天草洋に泊すは所望が多かったと見えます。こちらは窓になっています。(上、右の写真)頼山陽史跡史料館平成三十年度企画展記念誌より
2019・12・20
石村良子代表 ⇒ 二川好昭さん
「窓について」
有難うございました。又 何かありましたら宜しくお願いします
頼山陽詩集では窗です。
(左の写真)
2019・12・19 二川好昭さん ⇒ 石村良子代表
「三つの質問にお答えします」
石村良子代表へ
三つの質問にお答えします。
1、 図版の印文を見ると「牕」ではないかと思われます。
2、 門外漢です。
3、わかりません。
二川好昭
2019・12・17 石村良子代表 ⇒ 二川好昭さん
二川好昭さんへ
ご投稿の件につき、石村代表から以下の通り、一文が届きました。
1~3についてご教示くださいますよう、よろしくお願いいたします。
頼山陽ネットワーク事務局
・・・・・・・・・・・・・・・
雲 耶 山 耶 呉 耶 越 水 天 髣 髴 青 一 髪 万 里 泊 舟 天 草 洋 煙 横 篷 窓
大辞林 第三版 - 窓・窗・牕・牖(まど)の用語解説 -
① 採光や通風のために、壁・屋根などに設けた開口部。
② 岩稜が大きく切れ込んで低くなった所。風が通ることからの称。きれっと。
1、山陽の原文で、「まど」の字はどれなのでしょうか?
2、二川好昭さんは 篆刻をされますか?
3、鉄斎が保有していたという「山碧水明」印、そして「煙 横 篷牖 」印は
いつ頃の刻でしょうか?
山陽は月ヶ瀬でも 印を忘れ 芋で作ったり 嵐山にも友人の篆刻家細川林谷が同遊している(甥の頼常太を入門させている)印刻は書の一部なので山陽の書軸の真贋も印が判断の一部になっています。私的には印は興味があります。
石村良子
2019・12・16
二川好昭さん
「煙横篷牕」頼山陽刻
~西園寺公望自用印
左の印影は、西園寺公望(陶庵)の自用印に収蔵された一顆です。「煙横篷牕」頼山陽刻の印文は漢詩『泊天草洋』が出典です。
※出典「陶庵公印譜抄」(「西園寺公望公傳」竹腰與三郎著 叢文閣 昭和8年)
側款一 側款二 側款三 側款四
11月26日付「山碧水明」印とは比較できないほど、印文はすっきりとまとまっています。とても同じ人の印文とは思えないほどです。「陶庵公印譜抄」には名だたる印人が顔を揃えています。呉昌碩・桑名鉄城などなど。そのなかにあっても、頼印はけっして見劣りがしません。
代表・スタッフさんありがとう。
つまらない質問にも真摯向き合ってくださり---
頼山陽の父親春水が印材に印稿を書き入れる、それを襄(山陽)が彫ったという事ですが
疑問① 山碧水明の言葉は春水の考案か山陽の考案かあるいは漢語?
疑問② 山碧水明は具体的な場所の名か
疑問③ 印の作られた時期
疑問④ 山陽の作品に押された事がある?
