君主の信長は臣下の光秀に、大口を開けてたくさん食べさせようとし、それを恩と考えた、だから光秀は多くを失うことになったのである。これが多恩といえるだろうか。一方、少恩とはなんであろうか。その権力をそぎ、力を少なくし、恩賞を惜しみ、控えめに授ければ、非常に少ない禄であっても光秀は感激していたであろう。
然シテ後駕シテ之ヲ驅バ、百光秀有ト雖トモ、則チ逐々然トシテ我指所ニ随フ之ヲ箠スル可ナリ、之ヲ罵スル可ナリ、各其録ヲ保テ之ヲ子孫ニ傳フ、少恩ニ非ンバ之ヲ致ンヤ、而シテ信長少恩ナラスシテ多恩ナリ、猶悍馬ヲ飽シムルガゴトク、其銜ヲ縦テ勒シテ之ヲ箠ス、其踶齧ヲ怪ムナシ、
そうして後、信長が光秀という馬に乗って駆ければ、百人の光秀がいたとしても、おいおい信長が指し示すところに従っただろうから、このとき鞭で打ち、罵倒するべきであった。自分の禄を子孫に伝えるとき、少恩であれば大それたことはしない。だが信長は少恩でなく、多恩であり、荒々しい馬である光秀を満足させようと、馬に含ませる道具をゆるめ、整えて、鞭をうった。馬がひづめでけったり、歯でかんだりするのは不思議なことではなく、必然だったのである。
馬亦人ノ為ニ斃サル、馬何ノ罪カアラン、罪飽テ之ヲ縦ニアリ、我信長ヲ罪スル之ヲ罪スルナリ、故ニ信長ノ多恩ハ少恩ナル所以ナリ、則チ世ノ之ヲ少恩ト謂フモ亦宜ナリ、少恩ノ君大逆ノ臣ヲ出スト謂フモ亦宜ナリ、而シテ世其少恩ノ多恩ニ原クヲ知ス、我故ニ曰ク、大逆ノ臣或ハ多恩ノ君ヨリ出ルナリ
馬が人のために死んだとして、馬になんの罪があるだろうか。光秀は罪をじゅうぶん承知して、思いのまま振る舞った。私は信長に罪があると考えることこそ罪であると思う。結果として信長の多恩は、(自分を過信した光秀にとっては)少恩に感じられるものになったし、世の人が信長を少恩というのも頷ける。少恩の主君が大逆の臣下を出すというのはもっともな話であって、世の人は、よもや少恩が多恩に由来しているなどとは考えもしない。それで私は、大逆の臣下は多恩の君主より出るというのである。
2020・5・10 「明智光秀論の大意(上)」
久保寺様、書き下し文をご掲示くださり、ありがとうございます。訳に挑戦していますが、力及ばず、とりあえず「大意」ということで「上」を載せます。次回「中」になるか「下」になるか、つまり2回に分けてか、3回に分けてか、まだ全体を見通せていないので、なんともいえません。どなたでも修正してください。よろしくお願いします。
大逆ノ臣或ハ多恩ノ君ヨリ出ヅ、而シテ少恩ノ君、必ス大逆ノ臣ヲ出スト謂モノハ非ナリ、明智光秀ノ弑逆、世皆謂ラク、信長少恩ノ致ス所ロ、深ク光秀ヲ罪セズ、我獨リ謂ラク、天下多恩ノ者孰カ信長ニ若ンヤ、
