2024・4・18
久保寺辰彦さん「Dの木版の山陽の方が山陽らしくて好き」
⇔ 見延典子「これにて終了」
見延様
ご意見、ありがとうございます。私が所持しているものが真筆で「頼山陽先生手簡 第三集」の木版はこれを河津祐度が彫った結果、こうなったのでは、というご意見でよろしいでしょうか。そうだと私も嬉しいのですが、私は違うと思います。(略)
もし、見延さんが木版であるDより、自筆のCの方が技術的に高度に見えたとしたら、実際そうなのだと思います。歌でも持ち歌の歌手より、他の人が歌った方が感動的に聞こえる場合と同様、書でも同じことが言えるのではないでしょうか。
山陽より書が巧みな人がいても不思議ではありません。ただ、それでも私はDの木版の山陽の方が山陽らしくて好きです。
久保寺
久保寺さん
好きか嫌いかは個人の嗜好によります。真贋の件は、これにて終了します。多くの情報をありがとうございました。
見延
2024・4・17
見延典子「Cが山陽らしい理由」 ⇒ 久保寺辰彦さん
今回は彫り師について、さまざまご教示くださりありがとうございました。非常に勉強になり、感謝申しあげます。
中でも驚いたのは、彫り師が見たまま、あるがままを彫っているわけではないというご指摘でした(4月9日付 4月12日付)
彫り師は原本をより原本らしく見せるために細工を施していることがわかります。所詮人のやることであれば、コピー機になれるわけもありません。高い技術を身につけるほど、原本を越えた「作品」をつくりたくなることがわかります。他意はありません。気にさわるような表現になっていれば、お詫びいたします。
さて、ここから本題です。私は、昨日久保寺さんが送って下さったD(木版)を見て、贋作を書いたなら別な書き方になるだろうと思いました。少なくともCに見られるような細かな線は出てこないでしょう。
しかし逆にCを見て、D(木版)を彫るとなれば可能です。特に最後の「なをなを書き(追伸)」はその思いを強くさせます。
具体的に見ていきます。
D
C
C
「剪」の「刀」の部分を比較すると、手紙というある程度速度をつけて書くものであっても、Cには山陽の書家としての力量が「刀」(赤〇)のあたりにあらわれています。
一方Dは「月」を太くしすぎたので、「リ」「刀」を細くするという彫り師ならではの忖度が感じられます。そのためふにゃふにゃになっています。
D
C
次に「君彜」もDからCは彫れない(書けない)だろうけど、CからDなら可能でしょう。Cを見る限り、山陽は「君彜」の字画の多さを想定して、最初から細めに書いていますね。Cの「彜」はそのへんの贋作師には書けないはずです。
まだありますが、とりあえず今回はここまで。私は久保寺さんが良い買い物をしたと羨ましく思っているのです。誤解なきようお願いします(笑)
2024・4・16 久保寺辰彦さん「ご意見をお聞かせください」
⇒ 見延典子
見延様
Cを何と比較したかですが、画像のように「頼山陽先生手簡 第三集」です。見延さんはD(木版)よりC(直筆)の方が山陽らしいと書いてありますが具体的にどの点がそう思われますか。ご意見をお聞かせください。
久保寺
D(木版)
C(久保寺さんが贋作という原本)
2024・4・15 見延典子「何と比較したのでしょうか?
⇒ 久保寺辰彦さん
久保寺辰彦様
お返事に「Cは、カタログを見てもしかしたら原本かと思い買いましたが、細部を比較すると違うものでした。」とあります。何と比較したのでしょうか? よろしくお願いいたします。
見延典子
2024・4・14 久保寺辰彦さん「Cの入手について」⇒見延典子
入手についてですが、私は骨董店、古書店、ネット(個人販売も含めて)の大きく3つの経路で山陽関連のや書籍や作品等を入手しています。
Cは確か毎月1回カタログが来る骨董店のどれかで買ったものだと思います。カタログには100点ほどの書の中に、毎回山陽、春水、聿庵などの作品が2~3点あり、その中でこれはと思ったものを買い求めています。
ちなみに、前回の『新居帖二篇』は、古書店で最近買ったものです。国立国会図書館のインターネットではモノクロしか確認でず、実物を確認するために購入しました。
ご存知のように皇国史観レッテルを貼られた山陽は戦後、一気に人気が落ちました。今でいうキャンセルカルチャーです。また、贋作が多いため値崩れしています。そのため、なんでも鑑定団の鑑定額のような高額はつきません。実際の価値は鑑定額の通りなんでしょうが、流通しているものは数万円で購入できます。Cは、カタログを見てもしかしたら原本かと思い買いましたが、細部を比較すると違うものでした。
(略)手紙は印を押す必要がないため比較的書きやすいこと、また明治以降手紙のお手本として「頼山陽先生手簡」が利用されたことなどから数多くの他人の手による手紙文が多く存在します。そしてそのほとんどが比較すればすぐにわかります。Cは極めて稀な例かもしれません。