2019・12・2
「山碧水明印」
石村良子代表⇒二川好昭さん
山碧水明印についてですが 私も以前より不明でした。この印は春水布字で男襄鐫となっております。
疑問⑤ 山紫水明の語との関係
わかることありましたらこちらにも御教示ください
2019・11・26
二川好昭さん「富岡鉄斎の
『山碧水明』について」
富岡鉄斎の作品に、頼山陽の書斎を描いた『山紫水明処図』があります。この作品の画賛に「山碧水明」の印影が認められます。
印影「山碧水明」
書・頼春水
刻・頼山陽
何故、鉄斎の作品に「山碧水明」の印影が捺されているのか詳細が分かりません。教えください。
二川好昭さんへ
インターネット上の、鉄斎美術館開館35周年記念特別展「鉄斎一用印のすべて」(2010年9月)に、お尋ねの件が載っていました。引用することで、お答えに代えます。
頼山陽ネットワーク事務局
頼山陽刻「山碧水明」印(辰馬考古資料館蔵)は鉄斎が大正3年(1914)に西宮の酒造家辰馬家で<阿部仲麻呂明州望月図・円通大師呉門隠栖図>(重要文化財)を制作した際に捺された。同10年に辰馬悦叟が没した時、墓碑銘を撰して揮毫した鉄斎は潤筆料にこの印を切望した。そこで両家相談の上表向きは鉄斎に贈呈し、没後に辰馬家へ返却することとした。そうとは知らない鉄斎は大いに喜び、その箱に「頼翁鐫印(せんいん)」と書しさらに自身の手に帰することになった経緯を記して愛蔵し、多くの〈頼氏山紫水明荘図〉〈山紫水明所処〉などを描き、「山碧水明」の印を捺して得意であった。(以下略)
2019・11・12 会員希望さん
「国木田独歩の別荘『青一廬』命名の典拠は頼山陽の『泊天草洋』」
国木田独歩が晩年、杉田雨人の別荘に住んていたことがあります。
独歩はこの別荘を「青一廬」と命名しました。
「青一廬」から太平洋を一望すると、空の青と海の青が混然一体となってその境目は分かりません。それは身震いするほどの美しさです。「青一廬」の命名の典拠になったものが、頼 山陽の漢詩「泊天草洋」だったと記憶しています。 ~会員希望~
会員希望さんへ
頼山陽に関する情報をありがとうございます。
尚、会員登録には「ご住所とお電話番号」が必要です(個人情報は他の目的で使用することはございません)。 お知らせくださり次第、「頼山陽ネットワーク通信」最新号を送ります。
頼山陽ネットワーク事務局
2019・11・7
中島章風さん
「頼梅颸の和歌についてお尋ねします」
お伺いしてもよろしいでしょうか。
頼山陽の母、静子(梅し)の和歌作品に
「老いの身の苦しき道もいはし水まうでしけふぞうれしかりけり」
があります。この「いはし水」は石清水八幡宮のことでしょうか。
中島章風さんへ
「頼山陽ネットワーク」公式ホームページにアクセスしてくださり、ありがとうございます。
お尋ねの和歌は、梅颸が60歳のとき、山陽の誘いで京都に旅した日記に出てきます。ちょうど200年前の文政2年(1819)3月19日、梅颸は大坂から昼舟で京都に向かいます。以下、その部分を書き写します。
はしもとゝといふ所より上り、八はたのみやしろにまうでる。あがりける所より、をとこ山のふもと迄、十八丁。又御社のぼる、山ぢ五丁。からうじて御社にのぼりつき、拝む。二十四間四面と、宮つこのいふ。
老いの身のくるしき道もいはし水
まうでしけふぞうれしかりける
その夜は、麓の宿にとまる。
というわけで、この和歌の「いはし水」は石清水八幡宮を指しています。但し、当時は神仏習合だったので、周辺の様子は現況と異なっているかもしれません。ご参考になさってください。
見延典子
2019・10・29
上田誠也さん
「頼山陽の『芳華帖』」
知人から明治期に発刊された頼山陽の『芳華帖』をいただきました。
中国の漢詩を写筆したもので、書の手本として広まりました。
厚いものと薄いものと二種あり、写真は薄いほうです。
2019・9・14
三頼の書軸➁「春風」「杏坪」
春水について日記で調べてみたが、8月13日に水楼に出かけたことを裏付ける記載はない。
三軸とも、表装が同じであることもさることながら、文字の崩し方、文字の勢い、配置など、いずれを見ても、三頼を名乗るには…。
(ご意見をお待ちしています)
失礼ながら、真贋は定かではない。
2019・9・13
三頼の書軸①「春水」
あるところで、思いがけず「三頼(春水、春風、杏坪)の書軸を見せていただく。春水は山陽の父、春風、杏坪は叔父にあたる。まず春水からご紹介しよう。
「八月十三夕菅氏於楼参記七十翁春水」