大逆を犯す家臣とは恩賞を多く与える主君より出るという。とはいえ恩賞を少ししか与えない主君から必ずしも大逆を犯す臣下を出すとはいえない。明智光秀が主君の織田信長を討ったことを、世間の皆は「信長が恩賞を少ししか与えなかったからで、光秀に深い罪があるわけではない」というが、私、頼山陽は独り思う。「天下をみまわして、いかなる大恩のある主君であろうと、信長には及ばないのだ」と。
光秀ハ一流人ニ非ヤ、信長乃チ衣ヲ推テ之ニ衣シ、食ヲ推テ之ニ食セシム、其百戦取ル所ノモノ、舉テ而シテ之ヲ封ズ、土地兵馬儼然タル大諸侯也、一流人ヲ抜テ大諸侯トナス、天下ノ多恩ナル者孰カ信長ニ若ンヤ、且夫君ノ臣ニ於ル、苟モ其意ニ舛ハ捽テ之ヲ誅スル耳、
光秀は一流の人ではないのか、いや、一流の人である。信長は衣を人に譲って着させ、食料を人に譲って人に食べさせる。百戦の戦いで奪い取ったものは残らず領地として与える。土地、兵馬は動かしがたい収穫物であり、一流人を選んで大名にとりたてる。天下を見回して、大恩のある者といえば信長に及ぶ者はいるだろうか、いや、いない。そういうわけで、君臣において、いやしくも主君の意に背いたなら、討って誅するのみである。
夫ノ箠罵ノ若ニ至テハ、則チ父ノ子ニ於ル其改ルヲ希フ也、信長光秀ヲ箠スル子トシテ之ヲ視ナリ其恩意亦傳カラズヤ、且其箠罵ヲ受ケ眦ヲ裂テ而シテ報ユ、是路人相下ラザルノ情ナリ、光秀父子ノ恩ニ報ユルニ路人ノ情ヲ以ス、其逆滔天ナリ、而シテ論者深ク之ヲ罪セズシテ、信長少恩ノ致ス所ト謂フ、是大逆ノ臣ヲ助ケ、而シテ多恩ノ君ヲ撃ナリ、我ハ則チ忍ビズ、
(信長が光秀を)激しく罵ったのは、父が子に改心を願うようなものである。信長は光秀を子として見ていたから罵ったのであり、その恩は厚くないのか、いや、厚いのである。そして(光秀が)激しい罵りを受けたからといって、怒りのあまり仕返しをしては、父子ではなく、利害関係のない人と変わらない思いを抱いたことになる。光秀が子として、父である信長の恩に仕返しをしては、利害関係のない人の思いとかわらないということで、そんなことをしては(父子関係から外れた者が)逆に勢いをもってしまう。そして論者はこのことを深い罪とはせず、信長が恩賞を少ししか与えなかったからだという。これでは大逆の臣下を助け、大恩の主君を攻撃することになり、私はいたたまれない。
2020・4・30
久保寺辰彦さん「国立国会図書館のデジタルコレクションで調べました」
質問しておきながら、放置状態ですいませんでした。
明智論、私も挑戦しようとしましたが、文字や返り点がところどころ判読できず断念し、国立国会図書館のデジタルコレクションで調べました。
ワードで打ち込んで添付します。赤字は漢文と文字が違うところでした。
原文は明治17年の「記事論説 高等習文軌範 小笠原重明編纂 上巻」からです。しかし、書き下しを読んでもまだ、イマイチ理解できません
大逆ノ臣或ハ多恩ノ君ヨリ出ヅ、而シテ少恩ノ君、必ス大逆ノ臣ヲ出スト謂モノハ非ナリ、明智光秀ノ
弑逆、世皆謂ラク、信長少恩ノ致ス所ロ、深ク光秀ヲ罪セズ、我獨リ謂ラク、天下多恩ノ者孰カ信長ニ若ンヤ、光