また、「頼山陽先生手簡」には40通以上の手紙文が掲載されていますが、書かれた年代や書く相手によって筆跡がかなり違います。
山陽の手簡が新たに見つかった場合も、この手簡集を基準に判断することが多いと思いますが、この筆跡の違いも真贋の判断を難しくしている原因だと思います。また、この40数通の手簡の中にも贋作が含まれていると私は見ています。そのことも、真贋を難しくしている原因です。
ちなみにこの手簡集は、画像の通り書肆(書店という意味)の吉田治兵衛と文字の写し取りの双鉤(そうこう)と刻(彫り)は河津祐度であり、
『吉田驛詩帖』と同じコンビで作成、出版されています。
この「頼山陽先生手簡」には贋作が含まれていると書きましたが、ほとんどは真筆を木版にしていると私も考えます。だからかどうかはわかりませんが、この手簡集は明治、大正になっても出版され続けます。
一方、「吉田驛詩帖」は山陽晩年の傑作と言われながら明治、大正に出版
された形跡を私は確認できていません。これも私が「吉田驛詩帖」は山陽の書ではないと主張する理由の一つです。
2024・4・13 見延典子「教えてください」⇒ 久保寺辰彦さん
久保寺辰彦さん
もう一つ教えてください。4月7日付けCについて、久保寺さんは「直筆の贋作」と断定していますね。
しかし私はDよりCのほうが山陽らしく、Cこそ真筆ではないかと考えています。Cはどのように入手されたのでしょうか? 教えてください。
見延典子
2024・4・12
久保寺辰彦さん
「あとから模造印を押した」
⇒ 見延典子
見延様
ご質問、ご指摘ありがとうございます。私はこの関防印の位置の違いに気づきませんでした。
ご質問にお答する前に訂正があります。私の書き方が誤解を生んだようです。彫り師ですが、この明治11年出版の『新居帖二篇』や弘化4年出版の『新居帖』は河津祐度ではなく、井上治右衛門という人です。この人の詳しい情報はわかりません。
ただ、一代限りの名前ではなく代々襲名していたのではないかと思います。なぜなら、明治11年出版の『新居帖二篇』には「行年76歳」とあるのに、それより31年前の弘化4年の『新居帖』には「行年88歳」と書いてあるからです。あるいは、彫った時の年齢か。いずれにしろよくわかりません。
ご指摘の関防印ですが、画像のようにあとから摸刻印を押したことがわかります。位置は押した人のセンスでしょうか。ですから、本ごとに微妙に位置が違うと思います。白黒だと関防印も、文字と同じ板に彫ったようにみえるのは仕方ないと思います。
久保寺
2024・4・11 見延典子「河津祐度の関防印」⇒ 久保寺辰彦さん
久保寺辰彦様
ご教示いただき、ありがとうございます。
彫り師の河津祐度なる人物が、木版にするにあたり、山陽の文字の配置に修正を加えていたということは驚きでした。
その上でわからないのは、関防印の押し方の「雑さ」です。
右の河津祐度の関防印は、左の山陽と比較して、押している位置が異なっている上に、心持ち右に傾いているように見えます。その理由を教えて下さい。よろしくお願いいたします。
見延典子
2024・4・10 久保寺辰彦さん「情報をお伝えします」
⇒ 見延典子
見延様
ご質問ありがとうございます。
質問に関して知っている限りの情報をお伝えします。
1.Bの写真について
撮影者は私です。某市郷土資料館の学芸員にお願いして出していただ
き、郷土資料館に隣接する学習センターの長机の上で撮りました。撮
影は私のスマホです。撮影の正確な日付は2022年8月30日です。
2.Cの写真について
これも私が撮影しています。自分が入手した軸です。
撮影日は2021年9月です。
久保寺
2024・4・10 見延典子「教えて下さい」 ⇒ 久保寺辰彦さん
久保寺辰彦様
いつもありがとうございます。2点教えてください。
1 4月3日付け 某県某市郷土資料館所蔵、久保寺さんが贋作と
するBの写真は、どなかが、どのような状況で、どのような位置
から写したものか。
2 4月7日付け 久保寺さんが「直筆の贋作」とするCの写真は
どなたが どこで写したもので、現物はどなたの所蔵か。
以上、よろしくお願い致します。
見延典子
2024・4・9 久保寺辰彦さん「上手な贋作」⑤
原本と木版の違いを確認してみます。
木版
B
木版は縦軸も文字間隔も微妙に変えていることがわかります。限られたスペースに納めるとともにバランスも考えた上での配置だと思われます。
上手な贋作Bの方は木版に忠実な書き方のため、原本ではなく木版をお手本に書いたことがよくわかります。
2024・4・8 久保寺辰彦さん「上手な贋作」④
Bの関防印(下の左)は明らかに違う印です。極端な言い方かもしれませんが、贋作の数と同じくらい摸刻した印もたくさんもあると思います。
ちなみに印の左下側がえぐられた様になっていますが、山陽の作品には最晩年の天保2年の作品でもこのような形はありません。天保2年以降、何かの理由でこの部分が欠けたようです。逆に言えば、山陽の作品の中にこれと同じえぐれた関防印があれば贋作の可能性が大きいと言えます。