秀ハ一流人ニ非ヤ、信長乃チ衣ヲ推テ之ニ衣シ、食ヲ推テ之ニ食セシム、其百戦取ル所ノモノ、舉テ而シテ之ヲ封ズ、土地
兵馬儼然タル大諸侯也、一流人ヲ抜テ大諸侯トナス、天下ノ多恩ナル者孰カ信長ニ若ンヤ、且夫君ノ
臣ニ於ル、苟モ其意ニ舛ハ捽テ之ヲ誅スル耳、夫ノ箠罵ノ若ニ至テハ、則チ父ノ子ニ於ル其改ルヲ希フ也、信長光秀
ヲ箠スル子トシテ之ヲ視ナリ其恩意亦傳カラズヤ、且其箠罵ヲ受ケ眦ヲ裂テ而シテ報ユ、是路人相下ラザルノ情ナリ、光秀父子ノ恩ニ報ユルニ路人ノ情ヲ以ス、其逆滔天ナリ、而シテ論者深ク之ヲ罪セズシテ、信長少恩ノ致ス所
ト謂フ、是大逆ノ臣ヲ助ケ、而シテ多恩ノ君ヲ撃ナリ、我ハ則チ忍ビズ、然トモ我亦タ将ニ信長ヲ罪スル有ントス、曰ク何ヲカ罪セントス、
其多恩ヲ罪スル也、君ノ臣ニ於ル宜ク少恩ニスベシ、多恩ニスベカラザルカ、曰ク然ラズ少恩ハ多恩ナル所以ニシテ、多恩ハ少恩ナル所以
ナリ、曰ク何ヲカ謂ヤ、曰ク其土地兵馬ヲ嗇ズ、輙チ之ヲ臣ニ與フ、所謂多恩ナリ、然トモ彼以テ當然トナシ自視シテ君ニ下ラズ、
君一タビ之ヲ辱ムレバ咆然トシテ起ツ、而シテ勝ザルモ固ヨリ誅セラレ、勝モ亦誅セラル、是君臣ニ啗スルニ恩ヲ以テシテ、諸ヲ芒刃ニ陷ルナリ、而シテ猶
之ヲ多恩ト謂ガコトキカ、夫所謂少恩トハ何ゾヤ、其権ヲ殺ギ、其力ヲ少ニシ、嗇デ而シテ之ヲ與ヘ、節シテ而シテ之ヲ授バ斗斛ノ録彼
将ニ感戴セントス然シテ後駕シテ之ヲ驅バ、百光秀有ト雖トモ、則チ逐々然トシテ我指所ニ随フ之ヲ箠スル可ナリ、之ヲ罵スル可ナリ、各
其録ヲ保テ之ヲ子孫ニ傳フ、少恩ニ非ンバ之ヲ致ンヤ、而シテ信長少恩ナラスシテ多恩ナリ、猶悍馬ヲ飽シムルガゴトク、其銜ヲ縦テ勒
シテ之ヲ箠ス、其踶齧ヲ怪ムナシ、馬亦人ノ為ニ斃サル、馬何ノ罪カアラン、罪飽テ之ヲ縦ニアリ、我信長ヲ罪
スル之ヲ罪スルナリ、故ニ信長ノ多恩ハ少恩ナル所以ナリ、則チ世ノ之ヲ少恩ト謂フモ亦宜ナリ、少恩ノ君
大逆ノ臣ヲ出スト謂フモ亦宜ナリ、而シテ世其少恩ノ多恩ニ原クヲ知ス、我故ニ曰ク、大逆ノ臣或ハ多恩ノ君ヨリ出ル
ナリ
2020・4・27 頼山陽16歳の「明智光秀論」
3月に久保寺辰彦さんからお問い合わせにお答えした、16歳の頼山陽が書いた「明智光秀論」。
学校教育でほとんど漢文を教わっていない世代で、一人では読めません。どなたかいっしょに読んでくださいませんか?
原文 (返り点はたぶん木崎愛吉) 〇印は判読難し、とりあえす「三」とする。
大逆之臣。或出二於多敬之君一。而謂〇少恩之君。必出二大逆之臣一者。非也。明智光秀之弑逆。世皆謂下信長少恩所レ致不三深罪二光秀一。
書き下し
大逆ノ臣、或イハ多敬ノ君ヨリ出ヅ。而シテ少恩ノ君、必ズ(必ズシモ?)大逆ノ臣ヨリ出ヅル者(ハ?)、非ザル也ト謂フ。明智光秀ノ弑逆、世皆信長ノ少恩ノ致ス所、光秀二罪深(カラ?)ズト謂フ。
早くも行き詰まりました。
どなたが修正してください。