頼潔作山陽印譜巻 1925年作
次に落款の部分を確認してみます。
「山陽外史」印は見た目もかなり違いますが、「子成」印はかなり似ています。しかし、細部をよく見ると違います。前代表の故古川氏はOHPシートに印刷した印を当てて照合したと聞いていまが、私は肉眼で比較した方がわかりやすいと感じます。
いずれにしても、文字と同じく摸刻印の出来映えもそれぞれです。ただ、書かれた文字の違いから真贋を見極めるより、押された印の違いから見極める方が簡単だと言えます。
前回、頼潔(庫山)が真贋に関係なく「真蹟也」と箱書きを書いていたのは、山紫水明処を買い戻すための資金集めではないかと書きました。
ちょっと調べてみましたがそれは違うようです。なぜかと言えば、箱書きは大正以降に書かれているのがほとんどだからです。明治22年7月支峰が亡くなったあと、翌23年に潔氏が買い戻しているのであれば、それ以前の箱書きが多くなければなりません。
大正時代に多くなるのは、純粋に生活費のためではないかと思われます。
Aについて。『新居帖二編』の中の「夜讀淸諸人詩。戲賦」の原本と思われる書がわかりました(左はその一部)。昭和6年に発行された「山陽頼先生 百年祭記念 聚芳帖」の中にありました。意外だったのが巻子ではなかったことです。また、一つひとつの文字は原本に忠実に再現しているものの、一部の文字間や縦軸を変えていました。これは巻子という制限された幅に納めるためのものだと思われます。
実は、「吉田驛詩帖」も同じように原本の字は忠実に再現されているものの一部、文字間や縦軸を変えています。だからかどうかわかりませんが、原本を実際に見た私の感覚では本物より法帖の方が数段よく見えました。
これは彫り師の河津祐度(かわづ すけのり)の功績と言えるでしょう。
2024・4・7 久保寺辰彦さん「上手な贋作」③
HPでの紹介ありがとうございます。見延さんの「どちらも真筆では?」にお答えする前に上手な贋作その2を先に送ります。
C
D
上手な贋作シリーズ第二弾です。
Cが直筆の贋作、Dは木版の『頼山陽先生手簡』第三集より抜粋しています。これだけ似ていると、逆に山陽がこの二点を別々に書いたとは思えなくなります。山陽が同じものを書いたとしたらもっと違った文字間や配置になったのではないでしょうか。
では、贋作と思えるものが実は真筆でこれを元に木版を彫ったのかという考えも浮ぶかもしれません。
しかし、それも違うと思います。なぜなら当時の彫り師は、文字の擦れさえ忠実に極端に言えば本物より本物らしく再現できる超絶技巧を持っていたからです。ですから、今回の作品のように一見非常に似ているが細部の違いが確かにわかるような掘り方はしないと思います。
2024・4・5
見延典子 ⇒ 久保寺辰彦さん
「どちらも真筆では?」
久保寺辰彦さんへ
頼支峰が水西荘を買い戻したのは1890年(明治23)です。
また頼潔の鑑定に誤りが多いことは知られています。理由は不明です。
ところでA、Bについて、私はいずれも真筆ではないかと考えています。というのも、七漢字だけではありますが、ここまで筆跡が一致しているのは、同一人物=頼山陽が書いたとしか考えられないからです。
山陽の印章については全体像が見えていません。ですので、印章にすべての基準を求めるのは無理がある、という気はしています。この点は「吉田驛詩」以来の久保寺さんとの考え方の相違であり、今回も埋められないと思っています。
見延典子
2024・4・4 久保寺辰彦さん「上手な贋作」②
Bは千葉県の某館が所蔵する贋作、Aは『新居帖二編』の原本。関防印も落款印も印譜集と照合しましたが、明らかに違いました。これだけ似せて書けたらそりゃ、商売になります。山陽の書は偽物が多いことで有名ですが、息子の支峰が明治5年に印譜集を出したのは巷にあふれる贋作に辟易したからではないかと推察します。
上(3日付けA)は、明治11年に出版された『新居帖二編』の冒頭の部分。
国立国会図書館より
しかし、解せないのはその跡継ぎである潔は、手元にあるはずの印と照合せずに、ほとんどなんでもかんでも依頼があった山陽の作品に「真蹟也」と箱書きしていることです。明らかに贋作とわかっていて書いていると思わざるを得ません。
その理由は、私は人手に渡った山紫水明処を買い戻すための資金集めではないかと考えています。山紫水明処を頼家が買い戻したのはいつ頃でしょうか。
買い戻した後、潔は昭和になると支峰と同じように印譜集を出します。これもわかりません。わざわざ自分の書いた箱書きは誤りですよと告白しているようなものだからです。
2024・4・3
久保寺辰彦さん「上手な贋作」①
久保寺さんから「上手な贋作」のご投稿をいただきました。千葉県の某館所蔵の贋作と、頼山陽の『新居帖二編』からだそうです。
頼山陽ネットワーク事務局
A
B